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ノート:一神教/過去ログ1

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日本宗教のくだりについて

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いまいち意味がつかめません。「一神教」「多神教」とは神学上の神々のシステムのことであって、「信仰」という個別の宗教実践行為とは別の次元に属する分類だと思うのですが。神に祈りを捧げるときは、それは当然祈りを捧げるところの神格しか意識しないでしょうけど、それはごく自然な実践であって、あえてそこにシステムとしての一神教を認めるのは難しいのではないでしょうか? たとえば「ただ漠然と人間を超える存在を認め、それに対して祈り願う形となっている。そのため教えも『神様は、良いことをすれば、それに報いてくれる。悪いことをすれば、罰する。』のレベルである」というのは、いわゆる普通の(日本以外の)多神教における神々の認識と同じです。「結局は、多数の神のそれぞれを、同時に両方を信じているのではなく、一種類の神、実質は同じ神を崇拝している。」も「複数の神の存在を信じる(通時的なシステム認識)」と「単一の神を崇拝[=信仰]する(個別的な実践行為)」についての議論を混同しているように思います。その前の「個々の『固有の教え』を信仰しているのではなく」から判断すると、複数の「固有の教え」を並行して信仰するのが多神教の定義ということになりますが、これも疑問です。また、具体的には、有名な七福神、道祖神のように対で祀られる神、複数が合祀されている神社、「八百万の神々」を祀る神社などはどういう位置づけになるのでしょう?toroia 2006年5月1日 (月) 05:15 (UTC)

賛成です。自宗のみが真理であるという姿勢を一神教とはいいません。突き詰めれば、たいていの宗教はそうです。日本在来の宗教では、一神教的なのは、阿弥陀信仰などの浄土教、密教のある種の(法身の大日如来など)信仰、日蓮系の日蓮本仏論系の教団などはかなり一神教的ですが、パンテオンに主神を認めるのは多神教において一般的なことであり、主神のいない多神教のほうが珍しいので、そのレベルのものはとくに言及には値しないと思います。多神教から単一神教に近づくのは、ヒンドゥーにおけるシヴァ信仰やヴィシュヌ信仰などのように、「少なくとも自分にとっては救済がその神格から排他的に与えられる」という、その神格の全能性、根源性の観念が見られる場合です。なお、エキュメニズム的、本地垂迹的な、すべての宗教の神格は結局はひとつ、という観念は、関連しつつも微妙に問題が違うようにも思います。--Clinamen 2006年5月1日 (月) 07:35 (UTC)

日本宗教のくだりについて(補足説明とご質問)

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ご指摘を戴き、再考し、一部撤回しました。宜しく。

日本はアニミズムが濃厚で、現在でも大岩や巨木や神山を拝んでおり、更に、偉大な人間も神として信仰の対象にします(天神様八幡様明治神宮東郷神社)。宗教は人間と言う生物の行動形態であり、一神教か多神教かどうかは、当人が並行的に(通時的に)多数の神を拝んでいる場合は、その人は多神教の人であり(そこに多神教が信仰形態として現れている)、一つの対象だけを信仰の対象にしている場合は、一神教の人であるだけです。同様に、時々にケースケースで信仰の対象を変え、多くの対象を信仰する人も多神教の人でしょう。
その意味では、圧倒的な多神教の時代基盤の中から、鎌倉時代に、新仏教として、信仰の対象を一つに限定し、それ以外は信仰しないという宗教的天才が現れたのは奇跡と考えます。そしてこれは一神教そのものと考えます。更に、同時代の人々がその一神教の信者になっていったことも驚きです。

その意味で以下の記述は、誤っていると思います。 「日本在来の宗教では、一神教的なのは、阿弥陀信仰などの浄土教、密教のある種の(法身の大日如来など)信仰、日蓮系の日蓮本仏論系の教団などはかなり一神教的ですが、パンテオンに主神を認めるのは多神教において一般的なことであり、主神のいない多神教のほうが珍しいので、そのレベルのものはとくに言及には値しないと思います。」

