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ノート:名鉄瀬戸線

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新車導入後の車両転属・廃車について

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6000系の本線復帰については鉄道ピクトリアル増刊1月号に記事が掲載されているので確実だと思うのですが、その他系列についてはまだ正式な発表がないので「廃車される予定」などの記述は適切ではないと思うのですが、いかがでしょうか?--Leisure 2006年4月3日 (月) 09:34 (UTC)[返信]

2009年現在の状況は2006年1月号とは変わっていると思われます。名鉄からの公式発表がない以上、6000系が本線に復帰するのが確実、とするのは良くないでしょう。このような趣旨に沿って記述を変更しました。--ポップカルチャー 2009年2月7日 (土) 17:38 (UTC)[返信]

冒頭について

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名古屋鉄道の他の路線とは繋がっていない「孤立路線」というのは、まさにこの路線の特徴ですから、ほかの節に隔離するほど邪魔なものではないでしょう。この記事に限らず、わずか一段落ほどの短い文を「概要」節などを作って冒頭から追いやる例が見られますが、導入部は一行でなくてはならない訳ではないですし、補足を書くことは禁じられてはいないはずです。長くなれば概要なり、適切な節に内容を移せばよいでしょう。他の節に隔離するために、(ご自分で加筆せず){{節stub}}を貼ってなんとか長くしてもらおうというのは本末転倒かと思います。Rusk 2007年4月25日 (水) 09:11 (UTC)[返信]

だからといってrevertはいかがなものかと思いますけどね。それは適切ですか?
本題ですが、孤立路線であること自体は十分特徴的であると思います。だから残しました。しかし、トレーラー云々や立体交差化についての記述を導入部に配置するという記述方法は果たして本当に適切でしょうか?確かに必ずしも補足を禁止とは書いていません。しかしあくまで瀬戸線そのものを概念的に表すものではない、補足的、いわば補充知識的な要素は、Wikipedia:レイアウトの指針・Wikipedia:定義と記述を参照する限り、導入部に置くことは不適切であると思います。
また、一般の方がまず「瀬戸線」がどういうものかを知るために必要な項目とは思えません。どこが立体交差かなんて、瀬戸線を知る上で特に重要なことですかね?マニアの自己満足にしか思えないです(必ずしも否定はしませんけどね)。したがって導入部には不適切でしょう。よって別の節に移動することが望ましいと思われます。
なお、ああいう形で編集したのは、別の方法で構成したところ、それを戻されたので、別の形を模索したまでです。それに、加筆は一時にやる必要はないでしょう?--本屋 2007年4月25日 (水) 11:50 (UTC)[返信]
「孤立路線」については確かに残してありました。私の見落としです。
瀬戸線は定義にある「名古屋市の栄町駅と瀬戸市の尾張瀬戸駅を結ぶ鉄道路線」だけで一般向けには充分ということですか。
Wikipedia:定義と記述では、定義に続いて補足的な記述を書くべきとあるだけです。導入部に書くなとはありません。長くなったり、適切な節がある場合に記述を移せばよいでしょう。Rusk 2007年4月25日 (水) 21:54 (UTC)[返信]
この議論ではどのような記述がベターか、というものにすぎないということが問題です。あなたと私のどちらの考えも成り立ちうるが、どちらがよいか、ということです。
Wikipedia:定義と記述については、参照を誤っていました。これは別問題の議論です。Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)Wikipedia:レイアウトの指針で議論します。スタイルマニュアルを読む限り、導入部は概要を書く場所であると思います。確かに補足的な記述を否定することはかかれていません。しかし、導入部で語るべき「補足的な記述」とは、概念を明確にするに役立つ記述のことを指し、トリビアの類の記述はなるべく避けるべきだと思います。(なお、この「補足的な記述」の定義についてあなたと私の理解に差があるようですが。)
あなたのいう「瀬戸線は定義にある「名古屋市の栄町駅と瀬戸市の尾張瀬戸駅を結ぶ鉄道路線」だけで一般向けには充分ということですか。」というのは極論です。必要なことであれば導入部がふさわしいとおもいます。瀬戸線においては、孤立路線であることは概念を明確にするのに役立つと思います。しかし、立体交差や地下化した路線が珍しくないのであれば、それは概念を明確にするには役に立たないでしょう。たとえば、鉄道なら通勤線といった記述や、どこかへのアクセス路線である、何かで特に有名、などなら良いと思いますが。八王子市コルシカ島国立国会図書館などの記事の導入部と比較して、いかがでしょうか。
また、先述したようにどちらがベターか、という観点である以上、「補足的記述」を導入部に記述することが否定されずとも、それはトリビアを別項目に記述することを否定する積極的理由にはなりません。分量が少なくても、(発展可能性があれば)別項目立ては許されるのではないでしょうか。この点で、あなたの主張は理解できますが2段落目と3段落目の論理がつながっていません。あなたが3段落目の主張をするには、2段落目であなたが解釈して示した私の見解が不当であることを示さなければならないでしょう。本件の問題は、まさにそこにあると思います。この点で、少なくともあなたが別項目を検討せずrevertを実行したのは誤りではないでしょうか。--本屋 2007年4月26日 (木) 07:26 (UTC)[返信]
まず、「移せばよいのでしょう」は「移せばよいでしょう」の誤りです。
あまりよく考えずにrevertしたのは確かです。導入部から分けて立てられた節が私にはあんまりな内容に見えたので、反射的にrevertしましたが、私が加筆することや、より適切な節へ移動させることも検討するべきでした。Rusk 2007年4月26日 (木) 21:44 (UTC)[返信]
いえいえ。お手数をおかけしました。--本屋 2007年4月28日 (土) 15:17 (UTC)[返信]

