カイザー・フランツ・ヨーゼフ鉄道
カイザー・フランツ・ヨーゼフ鉄道帝室特認会社(ドイツ語 : KFJB, k.k. privilegierte Kaiser-Franz-Josephs-Bahn)は、かつてオーストリア=ハンガリー帝国にあった鉄道会社で、現在のチェコ・鉄道施設管理公団(SŽDC)線(チェコ国鉄線)およびオーストリア連邦鉄道(ÖBB)線の一部である。
概要
[編集]1866年の普墺戦争後に、ウィーンとプラハを結ぶために建設され始め、1868年に最初の区間が開通した。企業名はオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝(カイザー)フランツ・ヨーゼフにちなんで名づけられた。
その後1872年に完成したフランツ・ヨーゼフ駅は、アルザーグルント(ウィーン9区)地区に最初のターミナル駅として開業した。ここはリニエンヴァル Linienwall(ウィーンを囲む城壁)や、ギュルテルに近い。
この路線はウィーン近郊の町トゥルンでドナウ川を渡り、クレムスを通りチェコとの国境に接するグミュントまで伸びる。チェコに入ると、チェスケー・ブジェヨヴィツェ(ベーミッシュ・ブデオヴァイス[1])を通り、ターボル、ベネショフ(ベネシャウ)を経由しプラハ(プラーク)まで辿りつく。
現在のプラハのメイン駅は、フランツ・ヨーゼフ鉄道が用いている駅である。
第二次世界大戦後は鉄のカーテンによって、その路線の重要性を著しく損なったが、しかしながらプラハあるいはベルリンまでの列車が1990年代半ばまでこの路線を使用した。
現在、フランツ・ヨーゼフ鉄道を通る列車はローカル列車のみである。プラハへ行く列車はウィーン南駅を使用している。
創業及び路線の開業
[編集]フランツ・ヨーゼフ皇帝鉄道の創始者は外交官のヨハンアドルフ・ツ・シュヴァルツェンベルク二世 (Johann Adolf II. zu Schwarzenberg) で、彼はプルゼニの石炭をウィーンまで輸送することを望んだ。ウィーンとエガー (現在ヘプ) を結ぶ455 kmの本線の起工式は1866年11月18日フルボかー・ナド・ヴルタヴォウ市で行われた。工事費用は株式で調達されて、工事には14万3000人の労働者が動員された。1884年5月1日フランツ・ヨーゼフ皇帝鉄道は国有化され、オーストリア王立鉄道が車両と路線を引き受けた。
- 1868年9月1日 チェスケー・ブジェヨヴィツェ ― プルゼニ(ピルゼン)
- 1869年11月1日[2] エゲンブルク ― グミュント ― チェスケー・ブジェヨヴィツェ
- 1870年6月23日 ウィーン ― エゲンブルク
- 1871年 グミュント ― ヴェセリ・アン・デア・ラインシツ ― ターボル ― ベネショフ ― プラハ
- 1872年1月28日 プルゼニ ― ヘプ(エゲル)
- 1872年1月10日 アブスドルフ ― クレムス
- 1874年6月8日 チェスケー・ブジェヨヴィツェ ― ヴェセリ・アン・デア・ラインシツ
備考
[編集]- ^ これ以降、括弧の中にあるのは地名のドイツ語名称である。
- ^ Kundmachung im Amtsblatt. In: Wiener Zeitung, 3. November 1869, S. 17 (Online bei ANNO). オーストリア国立図書館提供
参考文献
[編集]- Siegfried Bufe, Heribert Schröpfer: Eisenbahnen im Sudetenland. Bufe-Fachbuchverlag, Egglham 1991, ISBN 3-922138-42-X. (ドイツ語)
- Johann Stockklausner: Dampfbetrieb in Alt-Österreich. Verlag Slezak, Wien 1979, ISBN 3-900134-41-3. (ドイツ語)
- Alfred Wolf: Die Franz-Josefs-Bahn und ihre Nebenlinien. Sutton Verlag, Erfurt 2006, ISBN 978-3-86680-041-0 (ドイツ語)