ノート:ロイヤルナイツ (ボーカルグループ)
全面削除を望みます。当事者です。ここを編集することを口実に、私にメールしてきたり私の仲間の前に現れるのは迷惑です。ウェブ辞書としてもここに書いてある大量の記載が適切と思えない。削除してください。
●(上段の投稿者様へ)-「削除依頼」は、この欄に書き込んで成立するものではなく、貴方の依頼手続は完了していません。まず削除の方針を熟読し、「削除の方針#削除対象になるもの」からどのケースに該当するかを選び、「削除依頼#依頼の基本手順」に従って作業を進めることになります。依頼提出が済むと、本欄と「削除依頼/ログ」の両方に案件が載り、最低一週間かけて審議が行われ、合意形成を見て、存続か削除(全削除、版指定削除など諸段階あり)かの最終判断と実行は管理者か削除者が行います。
ただ、その場合、大きな問題があります。それは、貴方が「本物」か「成りすまし」かを見分ける手段も調査権も吾々には無いことです。(Wikipedia内では、チェックユーザー依頼というやや煩雑な方法のみ可能です。あとは裁判所の令状か)。貴方が本物であれば、当然、著作者人格権が発生します。引用等は著作権の範囲内でも、人格権には「著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を利用する行為は、その著作者人格権を侵害する行為とみなす」(著作権法第113条第6項)という規定があります。煙草を吸わない作曲家がJTのCMで自分の楽曲を使わせない権利の法的根拠となるものです。従って貴方も「このような場所でこのように使われたくない」と主張できます。しかしそれは、あくまで貴方が本物さんであれば、の話。「成りすまし」であればこの限りではありません。(それどころか、悪質行為としてアカウント無期限停止が相場です)。著作者人格権は、著作権と異なり、譲渡も相続もできません。駆使できるのは本物さんただ一人だけです。
ですから、正式に削除依頼を出されても、確率100%で本物という前提で議論を進め、万が一、後で成りすましと判明した場合、合意形成者全員が「詐欺に引っかかりやすい人間」という汚名を被ることになりかねません。もし貴方が本物であれば失礼な話ですが、決め手が無い以上、仕方ありません。
Wikipediaには、「記事にされた人物」が記事内容に異議申し立てのできるE-mail受付窓口がありますが(「連絡先/記事の問題/本人より」参照)、ここにも「第三者による成りすましを防止するため、Webメールではなく所属団体のメールアドレスをご使用下さい」という規定があります。今の本物さんには、それは難しいですね。(節目節目の御挨拶が必要だった理由、これでやっとお分かり頂けましたか? 個人レベルでも「あの書き込みは違う」などの連絡を容易にするための方便でした。色々と煩わしかったでしょうが)--AlexisMikaJapan(会話) 2023年4月18日 (火) 07:05 (UTC)
●それでは、まず、本物、万が一の成りすまし、両方の場合に対応できるよう、落とし所を探って行きましょう。私が今後「山下健二の文章から」に追加書き込みをしない条件で、今あるものについて。「全削除」の要請ですが、核心は「山下健二の文章から」だと読んでいます。貴方が本物さんであれば、著作者人格権を最大限尊重したいと思いますが、それでも私の個人的意見としては「存続」を望みます。なぜなら、まさにここがWikipediaだからです。即ち、今後もメインページのメンバー経歴やロイヤル活動記録を編集する人がいくらでも出て来ます。その際、ここに挙げた過去の文章を出典として使う人もあるかも知れません。その時、誤植誤記があることを知らずに引用が為されれば、誤情報がどんどん一人歩きを始めることになります。ですから、ノートページにこれを置くことこそが、投稿者の便宜と今後のメインページの質向上に有益なのです。(尚「新旧『ソフィアの歌』」のように、別項目に書いてもおかしくない記事もできましたが、『NHKラジオ ロシア語講座』の一部エッセイの文脈理解補助のために、敢てくっつけてノートページに置きました)。
もし議論が平行線をたどれば、司法判断を仰ぐことになります。その場合、貴方が原告、Wikipediaか私が被告ですね。著作者人格権は有利に働くと思いますが、「第113条第6項には該当しない」「正誤表を作成し公表する権利は妨げられない」などの司法判断が示される可能性もありますので、油断は禁物です。しかも貴方の側にも、誤植を長きに亘り放ったらかしていたという「不作為」がありますから、全面勝訴は厳しいかも知れません。
尚、別の理由、-例えば、「恥ずかしいから」過去の文章を非公開としたい、引用もされたくない、という場合は、Wikipediaだけの問題ではありませんから、本物さんが独自に司法手続をするしかありません。古新聞を見るな、とも言えませんから、一度公表したものはかなり難しいかも知れませんが、何かしら抜け道はあるかも知れません。詳しくは弁護士さんに。
それから、ノートページへの投稿には署名が必要です。英字ハイフン2本波型4本で、アカウント名と投稿年月日・時刻(UTC=JSTひく9時間)が簡単に表示されます。--AlexisMikaJapan(会話) 2023年4月18日 (火) 07:05 (UTC)
◎削除依頼確認致しました。第3者の判定を待つこととし、追加の書き込みを休止致します。//冒頭から「解散は1978年か、1979年か?」までは、日付などから分かる通り、本文を書く(書き換える)に当たり、「根拠なく勝手に書き換えたのでは、以前に記事を作成した人が納得しない」との原則に拠り、馬鹿丁寧かも知れませんが、一々書き込んでおいたものです。//「山下健二の文章から」の大量の「正誤表」は、大いに気に障ったかも知れませんが、決して嫌がらせのつもりで書いたのではありません。まず、この表がなければ、山下氏が過去にこれだけの文章を発表している事実自体が伝わらない。そして「正誤表」がなければ、誤情報がそのまま引用されて一人歩きを始めるリスクもあり、これだけの貴重な記録を活かすことができない。それゆえ正誤訂正されない文章は、結局、「自然法則」で打ち棄てられ忘れ去られるだけです。//メールが御迷惑でしたら、ここにお詫びし、今後は二度と送りません。(但し私としては、無断で間違った内容を書くリスクを避けるためには、御挨拶は必要かと思っていましたが。)ただ、昔の仲間から昔話を聞くことがなぜ迷惑なのかは今一つ腑に落ちませんが、「気に障るから」ということであれば、今後はWikiの編集は無期限休止致しましょう。--AlexisMikaJapan(会話) 2023年4月16日 (日) 00:58 (UTC)
◎(追伸)もし「『この先』の正誤表を作られたくない」というのが本音であれば(行間からの類推です)、応じましょう。今日から追加書き込みは無期限休止です。「歌と私」が途中ですが、この項目も書いて行くうちにかなり重くなりました。「今月の歌」の詳説自体は別記事に書くか移動するかが適切なのだろうか、と思っていたところです。--AlexisMikaJapan(会話) 2023年4月16日 (日) 02:16 (UTC)
◎(追伸2)私の側のメール送信記録はすべて保存してありますので、それを警察に提出してもいいですよ。その上で、内容・頻度共に常軌を逸するものか、それとも単なる社会的儀礼の範囲内かを第3者に判定していただきましょう。--AlexisMikaJapan(会話) 2023年4月16日 (日) 03:28 (UTC)
- はじめまして。
- ロイヤルナイツの歴史を、ソ連公演を含めた昭和40年代(1960年代半ば~1970年代半ば)で深掘りしていくと、今のWikipediaのメンバー変遷表には相当問題があります。
- (1)実際には、山下健二は2代目セカンドテナー、勝山邦夫は2代目バリトンで、その後で勝山‐山下の入れ替えが為されるのですが、その場合、勝山は「2代目」セカンドテナーではなく、「3代目」と書き換えねばなりません。バリトンの山下・牧野の数字も同様です。
- 山下が最初セカンドテナーであったことの根拠は、(a)YouTubeにアップされている初期ソ連公演の画像が、(向かって左から)くすのせ・山下・舟田(勝)・佐々木の順に並んでおり、山下の声のピッチも高いこと。(b)ソ連の現地録音レコード(レーベル「メロディア」)のジャケットに、1968年のLP(Д23631-2)では(向かって左から)松川・山下・舟田(勝)・佐々木の順に並んだ写真が、1970年のLP(Д028407-08)では松川・山下・勝山・佐々木の順に並んだ肖像画が使われていること。また、『音楽の友』1967年4月号にロイヤルナイツのソ連公演旅行の特集があるのですが(現在、国立国会図書館からコピーが届くのを待っています)それを見ても、この時山下がセカンドテナーであったことは恐らく一目瞭然でしょう(目次の名前の並びから推測できます)。
- 勝山が最初バリトンであったことの根拠は、上記の1970年のLPの肖像画、およびジャケットの記事からわかります。ケンジ・ヤマシタ‐第2テノール、クニオ・カツヤマ‐バリトンとロシア語で明記されている上、音を再生すると「バリトンの勝山」「セカンドテナーの山下」らしき声が随所に聞こえるからです。
- 1972年の現地録音では、「バリトンに移ったばかりの山下」らしきソロがあり、1973年にはセカンドテナー勝山・バリトン山下で活動している記録が日本のあちこちに残っていますから、1971年頃(もっと幅を持たせれば、1970年後半~1972年前半)に勝山と山下の入れ替えが為されたことになります。
- こう考えると、舟田勝の脱退時期など、すべて辻褄が合います。
- (2)牧野俊浩の加入時期について。1974年は、1975年の間違いです。根拠は、(a)1975年のソ連公演で、モスクワ・オスタンキノテレビで収録された画像が、旧ソ連ゴステレラジオフォンドの公式チャンネルから収録年入りでYouTubeにアップされているが(公開2019年8月1日以降)、歌っているのは松川・勝山・山下・佐々木の四人である。(曲は全部日本語の『恋のバカンス』Каникулы любви) (b)日本コロムビアのLP『ロシア民謡、凍れる大地からの歌』(GZ-7034)の収録は、1975年7月4・6・12日に、山下も参加して行なわれている。そして同年11月19・20日、12月16日に、新メンバー牧野を迎え、同社のLP『宵待草・初恋』(GZ-7040)の収録が為されている。
- よって、山下→牧野の交代時期は、1975年の晩夏~秋に為されたと見るのが妥当です。
- 最初にこれらの数字を書き込まれた皆様、もし、しばらく待っても何の反論もなければ、この箇所の書き換えを致します。
- 「外部リンク」に「所属事務所のプロフィールページ」を書き込まれた方へ。ここは、既に not found 扱いになっています。これ以上このリンクURLを置いといても無駄です。もし、しばらく待っても反論が無ければ、私の責任で削除致します。--AlexisMikaJapan(会話) 2020年6月26日 (金) 15:00 (UTC)
- --AlexisMikaJapan(会話) 2020年7月4日 (土) 02:50 (UTC)新聞データベース(今回は日本の)により、ロイヤルナイツ初期訪ソの日程などを調べたところ、レコード録音・販売の時期、同行・共演者の年度などに大幅な修正が生じました。これから気を入れて書き直します。それから、日本の新聞ではほとんどが「ロイヤル・ナイツ」とドット入りで表記されているので、この方が検索ヒット率が上がります。
- 中華人民共和国の成立は、戦後の第二次国共内戦を経て、ようやく1949(昭和24)年のことです。しかも山下健二さんは1937(昭和12)年の生まれですから、「中華人民共和国」とするのは育った時代の生活感覚と合わないでしょう。「旧・滿洲國」という表記と「満州国」へのリンクについては、-中華人民共和国が「満洲」という呼び方を嫌い、「偽満」という呼称を使っていることは承知しております。が、戦前の国民党政府が1933(昭和8)年に塘沽(タングー)停戦協定により満州国黙認に入ったこと、日本では今日でも満州国という呼称の方がわかりやすいことなどを総合的に勘案し、この表記とリンクを採用いたしました。
- 尚、Wikipedia には「中国東北部」という項目もありますが、「この記事には複数の問題があります。…/出典がまったく示されていないか不十分です。…/独自研究が含まれている恐れがあります。」ということでしたので、この記事へのリンクには不採用といたしました。--AlexisMikaJapan(会話) 2020年8月29日 (土) 08:43 (UTC)--AlexisMikaJapan(会話) 2020年8月30日 (日) 08:10 (UTC)
昔の日本の歌の手掛かり
[編集]- --AlexisMikaJapan(会話) 2020年7月19日 (日) 01:51 (UTC)今では検索困難となっている日本の歌について、手掛かりの見つかったものから記入して行きます。日本のレコード販売目録では、昭和後期まではリリース年を西暦でなく昭和で表記している会社が多いので、西暦と昭和(元号)を併記します。また、日本のレコードでは作者は作詩者‐作曲者の順に印刷されますが、メロディアでは逆で、作曲者‐作詩者の順なので、ここではその順で書きます。
1972年(第5回)ソ連公演での「作曲家ヤン・フレンケリとの出会い」について(リアルタイム資料入手)
[編集]- --AlexisMikaJapan(会話) 2020年10月4日 (日) 09:32 (UTC)―この出会いについては、日本コロムビアのシングルCD『つる』(CODA-8784、1991年8月発売)のライナーノーツだけを頼りに文章を書き上げました。この公演では日本の新聞記事が全く見つからないので(ソ連の『イズベスチヤ』(ロシア語)は、現在「日本ロシア語情報図書館」(東京・世田谷)が新型コロナ対策で休館中なので、見ることができません)、このライナーノーツは貴重な情報でした。「第5回」が「1972年」で、4月を含む。…この手掛かりが記されているだけで、ソ連公演の歴史に光が差してきます。
- ところが先週、別のリアルタイム資料を入手いたしました。『今日のソ連邦』-覚えている方もおいででしょうか? 昔、東京のソ連大使館広報部が月2回発行していた、日本語によるPR誌です。大判で写真もふんだんに使われ(1970年代は既に表紙はカラーでした)、日本語もまともだし、冷戦時代で日本のメディアがあまり取り上げない国境線の向こう側の様子に思いを馳せるのには、薄い割には相当中身が濃く、結構新鮮なものでした。
- その『今日のソ連邦』1972年8月1日号に、「ロイヤル・ナイツ、5回目のソ連公演」という記事があります。署名入りで、筆者は滋賀朱実さん、当時のマネジャーです。それによると、この第5回公演は1972年4月-5月(ハバロフスクから始まり、モスクワは最終日程)、そしてモスクワで初めてフレンケリ氏と出会ったのは5月23日となっています。
- どちらを採用するか? 私は、リアルタイムの記事の方に軍配を上げたいと思います。皆さん、19年前の出来事をいきなり書け、と言われて、何から何まですぐ正確に思い出せますか? メモや手帳・資料がすぐ出て来ますか? しかもロイヤルの四人は、9年余りも(ロイヤルの解散も1978年ではなく1979年の可能性があります。ウラが取れたらまたここに書きます)、ロイヤルの再デビューなど夢にもあり得ない、という意識の中でずっと生きており、その日々の中で、箱詰めになった過去の記録が、価値あるものとして認識されないまま、押入れか物置の奥にどんどん追いやられてゆき、いざという時すぐに出て来ない、...あり得ますね。加えて再結成後は、記憶力抜群の知恵袋・滋賀さんもロイヤルの仕事には関わっていません。(ロイヤルの皆様、もし間違っていたらゴメンナサイ。)
- もちろん、リアルタイムでも間違うことはあります。記者が急いで書いた新聞記事などは、間違いを0%にはできません。が、この記事は、見開き1ページ(数字にすると2ページ)をたっぷり使い、当事者が内容を練り上げたものです。
- 尚、場所が、『つる』のライナーノーツでは「モスクワ中央文化人会館」、『今日のソ連邦』では「モスクワの「芸術家の家」」となっていますが、これは同じものです。ロシア語の дом(ドーム) には「住居としての家」と「~会館」の二通りの意味があります。単なる訳語の問題です。
- しばらく待って、もし異論が無ければ、本文に大幅に手を加えます。
解散は1978年か、1979年か?