路線経路図について

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tSTRかLUECKEかという点で、tSTRに改訂して編集したところ、210.さんが、「途中省略という意味なのでそのアイコンで正当」として、LUECKEに戻されました。鉄道用ピクトグラム一覧によれば、LUECKEは、「中断」(Interruption)ということなので、「現実に線路が途切れてしまっている」という意味で、「図として省略する」と解釈して、tSTRに編集しました。
LUECKEは、本来ウィキぺディア上では、どのような意味で使われているのでしょうか?

また、別件ですが、名城線など地下鉄(metro)の記載は、青線で記載すべきように思うのですがどうでしょうか?--Ateo 2008年5月27日 (火) 06:34 (UTC)[返信]

横から失礼。ピクトグラム一覧は日本語として練り上げる途中のものと理解しています。LUECKEは中断→表示の中断→途中省略と理解していますので、210.さんの編集で正当と思います。本当に線路が途切れているものはENDEaなどが用意されています。
青線は英語版、さらにその元はドイツ語版で路面電車など軽鉄道を表示するために用意されたものです。郊外の本線級のフル規格の鉄道と直通する日本のような地下鉄を意図してmetroといっているとは思えない節がありますので、東京では地下鉄を赤で表示しています。Wikipedia:経路図テンプレート/鉄道用ピクトグラム一覧で質問されればいかがでしょう。--Maxima m 2008年5月29日 (木) 05:35 (UTC) typo修正多謝--Maxima m 2008年5月29日 (木) 06:26 (UTC)[返信]
Wikipedia‐ノート:経路図テンプレート/鉄道用ピクトグラム一覧に転載しました。--Maxima m 2008年5月29日 (木) 05:40 (UTC)[返信]

他の孤立路線との関連

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これまでにも何度か以下のような他の孤立路線について、関連項目において、掲載と削除が繰り返されています。今後、再度他の孤立路線について、名鉄瀬戸線内に記事を掲載されることを考える方は、ここで議論を集約していただけないでしょうか?

掲載と削除を繰り返すことがないよう、ご協力をお願いします。

--Ateo 2008年7月19日 (土) 01:26 (UTC)[返信]