(1)「一神教的」ではなく、親鸞阿弥陀佛)、道元:真理、それを体現する釈迦如来)、日蓮法華経)…のレベルでは「一神教」そのものです。 (2)現在の仏教の大部分は、日蓮宗(創価学会霊友会・・・)、浄土真宗曹洞宗臨済宗浄土教などで占められます。残りは極く少数派です。  ですので、現在の大多数の起源は一神教で、その流れにあります。ただし、時代が下り信仰の情熱が薄れるにつれ、俗世間では宗祖の信仰から逸脱して、再び多神教の世界に後退している部分が見られますが。 (3)「パンテオンに主神を認めるのは多神教において一般的なことであり」この場合は、多神教と言うからには、個人の中で、主神の他に陪神も信仰、崇拝の対象にしていることを暗黙の内に前提しています。が、親鸞(阿弥陀佛)、道元(真理、釈迦如来)、日蓮(法華経)では、陪神には眼もくれません。ですから「そのレベルのものはとくに言及には値しないと思います。」とは言えなく、これは注目すべきことと考えます。 (因みに、親鸞、道元、日蓮などの主著などを読んで判断しているのでしょうか?「日本人として彼らは例外」として扱っているのでは?) (4)密教は、仏教にヒンズー教を大々的に取り込んだものであり、インドでは最終的にはヒンズー教との違いがなくなり存在価値がなくなり、社会からは消滅して行ったものです。ですので一神教というよりは「パンテオンに主神を認める」形そのものであり、そのパンテオンは両界曼荼羅で示されています。 (5)質問ですが「日蓮本仏論」これは何なのですか?日蓮は先達(つまり先生・導師)だけであり、日蓮宗での信仰の対象はあくまで「法華経(の真理)」のはずですが。題目である「南無・妙法蓮華経」のはず。 --イエスチャン 2006年5月9日 (火)

日蓮本仏論はぐぐればいくらでも出てきますが、日蓮が久遠の仏であって、主たる本尊は釈迦ではなく日蓮であるという信仰です。なお、もちろん法華経の真理が究極の本尊ですが、宗祖として、釈迦か日蓮をあがめるという信仰もあるということのようです。
それから密教の大日如来はすべての創造者であり根源であり、無数の密教の神格はすべて大日如来のことなる顕現であるというタイプの密教の信仰はあきらかに一神教的といっていいでしょう。
で、私は大前提として、一神教・多神教というカテゴリーは、もともと、仏教を想定していないカテゴリーであり、適用すること自体意味がないと考えています。そのうえで、鎌倉仏教に代表される傾向は、たしかに拝一神教か単一神教か、これも適用するにはあいまいさが避けられないと思いますが、まあ、そういったものであるとはいえます。しかし、唯一神教ではない。
そして、第一に大いに問題にしたいのは、日本語で普通一神教とだけ言ったら唯一神教のことです。一神教とだけいってそうした他の神格の存在をいちおう認める信仰を意味するのは、大いに誤解を招く表現です。そこからいって、わたしは、「ひとつの神だけ崇拝するから一神教」という言い方には到底賛同できません。繰り返しますが、ただ説明もなしに一神教とだけいえば、「他の神格を崇拝しないだけでなく存在も認めない」という唯一神教を意味します。そこをきちんとおさえて記述しないのは問題です。
3については、鎌倉仏教などのの信仰を多神教における主神としての崇拝とみなしているわけではありません。もとの文章には書き方にあいまいさがあったようです。
「日本在来の宗教では、一神教的なのは、阿弥陀信仰などの浄土教、密教のある種の(法身の大日如来など)信仰、日蓮系の日蓮本仏論系の教団などはかなり一神教的ですが、パンテオンに主神を認めるのは多神教において一般的なことであり、主神のいない多神教のほうが珍しいので、そのレベルのものはとくに言及には値しないと思います。」
この文章で、親鸞・日蓮等の信仰を多神教と言っているわけではなくて、そういうものは一神教的だという形でとりあえず問題にすることもできる(厳密には違うが)。しかし、その他の多神教で主神としてあがめるタイプのものは言及する必要はない、という脈絡です。後段が想定しているのは、なになに神社の祭神はなになにのみことだ、というようなやつのことです。
浄土教や鎌倉新仏教が一神教的な救済宗教であったことは誰も否定してません。慎重な留保つきなら、あなたのいっていることは、理解できます。問題は、重要な差異を無視し、誤解を招く表現をしていることです。一神教的であったといっても、一神教であったとはいえません。なによりも法や真理は神ではありません。仏についてはやや微妙な問題が残りますが、やはり、法あっての仏であり、神とは性質を異にします。仏教は永遠の実体と人格の究極的な実在を否定しているのですから、人格神を範例にした概念にはそぐいません。鎌倉仏教もそうした基本教義を受け継いだ上で、それと調和する形で一神教的な説を唱えたのであり、そこにはいわば「一神教」になりきれない面、「仏教の基本教義」とのあいだの鋭い緊張関係がつねにあったのであり、それは解消されてなどいません。むしろその緊張関係に生命があったとさえいえます。また、その一神教的というのも、つねに他の「神格」がみとめられていたのだから唯一神教的ということではないのに、一神教的とだけ説明抜きでいえば、そういう意味になってしまいます。
そうした意味で、現状の記述で、十分、仏教にも一神教的な信仰もあった、ということは表現されていると考えます。--Clinamen 2006年5月9日 (火) 16:38 (UTC)