[編集]- 日本経済新聞(夕刊・東京本社版)1989年9月22日・第12面「ただいま制作中 ロイヤル・ナイツ 別々の道、10年ぶり合流」では、「七八年にいったん解散したが、熱心なファンの声援で十年ぶりに復活、近く今年二回目のコンサートを開く」とあります。78年解散説の根拠です。
- が、「ロイヤルの解散さよなら公演は、1979年12月24・25日の二日間、東京・日比谷のエスパースジロー。明けて1980年正月、世話になった関係者を100人ほど招待して謝恩会を開く」という当事者証言があります。「エスパースジロー」とは、東京・日比谷の東宝ツインタワービル地階にあった、パブレストランを備えたサロンコンサート会場で、客席数は約100席。1985年12月に閉店しています。
- 1978年・1979年の同時期の『ぴあ』を調べましたが、どちらにも記載がありません。『ぴあ』のコンサート情報は、独自取材ではなく、掲載申込のあった情報を無料ですべて載せるシステムでした。これは音楽に限らず、映画・演劇・美術展・講演イベント共通の仕組みです。即ち、申込さえすればどんな零細企画でも必ず載る。逆に、掲載申込をしなければ全く載らない。
- 可能性は2つに1つです。
- 1)1978年が正しい。1979年は思い違い。
- 2)1979年が正しい。-その場合、1978年という数字はどこから出てきたのでしょうか? ロイヤル復活の第一報は、朝日新聞(夕刊・東京本社版)1988年1月23日・第2面に載りました。「人きのうきょう 姉妹で口説き落とし実力カルテット復活」 この記事では「…十年前に解散した男性ボーカル・カルテット「ロイヤル・ナイツ」を再出発させた…姉妹プロデューサーの弁」と書かれ、再デビューコンサートが2月3日・有楽町朝日ホール(東京)と報じられています。
- 実はロイヤル解散時の状況は、残念ながら、当時の新聞や雑誌では全く取り上げられませんでした。それゆえ大手新聞社のデータベースにも全く解散時のデータが無く、「1988年の10年前だから、1978年だろう」という数字が独り歩きを始めた可能性はあります。
- あとは、どう条件を絞り込むか、です。a)当時のプログラム(200部プラス予備しか無い!)。b)当時のエスパースジローの業務日誌など(もし誰かが保管していれば)。c)コンサート当日は日比谷交差点まで行列ができたそうなので、それを報じた地元ミニコミ誌(千代田区・日比谷地区~中央区・銀座地区)、新聞地方版、地元企業が偶々その様子を載せた社内広報誌など、もしあれば。このうち a),b)は、誰もが閲覧できる条件が整っていないと(プログラムであれば「国立国会図書館・蘆原英了コレクション」の如く) Wikipedia の出典として使うのは難しいのですが、ノートレベルでの絞り込みの有力材料にはなります。あとは d)1979年に、解散後の臨時編成ではなく、現役のコーラスグループとして活発に仕事を行っていた記録がまとまって存在していれば、1979年説の裏付けになります。『ぴあ』も、ゲストに招かれて歌う場合は、先方の主催者が掲載申込をしていれば、載っている可能性があります。
- 年代考証はかくも難しい。『ロイヤル・ナイツ年鑑』が欲しいところです。--AlexisMikaJapan(会話) 2020年11月8日 (日) 08:44 (UTC)
山下健二の文章から
[編集]山下健二(ニキータ山下)氏の公表した文章は意外と多く、ロイヤルナイツのメンバーでは群を抜いています。特に1990年代中盤以降は、日本語がぐっと洗練されて来て、かつて日本語を忘れて大変苦労されたという前歴が嘘のようです。但し、数字や年号などに若干の誤植が見られ、そのまま引用文献として使うには難がありますので、ここに正誤表を含めた一覧表を作成致します。(正誤訂正は、出版社・新聞社が正式発表した正誤表や訂正記事ではなく、あくまで引用者の知識と調査に基づくものであることをお断りしておきます。)--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月4日 (金) 12:06 (UTC)
「二十八年組大地の子」(『日刊木材新聞』 1996年4月~12月)
[編集]「山下健二」名義。『日刊木材新聞』(日刊木材新聞社)に、1996(平成8)年4月24日~12月25日にかけて全33回の連載。
回 | 日付 | 頁 | サブタイトル | 概要 | 誤→正 |
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◎ロイヤルナイツへの直接的言及のある記事は、サブタイトルの末尾に記号(※)を付けてあります。 | |||||
1 | 4月24日(水) | 6 | 3月5日、曇天 | (筆者略歴あり) 戦後の満洲では、白系ロシア人を妻とする日本人は中々帰国できなかった。が、1953(昭和28)年3月5日、スターリン死去。同年7月、突然帰国許可が出る。この8年間 ― ロシア語しか使わない歳月。日本人の父は中国人の工場に住み込みで働き、月に2∼3度しか帰宅しない。ソ連軍、次いで八路軍の駐留で、ハルビンの白系ロシア人たちは、次第に何かに怯えたように小声でしか物を話さなくなっていた。 |
(筆者略歴)&(本文) ソ連第二中学校→ソ連第三中学校[注釈 1][注釈 2] (本文) 日系ロシア人→白系ロシア人 |
2 | 5月2日(木) | 6 | 新生中国の歓待 | ハルビンから上海へ向かう全15輌の板張り三等列車[注釈 3]はしょっちゅう停車し、錦州ではその先が洪水になり2週間も止まった。 上海到着は約1ヵ月後。が、出港までの1週間の中国赤十字による歓待と至れり尽くせりのサービス、御馳走は天国のようだった。 | |
3 | 5月9日(木) | 6 | ハルビン | ハルビン建都史、東清鉄道・満鉄概史。そして、満鉄で働くために九州からハルビンへやって来た父。 | 長崎高専→(「長崎高商」か) (旧学制では「長崎高専」という名称の学校は存在しない。「長崎高商の誤植」と解釈すれば、父がハルビンの満鉄で経理部にいた[3]こととも矛盾しない。) |
4 | 5月16日(木) | 6 | 満鉄 | 敗戦直前、父と訪れた満鉄の倉庫。が配布された物資も、米は世話になった中国人たちに贈って忽ち底を尽き、トラックは居候を決め込んだソ連軍大尉に接収される。3日間の自由行動を許されたソ連兵の乱暴狼藉ぶりは目に余り、今度は兵士の外出禁止令が出される。父は中国人宅に匿われソ連による不当逮捕を免れた。母は、山下と妹に外での日本語使用を固く禁じる。 | |
5 | 5月24日(金) | 6 | 母国語はロシア語?(※) | 東京五輪の女子バレー決勝では、鈴木文弥アナの1段下の席で、NHKラジオ・ジャパンのロシア語生中継実況放送を務めた。 それに引きかえ、日本語の失敗譚の数々よ。 母国語は何語? 本当に分からない。夢の中でもロシア語と日本語がごちゃまぜに出てくるのだから。 |
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6 | 6月4日(火) | 6 | 白山丸の人々[注釈 4] | 1953(昭和28)年9月、上海→舞鶴の引揚船・白山丸に乗り合わせた、「父が日本人、母がロシア人」の少年少女たち。多くはその後の人生でも再会、交流が続く[注釈 5]。 | ◎「昭和二十八年九月九日、ハルビンからの最後の引揚者を乗せた白山丸は、静かに上海の岸壁を離れる。」→当時の新聞によると、9月9日は白山丸の舞鶴港入港の日付[5]。上海出港は同月6日[9]。 ◎「H君の一番上のお兄さんは現在、某有名大学の体育部教授をしておられるが、」→サンボのビクトル古賀のことだが、ビクトルは拘束を嫌い、東海大でも講師より上の役職に就いたことはない[10]。 |
7 | 6月13日(木) | 6 | 日本、そして中学編入 | 1953(昭和28)年9月、上海出港3日後に白山丸は舞鶴港着。逗子の伯父宅で暫く世話になった後、横浜駅近くの岡野町福祉会館に引越す。高校1年の年齢で、父は名門・横浜平沼高への編入を強く望んだが、日本語をすっかり忘れていたため、岡野中2年に編入。国語の先生から漢和辞典を贈られ「1日1頁新聞を書き写し、わからない漢字はその日のうちに覚える」ことを薦められる。 | |
8 | 6月21日(金) | 6 | 再会 | 両親が渋谷・恋文横町のロシア料理店[注釈 6]に住み込みで働くことになり、店の屋根裏部屋に引越し、区立松濤中に転校。高校入試に向け、朝の4時、5時までの勉強が毎日続く。父は東大級の国立大進学を望み、従って高校も戸山・新宿クラスの名門校[注釈 7]を望んだ。 その7年後、1961(昭和36)年夏、東京・晴海で開かれたソ連邦見本市に、昭和28年引揚組の若者たちが通訳として集められ、思いがけない再会を果たす。 |
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9 | 6月29日(土) | 6 | 芸大入学 | 名門・都立新宿高に落ち、第二志望で入った都立桜町高校。が、ここから、東京芸大声楽科への道が開ける。音楽の矢野先生が、生徒を芸大に送り込むのに熱心だった。先生の紹介状で畑中良輔のレッスンが始まる。練習には放課後の音楽室を夜遅くまで使わせて貰えた。一浪の末合格、1959(昭和34)年芸大入学。 | ◎「第一志望校に入れる八科目の総合点数が三十点足りなかった」→(当時の都立高校入試科目は9科目・900点満点。[注釈 8]) ◎「自分はもう十八歳になっている」→十七歳に ◎「九月生まれだから二学期には十九歳になってしまう」→十八歳に ◎「(芸大)美術学部の建築科は東大の建築科より競争率が高く、四十倍に達することも稀ではない。」→芸大は高卒者の直接応募だが、東大の建築科(工学部)は進学振り分け制度(大学入学者のみが、2年間の教養課程を経て志願できる)に拠っているので、倍率の単純な比較はできない。 |
10 | 7月6日(土) | 6 | 運命の糸(※) | 昭和28年引揚組で、やがて北洋材のエキスパートとなる、松野ゲオルギーと松坂秀一[注釈 9]。2人がまだ安宅産業のアルバイト社員だった1968(昭和43)年、ナホトカで安宅・大洋漁業共催の水産見本市が開かれ、安宅がホテル代りにチャーターしてナホトカ港に停泊させていた客船「トルクメニア号」に、東欧・ソ連公演のロイヤルナイツ一行も暫く滞在し、パーティーなどで歌った。この船には松坂も乗り合わせる。 松野と松坂は、翌1969(昭和44)年に揃って安宅の正社員に採用された。 |
◎「…第二東洋丸がソ連材をはじめて日本の港(清水港)に運んだ昭和二十九年から…」→「…第二東洋丸がソ連材を戦後はじめて…」 ◎「市川社長を団長とするこの見本市は…」→市川政夫の安宅社長就任は、見本市の翌年の1969年11月。 ◎「…ロイヤル・ナイツの一行も…「トルクメニア号」に二週間寝泊りして、見本市の開閉会式や…パーティー等で演奏会を開いてお祝いをした。」→見本市の会期は1968年5月22日[14]~31日[15]。字義通りに取ると、ルーマニア公演に間に合っていないことになる[注釈 10]。 |
11 | 7月11日(木) | 6 | トライ・アンド・エラー(※) | ロイヤルナイツからのスカウトと、ソ連演奏旅行の開始。円に両替できないルーブルを生かすために絞った知恵。1967年冬、チェチェンの首都グローズヌイでの失敗譚。 | (サブタイトル)→和製英語と割り切るのならばよいが、英語では「トライアル・アンド・エラー」が普通。 |
12 | 7月20日(土) | 6 | 仲間意識 | 昭和28年引揚組の「連帯感」の光と影。女子の中には、仲間の男子が日本女性と付き合うことをひどく嫌いながら、自分は突然米軍キャンプに足繫く通い始め、米国人と結婚してしまう者がかなりあった。日本の商社で努力を続ける男子とは対照的である。 | |
13 | 7月31日(水) | 6 | 二転三転(※) | 1974(昭和49)年秋、安宅産業のY[注釈 11]から、工作機械に関する怪し気な日ソ合弁事業話に熱心に誘われ、つい乗ってしまう。が、翌1975(昭和50)年、1月~3月の[注釈 12]ロイヤルのソ連公演[注釈 13]から帰ると「この話はなかったことにして下さい」。新メンバー[注釈 14]を迎えたロイヤルナイツに戻る場所はない。途方に暮れ職探しをし、見つかった就職先は、中村曜子率いる「月光荘」だった ー | 「年が明けた一月の末にロイヤル・ナイツにソ連から八度目の演奏旅行の招待状が届く。」→1975年の演奏旅行は、ソ連公演のみで数えると六度目。東欧公演を入れても七度目。 |
14 | 8月10日(土) | 6 | 月光荘 | ソ連絵画で頭角を現した月光荘・中村曜子社長は、日ソ双方の大物に顔が利くと専らの噂だったが、自己過信によるワンマン経営体質を強めてゆく。絵画の利潤を元手に立ち上げた2事業のうち、ソ連旅行代理店は大赤字続きで閉鎖、貿易商社「ルナ・トレーディング」も、日本国内の営業力がないので、ソ連から輸入したモノを口銭ベースで他商社に引き渡すしかない状況だった[注釈 15]。 | 安宅栄一 →安宅英一 |
15 | 8月27日(火) | 6 | 親愛なる我が先輩 | 「ルナ」の社難は続く。木材運搬船が日本海の真ん中で転覆し乗組員全員死亡、北海道の沿岸地域など周辺では大規模な流木事故に。三井物産から三顧の礼を以て迎えた臼杵社長も末期癌に斃れる。素晴らしいお人柄だったが「ルナへ行かなければ、あれほど早く死なずに済んだのに」とも言われた。 | ◎臼杵克朗→臼杵喝郎[18] ◎「青山斎場で、…」→訃報では「新宿区の千日谷会堂」[18]。(但し予定報道は変更の場合もあるので要検証。) |
16 | 9月5日(木) | 6 | プッシャーバージ | ソ連考案の大型木材輸送船「プッシャー・バージ」が日ソ双方で不評の理由。そして今でも、老朽運搬船を改良もせずに使い続けるロシア。これも共産党支配の後遺症か。木材の品質は言わずもがな。 | 老旧化→老朽化 |
17 | 9月14日(土) | 6 | ヴラジーミル・イワノヴィチ | 【GRUのスパイに仕立て上げられそうになる話(1)】1960(昭和35)年、大学2年の夏、ジェトロ主催の日本産業見本市[注釈 16]の通訳として、初めてモスクワを訪れる。手当も良く、飛行機の旅も自分のパスポートも初めて、パリでモスクワ行きの便を待つ間の滞在費[注釈 17]まで出るという、胸のときめく話である。料理人の出井宏和(銀座の関西割烹「出井(いづい)」の二代目)、通訳の早大生N[注釈 18]らが一緒だった。 モスクワ到着の数日後、Nから「ロシアの友人」との夕食に誘われ、外務省のヴラジーミル・イワノヴィチなる、姓を決して明かさない男を紹介された。V.I.に「何か困ったことはないか」と聞かれ、帰国後のピアノの試験が心配だと話すと、ピアノのある家に案内すると請け合った。コニャック[注釈 19]をしこたま飲まされ、翌朝はホテルの床の上で目を覚ます。 |
「二学期にピアノの試験が」→(芸大は3学期制ではなく、前期後期の2学期制なので、「夏休み明けに」の意味か。) |
18 | 9月26日(木) | 6 | ピアノ、食事で饗応 | 【GRU(2)】翌日、仕事の終わる頃、V.I.が運転手つきのパベーダで迎えに来て、「親戚」の老婦人の住む立派なアパートに案内された。が、グランドピアノでの練習を終えると、V.I.は「一緒に夕食でも」と言い出す。一旦は断るが、相手は「君のことが好きになった。モスクワ滞在をできるだけ楽しんで欲しいのだ」と引き下がらない。フロント以外の三方をカーテンで覆われた車で、サドーヴォエ環状道路を一回りしたあと、ベルリンホテルのレストランでフルコースを奢られ、その席でつい個人的事情も色々と話してしまう。そのピアノと豪華な食事の「儀式」は1日おきに続き、何かウラがあるのでは、という不安も時折胸をよぎるが… | ソユリニキ公園 →ソコリニキ公園 |
19 | 10月5日(土) | 6 | 誓約書 | 【GRU(3)】見本市の会期末も近いある日、V.I.からホテルモスクワのスイートルームの内輪のパーティーに誘われる。V.I.と先客が6~7名おり、テーブル一杯に御馳走が、サイドテーブルには見たこともない高級酒の壜がずらりと並ぶ。一瞬逃げ出そうかと思うが、V.I.は「みんな君の友達だ。大いに食べて飲もう」とシャンペングラスを差し出してくる。御馳走とアルコール、周囲の親切そうなお世辞に、こちらは次第に相手の思う壺の思考停止状態に陥ってゆく。遂には酩酊状態でボールペンと紙を持たされ、周囲の言うがままに「あなた方の事は生涯忘れません。…わたし、ケンジ・ヤマシタは、生涯ソ連邦の友人として振る舞います」と書く。あっ、と思ったが、一瞬後にはV.I.が紙を取り上げていた。次いで日本製の茶封筒を10枚渡され、言われるがままに日本の自宅住所[注釈 20]を書き込む。 | |
20 | 10月15日(火) | 6 | 罠 | 【GRU(4)】翌日、指示された通りに、ソヴェツカヤホテル(党幹部専用で、外国人は入れない[22])の部屋を訪ねる。出迎えた白髪の紳士は「おめでとうございます。あなたはわが国の防諜機関の一員になりました」と言い、上着の胸ポケットから一枚の写真を取り出してこちらに見せた。写っているのは、何と、6月に日本で安保反対デモに参加した自分の姿だった[注釈 21] ー | ◎六月十三日→六月十日 (ハガチー事件でデモ隊が羽田空港に及んだのは6月10日の出来事。) ◎暗号→合言葉 |
21 | 10月22日(火) | 6 | 執拗なる追跡 | 【GRU(5)】恐怖で一杯になって宿舎のホテルに引き返すと、山下は真っ先に出井の部屋へ行き、今までの状況を話した。出井は、バスタブの蛇口を回して水道の音を勢いよく立てながら耳を傾けてくれた[注釈 22]。とにかく予定通り2日後に帰国するしかなかった。 3ヵ月後、恐れていた最初の封筒が届く。コンサートの切符が1枚だけ入っている。会場の前で合言葉を交わし、相手が指示を与えることになっていた[注釈 23]。が、母は「絶対に行かせません!!」と切符をゴミ箱に捨てた。その後に届いた封筒も母が開けずに破り捨てていた。 芸大卒業直後の1963(昭和38)年4月、別の見本市の通訳の仕事で訪ソする[注釈 24][注釈 25]。モスクワでV.I.を見かけるが無視する。が、その後、思わぬ嫌がらせが… |
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22 | 10月29日(火) | 6 | ホテル「アストリア」 | 【報復(1)】モスクワ・ゴリキー公園での見本市が閉幕する頃、別の合同視察団が到着し、モスクワ→レニングラードと随行する。レニングラードのホテル「アストリア」で事件は起こる。2つの客室の間に共用浴室が1つあり、片方が使う時はもう片方が鍵をかけておくルールなのだが、その日帰ると、なぜか向こう側の扉が開けっ放しになっていた。シャワーを浴び、寝ようとした所へ電話が鳴る。浴室の向こうの隣室の女性からで「珍しいワインがあるので一緒に飲みませんか」- 妙だと思いつつ、ネクタイを締め直し、浴室を通って隣室へ。 | エセーニンの縊死はアストリアではなく、隣接するアングレテール・ホテル。 |
23 | 11月7日(木) | 6 | 謎の女 | 【報復(2)】妙齢の美女は、ワインを飲みながら、同情を引きそうな身の上話(実は作り話)を始める。そして彼女が「もっとこっちへ来て」と誘惑モードになった途端、部屋の扉が開き、屈強な男が入って来て、美女に平手打ちをする。「夫」と名乗ったその男は、「妻の浮気には辟易していたが、あなたのおかげで離婚訴訟の証拠ができました」と奇妙な挨拶をした。支配人が呼ばれ、部屋に侵入した由の調書[注釈 26]が取られる。それが当局に回り、滞在ビザは有効期限の2週間前に打ち切られた。 | KGB→GRU |
24 | 11月14日(木) | 6 | 演奏旅行(※) | 最初のソ連公演から、各地で国賓級の待遇で迎えられ、大喝采を浴びたロイヤルナイツ。超満員の会場。社会主義体制下でも音楽を楽しむロシアの人々。 そして「光よりも速い」と言われる、ロシア人の「くちコミ」の速さ。第1回公演では、キエフ公演の評判は、一行よりも先に次のレニングラードに届いていた。第3回公演で、リヴォフの空港でレニングラード行きの便が飛ばず足止めされた時は、遠くの滑走路では戦車や軍用トラックを積んだ輸送機が次々と離陸している。ソ連では全く報道されないのに、周囲のロシア人たちは、明日チェコ事件が起こることを知っていた。 第1回公演では、横浜発ナホトカ行きの客船バイカル号に、レニングラードのシゾフ市長も乗り合わせていた。そしてレニングラードで再会し、ロイヤルの歌にすっかり感激した市長は、次のモスクワ公演を1日遅らせて、一行を市の迎賓館に招待した。初めて体験する、革命前の貴族社会そのままの室内風景。町角で行列に根気強く並ぶ庶民とは何たる隔たりであろう。 |
プラハの春→(「プラハの春」は、チェコスロバキアに於ける改革の1968年1月の始まりから同年8月のワルシャワ条約機構軍の介入による頓挫までを総称する言葉だが、8月の軍事介入のみを扱うのであれば「チェコ事件」の方が分り易い。) |
25 | 11月19日(火) | 6 | GRUとKGB(※) | ペレストロイカまで続く、ビザをめぐる嫌がらせのあれこれ。 ロイヤルナイツの復活。が、ロイヤルの日航民営化記念欧州公演(1988年2月)では、山下にだけソ連入国許可が下りず、モスクワ公演だけは代わりを立てねばならなかった。 「ルナ」の仕事でモスクワに赴任した1981(昭和56)年も、ビザが下りるまで8ヵ月もかかっている。理由は、山下に逃げられたことを根に持っているGRUと、特に利害関係のないKGBとの確執の結果らしい。元々両者は犬猿の仲なのだが。この時は、ポリヤンスキー駐日大使に相談すると、すぐビザが下りた。がモスクワでは妙な男が現れ、ソ連に協力せねば永遠に入国させない、挙句、世話になっている会社の社長や、ポリヤンスキー大使に関する情報を寄越せとゴネる。 そして1983(昭和58)年、密告によりビザの期限前に帰国させられる[24]。 |
◎その翌一九八七年に→…一九八八年に (有楽町朝日ホールでのロイヤルナイツ復活コンサートは、1988(昭和63)年2月3日[25]。日航民営化記念欧州公演(モスクワ、ロンドン、アムステルダム、パリ)は、この直後の同年2月20日~26日に1都市1公演で開催された[26]。) ◎代わりのエキストラを→代わりを ◎(ポリャンスキー駐日大使の在任期間) 一九七五年から→一九七六年から |
26 | 11月23日(土) | 6 | 退社(※) | 1974(昭和49)年、木村浩の依頼で、ソルジェニーツィン『収容所群島』の数章の下訳を引き受ける。「絶対に極秘」という条件だったが、ソ連当局には筒抜けで、翌1975(昭和50)年1月にソ連公演に出発するロイヤルナイツを横浜港に見送りに来た木村の様子で決定的となる[注釈 27]。果せる哉、帰国後数年間、山下はソ連入国禁止となる。 「ルナ・トレーディング」のモスクワ支店長となって2年後の1983(昭和58)年、ソ連では報道されなかった大韓航空機撃墜事件の日本の新聞記事を訳してロシア人スタッフに伝えたことを運転手に密告され、突然国外退去処分となる(その理由を当人が知るのはずっと後である)。支店長追放という事態にも何ら誠意ある対応を示さない月光荘の経営者に嫌気が差し、成田空港から辞表を郵送した。 |
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27 | 11月27日(水) | 6 | 今は亡き岡田さん | 「ルナ」のモスクワ支店長時代、三井物産モスクワ駐在員事務所にいた岡田隆男。公私共に世話になった上に、監視ストレス下で一緒に飲むにも気の合う仲間だった。その懐かしい人も今は亡い。自身の帰国も近づいたある日、モスクワの宿舎のベッドで冷たくなっていた。 1989年以降、日ソ合弁製材工場建設プロジェクトの翻訳の仕事で、「ルナ」時代以来再び物産の木材部と付き合い始めた時、ここの岡田佳子が隆男の遺児であることを知る。 |
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28 | 12月6日(金) | 6 | 「つる」(※) | 1991年4月、ソ連大統領として公式訪日したゴルバチョフ夫妻の前でロイヤルナイツが歌った『つる(Журавли)』。その決定までの舞台裏。 | ◎「ロイヤル・ナイツが活動を再開するきっかけになったのは、「アルメニア地震被災者救援コンサート」だが、…」→実際の本格的な活動再開は、その約1年前の有楽町朝日ホールでの復活コンサート(1988年2月3日)[25]。アルメニア地震発生は1988年12月7日、ロイヤルナイツによる地震救援コンサートは1989年1月21日、於・日比谷公会堂[27]。 ◎(海部首相とはそのあとの)第七ラウンドの→第六ラウンドの |
29 | 12月11日(水) | 6 | 出会い(※) | 出会いに導かれた人生。 桜町高校の出会いから芸大、そしてロイヤルナイツへ。 山下は1966年4月にロイヤルに加入したが、ほぼ同時期にNHKからノーボスチ通信社東京支局に移った新田実[注釈 28]。バラフタ支局長が新田と共にロイヤルのショーを訪れ、感激してソ連文化省の担当者に推薦したことから、思いもよらない最初のソ連公演が実現する。 ロイヤル時代の「題名のない音楽会」[注釈 29]出演から、この番組の演出家・藤田敏雄のミュージカル[注釈 30][注釈 31]の仕事へ。 この作品の作曲家・シチェドリンとじっくり付き合ったことから、彼の妻プリセツカヤの、当時は非公表の悲惨な体験を色々と聞かされる。そして鉄のカーテン消滅後の1994年、暗い時代を暴いたプリセツカヤの自伝がロシアで刊行され、その日本語訳を山下が担う[注釈 32]。 |
◎半間厳一 →半間巌一 ◎「ノボステ」→「ノボスチ」 (RIAノーボスチの前身。ソ連時代のノーボスチ通信社に関しては「ノーボスチ通信社(ロシア語版)」参照。 |
30 | 12月17日(火) | 6 | 同時通訳 | マルタ会談後の共同記者会見(1989年)など、ゴルバチョフの発言をNHKのスタジオで同時通訳する機会はふえていたが、1991年のソ連8月クーデターの時だけは辟易した。日本時間の午前零時半、解放されモスクワに戻ったばかりのゴ氏の緊急記者会見の生中継がNHK衛星放送で始まる。この時までに他の通訳者はみな逃げてしまい、交代要員のないままたった一人で、1時間半にも及ぶ長丁場をこなすという異常事態で、集中力はとうに限界を超えている。… 以来、同時通訳はなるべく断るようにしている。 |
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31 | 12月19日(木) | 6 | 潑剌としていたエレメーエフ氏 | ソ連時代末期、1990年5月に初めて日ロ(日ソ)木材会議に通訳として参加した時の印象。ソ連側の団長・エレメーエフ林業省次官は、自分だけが改革の何たるかを理解していると言わんばかりの、元気のいい態度だった。実際の現場は、市場経済への移行が始まったばかりの手探り状態で、迷走と混乱の只中にあったのだが。 | |
32 | 12月21日(土) | 6 | 木材会議に思うこと | ロシアの品質管理のレベルは日本市場では通用しない。日ロ木材会議でも毎回同じことが言われる。 が、木材取引がそのために停止された例は聞かない。個々の取引では日本の同業他社が競争相手となるので、会議のような厳しい要求を出せなくなるからか? |
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33 | 12月25日(水) | 6 | されど愛しき大地 | ロシアはどこへ向かうのか? まだ何も見えない。が、ロシア人たちに期待したい。 | 日本で明治維新が進められていた頃の一八六一年に→日本が明治維新前夜の一八六一年に |
(最終回) |
注釈
- ^ 「ニキータ山下氏に聞く」(『遙かなり、わが故郷‐異郷に生きるⅢ』(成文社、2005年4月)所収。詳細後述)では「ソ連第三中学校」(p.6)。本文中の「ノーヴィイ・ゴロト(Новый город)にある」(p.6)、「サマンヌイ地区(Саманный городок、漢字では「沙曼屯」。ハルビンの西郊に位置し、ロシア人が多い)から通える」(p.5)の2条件を満たすものは、第二ではなく第三中学校[1]。
- ^ ソ連中学とは、ソ連の10年制義務教育(当時)の4年生~10年生を対象とする中等教育学校で、戦後のハルビンでは第一から第四までの4校がソ連により作られた。地元の白系ロシア人の子女を対象とし、カリキュラムはすべてソ連式だが、教員は地元の優秀な白系ロシア人ばかりで「伝統的なしっかりした初等・中等教育が行われていたと思います」(山下談)[2]。
- ^ 「ニキータ山下氏に聞く」(『遙かなり、わが故郷‐異郷に生きるⅢ』(成文社、2005年4月)所収。詳細後述)では「無蓋列車」(p.7)。
- ^ この時期の中国からの引揚は「第6次中共引揚」と総称される。引揚船の舞鶴港への入港は、白山丸・白龍丸(上海発[4])が1953年9月9日[5]、高砂丸(大沽(天津市)発[6])が同月6日[7]。
- ^ 後にNHK-TVロシア語講座で、20年近くに亘り共演するローザ姉川も、この時の白山丸に乗り合わせている(第6回)。ローザの姉ナージャ(ナジェージダ)は、ソ連中学で山下と同級生だった[8]。
- ^ 山下はYouTubeのロシア語インタビューで「サモワール」という店名を語っている[11]。当時の地図でも、恋文横丁にロシア料理店「サモワール」があったことは確認できる。「サモワール」はその後、渋谷周辺で数回移転し、2006年に[12]世田谷区池尻に移転。
- ^ 学校群導入以前の第2学区(渋谷区・新宿区・世田谷区・目黒区)では、戸山高校と新宿高校が、都立最難関高校の双璧であった。
- ^ 「保健体育」のような、学力や勉強量が殆ど反映されない科目を無意識のうちにカウントから外していた可能性はあるが、「総合点数」という場合、通常、全科目の合計を発表するのでは?