すみません。一応編集意図を書いておきます。
ここでの「その事業者の主要路線群から孤立している路線」というのは瀬戸線と同じく、(1)その事業者の主要路線群と離れた場所にあり、(2)また直接線路が繋がってなく、(3)同じ事業者の路線との乗り換えが直接できない(乗り換えができる同一駅や隣接駅がない)(4)単一の路線を指すものと思います。「瀬戸線と同様に」と断っているのですから(1)だけではなく(2)(3)(4)も満たす路線を挙げるべきです。
しかし、どうもときに拡大解釈されるようで2008年3月20日の編集では東武東上線と京王井の頭線が追加されています。東武東上線は伊勢崎線系統(東武本線)の路線から見れば確かに孤立路線ですが、東上本線と越生線の2路線からなり、ちょっと規模が大きいかと思います(瀬戸線と同様という条件がなければOKでしょう)。井の頭線は注釈が入っているとおり(軌間が違うので)線路は繋がっていませんが、明大前駅で京王線に乗り換え可能であり、京王電鉄の路線網としてはまとまっています。
上に挙がっている4路線でも西武多摩川線、西鉄貝塚線、東武熊谷線あたりは瀬戸線と同様の孤立路線として妥当かと思いますが、福岡市地下鉄七隈線は微妙な感じもします。確かに他の路線と繋がっていませんが、離れていはいるものの天神南駅で空港線と徒歩で乗り換え可能です。まあ(1)~(4)は満たしますから入れてもよいでしょう。
しかし、こういった例示は「瀬戸線と同様」という条件が無視され、単なる孤立路線が次々列挙されるのではないかと思いました。かといって全部除去するのは何なので上に挙がっている4路線くらいはよいかと思い残していましたが、2008年4月29日の編集でばっさり除去してくれたのを見て、なくてもよいのではと思ったのです。--210. 2008年7月19日 (土) 21:28 (UTC)[返信]
西鉄貝塚線の関連項目から同様の孤立路線として南海貴志川線が「現在は他社線だから」との理由で削除されたのを見て(南海貴志川線が挙がっているのは私はなるほどと思いましたが。ところで東武熊谷線は「最後まで孤立路線だった」からありなのか?)、何を(主題の路線と同様な)孤立路線とするかの考えが違っていそうなので、同じように孤立路線が書かれている西武多摩川線・西武貝塚線からも除去します。別にそろえる必要はないのでしょうけど、こういうものは各記事とも自ずと同じ路線が並ぶはずです。--210. 2008年9月6日 (土) 18:22 (UTC)[返信]

南海貴志川線の扱いの件ですが、 「同様にその事業者の主要路線群から孤立している路線」として (現・和歌山電鐵貴志川線)の文字が記されるのにどうも抵抗があったわけです。

正直、貴志川線削除の整合性を保つために東武熊谷線の削除も検討しましたが、随分昔から記載されていたため、ひとまず保留としてみました。

この件他の孤立路線の記載基準を「現状において、その事業者の主要路線群から孤立している路線」といった定義にすると すっきりするかと思います。 (その場合、東武熊谷線、貴志川線は両方ともコメントアウト化)--616F 2008年9月7日 (日) 07:30 (UTC)[返信]

その貴志川線の分について書き足した者です。確かに考えてみると「昔孤立していた」を書き足し出すときりがなくなるような気もします。またこれらだけ取り上げて、例えば「孤立した鉄道路線の一覧」なんて記事をいちいち起こすのもただのうんちく大会みたいです。「昔孤立していた路線」に限っては除去されても仕方ないかなと思うようになったので、わたしはこれには異議は唱えません。現在孤立している路線についてはまだ判断がつきかねています。Takobou 2008年9月9日 (火) 04:26 (UTC)[返信]
関連項目の節に置くとどうしても「あれもこれも」と足されてしまうんですよねぇ。本文に組み入れるとか脚注の形にするとかではどうでしょうか?

……(瀬戸線は)他の名鉄の路線と接続していない「孤立路線」である[1]。……


  1. ^ 2008年現在において、瀬戸線同様にその事業者の主要路線群から孤立している路線としては、西武多摩川線・西鉄貝塚線がある。
このような形にするとか。Takobou 2008年9月9日 (火) 11:02 (UTC)[返信]
やはりあれこれ付け足す人は出てくるでしょうね。本文に組み込んだ場合は追加されるごとに可読性が落ちますので脚注や関連項目のままのほうがよいかと思います。
しかし、そもそも他の孤立路線の例示(紹介)ってあったほうがよいのですか? --210. 2008年9月9日 (火) 21:58 (UTC)[返信]
どうして孤立路線となったのかを他の路線を挙げながら比較しながら説明することで記事が深まるかとも思うのですが、だらだら説明すると記事を見づらくしてしまいます。全く無いと「書き足したくてうずうずする」人が出るのも事実です。どうしましょ。Takobou 2008年9月9日 (火) 22:52 (UTC)[返信]
鉄道の用語について詳しくないのですが、孤立路線という言葉は、鉄道の用語として、別途独立した記事を作成するほどの一般的な用語であったりはしませんか?--Ateo 2008年9月10日 (水) 01:58 (UTC)[返信]

