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ノート:文禄・慶長の役

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「朝鮮半島国家との戦争」という記述は適正か?(本質は、日本VS明中国の戦争では?)

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現時点の最新版に「李氏朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった」の記述は適正でしょうか。出典には『歴史評論第573~578号p86,1998年』とありますが、インターネットがまだ当たり前ではない、20年以上前の知見です。1998年時点の研究を出典とするのは疑問があるし、米大学のスオープ准教授(中国軍事史)がいうように「日本と朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ。明を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ」との見方のほうが今や定説では?「明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」(スオープ、朝日新聞2006年6月28日夕刊文化面)のだそうです。朝鮮とも戦闘はしていますが、主敵として戦ったのは明と見るのが自然でしょう。--180.57.162.49 2020年9月27日 (日) 17:55 (UTC)[返信]

全くそうの通りですね。
原因や動機について、記事は信長の支那征服構想の影響を否定していますけど、江戸時代までは当たり前に受け入れられていた見方で、自身が「唐入り」と称した秀吉に信長の影響なしとするなら、むしろその積極的根拠を提示する必要があるでしょう。--Crw会話2024年11月24日 (日) 06:15 (UTC)[返信]

朝鮮の人口推移について

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慶長の役の損害の欄に朝鮮の人口推移として1637年時点で1063万人と脚注に記述がありますが、 これは英語版の李氏朝鮮の記事にある1648年時点での人口2,576,000人とあまりに大きくかけ離れてます。 1636年から1637年にかけて丙子の乱があり、その前後で人口が大幅に増減した可能性も考えましたが、短期間に800万も人口が減る、或いは戦後10年経ち国情が安定しても流民化したまま戸籍調査に上がらないとも考え辛く、また16世紀前半の李氏朝鮮の人口についても英語版記事では1519年時点で330万人、当記事の脚注には1522年時点で1061万人と大きな差があります。 英語版の李氏朝鮮の記事には、 「The exact population figures of Joseon-era Korea are disputed as government records of households are considered unreliable in this period.」 との記述があります。 韓国語版の李氏朝鮮の記事を読むと(機械翻訳したものですが)そもそも人口に関する記述が存在せず、韓国の史学会においても定説として李氏朝鮮の人口推移についての信頼のおけるデータや学説が存在しないということでしょうか? そうであるならば記事中の人口に関する諸々の不確かな記述を残すことに重大な疑義が生じることになると考えますがどうでしょうか?--Ccc okamoto会話2024年11月29日 (金) 11:29 (UTC)[返信]