- ^ アレクサンドル松坂の名で、後にNHK-TVロシア語講座の「今月の歌」を幾つか歌っている。1985(昭和60)年6月『きみの家の屋根 Крыша дома твоего』(トリャコフスキー作詞、アントーノフ作曲)(山下とのデュエット)、同年11月『僕は魔法使い Я работаю волшебником』(オシャーニン作詞、カルマノーフスキー作曲)(ソロ)。[13]
- ^ 最初発表の予定は「5月25日出発、ルーマニア公演が5月29日‐6月9日」[16]、実際が「5月16日出発、5月28日から初めての東欧公演、最初はルーマニアの首都ブカレスト、コングレス・ザール」[17]。
- ^ 原文では実名。ソ連通商代表部の担当者Rも実名。
- ^ 「一月の末に招待状が届く」(第13回)とあるが、横浜港出港は一月(第26回)、帰国後四月一日から(第13回)合弁事業に専念する予定だった。
- ^ 山下にとっては最後のソ連演奏旅行となった。
- ^ 牧野俊浩。
- ^ この時、引き受け手となっていたのが三井物産である(第27回)。
- ^ モスクワ・ソコーリニキ公園で、約百万人の参観者を見込んで[19]盛大に開催された。会期は、同年6月の朝日新聞によると「8月15日から3週間」[19]、同年9月1日の『今日のソ連邦』によると、実際の開会日は8月16日、閉会予定が9月5日[20]。6月時点の報道では「ロシア語通訳を70人ほど雇う予定」[19]。
- ^ 東京-モスクワ間の直通旅客便の開業は、この約7年後の1967(昭和42)年4月[21]。
- ^ 原文では実名。
- ^ ソ連ではコーカサス産の高級ブランデーもコニャック(カニャーク)と言い慣わしていたので、必ずしもフランス産とは限らない。
- ^ この時は杉並区阿佐ヶ谷(第19回)。
- ^ 山下がデモに参加したのは1日だけで、この時機動隊員に警棒で背中を殴られ、翌日以降は動けなかったため、樺美智子死亡事故の起きた6月15日のデモには参加していない(第20回)。
- ^ 山下は出井のことは信頼しており、その後も交流は続く。病床の臼杵喝郎の見舞にも、出井に作ってもらったすっぽん雑炊を毎日運んでいる(第15回)。が、早稲田のNとの縁はこの時限りである(第17回)。
- ^ 合言葉ー相手「(英語で)ここは映画館ですか」 山下「(ロシア語で)いいえ、これはコンサート・ホールです」(第20回)。最初に届いたのは雪村いづみのコンサートの切符だった(第21回)。
- ^ モスクワで開かれた日本精密機器見本市。主催者の日本国際貿易促進協会は、今日では対中国貿易に特化しているが、当時は対ソ経済・技術交流の窓口で、山下はここで嘱託の通訳のアルバイトをしていた(第21回)。
- ^ 山下がNHK国際局に就職するのは、この仕事の後、同年10月である。この時のソ連滞在は、見本市の後の視察団随行も含めると、約4ヵ月に及んだ[23]。
- ^ 原文では「プロトコール」(第23回)。ロシア語では英語にない「調書」の意味もある。
- ^ 木村は、横浜港の大桟橋で、某新聞社のモスクワ特派員に渡してほしいと、「カレンダー」の入った長い筒を山下に手渡していた(第26回)。
- ^ のち東京外国語大学ロシア語科教授。東外大助教授(今の准教授に相当)時代には、NHK-TVロシア語講座の初代講師(1973(昭和48)年度)も務めた[28]。
- ^ 山下は「テレビ朝日の」と書いているが、山下がロイヤルナイツのメンバーとして出演していた時代の局名は、旧称の「NETテレビ」だった。
- ^ 『十二ヶ月のニーナ』[29]。1988年初演、ホリプロ制作[30]。マルシャークの『十二ヶ月』を下敷きにし、藤田敏雄脚本・作詞・演出。ナンバーは、藤田が書いた日本語詞を露訳したものにシチェドリンが作曲し、それに露→日の再訳詞をハメるという手法で作られた[31]。露語スタッフは山下、岡林茱萸(プログラムでは「久美」と誤記)ら。床嶋佳子[32]の女優デビュー作[33]。ロイヤルの松川義昭も出演。
- ^ 『十二ヶ月のニーナ』の制作陣には、最初、若手の合唱指揮者・三澤洋史も参加していた。が、シチェドリンの信頼も厚く、英語で打ち合わせをする様子が、演出家(恐らく藤田)に「頭越し」と妬みを買い、三澤は中途解任された[34]。そのため「オペラには軽すぎ、ミュージカルにしてはかっちりと書かれすぎて重すぎ、が音楽は魅力満載、全体を整理しさえすれば絶対に売れる」(三澤)譜面を軽くするよう助言できるスタッフが誰もいなくなり[35]、この作品は1990年代以降は再演されていない。
- ^ マイヤ・プリセツカヤ著、山下健二・訳『闘う白鳥 マイヤ・プリセツカヤ自伝』(文藝春秋、1996年6月)。ロシア語原題は「私はマイヤ・プリセツカヤ(Я, Майя Плисецкая...)」。
出典
- ^ “Список средних учебных заведений (ハルビンの)中等教育機関一覧” (ロシア語). Мой Харбин わがハルビン(私設サイト) (2014年1月15日). 2022年10月31日閲覧。(2022年10月現在セキュリティ保護なし)
- ^ 「ニキータ山下氏に聞く」(『遙かなり、わが故郷‐異郷に生きるⅢ』(成文社、2005年4月)所収。詳細後述)、p.6。
- ^ 「ニキータ山下氏に聞く」(『遙かなり、わが故郷‐異郷に生きるⅢ』(成文社、2005年4月)所収。詳細後述)、p.5。
- ^ 「白山、白竜丸帰る」朝日新聞(東京本社版夕刊)1953年9月9日・3頁。
- ^ a b 「白山、白龍帰国者」読売新聞・福井版(8頁)、1953年9月10日。
- ^ 「高砂丸 6日舞鶴港入港」読売新聞(夕刊)・1953年9月3日・2頁。
- ^ 「第六次高砂丸の本県関係の帰国者は次の六氏と判り六日舞鶴上陸、十日帰郷することになった」読売新聞・埼玉版(8頁)、1953年9月5日。
- ^ 「ニキータ山下氏に聞く」(『遙かなり、わが故郷‐異郷に生きるⅢ』(成文社、2005年4月)所収。詳細後述)、p.6。
- ^ 「白山・白竜丸の帰還者氏名」朝日新聞・1953(昭和28)年9月7日、東京本社版第2面。
- ^ 石村博子 (2018年11月28日). “「最後のコサック」ビクトル古賀の壮絶人生”. 講談社現代ビジネス. 2022年10月31日閲覧。
- ^ YouTube 「サモワール」への言及は27:32-45。
- ^ “旅に出なくても海外気分が高まる空間。どこか懐かしい伝統のロシア料理”. 東京カレンダー (2021年4月17日). 2022年11月1日閲覧。
- ^ 「60年度(=1985年度)『今月の歌集』」-『NHKテレビ ロシア語講座』(日本放送出版協会)1985年12・1月号、p.34-35。
- ^ 「水産機械 ナホトカで見本市 来月22日から10日間」朝日新聞・1968年4月2日、東京本社版第7面。
- ^ 「商談40万ドル ナホトカ見本市」読売新聞・1968年6月8日、東京本社版第5面。
- ^ 「ボーカルのロイヤル・ナイツがソ連へ三度目の公演」読売新聞(夕刊)、1968年4月20日。
- ^ 「リズミックな曲がうける ロイヤル・ナイツ東欧公演」-『音楽旬報』1968年8月11日、第5面。
- ^ a b 「臼杵喝郎氏(うすき・かつろう=三井物産参与、ルナ・トレーディング取締役、前社長)5月9日死去、61歳」日本経済新聞・1978年5月10日、第23頁。
- ^ a b c 「開設準備すすむ モスクワ日本産業見本市」朝日新聞・1960年6月22日、東京本社版第7面。
- ^ 「ソ日友好の道しるべ モスクワの日本産業見本市」-『今日のソ連邦』(駐日ソ連大使館発行、日本語)1960年第17号(9月1日号)、p.1-2。
- ^ 「日ソ両国旗に迎えられ 東京‐モスクワ線 第一便羽田へ」日本経済新聞(夕刊)・1967(昭和42)年4月18日、東京本社版第7面。
- ^ 第19回。
- ^ 「ニキータ山下氏に聞く」(『遙かなり、わが故郷‐異郷に生きるⅢ』(成文社、2005年4月)所収。詳細後述)、p.11。
- ^ 詳細は第26回「退社」。
- ^ a b 「人きのうきょう 姉妹で口説き落とし 実力カルテット復活」朝日新聞(夕刊)・1988年1月23日、東京本社版第2面。
- ^ 「完全民営化記念コンサートを開催 ロイヤルナイツの素晴らしいハーモニーが聴衆を魅了しました!」-『おおぞら』(日本航空広報部)№ 285(1988年5月号)、p.57。この記事によると、モスクワ2月20日、ロンドン同月22日、アムステルダム同月24日、パリ同月26日。2月3日の有楽町朝日ホールのコンサートプログラムの裏表紙にも、日航の広告として、民営化記念ヨーロッパ公演の4つの会場と日程が印刷されている。
- ^ 「アルメニアにとどけ歌声 コーラス「ロイヤル・ナイツ」が21日、日比谷で救済コンサート」読売新聞(夕刊)・1989年1月18日、東京本社版第17面。
- ^ 『NHK年鑑'74』(編集・NHK総合放送文化研究所放送史編修室、発行・日本放送出版協会、1974年9月。内容は1973年度)、p.118。
- ^ プログラムでは『森は生きている~ 十二ヶ月のニーナ』と、冒頭に副題が付く。
- ^ 堀威夫「私の履歴書(25)演劇進出」日本経済新聞・2021年2月26日。
- ^ プログラム。
- ^ ニーナ役の床嶋が事実上の主演だが、プログラムの序列は女王役の次となっていた。
- ^ 「床嶋佳子 次の大河ドラマ「吉宗」に出演 磨いて バレエから女優へ」朝日新聞(夕刊)・1994年9月30日、東京本社版第21面。
- ^ “エキサイティングな「紫苑物語」の稽古”. Cafe MDR(三澤公式サイト)三澤洋史の今日この頃 (2019年2月4日). 2022年11月4日閲覧。 「十二ヶ月のニーナ」のエピソードは後半「人生にムダなものは何もない」に収録。
- ^ ホリプロ会長が直々に、シチェドリンの妻プリセツカヤも交えて説得を試みたが、作曲家はカットに応じなかった(堀威夫「私の履歴書(25)演劇進出」日本経済新聞・2021年2月26日)。
(表作成--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月4日 (金) 12:06 (UTC))
(表内のリンクURL修正--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月4日 (金) 12:13 (UTC))
「ニキータ山下氏に聞く」(聞き手:小山内道子 成文社『異郷に生きるⅢ』2005年4月)
[編集]本文は、終始ニキータ山下氏の語り口で、口述筆記スタイルです。聞き手は、「来日ロシア人研究会」[注釈 1]の小山内道子さん(北海道教育大学釧路校非常勤講師(当時))。研究会発行の『遙かなり、わが故郷 - 異郷に生きるⅢ』(成文社、2005年4月)(編者名は中村喜和・安井亮平・長縄光男・長與進、ISBN 4-915730-48-4 C1023 )p.3-19 に所収。
目次には書いてありませんが、本文は幾つかの小見出しによって区切られています。その内訳は、
- ルーツはハルビン(p.3)
- 父母・祖母のこと(p.3)
- 幼年時代‐日本敗戦の頃(p.4)
- ロシア人と共に過ごした学校生活(p.6)
- 突然の引き揚げ・帰国(p.7)
- 日本人になるための努力‐中学、高校、そして芸大へ(p.8)
- 甦るロシア語‐通訳としてモスクワへ(p.9)
- 芸大卒業‐NHK国際局アナウンサーに(p.11)
- 人生最高の時期‐「ロイヤルナイツ」の10年(p.13)
- NHKテレビロシア語講座への出演(p.14)
- 通訳・翻訳の仕事へ(p.15)
- 新しい出会いの数々(p.16)
- ◇あとがき(小山内道子)(p.18)
◎ p.13 に登場する2つの曲のうち、「ロシアの草原」は言うまでもなく Русское поле(ゴッフ Гофф 作詞、フレンケリ Френкель 作曲)。「シベリアの娘さん」は、『アンガラ河に沿って По Ангаре』(ドブロヌラーヴォフ Добронравов とグレベンニコフ Гребенников の共同作詞、パーフムトワ作曲)の歌詞のフレーズ "сибирские девчата"(シベリアの娘さん)が口をついて出た可能性が高い。(ロイヤルのソ連公演フィルムの『アンガラ河に沿って По Ангаре』YouTube[注釈 2])--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月7日 (月) 12:30 (UTC)
頁 | 行、位置 | 誤→正、ないし要修正箇所 | ||
---|---|---|---|---|
◎題、聞き手署名、小見出しも1行と数えています。 ◎頁数・行数・用語は初版第1刷に拠っています。 | ||||
3 | 11 | 人を信じるナイーブな性格を… | → | (和製英語と割り切るのならばよいが、英語の「ナイーブ」にはあまり良い意味はない。) |
3 | 17 | 長崎高等専門学校 | → | (「長崎高等商業学校」か) (旧学制では「長崎高等専門学校」という校名の学校は存在しない。長崎高商と解釈すれば、父がハルビン満鉄の経理部にいた(p.5)事実とも矛盾しない。) |
7 | 31 | 9月8日いよいよ引き揚げ船白山丸で帰国の途に… | → | 白山丸の舞鶴港入港は9月9日[3]。上海から舞鶴まで約3日かかる[4]ことと照らし合わせると、9月8日は考えにくい。当時の新聞によれば上海出港は同月6日[5]。 |
8 | 4 | 叔父 | → | 伯父[注釈 3] |
12 | 上段写真の解説 | 1963年、NHKTV「夢であいましょう」坂本九、ソ連の映画女優ベルチンスカヤと | → | 1965年2月[注釈 4]、… |
12 | 27 | 船田兄弟が | → | 舟田兄弟が |
13 | 7-9 | 最初のソ連コンサートツアーは1966年秋、ソ連文化省の招待でモスクワ、レニングラード(当時)、キエフの3大都市や大地震で壊滅的な被害を受けたタシケントその他を回る約1ヶ月のツアーでした。 | → | 最初のソ連コンサートツアーは1966年12月、...タシケントその他を回るツアーでした。最初は約1ヶ月の予定でしたが、各地で追加公演を次々と要請されたため、実際には約1ヶ月半、翌年の1月までかかりました。 |
14 | 9-10 | こうして僕達は1975年まで毎年ソ連コンサートツアーを行い、それは500回にもおよびました。 | → | こうしてロイヤルナイツは1978年までほぼ毎年のようにソ連コンサートツアーを行い、このうち僕は1975年まで参加したのですが、それは全部で500回にも… |
14 | 14-15 | 殆ど未発表だったこの歌を | → | 殆ど日本では知られていなかったこの歌を[注釈 5][注釈 6] |
14 | 19 | 1975年NHKテレビで「ロシア語会話」の放送が始まりました。 | → | 1973年4月、[注釈 7]NHKテレビで『ロシア語講座』[注釈 8]の放送が始まりました。 |
14 | 29-30 | …姉川ローザがスキットにレギュラーで20年以上出演し、 | → | …20年近く出演し[注釈 9]、 |
14 | 写真の解説 | NHKTVスタジオ、姉川ローザ、タチヤーナ・スデツさんと | → | NHKTVスタジオ、姉川ローザ(中央)、招聘アナウンサーのタチヤーナ・スデツさん(左)と[注釈 10]。1984年頃 |
15 | 11-12 | 「歌は友だち」 | → | 『歌はともだち』 (番組の正式名称) |
15 | 12 | 「オーケストラがやってきた」 | → | 『オーケストラがやって来た』 (番組の正式名称) |
15 | 14 | 大河ドラマ「天下堂々」 | → | NHK金曜時代劇『天下堂々』 |
15 | 15-16 | テレビアニメ映画『サンダーバード』 | → | テレビ特撮人形劇『サンダーバード』 |
15 | 31 | (月光荘は)…事業を拡大し過ぎて1984年には倒産します。 | → | 1989年には[15] |
16 | 7 | 1986年末から | → | 1987年末から |
16 | 11 | 88年には海外3ヶ所の日航ホテルの杮落としの演奏会に招かれました。 | → | 88年2月には、日航完全民営化記念行事として欧州4都市のコンサートに招かれ[16](僕が参加できたのはモスクワを除く3都市でしたが[注釈 11])、90年10月には「ホテル日航アトランタ」の杮落とし公演も行いました[注釈 12]。 |
16 | 12 | 90年1月には「アルメニア地震救援コンサート」を企画しましたが、 | → | 89年1月には[注釈 13] |
16 | 写真の解説 | 1990年1月、アルメニア地震救援コンサート | → | 1989年1月 |
17 | 22-23 | 1992年(五木寛之)氏が主宰する「論楽会」が「大黒屋光太夫帰国200年」を記念して鈴鹿市で開催され、 | → | 1991年…[21][22][23] |
17 | 24-26 | 同年5月には(五木寛之)氏が出演するNHKテレビスペシャル「歌は国境を越えて おろしや国歌謡譚」のペテルブルグ取材に同行して、… | → | 翌1992年5月に放送された、氏が出演する日本テレビの[24]特別番組『歌は国境を越えて』[注釈 14]では、2月の[25][23]ペテルブルグ取材に同行して、 |
18 | 15 | 2002年から2年ほど三井商船の世界一周クルーズに招かれてのコンサートも… | → | 商船三井客船の (ロイヤルナイツの世界一周クルーズ船での仕事は、既に1997年から1998年の間に入っている[26]。その後も数年間続く。) |
◎(以下、小山内道子による「あとがき」) | ||||
18 | 26-27 | …元満洲に住んでいた方々の季刊紙『満洲の丘にて』"На Сопках Маньчжурии"(2001, № 72)に掲載された… | → | …月刊紙『満洲の丘にて』[注釈 15]"На сопках Маньчжурии"(2001, № 82)[注釈 16]に… |
19 | 26-27 | 「二十八年組大地の子」、『日刊木材新聞』に毎週1回、平成8年4月25日から平成9年1月8日まで33回にわたって連載。 | → | 「二十八年組大地の子」、『日刊木材新聞』に、平成8年4月24日から同年12月25日まで全33回にわたって連載 (曜日は不定期)。 |
19 | 28-29 | 『NHKラジオ ロシア語講座』テキストに1991年1月号から不定期で1993年3月号まで12回様々なテーマで連載されたエッセイ。 | → | 『NHKラジオ ロシア語講座』テキストに1992年1月号、および同年4月号から1993年3月号まで全13回、様々なテーマで連載されたエッセイ。 |
注釈
- ^ 1977年秋に中村喜和・安井亮平の呼びかけで発足した「〈ロシアと日本〉研究会」を前身とする。1995年に「来日ロシア人研究会」と改編され[1]活動開始。参加者の出身校・所属機関・国籍は一切問わないという自由な雰囲気の中で、2ヵ月に1度の例会を中心に活発な研究活動が行われて来たが、2016年10月1日の100回目の例会を最後に、惜しまれつつ活動を休止した。[2]
- ^ 字幕では "Royal Nights" と誤記されている。メンバーは、くすのせ‐山下‐舟田(勝)‐佐々木、即ち第1回または第2回のソ連公演だが、クラリネットが特徴的で、バックバンドの雰囲気は第1回に近い。
- ^ 「二十八年組大地の子 (7)日本、そして中学編入」には「逗子にいる父の兄」「伯父」と記載。YouTubeのロシア語インタビューでも、山下は "...старший брат отца, дядя..." (父の兄、伯父…)と語っている[6]。
- ^ アナスタシア・ヴェルチンスカヤ(ベルチンスカヤ)(歌手アレクサンドル・ヴェルチンスキーの娘)が、オフェリア役で出演したソ連映画『ハムレット』(1964年、コージンツェフ監督、主演スモクトゥノフスキー)宣伝のために来日したのは、1965(昭和40)年2月[7]。来日当時は20歳で、まだ演劇大学の学生。TV『夢であいましょう』へのベルチンスカヤの出演は、1965(昭和40)年2月6日[8]。生中継番組だが、当日の番組録画が奇蹟的に全部残っている[9]。
