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エリーザベト・フォン・ザクセン (1552-1590)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エリーザベト・フォン・ザクセン
Elisabeth von Sachsen

出生 (1552-10-18) 1552年10月18日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領、ヴォルケンシュタイン城
死去 (1590-04-02) 1590年4月2日(37歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領ハイデルベルク
配偶者 プファルツ=ジンメルン公ヨハン・カジミール
子女 マリー
エリーザベト
ドロテア
家名 ヴェッティン家アルブレヒト系
父親 ザクセン選帝侯アウグスト
母親 アンナ・ア・ダンマーク
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エリーザベト・フォン・ザクセン(ドイツ語:Elisabeth von Sachsen, 1552年10月18日 - 1590年4月2日)は、プファルツ=ジンメルン公ヨハン・カジミールの妃。

生涯

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エリーザベトはザクセン選帝侯アウグストと、デンマーク王クリスチャン3世の娘アンナの間の娘である。

1570年6月4日ハイデルベルクにおいてヨハン・カジミールと結婚した。父アウグストはカルヴァン派のヨハン・カジミールと政治的方針が異なり、フランスと良好な関係であった。アウグストはこの結婚によりヨハン・カジミールがルター派につくことを過剰に期待したが、期待通りにならなかった。帝国のカトリック教会は、この結婚はハプスブルク家に対する挑発であり、プロテスタント勢力の統一をもくろむものであると見なした。

ヨハン・カジミールはルター派のエリーザベトとの宗教的対立を解消しようとしたが、最終的に1585年10月、エリーザベトは姦通および夫の暗殺を企てたとして捕らえられた。弟クリスティアン1世ですらエリーザベトの罪状を信じていた。エリーザベトは捕らわれている間にカルヴァン派に改宗し、その後しばらくして死去した。

子女

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  • 男子(1573年)
  • マリー(1576年 - 1577年)
  • エリーザベト(1578年 - 1580年)
  • ドロテア(1581年 - 1631年) - 1595年、アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク1世と結婚
  • 女子(1584年)
  • 女子(1585年)

参考文献

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  • August von Kluckhohn (1877), "Elisabeth (Pfalzgräfin bei Rhein)", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (in German), vol. 6, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 7–8
  • Friedrich von Bezold (1881), "Johann Casimir, Pfalzgraf bei Rhein", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (in German), vol. 14, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 307–314
  • Karl von Weber: Archiv für die sächsische Geschichte, p. 215
  • Bayerische Akademie der Wissenschaften: Die letzten Jahre der Pfalzgräfin Elisabeth, Proceedings of the III Cl., 1873, 1879
  • Böttcher, Hans-Joachim (2018) (ドイツ語). Elisabeth von Sachsen und Johann Kasimir von der Pfalz: Ein Ehe- und Religionskonflikt [Elisabeth of Saxony and John Casimir of the Palatinate: A Marital and Religious Conflict]. Dresden: Dresdner Buchverlag. ISBN 9783946906063