(インデント戻し)新規に「孤立路線」という記事を起こしたい誘惑(笑)はあるんですけれど、それをやっちゃうと暴走レベルできりがなくなってしまうこと必至です。紀勢中線とかに始まって、(瀬戸線とか西武多摩川線のように)合併の経緯で当初から孤立した路線とか、(西鉄貝塚線とか南海貴志川線とかのように)他の基幹路線と何らかの形でつながっていたのがそこが廃止されて孤立したとか、(東武熊谷線のように)途中未完成のまま孤立したとか。そこらはまだしも、孤立していたのが中間が建設されて完成して孤立が解消されたとか災害で一時期孤立していたとかそういうのまで入れ出すと(注意書きとか出して止めても絶対手がうずいて仕方が無くなると思う)収拾がつかなくなったりしないでしょうか。質より量になってはいかんと思います。そもそも日本の鉄道についてだけうんちくをだらだらたれるのがよいことなのかどうか。Takobou 2008年9月10日 (水) 06:06 (UTC)[返信]

車両導入とダイヤの年表への記載

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1500V昇圧後の車両導入についてだけ、年表に記載があがりましたが、瀬戸線100年のうち、近年の30年だけ記載して、600V時代の車両導入については記載しないとする理由はないように思います。ただ、そうすると、年表が車両導入の記録ばかりで埋まってしまう可能性があります。年表には記載せず、過去の車両も含め、車両の記載があるのですから、そこに記載しておけばよいのではないでしょうか。 一方、ダイヤの変遷については、もっと事態は深刻で、これを年表に記載し始めたら、キリがなくなります。これはどうしたものか、私では解決策が思いつきません。--Ateo 2008年10月29日 (水) 01:16 (UTC)[返信]

戦前の古い廃駅

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瀬戸線には、廃止年時などの詳細な情報が不明が駅がいくつかありますが、以下の駅は他の駅の古い呼称であると考えられます。

御園駅
開業時の終着駅。御園橋のたもとにあった。現在も痕跡有り(?)。堀川駅開業により、ほどなく廃駅。
護国神社前駅
本町駅の別称-本町駅に護国神社は隣接していました。護国神社が移転してきたのは、1935年(昭和10年)。
師範下駅 稲荷山駅 社宮祠駅 坂下駅
師範下駅の師範というのは現在の市立工芸高校のところにあった愛知第一師範学校(愛知教育大学の前身の一つ)のことをいいます。師範下駅は、現在の市立工芸高校の真北にあったようです。社宮祠駅も同様の場所にあったといわれています。
尼ヶ坂駅 - 森下駅間の各駅は、短い距離の間にいくつか廃駅があったとされていましたので、尼ヶ坂駅または森下駅の別称であった可能性もふくめて、整理が必要ではないでしょうか。
木ヶ崎駅 - 役場前駅
昭和30年代に発行された守山市史では、昭和一桁年代には、役場前と呼ばれていたと記載されています。したがって、大正年代には木ヶ崎、昭和に入ってからは、役場前と呼ばれていた可能性が高いと考えられます。役場前は、現在の守山図書館からまっすぐ南に下りる道と線路が交差するあたりにあったといわれています。
ただし、矢田駅の周辺は古く木ヶ崎という地名であったため、木ヶ崎は矢田駅の別称であった可能性もあります。
学園前駅
新瀬戸駅の別称。近くに女学校があったため。
桜川駅
水野駅と新瀬戸駅の間に桜川という瀬戸川の支流がありますが、これと関連があるのではないでしょうか。

古く軌道であったことから、各駅は、もともと、今のようにではなく、電停であったにすぎなかったため、頻繁に名称が変わっていたか、またはあまり厳密にその呼称を定めていたなかった可能性があります。

