エリーザベト・フォン・ザクセン (1552-1590)
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エリーザベト・フォン・ザクセン Elisabeth von Sachsen | |
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出生 |
1552年10月18日 神聖ローマ帝国 ザクセン選帝侯領、ヴォルケンシュタイン城 |
死去 |
1590年4月2日(37歳没) 神聖ローマ帝国 プファルツ選帝侯領、ハイデルベルク |
配偶者 | プファルツ=ジンメルン公ヨハン・カジミール |
子女 |
マリー エリーザベト ドロテア |
家名 | ヴェッティン家アルブレヒト系 |
父親 | ザクセン選帝侯アウグスト |
母親 | アンナ・ア・ダンマーク |
エリーザベト・フォン・ザクセン(ドイツ語:Elisabeth von Sachsen, 1552年10月18日 - 1590年4月2日)は、プファルツ=ジンメルン公ヨハン・カジミールの妃。
生涯
[編集]エリーザベトはザクセン選帝侯アウグストと、デンマーク王クリスチャン3世の娘アンナの間の娘である。
1570年6月4日にハイデルベルクにおいてヨハン・カジミールと結婚した。父アウグストはカルヴァン派のヨハン・カジミールと政治的方針が異なり、フランスと良好な関係であった。アウグストはこの結婚によりヨハン・カジミールがルター派につくことを過剰に期待したが、期待通りにならなかった。帝国のカトリック教会は、この結婚はハプスブルク家に対する挑発であり、プロテスタント勢力の統一をもくろむものであると見なした。
ヨハン・カジミールはルター派のエリーザベトとの宗教的対立を解消しようとしたが、最終的に1585年10月、エリーザベトは姦通および夫の暗殺を企てたとして捕らえられた。弟クリスティアン1世ですらエリーザベトの罪状を信じていた。エリーザベトは捕らわれている間にカルヴァン派に改宗し、その後しばらくして死去した。
子女
[編集]- 男子(1573年)
- マリー(1576年 - 1577年)
- エリーザベト(1578年 - 1580年)
- ドロテア(1581年 - 1631年) - 1595年、アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク1世と結婚
- 女子(1584年)
- 女子(1585年)
参考文献
[編集]- August von Kluckhohn (1877), "Elisabeth (Pfalzgräfin bei Rhein)", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (in German), vol. 6, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 7–8
- Friedrich von Bezold (1881), "Johann Casimir, Pfalzgraf bei Rhein", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (in German), vol. 14, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 307–314
- Karl von Weber: Archiv für die sächsische Geschichte, p. 215
- Bayerische Akademie der Wissenschaften: Die letzten Jahre der Pfalzgräfin Elisabeth, Proceedings of the III Cl., 1873, 1879
- Böttcher, Hans-Joachim (2018) (ドイツ語). Elisabeth von Sachsen und Johann Kasimir von der Pfalz: Ein Ehe- und Religionskonflikt [Elisabeth of Saxony and John Casimir of the Palatinate: A Marital and Religious Conflict]. Dresden: Dresdner Buchverlag. ISBN 9783946906063