- ^ 歌手マルク・ベルネスによるソ連国内での『鶴』のリリースは、ロイヤルがフレンケリから手書きの譜面を渡された出来事(1972年)の約3年前の1969年[10]。本編の「『鶴』の作曲家ヤン・フレンケリとの出会い」も参照。
- ^ ロイヤルナイツは、1991年8月にシングルCDを平仮名の『つる』のタイトルで発売[11][12]して以降は、この作品を平仮名で呼び慣わしているが、1970年代のNHK教育TV『ロシア語講座』、NHKラジオ講座『ロシア語入門』、日本放送出版協会のカセットテープ『ロシア語《歌と詩》』(1973年9月)などでは、漢字の『鶴』を使っていた。
- ^ 『NHK年鑑'74』(編集・NHK総合放送文化研究所放送史編修室、発行・日本放送出版協会、1974年9月。内容は1973年度)、p.118。初回放送は1973(昭和48)年4月7日(土)(同、p.20)。最初の3年間は土・日放送で、本放送が午前6:00-6:30、再放送が同日午後5:30-6:00。
- ^ TV『ロシア語講座』からTV『ロシア語会話』への番組名変更は1990年4月。
- ^ 番組発足以来30分×週2コマだった放送枠が、20分×週2コマとなった1992年度[13]以降は、ローザ姉川は殆ど出演していない。
- ^ 番組出演中は「タチヤーナ・スヂェーツ(スジェーツ)さん」(愛称「ターニャさん」)と紹介されていた[14]。
- ^ 1983(昭和58)年の大韓航空機撃墜事件後に日本に送還されて以来[17]、この時まで山下にはまだソ連への入国許可が下りず、日航モスクワ公演には参加できなかった[18]。
- ^ 「ホテル日航アトランタ」の開業は1990年10月4日[19]。1990年にロイヤルナイツが米国アトランタの JAPAN FEST '90 に参加、ホテル日航アトランタにてディナーショーを行ったことは、1991年8月のシングルCD『ЖУРАВЛИ(ジュラヴリ) つる』(日本コロムビア CODA-8784)のライナーノーツにも記録されている。
- ^ ロイヤルナイツによるアルメニア地震救援コンサートは1989年1月21日、於・日比谷公会堂[20]。地震発生は1988年12月7日、その直後に企画され実行に移されたコンサートだった。
- ^ 『歌は国境を越えて おろしや国歌謡譚』は制作時の仮題で、本放送時の題は「五木寛之スペシャル『歌は国境を越えて』~日本渡来のロシア歌謡・第1号「ソフィアの歌」の謎~」(画面字幕による)。
- ^ 小山内は『満洲の丘にて』と訳しているが、この月刊新聞のロシア語原題は、有名な歌曲のタイトル『満洲の丘に立ちて』そのままである。
- ^ ノボシビルスクのハルビン出身者の団体「ハルビン協会 Ассоциация "Харбин"」発行。№ 82(2001年1月号)に、山下は「ニキータ山下」の名でハルビン時代の回想を中心とする自伝的エッセイ "Я каждый день на ночь молюсь"(私は毎夜祈りを捧げます)を寄稿している。小山内道子による日本語訳あり(詳細後述)。
出典
- ^ 飯島一孝 (2016年10月2日). “来日ロシア人研究会、21年目の休会!”. 飯島一孝ブログ「ゆうらしあ!」. 2022年11月6日閲覧。によると、当初は「亡命ロシア人研究会」という名称だったが、すぐ「来日ロシア人研究会」と改められた。
- ^ “来日ロシア人研究会が活動休止”. 産経新聞社. (2022年10月16日) 2022年11月6日閲覧。
- ^ 「白山、白龍帰国者」読売新聞・福井版(8頁)、1953年9月10日。
- ^ 「二十八年組大地の子 (7)日本、そして中学編入」
- ^ 「白山・白竜丸の帰還者氏名」朝日新聞・1953(昭和28)年9月7日、東京本社版第2面。
- ^ YouTube 「逗子の伯父さん」への言及は27:00-27:09。
- ^ 「"オフェリア" 来日 ベルチンスカヤ嬢」朝日新聞(夕刊)・1965年2月6日、東京本社版第8面。
- ^ 当日の朝日新聞(夕刊)東京本社版第8面、毎日新聞(夕刊)東京本社版第8面のTV番組欄の「夢であいましょう」(NHK総合、午後10:10-10:50)には、出演者名の筆頭にベルチンスカヤが入っている。
- ^ YouTube 山下・ベルチンスカヤの出番は、25:57-28:25(坂本九とのミニコント含む)および38:09-38:49。
- ^ 山之内重美『黒い瞳から百万本のバラまで ロシア愛唱歌集』東洋書店(ユーラシア・ブックレット31)2002年8月(第2刷)、p.42「しみじみとした死生観 つる(1969年)」
- ^ 『ЖУРАВЛИ(ジュラヴリ) つる』日本コロムビア CODA-8784 カップリングは『百万本のバラ』。
- ^ 同年4月、公式訪日したゴルバチョフ・ソ連大統領夫妻の前でロイヤルナイツが『つる』を歌い、CDを贈る約束をしたことから、『つる』CD製作が一気に現実化した(山下「コンダクターはゴルバチョフ」(『NHKラジオ ロシア語講座』1992年4月号(日本放送出版協会)p.76-77。詳細後述)。
- ^ 1990年度までは30分×週2コマ。1991年度のみ移行期で20分×週1コマ+30分×週1コマ。いずれも1回ずつの再放送あり。
- ^ 『NHKテレビ ロシア語講座』1984年12・1月号(日本放送出版協会)。
- ^ 「絵画のしにせ 月光荘が倒産」朝日新聞(夕刊)・1989年3月8日、東京本社版第14面。
- ^ 「完全民営化記念コンサートを開催 ロイヤルナイツの素晴らしいハーモニーが聴衆を魅了しました!」-『おおぞら』(日本航空広報部)№ 285(1988年5月号)、p.57。この記事によると、公演はモスクワ1988(昭和63)年2月20日、ロンドン同月22日、アムステルダム同月24日、パリ同月26日。1988年2月3日の有楽町朝日ホールのコンサートプログラムの裏表紙にも、日航の広告として、民営化記念ヨーロッパ公演の4つの会場と日程が印刷されている。
- ^ 「二十八年組大地の子 (26)退社」
- ^ 「二十八年組大地の子 (25) GRUとKGB」
- ^ 『おおぞら』(日本航空広報部)1990年12月号、p.53。
- ^ 「アルメニアにとどけ歌声 コーラス「ロイヤル・ナイツ」が21日、日比谷で救済コンサート」読売新聞(夕刊)・1989年1月18日、東京本社版第17面。
- ^ 「ことしも19日に「鈴鹿論楽会」 「歌は国境を越え」テーマに 五木寛之氏や阿木燿子さんら 多彩な出演者」中日新聞・三重版(三重)1991年10月10日。「…ことしは、五木さんのほか、作詞家、女優、作家と幅広い活躍をしている阿木燿子さん、芥川賞作家の新井満さん、声楽家でロシア語通訳の山下健二さんらが出演。鈴鹿市出身の日ソ交流の先駆者・大黒屋光太夫が最近脚光を浴びていることもあり、今回は「歌は国境を越えて ― 鈴鹿・ペテルブルグ二百年の歩み」のテーマで行われる。…」五木の鈴鹿論楽会は、この3年前から、F1グランプリの前夜祭として、決勝レースの前晩に開催されていた。
- ^ 山下「昭和の光太夫」(『NHKラジオ ロシア語講座』1992年1月号(日本放送出版協会) p.68-69。詳細後述)には論楽会の様子が書かれているが、テキストは前月の1991年12月には編集が完了し店頭に並ぶ。即ち「論楽会が1992年」はあり得ない。
- ^ a b 鈴鹿の論楽会と『歌は国境を越えて』のロケの様子は、五木寛之『ソフィアの歌』(新潮社、1994年6月、のち新潮文庫、1997年7月。初出は『小説新潮』1992年5月号-7月号で、『ソフィアの歌 巡礼』のタイトルで短期集中連載された)にも詳しい。
- ^ 1992年5月4日、日本テレビ系で午後4:00-5:30に全国放送。当日の新聞TV欄で確認可。
- ^ 山下「世にも不思議な再会」(『NHKラジオ ロシア語講座』1992年5月号(日本放送出版協会)p.72-73、詳細後述)より p.73。
- ^ 山下「オーストラリア一周航海記 (1)別世界「ふじ丸」ワールド」日刊木材新聞、1999年4月15日。(詳細後述)
(表作成--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月7日 (月) 12:30 (UTC))
それからこの記事は写真が豊富で、全部で11枚あります。
頁、位置 | 概要 |
---|---|
◎頁数、内容は初版第1刷に拠っています。 | |
4 | 着物姿の母、1936年新婚のころ |
5 | 2,3歳の頃、父と |
7 | 祖母、妹と |
12(上段) | (要年号訂正)NHKTV「夢であいましょう」坂本九、ベルチンスカヤと |
12(下段) | 1965年、結婚式 |
13 | (ロイヤルナイツのステージ)1975年、モスクワ ロシア劇場で |
14 | NHKTVスタジオ(ロシア語講座) 姉川ローザ、タチヤーナ・スデツ(スヂェーツ)と |
16 | (要年号訂正)(ロイヤルナイツのステージ)アルメニア地震救援コンサート |
17 | 1991年4月、訪日歓迎レセプションでゴルバチョフ大統領と握手 (右端は勝山邦夫) |
18 | 『闘う白鳥』出版を記念して プリセツカヤ、白石勝・文藝春秋社長(右端)らと (計5人) |
19 | ニキータ山下近影 |
(写真一覧表作成--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月7日 (月) 12:30 (UTC))
「私は毎夜祈りを捧げます」(原文ロシア語、邦訳:小山内道子 『異郷』№ 16(2003年6月))
[編集]「ニキータ山下」名義。ロシア語原文は、ノボシビルスクのハルビン出身者の団体「ハルビン協会 Ассоциация "Харбин"」の月刊新聞 "НА СОПКАХ МАНЬЧЖУРИИ" (満洲の丘に立ちて[注釈 1])№ 82(2001年1月)[注釈 2]に掲載。原題は "Я каждый день на ночь молюсь" (私は毎夜祈りを捧げます)
山下氏は、同紙 № 84(2001年3月)にも、"Спасибо редакции《НСМ》"(『満洲の丘に立ちて』編集部に感謝致します)という文章を寄稿しています。
「私は毎夜祈りを捧げます」の方は、来日ロシア人研究会の小山内道子さんによる日本語訳が、同研究会会報『異郷 ВТОРАЯ РОДИНА』(ISSN 1344-9079)№ 16(2003年6月) p.12-14 に発表されていますが、ロイヤルナイツのソ連公演に関する記述はカットされています。
◎写真1枚あり(p.14)。山下氏帰国直前の、教会聖歌隊とその家族の集合写真(殆どがロシア人)。
◎ハルビンを去る直前に教会聖歌隊でソロを歌った「今、君が僕ヴラヂィコを行かしめ給え」(p.13)は、ルビは振ってありませんが、訳語「僕」は正教会では「ぼく」と読むのが普通だそうです。カトリック・プロテスタント式に「しもべ」と読むべからず。
◎「ロマンス」という単語が注釈なしで出て来たら(p.14)、ロシア語では「歌曲」のことです。近代以降の都会的・叙情的歌曲を指すことが多いです。
(--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月8日 (火) 11:47 (UTC))
頁 | 行 | 誤→正、ないし要注意事項 | ||
---|---|---|---|---|
◎題、副題、署名も1行と数えています。 | ||||
12 | 24 | 私は1937年東支鉄道職員の家庭に生まれた。 | → | (ロシア人向けに分かりやすく「東支(東清)鉄道(КВЖД)」という言葉を使っているが、日本側から見れば、父の職場は満鉄である。) |
13 | 22 | サマンヌイ市に | → | サマンヌイ地区に (サマンヌイ(漢字では「沙曼屯」、ハルビン西郊に位置する)は город ではなく городок) |
13 | 29-30 | 1945年、私は8歳でアレクサンドル・ネフスキー・リツェイに入学し、1年生から3年生まで学んだ。 | → | この学校に通ったのは3年生の時の正味1年間[1]。 |
14 | 3-4 | (母方叔父は)1954年ソ連の処女地へ出立した。 | → | (1950年代中葉に始まった、在中国ロシア人のソ連への「帰国」が、「処女地(целина)目指して」という掛け声で行われていた[2]ことを踏まえないと、ピンと来ない表現。) |
14 | 15 | 「父親の苗字であるヤマシタという漢字さえ書けなかった。」 | → | 本人ステージトークによると、引揚時「漢字は「山下」と辛うじて書けるだけで、あとは全部忘れていた」。 (чуть構文/едва構文?) |
14 | 17 | 声学科 | → | 声楽科 |
14 | 22 | 「ラジオ日本」 | → | 「NHKワールド・ラジオ日本」または「NHK国際局ラジオ・ジャパン」 (「ラジオ日本」は、似た名前の民放局あり) |
注釈
出典
(表作成--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月8日 (火) 11:47 (UTC))
「オーストラリア一周航海記」(『日刊木材新聞』1999年4月)
[編集]「山下健二」名義。同年3月、商船三井客船のクルーズ客船「ふじ丸」でショーを務めたロイヤルナイツ。但し豪州大陸を一周したわけではなく、空路で東海岸のケアンズに入り乗船、西太平洋を北上し東京港に帰港するまでの最終日程を担当した。(--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月10日 (木) 06:30 (UTC))
回 | 日付 | 頁 | サブタイトル | 概要 | 写真 |
---|---|---|---|---|---|
◎ピアニスト「山下純」(女性、第3回・第7回の写真に登場)は「山下淳」の誤植の可能性大。 | |||||
1 | 4月15日(木) | 6 | 別世界「ふじ丸」ワールド | 3年前、ロイヤルナイツのディナーショーに招待された商船三井客船[注釈 1]の社長がいたく感激したことから、ロイヤルのクルーズ船の仕事が始まる。まず2年前の2月、北海道クルーズに乗船。乗客は歌声喫茶世代なので、ロシアの歌の得意なロイヤルは大歓迎された。その成功から、世界一周クルーズ(にっぽん丸)のバンクーバー→東京区間、昨年暮れのグアム・サイパンクルーズも担当、すっかり人気者に。さて今回は… | §シドニーに入港する「ふじ丸」 |
2月2日に晴海埠頭を出港した「ふじ丸」は、豪州南岸を西から東へと巡り、3月3日に東海岸北部のケアンズに入港。ロイヤルナイツの一行はその前日に空路でケアンズ入りし、港近くのヒルトンホテルに1泊。南半球は今は夏だ。 3月3日/ 午前10時に乗船手続きを終え、一旦街へ繰り出す。午後3時に帰船。日本が不況だとは信じられないほど、羽振りのいい乗客たち。 | |||||
2 | 4月16日(金) | 6 | やっちゃった! 「タイタニック」 |
3月4日/ 船内の1日には、客を退屈させないためのスケジュールがびっしりと詰め込まれている。食事は4人では固まれず、乗客との相席が原則なので、かなり緊張して気を使い、豪華なフルコースの夕食も味を楽しむ余裕はあまりない。午後8時半~9時半、ロイヤルのコンサートの本番初日。 その数日後のデッキで、さる御婦人と映画『タイタニック』に話題が及び、例の場面のポーズの真似をしていると、「(あっ!)」- 船が少し揺れ、彼女のウエストを押えるつもりが、一瞬胸に触れてしまった。機嫌を損ねたかと心配だったが、その後のコンサートでも彼女はにこやかに温かい拍手を送ってくれた。 |
§大空を焦がす夕焼け |
3 | 4月17日(土) | 6 | 大自然と喧噪 | 3月5日/ 木曜島沖に錨が降ろされる。浅瀬なので大型船が接岸できないのだ。定員約60名の小舟で上陸、2~3時間の自由時間。午後5時出港。また、幾つもの太平洋戦争激戦地を通る。 3月7日/ 四方を大海原に囲まれたデッキの喫煙所。ここにいると、人間という存在がひどく小さなものに思える。足元から伸びる大きな虹、波一つない静かな海。片や、大ホールでは午後8時から盆踊り大会だ。 |
§海にかかる虹 §木曜島のスーパーで |
4 | 4月21日(水) | 6 | 船長、最後の航海 | 3月8日/ 0時28分、赤道通過(東経131度31分)。 太平洋戦争の激戦地を通る時は、神津定剛船長の呼びかけで1分間汽笛が鳴らされ続け、全乗客が黙禱を捧げる。人気者のベテラン船長は、この航海を最後に引退の予定だが、大勢の客が留任嘆願をしているそうだ。 3月11日/ グアム島で夕方までの自由時間。日本語のいかがわしい看板が立ち並ぶ中、ロイヤルの4人は実弾射撃場に入り、勝山が1番を取った。午後8時出港。 |
§ロイヤルのメンバー4人(タキシード姿、各人の氏名入り) §神津船長と |
5 | 4月22日(木) | 6 | 人それぞれの ドラマを乗せて |
3月12日/ 午後3時から2時間のリハーサルの後、今日の午後6時以降のドレスコードに合わせ、すぐタキシードに着替える。午後8時半からロイヤルのショーの本番。10日も同船していると、ステージと客席との一体感はより容易に生まれ、聴衆は歌に涙し、熱い喝采を送る。 船には乗客の数だけドラマがある。相手のアラが見え過ぎて耐えられなくなる夫婦、下船と同時に離婚し、パートナーを取り換えるように再婚した2組の夫婦。そして、伴侶を亡くし、悲しみを紛らすように乗り込んでくる人生のベテランたち。 |
§盛装の婦人客らと |
6 | 4月23日(金) | 6 | 硫黄島… | 3月13日/ 黙禱の汽笛が鳴る。船が硫黄島を通過するのだ。島に向かって手を合わせる乗客たち。硫黄島の戦いで、また南洋各地で父親や親戚を亡くした友人たちのことが思い出され、そこから敗戦直前のハルビンの記憶が蘇る。― 1944(昭和19)年、日本人の小学校の1年生だった山下は、上級生の真似をして、校舎の壁の世界地図のアメリカに小石を投げつける遊びに興じていたが、この戦争の不条理さを感じる場面は度々あった。 /父は赤紙でなく白紙(教育訓練)召集されたが、居場所は最後まで家族に知らされず、父方祖母の訃報が届き、母がそれを知らせたいと関東軍司令部に掛け合っても、取り合ってはもらえない。/1年生の夏、近所の満鉄ゴルフ場での軍事演習で、負傷した若い日本兵が社宅の庭に運び込まれ、上官は演習が終わるまでここで休ませよと言う。「病院へ運ばないと」と母や近所の主婦たちが言っても聞かない。翌日、兵士は死んだ。/隣組の婦人たちのバケツリレーや竹槍訓練にも、これで戦争に勝てるのかと疑問が膨らむ。/やがて父は怪我をして帰宅した。馬に蹴られて肋骨を折ったのだ。次は赤紙かと戦々恐々としているうちに敗戦となった[注釈 2]。 ― 硫黄島海域を過ぎると、低気圧が近づき、海は大荒れとなった。 |
なし |
7 | 4月24日(土) | 6 | 出会い そして別れ | 3月14日/ 波はまだ荒い。孀婦岩、イルカの飛び跳ねる鳥島を通過。午後5時よりフェアウェルカクテルパーティー、ロイヤルも航海最後の出番。その後、バーでロイヤル関係者のみのささやかな打ち上げ。 3月15日/ 朝、歓迎セレモニーの中、船は東京港に入港。42日間の旅を終えた乗客たちは、またそれぞれの日常へと戻ってゆく。 |
§ステージ前のひととき(ロイヤルの4人&ピアニスト) |
(最終回) |
注釈
出典
(表作成--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月10日 (木) 06:30 (UTC))
『NHKラジオ ロシア語講座』テキストの連載(1992年1月、4月~1993年3月)
[編集]「山下健二」名義。NHKラジオ講座用テキスト『NHKラジオ ロシア語講座』(日本放送出版協会、月刊)の巻末に連載。日本語。
