ノエル・コワペル
ノエル・コワペル Noël Coypel | |
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自画像 | |
生誕 |
1628年12月25日 フランス王国・パリ |
死没 |
1707年12月24日(78歳没) フランス王国・パリ |
ノエル・コワペル(Noël Coypel、1628年12月25日 - 1707年12月24日)は、フランスの画家である。装飾画家として知られる。よく知られた2人の画家、ノエル=ニコラ・コワペル(Noël-Nicolas Coypel)と、アントワーヌ・コワペル(Antoine Coypel)の父親であり、シャルル=アントワーヌ・コワペル(Charles-Antoine Coypel)の祖父である。
略歴
[編集]パリで生まれた。はじめ、オルレアンの画家、シモン・ヴーエに弟子入りし、14歳からパリで働いた。技量の進歩は早く、18歳の時にはシャルル・エラール(Charles Errard)のもとでルーブル宮殿の重要な装飾画の製作を任された。1655年からは王室からの直接の注文を受けてルーブル宮殿の天井画などを製作した。
1659年に王立絵画彫刻アカデミーの会員に推薦されるが、仕事が忙しく、会員となるために必要なアカデミーに提出する作品を仕上げたのは1663年になってからであった。1664年にアカデミーの助教授に任じられた。
1672年にルイ14世の財務総監、ジャン=バティスト・コルベールの推薦で、在ローマ・フランス・アカデミーの校長に、初代のシャルル・エラールに代わって就任するように命じられた。コワペルは息子のアントワーヌ・コワペルと、義理の兄弟となった風景画家、エロー(Charles Hérault)とともにローマに赴任した。1673年から1675年の間、校長を務め、学生の授業のために教材を作り、毎晩学生たちを指導した。この間、ベルサイユ宮殿を飾ることになる5枚の絵画も仕上げた。ローマではカルロ・マラッタやジャン・ロレンツォ・ベルニーニといったイタリアの画家とも親しくなった。
3年間のローマ滞在後にパリに戻り、装飾画の仕事に戻った。
1689年にアカデミーの副学部長、1690年に学部長となり、ピエール・ミニャール(Pierre Mignard)が1695年に没したのを受けて、学長を継いだ。1702年に学部長に戻った。
1705年、77歳になっていたが教会のフレスコ画の仕事をして、体調を崩し、1707年に没した。
1969年にマドレーヌ・エローと結婚しアントワーヌ・コワペルが生まれた。1685年に再婚したアンヌ=フランソワーズ・ペランとの間にノエル=ニコラ・コワペルが生まれた。2人の息子は画家として知られている。
作品
[編集]-
"La Justice punissant" (c.1681)
ベルサイユ宮殿の装飾画 -
ユピテルへの生贄 (c.1672)
ベルサイユ宮殿の装飾画 -
"L'Abondance(豊穣)" (1700)
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ヘラクレスの前に現れたジュノー (1699)
参考文献
[編集]- Frédéric Villot, Notice des tableaux exposés dans les galeries du Musée, Paris, Vinchon, 1855, 60 p., p. 85.