コンテンツにスキップ

トーマス・ベアリング (初代ノースブルック伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代ノースブルック伯爵
トーマス・ジョージ・ベアリング
Thomas George Baring
1st Earl of Northbrook
生年月日 1826年1月22日
没年月日 (1904-11-15) 1904年11月15日(78歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス イングランドハンプシャーストラットン・パーク英語版
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党 自由党
称号 初代ノースブルック伯爵、第2代ノースブルック男爵スター・オブ・インディア勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)
配偶者 エリザベス(旧姓スタート)

イギリスの旗 インド副王(総督)
在任期間 1872年5月3日 - 1876年4月[1]
女王 ヴィクトリア

内閣 第二次グラッドストン内閣
在任期間 1880年4月28日 - 1885年6月9日[2]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 ペンリン・アンド・ファルマス選挙区英語版[3]
在任期間 1857年3月27日 - 1866年9月6日[3]

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1866年9月6日 - 1904年11月15日[3]
テンプレートを表示

初代ノースブルック伯爵トーマス・ジョージ・ベアリング: Thomas George Baring, 1st Earl of Northbrook, GCSI, PC, FRS1826年1月22日 - 1904年11月15日)は、イギリスの政治家、貴族。

ヴィクトリア朝自由党の政治家で、1872年から1876年にかけてインド総督を務めた。自由主義的なインド統治を行ったが、1874年に成立した保守党政権との対立を深めて辞職した。

経歴

[編集]
貴族院で演説する保守党貴族院院内総務ソールズベリー侯爵と自由党席からそれを聞く海軍大臣ノースブルック伯爵と外務大臣グランヴィル伯爵。議長席に座っているのは大法官(貴族院議長)セルボーン伯爵1882年7月5日の『バニティ・フェア』誌の挿絵)。

1826年1月22日、後に初代ノースブルック男爵に叙されるホイッグ党の政治家フランシス・ベアリングの息子として生まれる[4][5]。母はサー・ジョージ・グレイ准男爵英語版の娘ジェーン[4]。曾祖父サー・フランシス・ベアリング准男爵イギリス東インド会社の経営者であったなど、銀行家一族ベアリング家はインドと縁の深い家柄であった[5]

1846年オックスフォード大学クライスト・チャーチを卒業[4]1853年から1855年にかけてインド監督庁長官英語版インド担当大臣の前身)サー・チャールズ・ウッド准男爵(後のハリファックス子爵)の秘書官を務めた関係でインドについて詳しく勉強することになった[5]

1857年ペンリン・アンド・ファルマス選挙区英語版から自由党庶民院議員に当選した。1859年に第二次パーマストン子爵内閣が成立するとインド担当大臣となったウッドのもとでインド担当省政務次官英語版となった。1866年の保守党への政権交代までに陸軍省政務次官英語版内務省政務次官英語版も務めた[5]

1866年9月6日に父からノースブルック男爵の爵位と准男爵位を継承した[4]

第一次ウィリアム・グラッドストン内閣期の1872年2月にインド総督メイヨー伯爵が暗殺された。王璽尚書ハリファックス子爵はその後任としてノースブルック卿をインド総督に推薦した。インド担当大臣アーガイル公爵はそれに反対したが、首相グラッドストンの裁定でノースブルック卿に白羽の矢が立った[5]

英領インド帝国に着任したノースブルック卿は、自由貿易を目指し、一部の品を除いて輸出関税を廃止、また輸入関税も引き下げを行った(輸入関税をある程度残したのは英領インド帝国政府の歳入を確保するため)。税収低下分は所得税復活によって賄った[5]。外交ではインド軍をマレーシアのペラクに出兵させたが、その際に経費を本国に要求して拒否されている[6]

1874年1月に本国でベンジャミン・ディズレーリ率いる保守党政権が誕生した。その政権でインド担当大臣となったのは後に首相となるソールズベリー侯爵だったが、彼とノースブルック卿は折り合いが悪く、関税問題やアフガニスタン政策をめぐって激しい論争になった。ソールズベリー卿はランカシャー綿工業家の意見を容れてインドの輸入関税全廃を主張していた。また英領インドの隣国アフガニスタンについては保護国化を目指していた。しかしノースブルック卿には「インド総督はランカシャーの利益ではなく、インド人の利益を第一とする」「インド総督は本国のインド担当大臣の代理人ではない」という持論があったため、ソールズベリー卿に反対した。2人の対立は深まっていき、1876年4月にノースブルック卿は辞職を余儀なくされた。皇太子バーティのインド訪問を見届けた後の1876年6月に帰国の途についた[7]

帰国して間もなくノースブルック伯爵位を与えられた[4][8]

1880年に第二次グラッドストン内閣が発足すると海軍大臣英語版として入閣した。オラービー革命をめぐるエジプト問題ではスエズ運河の航行権が失われることを恐れてエジプトへの軍事干渉の必要性を訴えた[9]

1890年から1893年にかけては王立アジア協会の会長を務めた[4]

1904年11月15日ハンプシャーストラットン・パーク英語版で死去した[4]

栄典

[編集]

爵位

[編集]

勲章

[編集]

その他名誉職

[編集]

家族

[編集]

1848年にエリザベス・スタート(アリントン男爵英語版の妹)と結婚し、彼女との間に以下の3子を儲ける[4]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 秦(2001) p.101
  2. ^ 秦(2001) p.510
  3. ^ a b c UK Parliament. “Hon. Thomas Baring” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年1月2日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k Lundy, Darryl. “Thomas George Baring, 1st Earl of Northbrook” (英語). thepeerage.com. 2014年1月2日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 浜渦(1999) p.123
  6. ^ 浜渦(1999) p.124
  7. ^ 浜渦(1999) p.124-127
  8. ^ 浜渦(1999) p.127
  9. ^ 坂井(1994) p.97-98

参考文献

[編集]
  • 坂井秀夫『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』創文社、1967年。ASIN B000JA626W 
  • 浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社、1999年。ISBN 978-4120029370 
  • 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220 

外部リンク

[編集]
公職
先代
ハリー・ジェームズ・バリー英語版
イギリスの旗 インド担当省政務次官英語版
1859年1861年
次代
第2代リポン伯爵
先代
第2代リポン伯爵
イギリスの旗 陸軍省政務次官英語版
1861年
次代
第2代リポン伯爵
先代
第2代リポン伯爵
イギリスの旗 インド担当省政務次官
1861年1864年
次代
第3代ウッドハウス男爵
先代
ヘンリー・ブルース
イギリスの旗 内務省政務次官英語版
1864年-1866年
次代
エドワード・ナッチブル・ヒュージェスン英語版
先代
ウィリアム・ヘンリー・スミス
イギリスの旗 海軍大臣英語版
1880年1885年
次代
ジョージ・ハミルトン卿
官職
先代
第10代ネイピア卿(代理)
イギリス領インド帝国の旗 インド副王兼総督
1872年1876年
次代
第2代リットン男爵
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
ハーウェル・グウィン英語版
ジェームズ・ウィリアム・フレッシュフィールド英語版
ペンリン・アンド・ファルマス選挙区英語版選出庶民院議員
1857年1866年
同職:サミュエル・ガーニー英語版
次代
サミュエル・ガーニー英語版
ジャーヴォイズ・スミス英語版
名誉職
先代
第4代カーナーヴォン伯爵
ハンプシャー総督英語版
1890年1904年
次代
第16代ウィンチェスター侯爵英語版
イギリスの爵位
新設 初代ノースブルック伯爵
1876年1904年
次代
フランシス・ベアリング英語版
先代
フランシス・ベアリング
第2代ノースブルック男爵
1866年1904年