◎同期連載に、五木寛之「記憶と記録」(1992年4月~7月・全4回)、宇多文雄「ロシアと民族」(1992年4月~1993年3月)など。
年 月 |
頁 | 題 | 概要 | (頁-行) 誤→正 | |
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◎題、署名も1行と数えています。 | |||||
1992 1月 |
68-69 | 昭和の光太夫 | 『新旧「ソフィアの歌」』(後述)も参照
五木寛之『さらばモスクワ愚連隊』に描かれた世界は、ロイヤルのソ連公演のモスクワでの体験と似すぎていて、菅野光亮クインテットがモデルかと思ったほどだ[注釈 1]。コンサートが終わると、地元の若いミュージシャンがバンドメンバー全員を連れ出し、場末のレストランで日ソの熱いジャムセッションを繰り広げるのだ。[注釈 2]
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(68-8&11&17)管野光亮→菅野光亮 [5] | |
〃 4月 |
76-77 | コンダクターはゴルバチョフ | 1991年4月に訪日したゴルバチョフ・ソ連大統領夫妻の前で、ロイヤルナイツは『鶴』を歌った[注釈 5]。前奏が鳴り始めると、パーティーの3000人の参加者の中で、眼前にゴ氏1人しかいないような不思議な感覚に貫かれた。ゴ氏の眼が自分たちの歌をリードしているのだ。 歌い終えると、ロイヤルはゴ氏と固い握手をし、『鶴』をCDにして贈る約束をした[注釈 6]。 |
(76-4)前年の暮れにはマルタ島で…→マルタ会談は1989年12月。1991年年初から見れば「その1年余り前には」。 (76-26)この他で行われ→この地で行われ | |
〃 5月 |
72-73 | 世にも不思議な再会 | 『新旧「ソフィアの歌」』(後述)も参照
昭和40年代の初め、大黒屋光太夫研究家・亀井高孝の勧めで「ソフィアの歌」を歌ったロイヤルナイツ。 |
(72-21)商人ラクスマン→博物学者ラクスマン (73-29)作曲課→作曲科 | |
〃 6月 |
76-77 | ロシアの心 | 千年に亘りロシア人の心を育んできた正教会。クリコヴォの戦いでも、イコン「ドンスコイの聖母[注釈 9]」が勝利を見守っていた。この戦いでドミートリー・ドンスコイに祝福を与えたセルギー・ラドネシスキーが教会[注釈 10]を建てたザゴルスクは、後のモスクワ・ロシアの精神的支柱たる祈りの町となった。 それだけに、この町はソ連時代にはひときわ警戒された。1979年頃から5~6回[注釈 11]、この町に住む画家を訪問しているが、モスクワから僅か70㎞なのにビザの申請に何日も要し、町へ向かう道路には幾つもの検問所がある。 ところがある日、- 市内に入る前から、不思議な明るく華やいだ空気を感じていた。その日は日曜日で、聖霊降臨の大祭[注釈 9]だった。司式するピーメン[注釈 12]総主教の周囲を、約10人の私服のKGBが固めているが、聖堂には数千人の信徒が集っている。教会に通う者が党からも職場からも追われる時代に。 共産党政権がどれほど教会を弾圧しても、聖堂を破壊しイコンを焼いても、千年にも亘るロシア人の祈りの心を根絶やしにすることは不可能だった。 |
(76-22&23)…厳冬のラドガ湖でスウェーデンの大軍と闘ったアレクサンドル・ネフスキーの…→アレクサンドル・ネフスキーがラドガ湖の手前でスウェーデン軍に大勝した「ネヴァ川の戦い」は1240年7月、すなわち夏。1242年4月、ドイツ騎士団(北方十字軍でスウェーデンと同盟)を A. N. が打ち負かした「氷上の決戦」の舞台はチュド湖である。 (76-29)圧倒的に不利な戦いで、勝利を疑うものはいなかった。→圧倒的に不利な戦いであるにもかかわらず、… (77-5&6)モスクワから北へ70キロに位置するザゴルスクに→モスクワの北北東70キロに位置するザゴルスクに (77-6&7)…ザゴルスクにセルギー高僧は教会を建て、そこにロシア正教の総本山を設置する。→ラドネジのセルギイの時代(モスクワ総主教座創設の200年余り前)、府主教座はモスクワに置かれていた。ザゴルスクの至聖三者聖セルギイ大修道院にモスクワ総主教座が置かれていたのは 1946年-1983年。 (77-15)昔は大修道院だった敷地の4か所の教会で…→至聖三者聖セルギイ大修道院が閉鎖されていたのは1920年-1945年。当時は細々とではあるが修道生活は認められていた。が、本格的な大修道院[注釈 13]復興はソ連崩壊後である。 | |
〃 7月 |
72-73 | 民間人ゴルバチョフ | ゴルバチョフが、今年の4月、今度は1民間人として来日した。 1年前の大統領としての訪日時が初対面だったが、これほど人間味溢れる魅力の持主に出会うのは初めてという感があった。冷戦を終結させ、ロシアを自由に呼吸できる社会へと変容させたゴ氏を失脚させたことをロシア人が悔ゆること無きよう。 今回は、同じく1年前には首脳会談の主役で、その後首相を退いた海部俊樹 とゴ氏夫妻を囲む内輪のパーティーが開かれた。海部がボニージャックスをバックに『瀬戸の花嫁』を歌って後、ゴ氏はロイヤルをバックに『鶴』のソロを歌ってはと周囲に促されたが、「『鶴』は聴くに限る」と固辞し、『ロシア、わが祖国』[注釈 14]を歌った。 |
(73-26)「流されてゆく日々」→「流されゆく日々」[注釈 15][注釈 16] | |
〃 8月 |
64-65 | ロシア人のたくましさ | 社会主義体制下で働く喜びを根こそぎ奪われたソ連のロシア人。それでもなお、袖の下とミニ横領術を遺憾なく発揮し、したたかに生き延びるロシア人のたくましさ。 | ||
〃 9月 |
72-73 | 半年ぶりのロシア | 冬、半年ぶりにロシアを訪問した。出発前には、ロシアは治安が悪い、食料が無いと日本の報道受け売りそのままの人々の忠告を受けた。が、実際は、シェレメーチェヴォ空港 の入国審査の印象からして違う。若い審査官は自然な笑顔を浮かべている。かつての入国者を威嚇する目つきではない。 東京で予約しておいたハイヤーに乗り、モスクワ滞在前半の宿、メトロポール・ホテルに向かう[注釈 17]。背広をきりっと着こなした青年が運転するのはベンツだ。 ソ連時代のメトロポールは場所が良いことだけが取り柄だったが、長年の改修工事を経て昨年再オープンした。コンピューターで簡単にチェックインを済ませ、足を踏み入れたのは、超ゴージャスに生まれ変わった世界だ。そしてロシア人従業員たちがきびきびと立ち働き、Sir, と綺麗な英語で挨拶をする。外資が入っているとは言え、往年の客を客とも思わぬ接客サービスに比べると隔世の感がある。ロシアは必ず再生する、と予感した。 |
(73-15) (メトロポール・ホテルの再オープン) (昨年の)10月に→(昨年の)12月に | |
〃 10月 |
68-69 | ヴラジーミル・ヴィソツキー(1) | モスクワで必ず訪れる、ワガニコヴォ墓地のヴィソツキーの墓。今年の冬も生花に埋もれている。行き急ぎ、死に急いだ天才。タガンカ劇場のスター俳優で、シンガーソングライターでもあった彼は、1980年7月25日、モスクワ五輪のさなか、僅か42歳で世を去った。 ギター1本の弾き語りで歌われる彼の詩は、その強烈な体制批判の故に、生前のソ連では詩集もレコードも出せなかった。が、その禁制の歌は、同時代のロシア人たちの共感を呼び、秘かにダビングされたテープが手から手へと渡り、全土で聴かれていた。ほぼ全てのロシア人がその死を悼み、タガンカ劇場の葬儀には数十万人の人々が集まった[注釈 18]。 1964年にタガンカ劇場に加わったヴィソツキーは、演出家リュビーモフにより、『ガリレイの生涯』[注釈 19]の主役に抜擢された。当局はタガンカの活動を警戒していた。古典的題材の演目でも、込められた寓意や比喩が観客に届くからだ。 |
(68-9)タガンカ場劇→タガンカ劇場 | |
〃 11月 |
62-63 | ヴラジーミル・ヴィソツキー(2) | モスクワ生まれのヴィソツキーは[注釈 20]、小さい頃から、長編の詩をすぐに暗誦してしまう優れた記憶力の持ち主だった。 1955年にモスクワの10年制中学を卒業し、翌年[注釈 21]モスクワ芸術座附属演劇学校に入学した。折しも雪どけの時代で、映画・演劇・詩歌などあらゆる芸術領域でこれまでの抑圧的な空気からの解放を告げるように新人たちが登場し、モスクワでの第6回世界青年友好祭(1957年)、コメディ・フランセーズのモスクワ公演など、外国文化への窓も少しずつ開かれ、ヴィソツキーも時代を敏感に感じ取っていた。 18歳で母親からギターと教則本を贈られた[注釈 22][注釈 23]ヴィソツキーは、仲間うちで自作の詩をギターに乗せて歌い始めた。 タガンカ劇場でも彼は名優だった。特に当たり役の「ハムレット」は、彼の死までタガンカは代役を立てられなかった[注釈 24]。 |
(62-7)「ヴィソツキーは生れも育ちも生粋のモスクワっ子である」→生まれはモスクワだが、大祖国戦争時は実母とチカロフスク州(現オレンブルク州)のヴォロンツォーフカ村に3歳から5歳まで疎開。両親が別れ、職業軍人の実父に引き取られてからは、9歳になる直前から11歳まで、東ドイツ建国直前のドイツ東部で過ごしている。 (62-29~63-4)「演劇学校時代にヴィソツキーの周囲には大勢の良き仲間が集まる。…ワシリー・シュクシンという、作家、映画監督、俳優の3役をみごとこなした秀才や、後に世界的な映画監督になったアンドレイ・タルコフスキーというようなそうそうたる人達だった」→紛らわしい文章だが、シュクシン、タルコフスキー(両者共全ソ国立映画大学卒)と知り合ったのはモスクワ芸術座附属演劇学校ではなく、当時モスクワでヴィソツキーと同じ集合住宅に住む映画人レヴォン・コチャリャンの部屋に彼らが集まっていたことによる。尚、マリナ・ヴラディの証言によれば、ヴィソツキーは全ソ国立映画大学で身体訓練を受けていたことがある[13]。 | |
〃 12月 |
68-69 | ヴラジーミル・ヴィソツキー(3) | 【ハムレットとヴィソツキー】ヴィソツキーを主役に擁し、パステルナーク訳による『ハムレット』をタガンカ劇場が初演したのは1971年11月29日だが、舞台上を縦横無尽に動く幕の開発のため[注釈 25]、準備に2年の歳月を要した。この幕により、物語の連続性を断ち切らない瞬時の場面転換が可能となった。 タガンカのマルセイユ公演で、ヴィソツキーは熱心なファンに連れ出され、禁制の酒を口にし、夜明けに泥酔状態で発見された。パリからマリナが駆けつけ、一座は代役も覚悟していたが、ヴィソツキーはその晩も『ハムレット』の舞台に立った。最悪の体調にもかかわらず、彼の演技は後にも先にも無いほど神がかっていた。 1980年7月の死の直前まで彼はハムレットを演じ続けた。 ヴィソツキーの1周忌の命日に、タガンカでは『ヴラジーミル・ヴィソツキー』が上演され[注釈 26]、彼の『ハムレット』のセリフの録音も使われた。 |
(68-3&4)(マルセイユの事件)1978年→1977年[注釈 27] (68-8)スペインの→フランスの (68-23&24)「1980年7月13日、死の2週間前の最後のステージまでの10年間にヴィソツキーは217回ハムレットを演じた」→タガンカ劇場の『ハムレット』のガートルード役の共演女優、アッラ・デミードワの日記には「1980年7月13日、217回目のハムレット上演」と書かれているが[18]、ヴィソツキー最後のハムレットはこの数日後の7月18日(他説には17日)[注釈 28]、即ち死の約1週間前。[注釈 29] | |
1993年 1月 |
62-63 | ヴラジーミル・ヴィソツキー(4) | ヴィソツキーの歌は、ソ連の民衆のあらゆる生活場面を映し出していた。一見詩的とは思えない普通の言葉も、メロディックとは言い難い旋律も、彼の手にかかると、高い芸術性と音楽性をまとい、ギター1本で人々を共感でわしづかみにする力強い歌に生まれ変わる。 停滞と沈黙の時代の禁制の詩人。停滞の時代だからこそ、人々は心の拠り所として彼の歌を必要とした。歌が国民に支持されればされるほど、国家は歌を非公認扱いとする、という矛盾を抱えながら。彼の生前は、双方の和解は叶わなかった。 |
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〃 2月 |
62-63 | 心を通訳する | 1960(昭和35)年、モスクワの第1回日本商工業見本市[注釈 30] で初めて通訳を体験する。1953(昭和28)年の引揚から7年、相変わらず日本語の苦手意識に苛まれ続けていた芸大2年の時だった。 戦後15年、ソ連は戦勝国でありながら、民需産業では敗戦国日本に大きく水をあけられている。日本人としての自信を取り戻すと同時に、「彼ら」への妙な優越感、不思議な愛しさが芽生える。 初めてモスクワで見る「ソ連のロシア人」は、自分が知る帝政モードのロシア人とは別物だ。見本市の300人の日本人には、彼らの表層しか見えていない。が、その心の奥底には、本物のロシア人が匿されている。表面の言葉尻だけを追う通訳からはそれは見えて来ない。言葉にできない世界、相手の心の中にまで飛び込まないと、本当の通訳はできない。- これが、通訳者としての原点だ。 |
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〃 3月 |
74-75 | 不思議なロシア人 | ロシア人とは不思議な人々だと思う。型通りの国民性が当てはまらないところがまた不思議だが、どんな時も決してユーモアのセンスを失わず、豊かなアネクドートを生み出す感性には感心する。 昨年暮れ、ハバロフスクを1週間ほど訪問した。物は商店にも自由市場にも豊富にあるが、値段は途方もなく高い。闇価格を操る裏社会が堂々と市民権を得たらしい。日本語のロゴを残した中古車が多数走っているが、車泥棒も頻発している。それでも笑顔でアネクドートを披露する憎めないロシア人たち。 |
(表の半分記入--AlexisMikaJapan(会話) 2022年12月12日 (月) 19:39 (UTC))
(表の六分の一記入--AlexisMikaJapan(会話) 2022年12月24日 (土) 16:15 (UTC))(表の1段記入--AlexisMikaJapan(会話) 2022年12月27日 (火) 11:55 (UTC))(表の1段記入--AlexisMikaJapan(会話) 2023年1月5日 (木) 14:20 (UTC))(表の1段記入--AlexisMikaJapan(会話) 2023年1月15日 (日) 14:45 (UTC))(表の1段記入(最終)--AlexisMikaJapan(会話) 2023年1月25日 (水) 13:00 (UTC))
新旧「ソフィアの歌」
[編集]- (「昭和の光太夫」(92年1月号)・「世にも不思議な再会」(同年5月号)に関連)
最初の復元バージョン
[編集]最初のソ連公演で大成功を収め、ロシア・ソビエト歌謡に抜群に強いという評価が定着しつつあった頃、ロイヤルナイツは、大黒屋光太夫研究家の亀井高孝から「ソフィアの歌」を歌うことを薦められた[22]。光太夫が日本に持ち帰り、北槎聞略に歌詞のみ記録されている歌である[注釈 31]。
ソ連の光太夫研究家、ヴラジーミル・コンスタンチーノフ(1903年‐1967年9月)[注釈 32]は、1961(昭和36)年の論文[26]で、ソフィア[注釈 33]がツァールスコエ・セローで光太夫の身の上を憐れんで作った歌がたちまちペテルブルク都下で流行り始めた、という説を取っているが、これは1965(昭和40)年6月-8月に[28]、亀井高孝・村山七郎と共に訪ソした中村喜和が、レニングラードで、光太夫ペテルブルク到着[注釈 34]以前に出版された歌集の中に元歌を発見したため覆された[注釈 35]。
いづれにせよ、この2人によって元歌の歌詞と旋律は詳細が突き止められており[注釈 36]、30年後にこの歌のルイレーエフとベストゥージェフによる替歌がデカブリストの抵抗歌となった過程も把握されていた。「異郷にありて、身はさびし(アハ・スクーシノ) Ах, скучно мне /На чужой стороне」(ソフィアの歌)と、「故郷にあっても、やるせない(アハ・トーシノ) Ах, тошно мне /И в родной стороне」(ルイレーエフらの替歌)とは、好対照を成している。
コンスタンチーノフは、ソ連の音楽教師らの協力を得て、「ソフィアの歌」を演奏可能な形に復元し、それは1966(昭和41)年8月の「ソ日両国民の平和と友好のための第2回ハバロフスクの集い」で、ロシア語独唱により披露された[32]。(復元譜は『今日のソ連邦』(駐日ソ連大使館広報部発行、日本語)・1967年第3号(2月1日号) p.37にあるが[注釈 37]、鍵盤(現代ピアノ)伴奏付きで、ロシア語歌詞が4番まで、関鑑子による日本語訳詞が5番まで載っている。またコン博士は中村の文献発見後も最初の自説を捨てきれなかったと見え、「作詞 ソフィア・ブーシ」と書かれている。)
亀井がロイヤルにレパートリーとするよう薦めたのは、この復元譜である。
ロイヤルによるこの歌の特別演奏会「ソフィヤの歌 発表会」が、1967(昭和42)年9月25日(=第2回ソ連公演出発の4日前)に、東京・銀座のヤマハホールで開催された[34][注釈 38]。最初に亀井高孝・村山七郎・中村喜和の講演があり、それからロイヤル・中央合唱団・舟田賀津子による歌が、結城久とアンサンブルミュゼットの演奏で披露された。中村の回想によると[35][注釈 39]、この発表会は舟田均の企画で、ロイヤルが歌ったのは舟田均編曲によるロシア語版である。
ロイヤルは引き続き、第2回ソ連演奏旅行でも「ソフィアの歌」を歌い、好評だった[36]。
1976(昭和51)年10月に[37]ロイヤルが出演した、NHK総合TVの30分番組『スポットライト ソフィアの歌』で披露された「ソフィアの歌」は、音全体が上述の譜面よりも典雅に仕立てられ、歌詞(ロシア語)もオリジナルに近いテキストから選ばれ、ロシア人女性歌手[38]とロイヤルのトップテナー・松川義昭との掛け合いで、当時のロシアの相聞歌に近い雰囲気を出している。次いで鈴木健二アナ・中村喜和・舟田均による解説。当時は光太夫が伊勢に帰郷した資料は未発見だったので、鈴木アナは当時の通説に従い「帰国後は江戸の薬草園に軟禁され、一生出られない座敷牢生活を送った」と光太夫の生涯を締めくくった[39]。終盤で「デカブリストの抵抗歌」となった替歌[注釈 40][注釈 41]が、ロイヤルの4人(バリトン牧野時代)により、重々しいテンポ感と雰囲気で歌われた(ロシア語)。
(--AlexisMikaJapan(会話) 2022年11月19日 (土) 17:17 (UTC))
五木寛之による新バージョン
[編集]こちらは主に山下健二ひとりが係わる事項となる[注釈 42]。
五木寛之『ソフィアの歌』(新潮社)[43]にも詳しいが、1991年夏、Aが[注釈 43]五木に「ソフィアの歌」のテープを聞かせたことから話は始まる[44]。
Aは最初、五木にこの歌の日本語歌詞を書かせようと目論んでいたのだが、五木が「前半はイタリア宮廷音楽風、後半は土臭いスラブ風で、木に竹を継いだような変な感じ」と正直に感想を述べると(この第一印象が正しいことは後で証明される)、Aは「五木さんが曲も詞も、自分で納得のいくように改編してしまう。だが、メロディーの一部だけはどこかに残しておく」ことを提案した。五木はこの日まで、『北槎聞略』に記録された「ソフィアの歌」の存在を全く知らなかった。
執筆の合間に何度も口ずさんでいるうちに自然に形が整い、五木作詞作曲の「ソフィアの子守唄」は出来上がった[45]。全体は3拍子系で、出だしは『コサックの子守唄』に似ている。譜例(日本語歌詞)は五木『ソフィアの歌』に収録[46]。
同年秋の鈴鹿論楽会は[注釈 44]、自然にこの流れで「大黒屋光太夫」と「ソフィアの子守唄」を主軸とすることが決まった[48]。この時山下健二が招かれ、ジュリア・ヤマコフ(父親がロシア系)とのデュエットで「ソフィアの子守唄」を初演した[45]。同時に、翌1992年5月放送予定の日本テレビ系特別番組『歌は国境を越えて』の準備も着々と始まっており、論楽会の翌朝には、五木と山下は白子の海岸で番組冒頭シーンの撮影をした[49][50]。