以上の点について、根拠文献を御存知の方はいらっしませんでしょうか?--Ateo 2009年1月26日 (月) 04:35 (UTC)[返信]

前島一廣氏が1990年に発行した「せとでんの歴史(名鉄瀬戸線史)」から、一部補いました。--Ateo 2009年4月14日 (火) 04:12 (UTC)[返信]
2008年に刊行された『日本鉄道旅行地図帳 7号 東海』(今尾恵介監修、新潮社)に基づき編集させていただきました。上で挙げられた駅は『日本鉄道旅行地図帳』では以下のようになっています。栄町起点換算の距離は同書記載のものです。
御園駅
1911年9月開業、1921年以前廃止。起点からの距離不明。
名古屋鉄道社史など堀川 - 土居下間の開業を1911年10月1日としているものが多く、『日本鉄道旅行地図帳』でその日付より前なのが不思議でしたが、先行開業していたのでしょうか。
鉄道変更直後頃の『大正10年 愛知県統計書』(1921年度)には記載されていません。
護国神社前駅
開業日、廃止日とも不明。本町 - 大津町間(起点からの距離不明)に記載。
『大正10年 愛知県統計書』には記載なし。
師範下駅
1911年5月23日開業、1915-34年の間に廃止。「師範学校下」の名称で尼ヶ坂 - 社宮祠間(栄町起点換算2.9km)に記載。
『大正10年 愛知県統計書』には記載なし。
社宮祠駅
1911年5月23日開業、1944年休止、1956年10月15日廃止。師範学校下 - 坂下間(栄町起点換算3.2km)に記載。
坂下駅
1911年5月23日開業、1941年2月24日廃止。社宮祠 - 森下間(栄町起点換算3.6km)に記載。
『大正10年 愛知県統計書』によると隣の森下駅と並存しています。
稲荷山駅
開業日、廃止日とも不明。森下 - 駅前間(起点からの距離不明)に記載。
『大正10年 愛知県統計書』には記載なし。
木ヶ崎駅
1905年4月2日開業、1924年以前廃止。矢田 - 守山口間(起点からの距離不明)に記載。
『大正10年 愛知県統計書』には記載なし。
役場前駅
開業日、廃止日とも不明。守山口 - 守山自衛隊前間(起点からの距離不明)に記載。
『大正10年 愛知県統計書』には記載なし。
木ヶ崎駅との関係は不明。1932-1938年頃に役場近くから西の矢田川近くへ(当時の地形図による)移転した守山口駅と関係しているかもしれません。
学園前駅
1905年4月2日開業(同書の推定)、1926-27年廃止。新瀬戸 - 瀬戸市役所前間(栄町起点換算9.1km)に記載。
同書によると横山(現・新瀬戸)駅が1927年2月1日開業とのことなので、もし横山駅開業と同時に廃止なら、横山駅は学園前駅の移転・改称ということになるかもしれません。ただし、1920年測量・1923年発行の陸地測量部2万5千分の1地形図には学園前駅らしき駅の西方に「横山駅」が読み付きで記載されています。『大正10年 愛知県統計書』には横山駅は記載されていません。
桜川駅
1912年以前開業、1915年以前廃止。
その他、『日本鉄道旅行地図帳』によると大津町駅は1926年開業で、ほぼ同位置に娯楽園という駅が1914年以前 - 1923年以降にあったと書かれていますが、『大正10年 愛知県統計書』には記載されていません。
統計書は近代デジタルライブラリーから閲覧できる明治・大正時代のものを見ました。大正始め頃までの愛知県統計書には鉄道について各駅の哩程が記載された年度版もあるのですが、その頃の瀬戸電気鉄道は軌道でしたので各駅毎の統計値は記載されておらず、大正11年度以降は主要駅のみの掲載になったので、大正10年度以外の統計書からは各駅の状況や位置関係は不明です。--210. 2009年10月28日 (水) 22:51 (UTC)[返信]