唯一神教の中の「超存在」で、多神教的とは言えない事

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●「他の神の存在を認めない唯一神教でも、実際には様々な超存在を認めていることが多い。」

実際そうです。
旧約聖書では、“一民族の神ヤハウェ信仰(古代イスラエル宗教)から唯一神教を生み出して行った預言者イザヤ自身”も天的存在、天使「セラフィン:ケルビム」の存在を信じていました。 ヨブ記でも、天上の会議(地上で起こることは天上の会議で決定されると考えている)が信じられており、神と天的存在(天使)を信じています。サタンも天使の一人であり、地上の人間の悪を見張り、神に告げる役割で登場しています(後代ではその役目から人間に嫌われ、悪をそそのかすものに貶められ、悪魔の様にしか理解されていませんが、本来は悪魔ではなく、神の部下でした)。

新約聖書では、イエス自身は古代人であるため、その当時の世界観で生きていたので、「悪魔そのものであるサタン」や「悪い霊的存在」を信じています。イエスはそれらの悪の超存在と戦っていた訳です。“イエスは、天からサタンが追放され地上に落とされるのを見た”とも書いています。 イザヤやイエスの信仰は唯一神教ですので、神の外に超存在を信じる・認めるだけでは、多神教とは言えない訳です。次に・・・

●「キリスト教では、天使聖人など、イスラム教でも天使やジンなどが信仰の対象となり、絶対神よりは格下に位置付けられているものの、人々に御利益をもたらす存在として認知され、多神教における神と同様の機能を負っていることがある。」

唯一神教であるキリスト教を例にとれば、神/イエスに対しては崇拝しますが、聖母マリアは崇拝しません。それは敬愛です。マリアは我が子イエスに対しキリスト者の祈りを執り成してくれる(取り次いでくれる)だけであり、恵みそのもの(言葉は悪いのですがご利益)は神/イエスから与えられます。イエスとマリアの間には厳然とした断絶があります。それは、神と人間を峻別する宗教観から生まれます。
一方、多神教では、神と人間は程度の差、パワーの差があるだけで、人間と連続的・繋がる面があるのでは?典型的なのは菅原道真公が死んでから天神様に成り、連続しています。
イスラム教では、最初マホメットはジンに捕り付かれ、後からそれが神アッラーだと知り、それがユダヤ教の神ヤハウェでもあると知ったものです。ですから「ジン」と「神アッラー」の両方を信仰した訳ではありません。本地垂迹な訳です。「アッラーの神」が最初「ジン」として現れた訳で、実は同一の神です。後から出来たイスラム教では、寺院内には偶像崇拝になるからと人も動物も描きません。スペインのアルハンブラ宮殿でもそうでした。代わりにコーランの文章が美術化され埋め尽くしていました。その点、「全ての恵みは神アッラーからのみ」と徹底していると考えます。
ですから、その宗教の全体を見た場合は「御利益をもたらす存在として認知され、多神教における神と同様の機能」とは言えないと考えます。神は絶対として存在し、類似のものを寄せ付けません。勿論、俗信になった場合は、限りなく多神教が入り込みます。それがキリスト教か?と言えば、それはキリスト教でなく多神教でしょう。多神教の人には一神教の理解が難しいと考えます。マリアに祈る人の後ろ姿からは、多神教に見えるのでしょう。
因みに、宗教改革を行ったドイツのルターやスイスのカルバンカルビン では、マリアや聖人への祈り(信仰)はありません。多神教の傾向を排除して、「信仰は聖書からのみ」をモットーにして、原点である本来の形に戻していますので。 --イエスチャン 2006年5月10日 (水)