番組の核心を成すペテルブルクロケは、1992年2月下旬から3月上旬にかけて行われたが、これ以外にも、文藝春秋の単行本企画の五木とロシア文化人との対談[51]、更に五木はNHK教育テレビスペシャル[52]のロケを、どちらもモスクワとペテルブルクの両方で行うという、複数の案件を背負った「モスクワからペテルブルクへの旅」[53]となった。一足先にモスクワ入りした山下は、ゴルバチョフ財団を訪れ、前年の約束であった[54]ロイヤルナイツのシングルCD『ЖУРАВЛИ つる』[55]100枚をゴルバチョフに手渡した[56]。五木は2月20日に日本を出発し[57]、同日午後にモスクワに着き[58]、翌21日には正味1日で、朝からモスクワ各所でNHKの撮影[59]、午後に山下と合流しヴァガニコヴォ墓地で日テレのヴィソツキーとエセーニンの墓参の場面の撮影[60]、ブラート・オクジャワのモスクワ郊外の別荘で文春の五木‐オクジャワの対談を行い[61]、その日の深夜に特急「赤い矢」号で[62]モスクワを出発、翌22日の[62]朝[57]ペテルブルクに到着。五木はその日の午後には、早速NHKの撮影で、十字監獄[注釈 45]とアンナ・アフマートヴァ記念館を訪れている[63]。
その翌日から、日テレのペテルブルクロケは本格始動するが、音楽上の取材の中心は、グリンカ記念国立カペラ合唱団である。500年以上の歴史と抜群の実力を誇る同合唱団が、ソ連時代に全く外国(日本など)に紹介されなかった理由を、五木は、その貴族的で雅びなペテルブルク文化の体質がモスクワの共産党政権の気に食わなかったのでは、と推測している[64]。指揮者チェルヌシェンコ編曲[注釈 46]による演奏が何通りも録音されたが、彼はその26年前、ロイヤルナイツのコンサートをレニングラード音楽院のホールで聴いていた因縁の持ち主である[42]。そして五木版「ソフィアの歌」[注釈 47]を歌う少女のオーディションもこの建物で行われ、合格した2人[注釈 48]のデュエットもカペラ合唱団の「宝石のようなホール」[64]で収録された。
カペラ合唱団も含め、現地録音で番組に登場した「ソフィアの歌」は以下の通り。カペラ合唱団の編曲は全てチェルヌシェンコによる。五木版の歌詞は全てロシア語[注釈 49]。番組ではウクライナ・キエフの民謡楽団「クリスチャトゥイ・ヤル」の演奏にもかなり時間が割かれているが、五木と山下はウクライナロケの場面には登場していない。
収録地 | 五木版 | 復元版 |
---|---|---|
ペテルブルク | ◎カペラ合唱団 女声ソロ(歌詞あり)+混声ハミング(無伴奏) ◎弦楽四重奏(チェルヌシェンコ編曲)[注釈 50] ◎民族楽器オーケストラ(チェルヌシェンコ編曲) ◎オーディション合格2少女によるデュエット(現代ピアノによる伴奏) ◎ペトロパヴロフスク要塞[注釈 51]の青空ジャズバンド ◎チョールヌイ・サーシャ[注釈 52]による7弦ギター弾き歌い:譜面通りの演奏ではなく、ジプシー風にアレンジされている。 |
◎カペラ合唱団 女声斉唱ヴォカリーズ(チェンバロ入り) 女声斉唱(歌詞あり)(チェンバロ入り) 女声ソロ(歌詞あり)+混声ハミング(無伴奏) |
キエフ | ◎クリスチャトゥイ・ヤル合唱団[注釈 53] | ◎クリスチャトゥイ・ヤル合唱団 - 復元版の更に元歌の一つとされる、「オイ、ガイ、ガイ」(18c中葉、ツルトフスキィ作曲)、カラバノフ作詞の曲(1780年代後半、旋律は復元版に同じ)を演奏。当時の相聞歌(男女の掛け合い)の様式も披露。 |
カペラ合唱団は、◎ルイレーエフらによる替歌(=デカブリストの抵抗歌)(男声無伴奏[注釈 54])、◎ロシア革命時の替歌(=革命歌)(混声無伴奏)、◎第二次大戦時の替歌(=軍歌)(男声無伴奏)の収録も行い、番組で使われた。
上記以外に番組に登場したペテルブルクのロケ地は、ネフスキー修道院、ツァールスコエ・セロ、ロシア科学アカデミー東洋学研究所[注釈 55]、ネフスキー大通り、地元ラジオ局「ヨーロッパプラス」[注釈 56]、キーロフ劇場[注釈 57]など。
撮影終了後の3月上旬、五木は単身ヘルシンキ経由でストックホルムに向かった[注釈 58]。それから再びペテルブルクに舞い戻り、3月14日に文春のチョールヌイ・サーシャ、ルイビン・ヴィクトールとの2つの対談を行なった[71]。
(--AlexisMikaJapan(会話) 2022年12月2日 (金) 15:22 (UTC))
注釈
- ^ 五木『さらばモスクワ愚連隊』の小説現代新人賞受賞は1966(昭和41)年、単行本初版(講談社)が1967(昭和42)年1月。一方、ロイヤルナイツの菅野光亮クインテットを伴っての第1回ソ連演奏旅行は、1966年12月~1967年1月。よって、菅野クインテットは直接のモデルではない。五木の回想によれば、小説の下敷となっているのは、1965(昭和40)年夏にモスクワで出会ったジャズ好きの少年ミーシャと、ジャズクラブ「青い鳥」[1]のジャズ青年である[2]。
- ^ 本文には「当時のソ連ではコカ・コーラと共にジャズはアメリカ帝国主義の頽廃文化の象徴として、公式には認知されていなかった」(p.68, l.9-10)と書かれているが、当時のソ連社会は、ジャズ排斥から受容へと大きく舵を切っていた[3]。
- ^ 論楽会は1991年10月19日午後6時30分より、於・鈴鹿市文化会館けやきホール[4]。F1グランプリの前夜祭として、決勝レースの前晩に開催。
- ^ 山下が最後に引用した「漂流民は光太夫のみではない。私も山下さんも共に昭和の光太夫かも知れない」は、五木寛之「流されゆく日々 鈴鹿でうたう子守唄(5)」(『日刊ゲンダイ』1991年10月26日(連載 3,929回))に見られるが、五木の原文では「漂流民」が「漂民」となっている。論楽会全般の様子は「鈴鹿でうたう子守唄(1)-(6)」『日刊ゲンダイ』1991年10月22日-29日(連載 3,925-3,930回)に詳しい。
- ^ この歓迎委員会主催のNホテルでのパーティー(当初歌う予定だったのは「首相主催の歓迎リセプションへの大使館の答礼パーティー」)(4月号)は、この後に6回目の首脳会談が控えていた(同)ことから、1991年4月18日と判る。
- ^ シングルCD『ЖУРАВЛИ(ジュラヴリ) つる』は1991年8月に完成(日本コロムビア CODA-8784)、日本で発売。カップリングは『百万本のバラ』。
- ^ 日本テレビ系で1992年5月4日に全国放送。本文中の「歌は国境を越えて おろしや国歌謡譚」は制作時の仮題で、本放送時のタイトルは「五木寛之スペシャル『歌は国境を越えて』~日本渡来のロシア歌謡・第1号「ソフィアの歌」の謎~」。第30回(1992年度)ギャラクシー賞奨励賞受賞[6]。
- ^ 番組では山下の歌う場面は放送されていない。
- ^ a b 本文中では、生神女→聖母、聖神降臨祭(聖五旬祭)→聖霊降臨の大祭、復活大祭→復活祭、奉神礼(聖体礼儀)→ミサと、「正教徒にしか判らない訳語」がかなり言い換えられている。[7]
- ^ 最初にセルギーが建てたのは木造聖堂だが、次第にセルギーを慕う弟子たちが集まるようになり、修道院が形成され、のちの至聖三者聖セルギイ大修道院へと発展した。
- ^ 山下の月光荘時代。
- ^ 総主教の在位1971年-1990年(同年没)。Wikipedia 英語版では「ピーメン1世」となっているが、称号「1世」は2世以降の登場までは使われないので不適切。
- ^ ロシア正教会の修道院で「ラヴラ」(「大修道院」と訳される)という最高格式の呼称が与えられているのは、至聖三者聖セルギイ大修道院と、ペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院の2つだけである(2022年12月現在)。
- ^ 類似の歌詞の曲は数多いが、タイトル『ロシア、ローヂナ・マヤ(Россия -Родина моя/ロシア、わが祖国)』も、リフレイン「ロシア、ロシア、ロシア、ローヂナ・マヤ」もピタリと一致するものは、ハリトーノフ作詞、ムラデリ作曲の作品である。
- ^ この日の様子は、五木寛之「流されゆく日々 ロシアは飢えているか?(27)」『日刊ゲンダイ』1992年4月18日(連載 4,044回)に書かれている。即ちパーティーは記事の前日の4月17日である。(連載「ロシアは飢えているか?」は、「最新モスクワ漂流日記」と改題され、五木『世界漂流』(集英社、1992年6月)に収録されたが、こちらには日付の手掛かりは入っていない。) ゴ氏招聘元の読売新聞社と、パーティーを主催したTBSとの関係を、五木は「例の問題」(集英社版では「記事の問題」) と軽く片付けているが、これは、読売新聞社と佐川急便との土地取引を巡り、同年2月20日のTBSテレビが「読売に疑惑の佐川マネー」と報じたことから、読売がTBSを、次いでTBSが読売を名誉毀損で提訴合戦するに至ったもの[8]。五木「一応、内輪のパーティーという話だった。その辺はたぶん、こんどのゴ氏の来日を一手にとりしきっている読売新聞社への気がねからだろう。例の問題で読売ともめているTBSサイドが企画した催しだからだ」 また五木は、ステージでの海部の『瀬戸の花嫁』を「なんともいいようのない感じをうけた。政治も文化も、すべてを芸能化してしまう最近の演出には、私たち古い人間はどうしてもついていけないのである」、着席したままマイクを手に歌ったゴ氏を「最後が「ロシア ロシア わが祖国よ」と繰り返される、情感のこもった歌である。最近のロシアがロシアだけに、じんとくるところがあった」「(初出には無く、改題刊行時に加筆)この場面では、私も盛大に拍手をしたものだ」と評している。
- ^ パーティーの4ヵ月半後、五木寛之は別の新聞にこの日の様子を書いているが[9]、「ロシア、ロシア、マヤ・ロージナ(吾が祖国よ)」のリフレインを聴きながら「ゴルビー氏は、やはり(艶歌でなく)演歌党なんだな、と、その時思った」。
- ^ モスクワ日程の後半、山下は、ベガ・ホテル(モスクワ中央競馬場隣)5階の、日本人専用ホテル「エルモス」に居を移している[10]。
- ^ 「10万人-20万人」という記事が多い。尚、「モスクワ五輪の祝祭ムードに水を差さぬため、その死は報じられなかった」というネット記事も見られるが、彼の最後の妻・マリナ・ヴラディの証言によれば「モスクワの夕刊の四行の記事だけが」その死を伝えた[11]。Wikipedia ロシア語版「ヴィソツキー」(2022年12月現在)によると、訃報を載せたのは夕刊モスクワ紙とソビエト文化紙。
- ^ タガンカでの初演は1966年5月。山下原文は「ガリレイ」。
- ^ 1938年1月25日生まれ。
- ^ 卒業前からヴィソツキーは演劇に関心があったが、卒業時は実父と家族の勧めで、モスクワ技術建築大学に入学。が、最初の学期を通っただけで中退し、1956年に演劇学校に入る。
- ^ 「17歳」という記事もあり。ギターを贈ったのは実母のニーナ・マクシーモヴナ。ヴィソツキーが5歳の時、実父母の関係は破綻し、彼は最初モスクワの実母の下で育つが、8歳で職業軍人の実父と継母に引き取られ、新しい家族とドイツ東部に行く。その後、実父は11歳のヴィソツキーと継母をモスクワに帰し、ソ連領内に単身赴任した。
- ^ ヴィソツキーが楽器に触るのはこの時のギターが初めてではなく、ドイツ時代に実父からアコーディオンを贈られ、ピアノも習っている。ギターは最初、モスクワの中学の同級生、イーゴリ・コハノフスキー(後に著名な作詞家となる)からコード奏法の手ほどきを受けた。
- ^ またヴィソツキーの死後、タガンカは『ハムレット』を再演していない(2023年1月現在)[12]。
- ^ この幕の考案者は、リュビーモフ腹心の舞台美術家、ダヴィド・ボロフスキーである。『ハムレット』の登場人物全員の衣裳をセーターとすることを提案したのもボロフスキーであった[14]。
- ^ リュビーモフ演出、ダヴィド・ボロフスキー美術、1981年7月25日初演[15]。生前のヴィソツキーの歌や芝居のセリフの録音が多用された。が、この日1日限りで以降の上演は禁止され[15]、Wikipedia「舞台のヴィソツキー」(2023年1月現在)によると、再演許可はペレストロイカ後の1988年を待たねばならなかった。マリナ・ヴラディの記憶「1981年以来5年間、毎年7月25日に上演され、リュビーモフは亡命、後継者のエフロスは死亡、孤児となった劇団はもはやこの芝居を上演していない」(1987年執筆)[16]とは大きな齟齬が生じているが、「5年間」はマリナの思い違いであろう。リュビーモフのソ連市民権剥奪は1984年、帰国は1988年、市民権回復とタガンカへの復職が1989年。
- ^ タガンカ劇場のフランス公演は1977年11月-12月。パリ、リヨン、マルセイユを巡回した。「事件」はこの時起こる。[17]
- ^ ガートルード役のアッラ・デミードワの日記には「1980年7月18日、再び『ハムレット』上演」と書かれ[19]、RIAノーボスチ[20]、アガニョーク[21]など多くのメディアでも7月18日説を採用し、Wikipedia ロシア語版「ヴィソツキー」「舞台のヴィソツキー」もそれを踏襲しているが(2023年1月現在)、タガンカ劇場公式サイトでは最後のヴィソツキーの『ハムレット』上演は1980年7月17日となっている[12]。タガンカはヴィソツキーの死後『ハムレット』を再演していないので(2023年1月現在)、これはタガンカ劇場最後のハムレット上演の日付でもある。
- ^ ヴィソツキー最後の舞台は、『ハムレット』説と、7月21日の『罪と罰』(スヴィドリガイロフ役)説とがある(2023年1月現在のロシア語ネット記事では前者がかなり優勢である)。これは、7月21日のタガンカの『罪と罰』公演に際し「ヴィソツキーは劇場まで来たが、とても舞台に立てる状況ではなく、『罪と罰』は代役が務めた」「晩までにヴィソツキーは体調を持ち直し、『罪と罰』の舞台に立った」の2説が並存するためで、Wikipedia ロシア語版「ヴィソツキー」「舞台のヴィソツキー」は前者を採用し(2023年1月現在)、NHK教育テレビスペシャル『五木寛之のわが心のロシア(2) モスクワは忘れない~吟遊詩人ヴィソツキーの歌~』(1992年4月16日初回放送)では後者に基き、1980年の彼の『罪と罰』の舞台映像に「この公演がヴィソツキー最後の舞台となった」と字幕を入れている。
- ^ 新聞では「日本産業見本市」と書かれることが多い。ジェトロ主催。
- ^ 日本伝来ロシア歌謡第1号と呼ばれることが多いが、光太夫と磯吉はイルクーツクで流行の別の歌も持ち帰ったことが他資料に記録されている[23]。
- ^ コンスタンチーノフは、丹念な考証に基づく[24]『北槎聞略』露訳を生前に完了していた様子だったが[25]、注解や索引などの作成が大変で、出版は1978年、コン急逝後11年もかかった[25]。編集を完成させたのは、『徒然草』の露訳でも名高いヴラディスラフ・ゴレグリャード[25]。このコンスタンチーノフ訳『北槎聞略』は、その後岩波文庫『北槎聞略』(1990年10月)の高野明による注釈でも大いに役立てられ、岩波文庫版は大変読みやすくなっている[25]。
- ^ ソフィア・イワーノヴナ(北槎聞略では「ソヒヤ・イワノウナ」)の名と、カタカナ書きの歌詞は『北槎聞略』巻之九に登場するが、彼女については、ツァールスコエ・セローの宮廷施設管理人、オシープ・イワーノヴィチ・ブーシ(同「ヲシポ・イワノウィチ・ブシ」、巻之三にフルネームで登場)の妹であることの他は、一切不明である。尚、北槎聞略には、執政トルチャニノフ(同「トルッチンニノーフ」「トルッチニノーフ」)の妻なるもう一人のソフィア・イワーノヴナ(同「ソフヤ・イワノウナ」「ソヒヤ・イワノウナ」)が巻之三・巻之七に登場するが、これはブーシの妹ソフィアとは別人と見なすのが妥当である[27]。
- ^ 光太夫のペテルブルク滞在は1791年2月‐11月[29]。内、拝謁の機会を窺うために、女帝の夏の離宮ツァールスコエ・セローに移ったのが5月で、早くとも5月の10日頃にはソフィアに会っている[30]。
- ^ コンスタンチーノフ「ソフィアの歌」(『今日のソ連邦』(駐日ソ連大使館広報部発行、日本語)・1967年第3号(2月1日号) p.36-37。p.36は本文、p.37は復元譜)よりp.36。ここでコン博士は「(1796年より)もっと早く、1791年に活字になったこの歌を(中村は)さがしあてた」と書いているが、中村の論文によれば「1790年に初版が出たらしい」[31]。
- ^ 特に1790年版歌集発見後の中村の論文「あるロシア歌謡の歴史 いわゆる「ソフィアの歌」について」(『言語文化』第3号(一橋大学語学研究室、1966(昭和41)年11月)p.25-55)は秀逸で、ロシア語原詩も譜例も豊富である。但し、後年の中村の論文集『おろしや盆踊唄考 -日露文化交渉史拾遺』(現代企画室、1990年5月)収録版では、原詩も譜例も全てカットされている。
- ^ この楽譜は、山下恒夫・編『大黒屋光太夫資料集 第三巻』(日本評論社、2003年5月)P.702(ロシア語歌詞の2~4番は切れている)、および衣斐賢譲[33]『大黒屋光太夫追憶 古都ペテルブルグ・イルクーツクを訪ねて』(龍光禅寺出版部(三重県鈴鹿市神戸)、1991年12月第1刷、1992年2月第2刷)p.133 にコピーが再録されているが、衣斐版では「編曲 舟田均」に化けている(原譜では G.チェルノイワノフ)。
- ^ 当時の「恒例のコンサート」の仔細は不明だが(山下は「恒例のコンサートの準備のさなか」亀井にこの歌を薦められた、と書いている[22])、亀井が解説を行った[22]ことが確認できるのは、この特別演奏会である。
- ^ 「ソフィアの歌をめぐって」(山下恒夫・編『大黒屋光太夫資料集 第三巻』(日本評論社、2003年5月)p.669-702)は、在野の光太夫研究家・山下恒夫による中村喜和への聞き取り取材だが、中村邸で発表会当日のパンフレット(プログラム)を見た山下恒夫は「関鑑子の訳詞のまずさが致命傷。こんな歌いづらい歌詞ではどうしようもない。また舟田均の構成にも問題。とりすましたクラシックの音楽会風。これでは「ソフィアの歌」を手軽に口ずさむ気にはとてもなれない」(p.694)とこの会を痛烈に批判し、ソフィアの歌が「この音楽会を機にはやる、ファンが広く生まれる、とはならなかった」ことを嘆いている。尚、インタビューの行われた1999年1月時点で、中村はロイヤルナイツが活動を再開していることを知らず「いまは解散してしまいましたが」(p.692)と語っている。
- ^ "Ах, тошно мне"(やれ、つらいね)のこの時の演奏譜例は北川剛『ロシア民謡の歴史』(音楽之友社、1968(昭和43)年7月)p.35、解説記事は p.33-34 に有り。北川は本書の「まえがき」の最初から大黒屋光太夫と「ソフィアの歌」に切り込み、「…この歌に積極的に取り組んでいるロイヤル・ナイツの舟田均氏の集めた資料によれば、この歌がロシアで歌い継がれてゆく間に、いろいろな変形体を生み、その一番最後らしいものが本文の中にでてくる「やれ、つらいね」であることがわかりました」(p.1)と書いている。[40]
- ^ 1992年にペテルブルクでチェルヌシェンコ編曲により録音されたカペラ合唱団の無伴奏男声合唱では、この替歌は全く異なる演奏で、旋律は元の「ソフィアの歌」の音型をそのまま使い、早目のテンポ感で歌われる[41]。
- ^ 当初は、日本テレビ『歌は国境を越えて』にロイヤルの4人全員を出す案だったが、諸般の事情で山下ひとりの出演となった[42]。
- ^ 五木は「Aさん」としか書いていないが[44]、新井満のことである。翌1992年5月4日放送の『歌は国境を越えて』(日本テレビ系)のエンドクレジットには「企画 新井満」と表示。