『日本鉄道旅行地図帳』はよくまとまってはいますが、そもそもどの文献を根拠に駅の位置や開業年度等を特定したのか、明確でないので、そのあたりを確認する必要があるように思われます。信頼できないとまでは思いませんが。
『大正10年 愛知県統計書』は、確かに駅の一覧となっていますが、全駅を記載したものであるとの確認はできますでしょうか。
他の文献もしかりですが、記載内容が相互に矛盾しているようですので、いずれの文献がどのように信頼できるのか確認する必要がありそうです。--Ateo 2009年10月30日 (金) 08:41 (UTC)[返信]
『日本鉄道旅行地図帳』の参考文献ですが直接関係ありそうなものは『名古屋鉄道 100年史』(名古屋鉄道)、瀬戸電開通90周年記念特別企画展図録『せとでん やきものの街瀬戸と瀬戸電の歩み』(瀬戸市歴史民俗資料館)、『瀬戸線列車運行図表』が挙げられています(一部原書の誤字訂正)。「大曽根は昭和戦前期の一部市街図に「本社前」とあり。聯隊前を「衛門前」とする資料あり(1912時刻表)」と注記があることから当時の地図や時刻表も参考にしていると思われます。
『日本鉄道旅行地図帳』は、怪しそうな記述は手持ちの他の資料や、明治・大正期については近代デジタルライブラリーから鉄道局・鉄道院・鉄道省の年報や各都道府県の統計書など当時の資料で確認して使用していますが、瀬戸線に関しては『日本鉄道旅行地図帳』と『大正10年 愛知県統計書』の間では、娯楽園駅以外に特に矛盾はないように思います。
各都道府県の統計書は行政機関が出している資料ですから、私は会社自身が出した資料に次いで信頼できるものと考えています。たまに怪しい記述もありますが。
全駅掲載かどうかですが、一応同年度のp.108の「停車場数」の場数 29と一致しています。ちなみに翌年度の『大正11年 愛知県統計書』では駅毎の乗降者数は4駅のみ掲載になりましたが、同年度の「停車場停留所数」は前年度と同じ29となっています。--210. 2009年11月2日 (月) 22:44 (UTC)[返信]
補足を頂きましてありがとうございます。大正10年現在の駅は、『大正10年 愛知県統計書』記載のもので確定できそうですね。どうやら、軌道から鉄道に変更する際に、駅や設備の整理を進めたのではないでしょうか。単なる推測に過ぎませんが。--Ateo 2009年11月4日 (水) 04:34 (UTC)[返信]
『瀬戸線の90年』37頁に、瀬戸電気鉄道が発行した大正時代の哩程表が載っています。
それによると、当時の駅(停車場)は、瀬戸、追分、學園前、横山、今村、根鼻、三郷、平池、新居、聾石、印場、志段味通、大森、小幡原、龍泉寺、笠寺道、衛門前、守山、木賀崎、下街道、本社、柳ヶ坪、坂下、社宮司、師範学校下、尼ヶ坂、清水、柳原、土居下、東大手、久屋、本町、堀川という順になっています。駅の異名、例えば、龍泉寺=小幡、衛門前=守山自衛隊前、守山=守山口または役場前、木賀崎=矢田(この表では木賀崎は矢田川と中央線の間に位置しています)、本社=大曽根が多く見られます。
やはり、大正10年の鉄道化前の時代は、駅の場所も名称もきちんと決まっていなかったのが実情かもしれません。あと、個人的には、同書204頁の「瀬戸線・駅の変遷」という表は、正確性に疑問があるのではないかと思っています。--Ateo 2010年5月3日 (月) 12:55 (UTC)[返信]
御園駅についての議論はノート:堀川駅 (愛知県)に、護国神社前駅についての議論はノート:本町駅 (愛知県)に、娯楽園駅についての議論はノート:大津町駅 (愛知県)に、学園前駅についての議論はノート:新瀬戸駅に、内容を暫定的に取りまとめつつ、移転しました。
勝手に議論を分けまして、申し訳ありません。--Ateo 2009年10月29日 (木) 10:10 (UTC)[返信]
役場前駅及び木ヶ崎駅についての議論はノート:守山口駅に移転しました。--Ateo 2009年11月4日 (水) 03:37 (UTC)[返信]

