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クロード=ラモラル1世・ド・リーニュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リーニュ公クロード=ラモラル1世、作者不詳(スペイン画派またはフランドル画派)、ブラジル国立美術館蔵、1821年ポルトガル王ジョアン6世が同美術館に寄贈
兄の未亡人で従妹でもあった妻クレール=マリー

クロード=ラモラル1世・ド・リーニュClaude-Lamoral Ier de Ligne, 1618年10月8日 ベルイユ英語版 - 1679年12月21日 マドリード)は、スペイン領ネーデルラントの軍人・外交官。第3代リーニュ公、アンブリス公及びエピノワ公。

リーニュ公ラモラル1世の長男ルベ侯爵フロラン・ド・リーニュフランス語版と、シャリニー伯アンリの娘ルイーズ・ド・ロレーヌフランス語版の間の次男。はじめ、3歳年長の兄アルベール・アンリフランス語版が祖父からリーニュ家の家督を継いでいたが、1641年に若くして死んだため、代わって家督を継承した。翌1642年、兄の未亡人クレール=マリー(1621年 - 1695年)と結婚。彼女はクロード=ラモラルの叔母エルネスティーヌフランス語版とナッサウ=ジーゲン伯ヨハン8世英語版の間の娘で、実の従妹であった。1646年には金羊毛勲章を拝受した。

1649年から1669年の間、スペイン領ネーデルラント軍の序列第3位に位置する騎兵隊大将を務めた。1660年にはスペイン王の使節としてロンドン宮廷を訪れた。1670年から1674年にかけてシチリア副王を務め、シチリア島沿岸の漁村を襲撃して略取した住民を奴隷市場に売り飛ばすバルバリア海賊に対して、沿岸部を要塞化し防衛を強化した[1]。1674年にはミラノ公領総督に転じ、死の前年の1678年まで務めた。

死後、未亡人クレール=マリーは一族の居城ベルイユ城英語版を大々的に拡張するとともに、城の正面に開削した6ヘクタールの人工池を含む、25ヘクタールのフランス式庭園を整備した[2] [3]

子女

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妻との間に4子を得た。

引用・脚注

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  1. ^ Description (in Italian) of the actions by the prince de Ligne in Sicily against the Turks. Bando cluade lamoral principe di ligne”. 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年6月3日閲覧。
  2. ^ History of the Chateau of Belœil, in English”. 2007年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年6月3日閲覧。
  3. ^ A description of the present gardens of Belœil in The Telegraph

外部リンク

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