- ^ 五木は「三回目の」と書いているが[45]、中日新聞の記事を突き合わせると、鈴鹿では4回目である。またNPO法人「SUZUKA文化塾 啐啄庵」(衣斐賢譲が鈴鹿市長退任後に龍光寺を拠点に立ち上げた郷土文化振興団体)の公式サイトにも、五木の鈴鹿論楽会は1988年~1992年に毎年1回、計5回開催されたことが記録されている[47]。
- ^ 十字監獄は2017年12月22日を以て閉鎖され、拘置所機能はペテルブルク・コルピノの第2十字監獄に移転した。
- ^ チェルヌシェンコは五木の譜面を「必ずしもずばぬけた才能のある人間が作ったとは言えないが、非常に人間的なチャーミングな曲」と評した[65]。
- ^ 五木『ソフィアの歌』では「ソフィアの子守唄」と書かれているが、番組の字幕は〈「ソフィアの歌」(ロシア古謡によるコラージュ)詞・曲 五木寛之〉で統一されていた。
- ^ 1位:スベトラーナ・サルティコワ、2位:イリーナ・ネムツワ。Aが2位のイリーナを落とすのは惜しい、と言ったことから、五木の提案でデュエットとした[64]。番組では2人とも16歳と紹介されたが、その後2人が来日した際、五木は「15歳と16歳」と書いている[66]。
- ^ 「詞・曲 五木寛之」と字幕表示されているが、実際の露訳歌詞は山下健二が書き、著作権手続の煩雑さを避けるために名前を伏せている可能性が極めて高い。
- ^ 音楽学校の選抜メンバーによる演奏[64]。チェルヌシェンコは、当時ペテルブルク音楽院長も兼ねていた。
- ^ 当時から既に観光名所であった。
- ^ ジプシーの血を引くペテルブルク(レニングラード)生まれの音楽家。五木の対談集『よみがえるロシア』(文芸春秋、1992年7月)にも登場。
- ^ 番組エンドクレジットでは「合唱団」だが、実際は各メンバーが歌も楽器もこなせる、少人数の民謡楽団。
- ^ 旋律は元の「ソフィアの歌」の音型をそのまま使い、早目のテンポ感で歌われる。
- ^ 五木『ソフィアの歌』[67]および番組では「サンクトペテルブルク大学」東洋学研究所となっていたが、光太夫が書き込みをした浄瑠璃本が保管されているのは「ロシア科学アカデミー東洋学研究所」である[68]。五木に書き込みの解説を日本語でしていたゴレグリャードは、当時ペテルブルク大学日本語科教授でもあった。ゴレグリャードはコンスタンチーノフ(1903年‐1967年9月)急逝後に、11年かけてコン博士の露訳『北槎聞略』の編集を完成させ、1978年の出版を実現させた。『徒然草』の露訳でも名高い。尚、五木は「研究所長のゴレグリアード教授」と書いているが[69]、ゴ教授が所長をした事実は確認できない(研究所の極東部門の主任は務めている)。
- ^ 「日本のTV局がステッセル将軍の親戚を捜しています」という尋ね人告知スポットのロシア語録音を山下が行なった。
- ^ 撮影時はキーロフ劇場で、放映前に昔の「マリンスキー劇場」に改称。5月4日の放送時の字幕では「キーロフ劇場(現・マリンスキー劇場)」と表示された。
- ^ 五木「流されゆく日々 ロシアは飢えているか?(3)」『日刊ゲンダイ』1992年3月14日(連載 4,020回)。-「私はつい数日前、サンクトペテルブルグからヘルシンキを経てストックホルムに着いた」。「流されゆく日々」は原稿ストックの習慣がないので[70]、ほぼリアルタイムである。但し「最新モスクワ漂流日記」(『世界漂流』(集英社、1992年6月)p.11)には、日付の手掛かりは入っていない。
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出典
- ^ モスクワのジャズクラブ「青い鳥」の開業は1964年。(ボリス・エゴロフ (2018年9月19日). “最初はソ連で歓迎されたアメリカのジャズがのちに禁止されたのはなぜか?”. ロシア・ビヨンド. 2022年12月12日閲覧。)
- ^ 五木「最新モスクワ漂流日記」(『世界漂流』(集英社、1992年6月)p.5-66)より p.22-23。初出は「流されゆく日々 ロシアは飢えているか?(10)」『日刊ゲンダイ』1992年3月26日(連載4,027回)。
- ^ 「3万キロ歌いあるき〈ロイヤルナイツ、ソ連の旅〉」『音楽の友』1967(昭和42)年4月号、p.188-193。第1回訪ソメンバーによる座談会。
- ^ 「ことしも19日に「鈴鹿論楽会」 「歌は国境を越え」テーマに 五木寛之氏や阿木燿子さんら 多彩な出演者」中日新聞・三重版(三重)・1991年10月10日。
- ^ JASRACのデータベース J-WID の登録名は、「くさかんむり」の「菅野光亮」。映画『砂の器』(松竹、1974(昭和49)年)のポスターも「菅野」。
- ^ “データベース>ギャラクシー賞”. NPO法人 放送批評懇談会. 2022年12月12日閲覧。
- ^ 「神の母」、「リタジー(英 Liturgy)」(カトリックの訳語は「典礼」)は、東方・西方教会双方で通用する用語と概念である。
- ^ 「読売 VS TBS メンツかけ法廷へ」朝日新聞・1992年4月10日、東京本社版29面。
- ^ 五木「みみずくの散歩(6) 演歌を遠くはなれて」日本経済新聞・1992年9月5日、第43面。のち幻冬舎『みみずくの散歩』(1994年3月)に加筆の上再録。
- ^ 五木寛之「最新モスクワ漂流日記」(五木『世界漂流』(集英社、1992年6月) p.5-66) より、p.17&21&24&26&58-59。初出は五木「流されゆく日々 ロシアは飢えているか?」(6)(『日刊ゲンダイ』1992年3月19日)、(9)(同3月25日)、(11)(同3月27日)、(12)(同3月28日)、(32)(同4月25日)。
- ^ マリナ・ヴラディ(吉本素子・訳)『ヴィソツキー あるいは、さえぎられた歌』(リブロポート、1992年6月)、p.399。
- ^ a b “Гамлет(Архивные спектакли)ハムレット(アルヒーフ)” (ロシア語). Московский театр на Таганке タガンカ劇場(公式サイト). 2023年1月15日閲覧。
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- ^ a b “Владимир Высоцкий (вариант 1981 года)(Архивные спектакли) ヴラジーミル・ヴィソツキー(1981年版)(アルヒーフ)” (ロシア語). Московский театр на Таганке タガンカ劇場(公式サイト). 2023年1月15日閲覧。
- ^ マリナ・ヴラディ(吉本素子・訳)『ヴィソツキー あるいは、さえぎられた歌』(リブロポート、1992年6月)、p.425。
- ^ Цыбульский, Марк マルク・ツィブリスキー. “Высоцкий во Франции フランスのヴィソツキー” (ロシア語). 2023年1月15日閲覧。(2023年1月現在セキュリティ保護なし)1997年1月20日初出(カナダ・トロントの新聞 "Наш взгляд"(われらの視点)・№40、23-27頁)、2013年11月13日ネット配信開始、2015年12月12日加筆。
- ^ Николай Подосокорский ニコライ・ポドソコルスキー (2016年11月7日). “Алла Демидова о Высоцком в роли Гамлета アッラ・デミードワ回想のハムレット役のヴィソツキー” (ロシア語). 2023年1月15日閲覧。
- ^ “"Гамлет" на Таганке タガンカ劇場のハムレット” (ロシア語). Кино-театр>История театра 映画と演劇>劇場史 (2015年6月28日). 2023年1月15日閲覧。
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- ^ “Владимир Высоцкий в роли Гамлета ハムレット役のヴラジーミル・ヴィソツキー” (ロシア語). Коммерсантъ コメルサント (2018年1月15日). 2023年1月15日閲覧。雑誌『アガニョーク』2018年1月15日(№1)・46頁の記事を『コメルサント』オンライン版に転載。
- ^ a b c 山下健二「世にも不思議な再会」(『NHKラジオ ロシア語講座』1992年5月号(日本放送出版協会)p.72-73)より p.72。
- ^ 山下恒夫・編『大黒屋光太夫資料集 第三巻』(日本評論社、2003年5月)「ソフィアの歌をめぐって」(p.669-702)よりp.695-696。
- ^ 中村喜和「ロシアの夢 V.M.コンスタンチーノフ氏回想」(『窓』第112号(ナウカ、2000年3月) p.10-13)より p.10。
- ^ a b c d 「ソフィアの歌をめぐって」(山下恒夫・編『大黒屋光太夫資料集 第三巻』(日本評論社、2003年5月)p.669-702)より p.688。
- ^ ソ連の『ノーヴィ・ミール Новый мир』(=新世界)誌・1961年第5号に発表の「日本における最初のロシア歌謡 Первая русская песня в Японии」。中村喜和による日本語訳が亀井高孝『光太夫の悲恋』(吉川弘文館、1967(昭和42)年3月)に所収。
- ^ 岩波文庫『北槎聞略』(1990年10月) p.396(巻之三 p.53 の注)。
- ^ この時の訪ソ日程等は亀井高孝『光太夫の悲恋』(吉川弘文館、1967(昭和42)年3月)に詳しい。
- ^ 中村喜和「あるロシア歌謡の歴史 いわゆる「ソフィアの歌」について」(『言語文化』第3号(一橋大学語学研究室、1966(昭和41)年11月)p.25-55)よりp.42。
- ^ 亀井高孝『光太夫の悲恋』(吉川弘文館、1967(昭和42)年3月)、p.80。
- ^ 中村喜和「あるロシア歌謡の歴史 いわゆる「ソフィアの歌」について」(『言語文化』第3号(一橋大学語学研究室、1966(昭和41)年11月)p.25-55)よりp.36。
- ^ コンスタンチーノフ「ソフィアの歌」(『今日のソ連邦』(駐日ソ連大使館広報部発行、日本語)・1967年第3号(2月1日号) p.36-37。p.36は本文、p.37は復元譜)よりp.36。
- ^ 衣斐が鈴鹿市長を務めたのは1987年‐1995年。即ち、五木寛之が鈴鹿論楽会を開催した時期、および映画『おろしや国酔夢譚』が製作・公開された時期と重なる。
- ^ この発表会のポスターは、山下恒夫・編『大黒屋光太夫資料集 第三巻』(日本評論社、2003年5月)p.693に収録。
- ^ 「ソフィアの歌をめぐって」(山下恒夫・編『大黒屋光太夫資料集 第三巻』(日本評論社、2003年5月)p.669-702)より p.692。
- ^ 「ロイヤル・ナイツがソ連へ」毎日新聞(夕刊)・1968(昭和43)年4月30日、東京本社版第9面。
- ^ 「解題「ソフィアの歌をめぐって」」(山下恒夫・編『大黒屋光太夫資料集 第三巻』(日本評論社、2003年5月)p.757-758 より p.757)には、放送日は「1976年10月14日、同19日、同30日の3回にわたって」とあるが、実際は10月14日(木)午後7:30-8:00 に関東地方のみの放送、10月17日(日)午前7:30-8:00 に関東地方以外の全国放送。
- ^ NHKの公式ウェブサイト「NHKクロニクル」ではクレジットされていない。
- ^ 「解題「ソフィアの歌をめぐって」」(『大黒屋光太夫資料集 第三巻』(日本評論社、2003年5月)p.757-758)で、編者の山下恒夫は「帰国後の伊勢二漂民監禁説が、すこぶるセンチメンタルなお涙頂戴物語に仕立てられ、江湖に広く流布していった経緯がよくわかる」と、この「鈴木節」への不快感を顕わにしている。録音テープ起こし文面一部あり。
- ^ 1992年5月4日放送の特別番組『歌は国境を越えて』(日本テレビ系、詳細後述)によると、替歌はデカブリストの抵抗歌で終わりではなく、ロシア革命の革命歌、第二次大戦の軍歌まで続く。更に第二次大戦後も「この歌謡(ソフィアの歌)はいまもなおレニングラードの老年層の人々の間に記憶されていることがこのたびの(=1965(昭和40)年の)訪ソのおかげで明らかになり、」と亀井高孝は書いている(亀井『光太夫の悲恋』(吉川弘文館、1967(昭和42)年3月) p.80。この27年後の五木寛之の取材では「私達がペテルブルクへ持ってきた〈アハ・スクーシノ〉の歌を聴かせてみても、その歌をおぼえていると言うロシア市民たちにほとんど会うことができなかった」(五木『ソフィアの歌』Ⅻ「恋歌から革命家への変遷」)が、上記特別番組に登場したウクライナ・キエフの民謡楽団「クリスチャトゥイ・ヤル」のメンバーたちは、一様に「知っている」「聞いたことがある」「子供の頃ラジオで聞いた」と答えている。
- ^ 日本テレビ「五木寛之スペシャル『歌は国境を越えて』~日本渡来のロシア歌謡・第1号「ソフィアの歌」の謎~」1992年5月4日放送(詳細後述)。
- ^ a b 山下健二「世にも不思議な再会」(『NHKラジオ ロシア語講座』1992年5月号(日本放送出版協会)p.72-73)より p.73。
- ^ 五木『ソフィアの歌』新潮社・1994年6月、新潮文庫・1997年7月。初出は『小説新潮』1992年5月号~7月号で、『ソフィアの歌 巡礼』のタイトルで短期集中連載された。
- ^ a b 五木『ソフィアの歌』Ⅲ「紋甲イカとベートーヴェン」。
- ^ a b c 五木『ソフィアの歌』Ⅴ「F1レースと鈴鹿の〈論楽会〉」。
- ^ 新潮社ハードカバー p.109、新潮文庫 p.97、初出『小説新潮』1992年6月号 p.253。
- ^ “五木文庫”. NPO法人 SUZUKA文化塾 啐啄庵 (2007年7月). 2022年11月27日閲覧。(2022年11月現在セキュリティ保護なし)
- ^ この論楽会の様子は、五木「流されゆく日々 鈴鹿でうたう子守唄(1)-(6)」『日刊ゲンダイ』1991年10月22日-29日(連載 3,925-3,930回)にも詳しい。曲目詳細は(1)(10月22日)および(4)(10月25日)。
- ^ 五木寛之「流されゆく日々 鈴鹿でうたう子守唄(5)」『日刊ゲンダイ』1991年10月26日(連載 3,929回)。
- ^ この朝の様子は、五木「流されゆく日々」の「ロシア歌謡の二百年(1)-(2)」(『日刊ゲンダイ』1991年11月6日‐7日、連載 3,935-3,936回)でも言及され、五木は山下の遅い引揚(昭和28年=1953年)に驚いている。これは『流されゆく日々(抄)一九八八~一九九五年』(講談社、1995年7月)にも再録されたが、五木は山下の引揚先を「九州」と誤記している(九州は山下の父の故郷だが、実際の引揚先は神奈川県→東京都)。
- ^ 五木『よみがえるロシア ロシア・ルネッサンスは可能か?』(文藝春秋、1992年7月)。9対談のうち、ロシアで行われたのは3対談で、日本語に堪能なルイビン・ヴィクトール(日本語学者。日テレのペテルブルクロケのコーディネーターも兼ねる)を除く2対談は、山下が翻訳を行った。
- ^ NHK教育テレビスペシャル『五木寛之のわが心のロシア』(1)「ペテルブルク悲歌 ~詩人アフマートワの生涯~」(初回放送 1992年4月9日)(2)「モスクワは忘れない ~吟遊詩人ヴィソツキーの歌~」(初回放送 同年4月16日)。「ペテルブルク悲歌」でNHKの取材に応じたアフマートワの一人息子レフ・グミリョフは、放送後間もなく、同年6月に他界した。
- ^ 五木のモスクワでの1泊2日の様子は、「最新モスクワ漂流日記」(五木『世界漂流』(集英社、1992年6月)p.5-66)に詳しい。初出は『日刊ゲンダイ』1992年3月12日-5月2日で「流されゆく日々 ロシアは飢えているか?(1)-(36)」のタイトルで連載(4,018-4,053回)。冒頭の「十二日間」の範囲は、集英社版では「二月二十日から三月二日までの」と訂正されているが、初出では「二月十八日から三月一日」であった。本文中の「Yさん」とは山下のことである。
- ^ 山下「コンダクターはゴルバチョフ」(『NHKラジオ ロシア語講座』1992年4月号(日本放送出版協会)p.76-77)より p.77。
- ^ 日本コロムビア CODA-8784。1991年8月に完成。
- ^ 山下「民間人ゴルバチョフ」(『NHKラジオ ロシア語講座』1992年7月号(日本放送出版協会)p.72-73)よりp.73。
- ^ a b 五木『ソフィアの歌』Ⅰ「極道紳士・井上靖さんの片影」。
- ^ 五木「最新モスクワ漂流日記」(五木『世界漂流』(集英社、1992年6月)p.5-66)より p.20。初出は「流されゆく日々 ロシアは飢えているか?(9)」『日刊ゲンダイ』1992年3月25日(連載 4,026回)。
- ^ 五木「最新モスクワ漂流日記」(五木『世界漂流』(集英社、1992年6月)p.5-66)より p.59-66。初出は「流されゆく日々 ロシアは飢えているか?(32)-(36)」『日刊ゲンダイ』1992年4月25日‐5月2日(連載 4,049-4053回)。
- ^ 五木「最新モスクワ漂流日記」(五木『世界漂流』(集英社、1992年6月)p.5-66)より p.64。 初出の「流されゆく日々 ロシアは飢えているか?」(『日刊ゲンダイ』)にはこの記述はなく、改題刊行の際加筆されたもの。
- ^ 「書くことと歌うことと」(五木『よみがえるロシア』(文藝春秋、1992年7月) p.107-118)より p.109。
- ^ a b 五木『ソフィアの歌』Ⅳ「十字監獄の女たち」。
- ^ 五木『ソフィアの歌』Ⅰ「極道紳士・井上靖さんの片影」およびⅣ「十字監獄の女たち」。
- ^ a b c d 五木『ソフィアの歌』Ⅹ「カペラ合唱団とはなにか」
- ^ 五木「時代と国境を越える歌と物語の遍歴」(『波』(新潮社)1994年6月号、p.42-47)より p.47。
- ^ 五木「「ソフィアの歌 巡礼」余録」『小説新潮』1992年9月号、p.264-265。
- ^ 五木『ソフィアの歌』Ⅺ「歌は国境と時代を超えて」
- ^ 亀井高孝『光太夫の悲恋』(吉川弘文館、1967年3月)第1部「レニングラードにのこる光太夫の遺筆から」(p.11-96)より p.21 又は p.59。「ソ連科学アカデミー所属アジア諸民族研究所レニングラード支部」は同研究所の当時の名称。
- ^ 五木『ソフィアの歌』Ⅻ「恋歌から革命家への変遷」。
- ^ 五木「流されゆく日々 連載四〇〇〇回を迎えて(5)」『日刊ゲンダイ』1992年2月21日(連載 4,004回)。
- ^ 「ジプシーは風に生きる」(五木『よみがえるロシア』(文芸春秋、1992年7月)p.71-84)より p.73、および「今日のロシア、明日のロシア」(同、p.181-202)より p.183。
「歌と私」(『NHK ロシア語入門』1975年3月号(日本放送出版協会))
[編集]NHKのラジオ講座(当時の番組名は『ロシア語入門』)応用篇に、まだ「今月の歌」コーナーがあった時代[注釈 1]ならではの特別編成です。(当時のラジオ講座は1コマ20分(再放送あり)で週6日、月~木が基礎篇、金・土が応用篇)。
1975年3月、即ち1974年度最終月は、聴取者から募った「私の好きな今月の歌」を第1週~第3週で1曲ずつ取り上げ、第4週がタマーラ原[注釈 2]・ニキータ山下のロシア語による対談「歌と私」。テキストに収められた対談は、日本語対訳も含めて僅か正味2見開きで、しかもタマーラさんの話す分量の方がかなり多く、山下氏は相槌打っているだけという感じで(番組前半では山下氏がかなり喋っていたようなのですが、テキストでは省略されています)、本文自体はロイヤル関連の引用文献としては殆ど使われないかも知れません。が、同時代の空気を読む手掛かりとしては意外と貴重な資料かも知れないと思い、敢て持ってくることにしました。
一つは、言うまでもなく「私の好きな今月の歌」に見る聴取者の動向です。ラジオ応用篇とTV『ロシア語講座』(1973年4月発足)の「今月の歌」はかなり連動性が強く、片方で好評だったものが少し後でもう片方に登場することも珍しくありませんでした。そして選曲には山下氏(ないし「山下氏脱退前のロイヤルナイツ」)が深く係わっており、ロイヤルが実際に歌ったものも少なからずあります。
