コンテンツにスキップ

エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エルンスト・アウグスト
Ernst August
ハノーファー国王
ジョージ・ドー英語版による肖像画、1828年頃
在位 1837年6月20日 - 1851年11月18日
別号 カンバーランド公爵

全名 エルンスト・アウグスト
:Ernst August
アーネスト・オーガスタス
:Ernest Augustus
出生 1771年6月5日
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
イングランドの旗 イングランドロンドンバッキンガムハウス
死去 (1851-11-18) 1851年11月18日(80歳没)
ドイツ連邦
ハノーファー王国の旗 ハノーファー王国ハノーファー
埋葬 1851年11月26日
ドイツ連邦
ハノーファー王国の旗 ハノーファー王国、ハノーファー、ヘレンハウゼン王宮庭園霊廟
配偶者 フリーデリケ・ツー・メクレンブルク
子女 フリーデリケ
ゲオルク5世
家名 ハノーファー家
父親 ジョージ3世(ゲオルク3世)
母親 シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
宗教 キリスト教イングランド国教会
サイン
テンプレートを表示
エルンスト・アウグスト

エルンスト・アウグストErnst August1771年6月5日 - 1851年11月18日)は、第4代ハノーファー王。イギリス王族でもあり、グレートブリテン貴族カンバーランド公(1799-1851)の爵位を持つ。英語名はアーネスト・オーガスタスErnest Augustus)。

生涯

[編集]

イギリス王族として

[編集]

イギリス王兼ハノーファー王ジョージ3世(ゲオルク3世)シャーロット王妃の五男として、1771年6月5日にロンドンのバッキンガム・ハウス(現バッキンガム宮殿)で生まれ、7月1日にセント・ジェームズ宮殿で洗礼を受けた[1]。洗礼式でエルンスト・ツー・メクレンブルク英語版が名づけ親の1人であり、エルンスト・アウグストの名前もエルンストに由来する[1]ゲッティンゲン大学で教育を受け、1786年6月2日にガーター勲章を授与された[1]

1799年4月24日にグレートブリテン貴族であるカンバーランド=ティヴィオットデール公爵アイルランド貴族であるアーマー伯爵に叙され、6月5日にイギリスの枢密顧問官に任命された[1]。1815年1月2日にバス勲章ナイト・グランド・クロスを、同年8月12日にロイヤル・ゲルフ勲章英語版ナイト・グランド・クロスを、1821年8月20日に聖パトリック勲章を授与され、1828年4月24日に王立協会フェローに選出された[1]。このほか、1805年から1851年に死去するまでダブリン大学学長英語版を務めた[1]

フリーメイソンリーだった[2]

陸軍の軍人として

[編集]

1790年に中尉として陸軍に入り、1793年に中佐に昇進、1794年2月に少将に昇進した[1]フランス革命戦争では1794年5月のトゥルネーの戦い英語版で負傷、同年末のナイメーヘン攻囲戦英語版で戦功を挙げた[1]。こののち、1799年に中将(1798年に昇進した扱い)、1808年に大将(1803年に昇進した扱い)に昇進、1813年11月26日に陸軍元帥に任命された[1]

ハノーファー王として

[編集]

1837年にウィリアム4世が死去すると、ケント公エドワードの遺児ヴィクトリアがイギリス王位を継承した。しかし、ハノーファー王位の継承はサリカ法に基づいており、エドワードの弟であるカンバーランド公アーネストが継承することとなり、イギリスとハノーファーの同君連合は解消された[1]

ハノーファー王国では1833年に自由主義憲法が定められていたが、新たにハノーファーのみの王となったエルンスト・アウグストは、即位早々に新憲法の破棄を宣言した[1]。そして、これに異議を唱えたグリム兄弟をはじめとするゲッティンゲン大学の教授7人が追放あるいは免職になるという事件(ゲッティンゲン七教授事件)が起こった。

1840年に反動的な憲法を定め、『完全貴族要覧』第2版ではこの憲法のおかげでハノーファーが1848年革命を耐えられたとした[1]

1851年11月18日にヘレンハウゼン宮殿英語版で死去、26日に同地で埋葬された[1]。息子がハノーファー王位およびイギリスの爵位を継承した[1]

家族

[編集]

1815年メクレンブルク=シュトレーリッツ大公カール2世の娘で従妹に当たるフリーデリケ(1778年3月2日 – 1841年6月29日)と結婚した[1]。フリーデリケにとっては3度目の結婚であり、結婚式は5月29日にノイシュトレーリッツで、8月29日にロンドンのカールトン・ハウスで行われた[1]。2人の間には1男1女が生まれた[3]

  • 女子(1817年1月27日) - 夭折[3]
  • ゲオルク5世(1819年5月27日 – 1878年6月12日) - ハノーファー王[1]

系図

[編集]
ハノーファー選帝侯
エルンスト・アウグスト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゲオルク1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゲオルク2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フリードリヒ・ルートヴィヒ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハノーファー国王
ゲオルク3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゲオルク4世ヴィルヘルムエドゥアルトエルンスト・アウグスト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヴィクトリアゲオルク5世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 575–576.
  2. ^ 湯浅慎一 1990, p. 107.
  3. ^ a b Lodge, Edmund, ed. (1872). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (41st ed.). London: Hurst and Blackett. p. lix.

参考文献

[編集]

関連図書

[編集]

外部リンク

[編集]
エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)
ヴェルフ分家

1771年6月5日 - 1851年11月18日

爵位・家督
先代
ヴィルヘルム
ハノーファー国王
1837年 – 1851年
次代
ゲオルク5世
グレートブリテンの爵位
爵位創設 カンバーランド=テヴィオットデイル公爵
1799年 – 1851年
次代
ジョージ
アイルランドの爵位
爵位創設 アーマー伯爵
1799年 – 1851年
次代
ジョージ
軍職
先代
初代ドーチェスター男爵
第15(国王所有)軽竜騎兵連隊英語版 連隊長
1801年 – 1827年
次代
サー・コフーン・グラント英語版
先代
初代ウェリントン公爵
王立近衛騎馬連隊・ブルー英語版 連隊長
1805年 – 1851年
次代
ヒル男爵英語版
学職
先代
ウィリアム・ヘンリー
ダブリン大学学長英語版
1805年 – 1851年
次代
ジョン・ベレスフォード卿英語版
非営利団体
先代
初代オニール伯爵
オレンジ・インスティチュートグランド・マスター
1828年 – 1836年
次代
第3代ローデン伯爵
名誉職
先代
初代ハロビー伯爵英語版
主席枢密顧問官英語版
1847年 – 1851年
次代
第3代ランズダウン侯爵