少しスタイルを読みやすくしました。ご了承ください。で、天使や悪魔たちの存在が唯一神教システムと無関係だ、というのは同意します。ただ、イエスチャンさんおおっしゃるこの部分が気になるのですが、
勿論、俗信になった場合は、限りなく多神教が入り込みます。それがキリスト教か?と言えば、それはキリスト教でなく多神教でしょう。
もともと学術的な意味での「一神教」と「多神教」の用法が、キリスト教徒たる西欧人が自分たちの宗教を他の宗教と区別するために作成したエスノセントリックな語彙なので仕方ない点はありますが(近年の日本では「多神教」のほうが自民族中心主義的に用いられてますがw)、いったいキリスト教の定義は誰がするのでしょう? 多神教であるならキリスト教ではない、なるほど、それならキリスト教の唯一神教としての立場は揺らがないでしょう。でも、多くの民族誌で、自らはキリスト教徒であると表明している人たちが多神教的であることが報告されています(日本国内でも東南アジア[フィリピンなど]やオセアニアの事例なら容易に入手できるでしょう)。このような事例は近代ヨーロッパにおいても確認されています。彼らは通常のキリスト教組織に属し(だからセンサスではキリスト教徒にカウントされている)、洗礼を受け、聖書を聖典と認識しているわけです。--toroia 2006年5月10日 (水) 12:32 (UTC)

拝一神教について

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拝一神教の説明で、次の文をのせたいと思います。

拝一神教  特定の一神のみを崇拝するが、他の神々の存在そのものを否定せず、前提としている点で唯一神教とは異なっている。<旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった。(士11:24、サム上26:19、出20:2)神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされる。(岩波キリスト教辞典P869)>--Tokinokawa会話) 2020年8月2日 (日) 09:09 (UTC)--Tokinokawa会話2020年8月9日 (日) 02:33 (UTC)

宗教類型論上における一神教の区分

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成立に関する説、の下に、下記の文を載せたいと思います。

宗教類型論上における区分

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一神教は特定の一神のみを排他的に崇拝する信仰の形態をさし、無神教や多神教と対比される。汎神論(万物を神の顕れないし展開と見なす)や、万有内在神論(万物が神に内包されていると見る)においても、しばしば万物の根本的原理としての神の唯一性が説かれるが、この場合には通常は神の人格性の観念が著しく後退するので、一神教に含めることは適切ではないとされる。<岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P93、(一神教の項目 山我哲雄)>

広義の意味における一神教

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唯一神教 (狭義のmonotheism)

自分たちの崇拝する神のみを唯一絶対の真の神と見なし、他の神々の存在を原理的に否定する。

拝一神教  〔英〕(monolatry) <岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P869、(拝一神教の項目 山我哲雄)>

複数の神々の存在を前提にしながらも、常に特定の一神のみを専一的に崇拝する。

交替神教 (kathemonotheism ないし hemonotheism)

機会や祭祀ごとにそれぞれ異なる特定の一神のみを交互に崇拝する。<岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P93、(一神教の項目 山我哲雄)>--Tokinokawa会話) 2020年10月20日 (火) 02:31 (UTC)--Tokinokawa会話2020年12月5日 (土) 06:26 (UTC)

非日本語の出典や一次資料

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2022年5月14日 (土) 04:19‎ (UTC) から2022年5月20日 (金) 00:30‎ (UTC)まで、英語資料を元にした大量の加筆がされています[1][2]。加筆を行ったIPユーザーさんの編集傾向や文体からして、以下のIPアドレスは同一人物である可能性が高いと思われます。

これらのIPアドレスの一部は汎神論を編集した履歴があり、編集内容を比べても、一神教と汎神論を編集している方は同一人物のようです。汎神論の記事で既に指摘なさっている方がいるようですが、Wikipediaでの出典は「可能な限り日本語による情報源」であり、「常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用すべきです」。(Wikipedia:検証可能性#信頼できる情報源)  また、出典には宗教団体などからの資料も使われていますが、宗教的資料は「宗教的信条が含まれていなくても注意して扱うべきであり、情報源として使わない理由になります」。(Wikipedia:信頼できる情報源#反体制勢力、宗教集団、過激派のウェブサイト)  「不適切な情報源に基づいた編集を行うと、異議を申し立てられたり除去されたりすることがあります」し、ルール違反者は投稿ブロックされる可能性があります。Wikipediaの方針とガイドラインを遵守することを、よろしくお願いいたします。--126.77.0.38 2022年5月20日 (金) 04:46 (UTC)