坂下駅

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いまでも瀬戸蔵などで販売している瀬戸市史 資料編 近現代1には、昭和初期の瀬戸電の絵地図が付いていますが、それによると、当時は、尼ヶ坂社宮祠坂下森下の順に駅が並んでいたようです。その絵地図は、撞木倶楽部通信というサイトで見ることができます。 絵地図ですので割り引いて考える必要はありますが、これによれば、坂下駅は、片山八幡の西側と円満寺の東側を結ぶ道との交差するところにあったようですので、現代で言うと、19号線ぞいのダイビングスクールあたりにあったことになります。森下駅は、現在の市バス森下駅停のあたりにあったので、駅間としては、100メートルちょっとしか離れていなかったのかもしれません。--Ateo 2009年10月30日 (金) 08:41 (UTC)[返信]

師範下駅 社宮祠駅

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社宮祠駅は、現在の芳野三丁目交差点南側に社宮司神社がありますので、芳野三丁目交差点付近にあった可能性が高そうです。愛知県の駅:古い写真には、当時付近に住んでいらした方が社宮祠駅のことを書かれています。 また、師範下駅の師範とは、現在の市立工芸高校の位置にあった師範学校のこと指しますので、市立工芸高校の西側の道を下りて来たあたりにあったと仮定すると、『日本鉄道旅行地図帳』で、社宮祠駅 - 師範下駅の駅間が300メートルと記載されていることと辻褄が合います。--Ateo 2009年10月30日 (金) 08:41 (UTC)[返信]

「瀬戸線あれこれ(5)」の路線図研究より

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伊東重光「瀬戸線あれこれ(5)」(『もりやま』第33巻、守山郷土史研究会)にて瀬戸電黎明期の図表を掲載し、停留所や通称について考察されています。上節でのAteoさんの推定と一致するところもあるほか、上記以外の駅名もいくらか見受けられるので、駅名を以下に引用します。

A - 「懐中時刻表・明治四〇年八月」

  • 瀬戸 - 桜川 - 追分 - 横山 - 今村 - 根ノ鼻 - 三郷 - 平池 - 新居 - 聾石 - 印場 - 良福寺前 - 志段味通 - 大森 - 小幡原 - 小幡 - 笠寺道 - 衛門前 - 守山 - 矢田 - 大曽根

B-1 - 「営業案内所載路線図」(守山区誌掲載版)(森下駅開業前=大正4年以前?)

  • 瀬戸 - 追分 - 学園前 - 横山 - 今村 - 根ノ鼻 - 三郷 - 平池 - 新居 - 聾石 - 印場 - 志段味通 - 大森 - 小幡原 - 竜泉寺 - 笠寺道 - 衛門前 - 守山 - 矢田(※1) - 下街道 - 本社/駅前(※2) - 柳ヶ坪 - 坂下 - 社宮祠 - 師範下 - 尼ヶ坂 - 清水 - 柳原 - 土居下 - 東大手 - 久屋 - 本町 - 堀川

B-2 - 「営業案内所載路線図」(個人所蔵版)(B-1のバリエーション版)

  • 瀬戸 - 追分 - 学園前 - 横山 - 今村 - 根ノ鼻 - 三郷 - 平池 - 新居 - 聾石 - 印場 - 志段味通 - 大森 - 小幡原 - 小幡 - 笠寺道 - 衛門前 - 守山 - 矢田(※1) - 大曽根 - 駅前 - 柳ヶ坪 - 坂下 - 社宮祠 - 師範下 - 尼ヶ坂 - 清水 - 柳原 - 土居下 - 東大手 - 久屋 - 本町 - 堀川

C - 『瀬戸線の90年』掲載路線図(路線図がB-1、2と高い類似性を有する)

  • 瀬戸 - 追分 - 学園前 - 横山 - 今村 - 根ノ鼻 - 三郷 - 平池 - 新居 - 聾石 - 印場 - 志段味通 - 大森 - 小幡原 - 龍泉寺 - 笠寺道 - 衛門前 - 守山 - 木賀崎 - 下街道 - 本社/駅前(※2) - 柳ヶ坪 - 坂下 - 社宮祠 - 師範学校下 - 尼ヶ坂 - 清水 - 柳原 - 土居下 - 東大手 - 久屋 - 本町 - 堀川

D - 「娯楽園案内」(森下駅開業から連隊前改称までの間=大正4-13年?)