もう一つは、ロイヤルのソ連公演の日程(1975年1月から)に鑑みて、この番組の収録は出発直前に為された可能性が高いことです。その時山下氏は既にロイヤル脱退を決めていたはずですが(「二十八年組大地の子」13「二転三転」参照)、それでも「わが愛する歌」を語り続ける山下氏[注釈 3]。放送を聞いて、まさか氏が歌を引退する心づもりであることを想像できた人が、一体全国に何人いたでしょうか。
(--AlexisMikaJapan(会話) 2023年2月5日 (日) 13:25 (UTC))
1975年3月の放送は以下の通り。放送用テキストの発行元は日本放送出版協会。
7・8日(金・土)Мама(お母さん)[注釈 4](作詩 O. ミリャフスキー)テキスト p.46-49。
14・15日(金・土)Письмо матери(母への手紙)(作詩 エセーニン)テキスト p.50-53。
21・22日(金・土)Журавли(鶴)(作詩 И. Гофф(インナ・ゴッフ)と誤記)[注釈 5] テキスト p.54-57。
28日(金)対談 タマーラ原/ニキータ山下「歌と私 ПЕСНИ И Я」。リュドミラ・ズィキナの歌から、Звёзды России「ロシアの星々」(レオニードフ作詩、フラートキン作曲)、他1曲がかけられる。テキスト p.58-61。
29日(土)タマーラさんと話そう/後期添削テスト
- 第1週~第3週の譜例はテキスト p.62-64。
- 他に希望の多かった曲は、Я люблю тебя, Россия(ロシアよ、おまえを愛す)[注釈 6]、Русское поле(ロシアの野原)[注釈 7](ゴッフ作詩、フレンケリ作曲)など多数(テキスト p.47)。
- 作曲者名は不記載だが、「お母さん」-ブロネヴィツキー、「母への手紙」-リパートフ、「鶴」-フレンケリ。
- 歌詞対訳は、第2・3週が佐藤純一。第2週「母への手紙」は、原詩は9節まであるが、テキスト記載はスペースの都合上6節。。第1週「お母さん」の署名はウサミナオキだが、実際のウサミの訳は冒頭の語りの部分だけで、1-2番は、ニキータ山下が無署名で NHK-TV『ロシア語講座』1974年4・5月号 p.7 に発表した訳文である。3番の印刷はスペースが足りず省略されている。尚、ウサミの全訳文は、ラジオ『NHK ロシア語入門』1974年8月号 P.2 で見ることができる。
- テキスト記載の歌詞文法解説は宇多文雄。
(--AlexisMikaJapan(会話) 2023年2月4日 (土) 20:02 (UTC))
それまでの上記の歌の登場は
- Мама(お母さん)― '74年4月T '74年8月R
- Письмо матери(母への手紙)― '73年8月R '73年12月-'74年1月T(年度は'73)
- Журавли(鶴)― '73年4-5月T '73年9月R '74年11月T
- Я люблю тебя, Россия(ロシアよ、おまえを愛す)― '73年10-11月T
- Русское поле(ロシアの野原)― '73年6月R '75年1月T(年度は'74) '75年2月R(年度は'74)
- TV講座の初年度(1973年度)の「今月の歌」は1曲を2ヵ月。2年目(1974年度)以降1曲1ヵ月となる。
この3年前からの「今月の歌」を見て行きましょう。まずは、1972(昭和47)年度・ラジオ『ロシア語入門』応用篇から。
◎この年度のテキストには、演奏者の記載が全くありません。ただ、4月の歌の譜面に「編曲 ロイヤルナイツ」と記載があることや、翌1973年9月の『NHK ロシア語《歌と詩》カセットテープ』(日本放送出版協会、歌はロイヤルナイツが担当)に収録された曲が少なくないこと、オペラアリアまで選曲の幅が広いことから、ロイヤルナイツの歌・山下氏の独唱・ソ連レコードなどを適宜取り混ぜていたことが有力仮説として成り立ちます。(あとは録音資料があれば決め手になるのですが)。
年月 | 曲名 | 作詩 | 作曲 |
---|---|---|---|
◎TV講座はまだ始まっていません。 ◎訳題、作詩作曲者の表記は当時のテキストに準じていますが、当時「作者不明」扱いだったものが今日では作者が判明している曲が数曲あります(詳細は表の下)。 ◎この年度の4月から『ロシア語入門ソノテキスト』発売開始[5]。 ◎1973(昭和48)年9月に刊行された『NHK ロシア語《歌と詩》カセットテープ』(日本放送出版協会、詳細後述)に収録された曲は、露語タイトルの末尾に(※)を付けてあります。 | |||
1972年 4月 |
Пусть всегда будет солнце(※) (いつまでも太陽があるように) |
L. オシャーニン | A. オストロフスキー 編曲 ロイヤルナイツ |
5月 |
Стенька Разин (ステンカ・ラージン) |
||
6月 |
По диким степям Забайкалья (さすらい人)[注釈 9] |
不記載(民謡扱い) | |
7月 |
Катюша (カチューシャ) |
(不記載) | (不記載) |
8月 |
Август(※) (八月) |
И. ゴッフ | Ян. フレンケリ |
9月 |
Красный сарафан (赤いサラファン) |
不記載(「19世紀中葉に流行の古い歌謡曲」扱い) | |
10月 |
Подмосковные вечера(※) (モスクワ郊外の夕べ) |
М. Матусовский (M. マトゥソフスキー) |
В. Соловьёв-Седой (V. ソロヴィヨフ=セドイ) |
11月 |
Очи чёрные(※) (黒い瞳) |
Народная песня(民謡) (Цыганский романс(ジプシーのロマンス)の一つ) | |
12月 |
Вот мчится тройка почтовая(※) (トロイカ) |
||
1973年 1月 |
Калинка(※) (カリンカ) |
不記載(民謡扱い) | |
2月 |
Амурские волны (アムール川の波) |
К. ワシーリエフ С. ポポフ |
M. キュス |
3月 |
Ария князя Гремина (グレーミン公爵のアリア) (チャイコフスキーの歌劇 『エウゲニー・オネーギン』第3幕) |
(不記載) | チャイコフスキー |
- 5月『ステンカ・ラージン』…作詩ドミートリー・サドーヴニコフ(1847-1883)[6]
- 9月『赤いサラファン』…作詩ニコライ・ツィガーノフ(1797 ?-1832)[7]、作曲アレクサンドル・ワルラーモフ(1801-1848)。
- 11月『黒い瞳』…作詩エウゲーニイ・グレビョンカ(1812-1848)、補作詩フョードル・シャリアピン(1873-1938)。作曲フロリアン・ゲルマン(1822 ?-1892 ?)。
- 1月『カリンカ』…作詩作曲イワン・ラリオーノフ(1830-1860)。
- 3月の歌『グレーミン公爵のアリア』(Любви все возрасты покорны 恋は年齢を問わぬもの)の作詩は、台本作者のチャイコフスキーとコンスタンチン・シロフスキー(1849-1893)との合作。プーシキンの原作には無い。
- 7月の歌『カチューシャ』は20世紀のソ連歌曲で、作詩ミハイル・イサコフスキー、作曲マトヴェイ・ブランテル。
- 『赤いサラファン』は、1972年度までラジオ講座『ロシア語入門』のテーマ音楽として使われた曲でもある[8]。
(表外枠作成・月&曲題名記入--AlexisMikaJapan(会話) 2023年2月25日 (土) 17:25 (UTC))
(作詩作曲者名&コメント記入--AlexisMikaJapan(会話) 2023年3月5日 (日) 11:25 (UTC))
年月 | 曲名 | 作詩 | 作曲 | テキスト記載の演奏者 |
---|---|---|---|---|
◎NHK教育テレビでこの年度(1973年4月)に新番組『ロシア語講座』発足。 ◎「ロシア語入門ソノテキスト」発売2年目にして最後の年度。 ◎1973(昭和48)年9月に刊行された『NHK ロシア語《歌と詩》カセットテープ』(日本放送出版協会、詳細後述)に収録された曲は、露語タイトルの末尾に(※)を付けてあります。 ◎ソ連での万国著作権条約発効は1973年5月27日。 | ||||
1973年 4月 |
Полюшко-поле(※) (ポーリュシカ・ポーレ) |
Гусев, Виктор Михайлович グーセフ |
Книппер, Лев Константинович クニッペル |
歌:ロイヤルナイツ ピアノ:結城久 バヤーン:寺口護 バラライカ:宇都宮次男 |
5月 |
Дорогой длинною (長い旅路を(悲しき天使)) |
(不記載) |
G. Raskin (当時の通説) |
|
6月 |
Русское поле(※) (ロシアの野原) |
И. Гофф ゴッフ |
Френкель, Ян Абрамович フレンケリ |
|
7月 |
Наш сосед(※) (お隣りさん) |
歌:ロイヤルナイツ ピアノ:結城久 | ||
8月 |
Письмо матери (母への手紙) |
Есенин, Сергей Александрович (エセーニン) |
(不記載) |
歌:ロイアルナイツ (原文ママ) |
9月 |
Журавли(※) (鶴) |
Гофф ゴッフ(誤記) |
Френкель, Ян Абрамович フレンケリ |
|
10月 |
Я шагаю по Москве(※) (ぼくはモスクワを歩く) |
Г. Шпаликов Г.シパリコフ |
А. Петров А. ペトロフ |
|
11月 |
Калитка(※) (柴折戸(しおりど)) |
古いロシア歌謡 (不記載)ー(不記載) |
||
12月 |
Падает снег (雪が降る) |
С. Адамо アダモ (露訳者不記載) |
||
1974年 1月 |
Клён (かえで) | 古いロシア歌謡 (不記載) |
||
2月 |
Гармошка (アコーデオン) |
古い民謡 |
||
3月 |
Аист (こうのとり) |
В. Семернин セメルニン |
А. Островский オストロフスキイ |
- 5月『長い旅路を(悲しき天使)』がジーン・ラスキン作曲となっていた理由は「悲しき天使#英語版」参照。実際の作曲者はソ連のボリス・フォミーン(1900-1948)。ロシア語原詩は同じくソ連のコンスタンチン・ポドレフスキー(1889-1930)たが、歌い継がれて行くうちにロシア語版でも幾つかのヴァリアントが生まれ、テキスト記載の歌詩でポドレフスキー版と一致しているのは1番とリフレインだけである。2番の後半に、ヴェルチンスキー(1889-1957)によるヴァリアントが入っている。佐藤純一は「これは本来は、ソビエトの古いロマンス(中世スペイン風歌曲)のひとつですが、…」と、当時の極度の情報不足を反映した解説を書いている(フォミーンも「ロマンス」作曲家に分類されるが、作曲年代は革命後のソ連である)。
- 8月『母への手紙』は作曲者名不記載だが、ワシーリー・リパートフ作曲。
- 10月の歌は同名映画『僕はモスクワを歩く』(制作1963年・公開1964年、ゲオルギー・ダネリヤ監督)の主題歌。(後に映画監督となるニキータ・ミハルコフ 18歳での映画初主演デビュー作。主題歌は、ラストシーンでミハルコフ演ずるコーリャが一人地下鉄のエスカレーターを登りながら歌う。脚本・作詩のシパリコフは、作品公開の10年後、1974年11月に37歳で自殺した。)
- 11月で佐藤純一は『柴折戸』と瀟洒な訳題をつけているが、「カリートカ」は「木戸」「裏木戸」「くぐり戸」(この歌詩では四阿(あづまや)に通ずる小さな戸・門)くらいの意味。作者は不明扱いで不記載だが、作詩はアレクセイ・ブジーシェフ[9]、作曲はアレクサンドル・オブホフ(Александр Обухов)[10]、19世紀末[11]の作品。(ダークダックスが1972年7-8月のソ連演奏旅行から持ち帰り、同年10月の帰国リサイタルで「本邦初演」と銘打って『鶴』などと共に披露した『くぐり戸』[12]と同じ曲。)
- 12月『雪が降る』の露訳者は不記載だが、この歌詞はムスリム・マゴマエフが歌っていたのと同じもので、レオニード・ジェルベニョフ露訳。(ジェルベニョフは、『恋のバカンス』(Каникулы любви)の露訳詩者でもある。)
- 1月・2月では、「古い」ロシア歌謡(русский романс)・ロシア民謡(Народная Песня)(原文ママ)に Старый, Старая が宛てられているが、Старинный, Старинная の方が普通。
- 1月『かえで』は作者不記載だが、作詩はエセーニン。1925年、縊死の1ヵ月前に書かれた、彼の作品でも最も有名なものの一つ。作曲者は不詳。数人の作曲家の作品があるが、この作者不明の民謡調の旋律が最も知れ渡っている。
- 2月『アコーデオン』では кума(クマー=洗礼の代母、俗語で「おばちゃん」)、Тула(トゥーラ、地名)などの単語が囃し言葉のように繰り返されるが、これは шуточная песня (戯れ歌)としての語調を整えるためのもので、特段の意味はない。
- 3月『こうのとり』作曲のオストロフスキイは、『いつまでも太陽があるように』(cf. R '72年度 4月、T '73年度 6・7月)の作曲者でもある。
(表外枠作成・月&曲題名記入--AlexisMikaJapan(会話) 2023年3月15日 (水) 16:05 (UTC))
(作詩作曲者名&コメント記入--AlexisMikaJapan(会話) 2023年4月6日 (木) 10:41 (UTC))
注釈
- ^ 1975年10月、江川卓の『犬を連れた奥さん』の半年間の講読開始に伴い、ラジオ応用篇の「今月の歌」は廃止され、その後復活しなかった。
- ^ タマーラ原(Тамара Анатольевна Хара/タマーラ・アナトーリエヴナ・原)モスクワ生まれ。モスクワ大学日本語科卒業、1969年来日。上智大学・東京外国語大学講師[1]。1972年度よりラジオ『NHK ロシア語入門』応用篇にゲスト出演[2]。1976年度~2001年度、NHK ラジオ『ロシア語講座』(1976年度に『ロシア語入門』から番組名を変更)応用篇講師[3]。
- ^ テキスト P.58 には「対談中のタマーラ・原さんとニキータ・山下さん」(1枚に収まっているのではなく別個のショット、即ち計2枚)なる写真が載っているが、このうち山下の写真はリアルタイムで撮影されたものではなく、1971(昭和46)年度の録音風景の写真をそのまま転用したもの。『NHK ロシア語入門』1972年4月号 p.2 の写真「基礎編の録音風景」がそれで[4]、山下の姿勢、服装、表情は、1975年3月号 p.58「歌と私」の山下の写真と寸分違わない。即ちこの自然な力強い笑顔は、引退など夢にも思っていない時期のものである。
- ^ ソ連では、エディタ・ピエーハをソリストに擁するアンサンブル「ドゥルージバ」(友情)の歌でヒットした。
- ^ NHK では数年間続いた誤記。実際には、ダゲスタンの詩人ラスール・ガムザートフがアヴァール語で原詩を書き、ナウーム・グレーブニェフが露訳した。テキスト p.55 でウサミナオキは「この歌の原詩はロシア語ではない。…戦没者へのこの реквием(レクイエム)の原詩作者はロシア共和国の山岳地域 Кавказ(カフカース、コーカサス)の Дагестан(ダゲスタン)の авар(アワール)という少数民族の現代詩人で、…」と優れた情報感度を示しているが、残念ながら作詩者名を訂正記載するまでには至らなかった。
- ^ ノーシュキン作詩、ダヴィド・トゥフマーノフ作曲。尚、NHK-TV『ロシア語講座』1973年10・11月号 p.6-7 には「Л.(エリ)・トゥフマーノフ」作曲とあるが、「Д.(デー)・トゥフマーノフ」の間違い。
- ^ 当時の放送用テキストでの邦訳題は「ロシアの野原」(佐藤純一)、「ロシアのひろの」(ウサミナオキ)など。佐藤は『NHK ロシア語《歌と詩》カセットテープ』(日本放送出版協会、1973年9月)でも訳題「ロシアの野原」を使っている。
- ^ 4~5月号までは頭文字略称がローマ字表記だった(6月号以降はロシア文字表記となる)。従って"B"は「ヴェー」ではなく"Б"(ベー)に相当、B. アレクサンドロフとは、「アレクサンドロフ・アンサンブル」の指揮者、ボリス・アレクサンドロフ(指揮者アレクサンドル・アレクサンドロフの子息)のこと。
- ^ 邦題『バイカル湖のほとり』でも知られる。
、
出典
- ^ 1973年の時点では「上智大学専任講師、東京外国語大学講師」(『NHK ロシア語入門』1973年8月号(日本放送出版協会)、p.60「タマーラさんの印象」)。その後のラジオ応用篇の講師紹介では、1976年度が「上智大学講師」(『NHK年鑑 '77』(内容は '76年度))、1977年度以降が「東京外国語大学講師」(『NHK年鑑 '78』(内容は '77年度)~『NHK年鑑 '02』(内容は '01年度))。
- ^ 『NHK ロシア語入門』1973年8月号 p.60「タマーラさんの印象」。
- ^ この期間のラジオ応用篇は、1年のうち半年が文学作品の講読、半年がタマーラ原による実用会話という時間配分が確立していた。
- ^ 1972年度は、基礎篇(担当・佐藤純一)・応用篇(新規に藤沼貴が担当)共に半年ではなく通年単位だったが、うち基礎篇は1971(昭和46)年度の再放送であった。'72年4月号 p.2 の「基礎編の録音風景」は1枚撮りで、録音室で机をはさんで、佐藤と、2人のネイティヴゲスト(山下と野村タチヤーナ)が向かい合って座っている。
- ^ NHK『ロシア語入門』1972年4月号(日本放送出版協会、紙のテキスト)の広告より。また『NHK年鑑'72』p.607 にも記述あり(NHK年鑑は毎年秋に刊行され、『NHK年鑑'72』は放送事業内容は前年度('71年度)の総括であるが、「NHK編集の定期刊行物一覧」(p.606-607)は題名当該年度のデータ(1972年7月1日現在)を記載)。'72年度は紙のテキスト80円、ソノテキスト500円、いづれも月刊。
- ^ 伊東一郎『マーシャは川を渡れない ロシア民謡のなかの文化』(東洋書店 ユーラシア・ブックレット №17、2001年7月)より「4. ステンカ・ラージン」(p.27-34)。サドーヴニコフに関する記述は p.32-33。
- ^ 伊東一郎『マーシャは川を渡れない ロシア民謡のなかの文化』(東洋書店 ユーラシア・ブックレット №17、2001年7月)より「2. 赤いサラファン」(p.11-19)。ワルラーモフ、ツィガーノフに関する記述は p.14-16。
- ^ 『NHK ロシア語《歌と詩》カセットテープ』(日本放送出版協会、1973年9月)、p.30。また放送用テキスト『ロシア語入門』1972年9月号(日本放送出版協会)の『赤いサラファン』(p.2-3)の解説は「この旋律はこの講座のテーマソングにしていますから、皆さまにはすでにおなじみのものですが」と始まっている(p.3)。
- ^ Популярные песни и романсы(愛唱歌集), モスクワ「オメガ(ОМЕГА)」「デニス・アルファ(Денис Альфа)」発行、1995年(ISBN 5-900440-12-5 ロシア語、歌詩のみで譜例は無し)、p.51。
- ^ 「ロシア・ロマンス(曲)一覧(ロシア語版)」による。
- ^ 「アレクセイ・ブジーシェフ(ロシア語版)」によると「1898年」。
- ^ 『つる〈ダーク・ダックス ソヴィエト公演帰国リサイタル実況〉』(キング、SKA41)。1972年10月5日の帰国リサイタル(於・日比谷公会堂)のライブ録音LP。同年12月25日発売。