『ウィキペディア日本語版では、可能な限り日本語による情報源を示すべきであり、常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用すべきです。これは、情報源の資料が正しく使用されていることを、日本語版の読者が容易に検証できるようにするためです。』とある通り英語の情報源を引用することは可能です。また宗教団体の資料についても記述されていますが具体的にどの資料でしょうか?ご教示いただければと思います。--2400:2410:C1A3:5300:5B65:9FA4:13A9:BC3 2022年5月20日 (金) 05:10 (UTC)

126.77.0.38さんへ。件のIPv6アドレスのユーザーさんの返答は、「可能な限り」という文字列だけを太字強調しつつ「常に」という文字列をそのままにされていますね。今までの編集態度からしても、このIPユーザーさんが非日本語出典を使いたがられている意図が見受けられます。この方の編集が一通り終わった頃(それが今年5月22日か[3]、十数年後か、それとも投稿ブロック後かは分かりませんが)、記事内容を日本語出典に基づく上部分と、非日本語出典に基づく下部分とで、上下に大別すればよろしいかと思います。日本語出典に基づく上層は通常の記事通り記述し、下層は「非日本語出典による情報」とでも節を作ってその中に入れる。そして編集していく中で、非日本語出典の内容とそぐわない誤訳や誤解、曲解や独自研究などが記事にあればその都度修正したり削除する、ということです。--202.162.137.166 2022年6月10日 (金) 12:00 (UTC)

  • 他の箇所は全て引用してるのに太字強調をしただけで個人としての編集態度が全ておかしいというのは深読みしすぎでしょう。誤解を指摘された当該人物にとっては特別で個人的に見えるかもしれませんが一般的にそれによって個人の編集態度全てが間違っているという論理的帰結には無理があると思います。利用者:126.77.0.38 」さんは、むしろ可能な限りという点を引用しないで(それが英語版の翻訳である場合も含めて)外国語の情報源を使うべきでないと主張されており、問題点を改善するために具体的な箇所を聞かれても返答しようとせず、結果として合意形成を拒否しようとする側の姿勢にも疑問が投げかけられるべきでしょう。
  • 元々「利用者:126.77.0.38 」さんはoldid=89603863で「《常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用すべきです》」と太字強調で告知/方針テンプレートの編集をしており、私はそれに対してoldid=89604243で「ウィキペディア日本語版では、可能な限り日本語による情報源を示すべきであり、常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用すべきです。」と編集に加えたという経緯があり、ガイドライン原文から意図的に「可能な限り」を削除した偏向的な編集を修正しなおしたという見解です。
  • 逆にお尋ねしますが利用者:202.162.137.166さんは、ノート:汎心論等では「利用者:126.77.0.38」さんと類似した主張、告知/方針テンプレートを使う同方式同じ相手に対して行っています。ことの発端はノート:汎心論で「利用者:Was a bee」さんのやや強引で攻撃的な主張に対して私が反応したことだと思いますが、「利用者:126.77.0.38」「利用者:雑用部」(利用者:雑用部さんは私のIPにブロックリクエストをしたようですが、運営に無視された模様)さんと同じようなタイミングで、同一の状況を共有しているようにも見えます。あなた(利用者:202.162.137.166)も文脈を「利用者:126.77.0.38」さんと共有してるように見えるので、同一人物なのでは?とも見えます。ただしこれは、あなたのやっている深読みと何らかわりはありません。(「Wikipedia:明白なソックパペットはすぐにわかる」)
  • 最後に「しかし外国語の情報源は、検証可能性や、日本語の情報源と同じ基準に従うという観点では受け入れられます。」「Wikipedia:信頼できる情報源」「Wikipedia:検証可能性」という点についてはお互い従うべきであると合意できるでしょう。--2400:2410:C1A3:5300:4BA1:F38E:E7B8:BADF 2022年6月12日 (日) 01:21 (UTC)