  • 瀬戸 - 追分 - 学園前 - 横山 - 今村 - 根ノ鼻 - 三郷 - 平池 - 新居 - 聾石 - 印場 - 志談通 - 大森 - 小幡原 - 小幡 - 笠寺道 - 営門前 - 守山 - 木ヶ崎 - 大曽根 - 駅前 - 柳ヶ坪 - 森下 - 坂下 - 社宮祠 - 師範下 - 尼ヶ坂 - 清水 - 柳原 - 土居下 - 東大手 - 久屋 - 本町 - 堀川
※1 運賃表では木ヶ崎
※2 下街道 - 柳ヶ坪間に2ルート有(駅前経由は破線表記)。

以下、問題となる駅名と同論文における見解(※は私の補足)。

護国神社前
本町駅の通称(図にはないが通称の類例として言及)。
本社、下街道および下街道 - 柳ヶ坪間の三角線
駅前駅と三角線を描く路線図の場合、「本社」に当たる位置が初代大曽根駅(旧・東大曽根町本通五丁目)。下街道は大曽根駅の別名。後に本社経由が削除され駅前経由に一本化される。
※1913年の駅前駅開業を前後して本社経由から駅前経由になったと思われるが、三角線についての詳細が依然として不明なので結論は出せない。
木ヶ崎、木賀崎
矢田駅の別名。
※『日本鉄道旅行地図帳』では矢田駅と別駅扱い。矢田と同時開業後、1924年以前に廃止。
役場前、守山
筆者執筆時点で公的資料による「役場前」は発見できず。守山駅の別名か。
今昔マップ on the webでは守山町役場すぐ南の位置に「もりやま」駅が確認できる(1920年、1932年)。1937-38年以降の地図には無くなり、代わりに守山口駅に相当する位置に「もりやま」駅が記載される(守山口駅は1921年開業、『日本鉄道旅行地図帳』では1932-38年頃に駅移設とある)。
衛門前、営門前
現在の守山自衛隊前駅。
※『日本鉄道旅行地図帳』においても「衛門前」表記の注釈あり。
龍泉寺、竜泉寺
小幡駅の別名。
良福寺前
良福寺の立地関係から現・印場駅付近にあったと思われる(旧・印場駅は現在地よりも東より)。

下街道、木ヶ崎、竜泉寺は開業時点ではそれぞれ大曽根、矢田、小幡だったので改名だとしたらA→B→Aの順で戻ったことになりますが、現時点では一時的な別称・通称の類と考えるのが妥当だと思われます(筆者も改名と断定せず)。--ButuCC+Mtp 2019年4月28日 (日) 13:43 (UTC)[返信]

(追記)『名古屋市街図(1922年)』では駅前、大曽根、矢田、守山口の駅名が大曽根駅前、下街道、木ケ嵜、守山となっていることが確認できます(東大手、柳原、尼ヶ坂、社宮祠、森下、柳ヶ坪は記載なし)。--ButuCC+Mtp 2020年11月5日 (木) 10:07 (UTC)[返信]

歴史・戦後600V時代の項

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「都心乗り入れの検討過程では、堀川からそのまま直進して名古屋本線の栄生駅に連絡するルートも検討されていた」という記述について、「要出典」タグが貼られてから1年以上たちますので削除しました。--58.188.123.2 2010年3月23日 (火) 14:23 (UTC)[返信]

「現行の車両」について

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車両については個別の記事があるのですから、ここで詳述する必要はないかと。瀬戸線独自の事柄についても車両の記事で書けばいいかと思います。--58.188.123.2 2010年3月23日 (火) 14:23 (UTC)[返信]

地図の不具合を報告

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路線図が載っていない ----以上の署名のないコメントは、106.72.148.32会話/Whois)さんが 2017年11月4日(土)07:27 に投稿したものです。

地図の不具合を報告(2)

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記事中からリンクされている地図について、不具合または疑問に思われる点があったので、報告します。

  • (例文)◇◇という地図で、「富士山」と書かれるところが「不治山」となっています。誤植ではないでしょうか。

以上、確認お願いします。----以上の署名のないコメントは、126.204.11.123会話/Whois)さんが 2018年1月12日(金)13:33 に投稿したものです。