コンテンツにスキップ

ウィリアム4世 (イギリス王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィリアム4世から転送)
ウィリアム4世
William IV
イギリス国王
ハノーファー国王
ウィリアム4世(1833年)
在位 1830年6月26日 - 1837年6月20日
戴冠式 1831年9月8日、於ウェストミンスター寺院

全名 William Henry
ウィリアム・ヘンリー
出生 1765年8月21日
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
イングランドの旗 イングランドロンドンバッキンガムハウス
死去 (1837-06-20) 1837年6月20日(71歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドバークシャーウィンザー城
埋葬 1837年7月8日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド、バークシャー、ウィンザー城、セント・ジョージ礼拝堂
配偶者 アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン
子女 一覧参照
家名 ハノーヴァー家
王朝 ハノーヴァー朝
王室歌 神よ国王を守り給え
父親 ジョージ3世
母親 シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
宗教 イングランド国教会
サイン
テンプレートを表示

ウィリアム4世: William IV, ウィリアム・ヘンリー(William Henry)、1765年8月21日 - 1837年6月20日)は、イギリスハノーヴァー朝の国王およびハノーファー王国の国王(ドイツ名:ヴィルヘルム Wilhelm, 在位:1830年6月26日 - 1837年6月20日)。ジョージ3世と王妃シャーロットの第3子で、先王ジョージ4世の弟にあたる。

生涯

[編集]

誕生 - 海軍勤務時代

[編集]
2歳のウィリアムを描いた絵画。

ジョージ3世と王妃シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツの三男として、1765年8月21日の朝にバッキンガム・ハウスで生まれた[1][2]1770年、わずか5歳にしてシッスル勲章を授与された[1]

青年時代海軍に勤務していたため、後に「船乗り王」(Sailor King)の愛称で親しまれた。1779年、13歳の時士官候補生として海軍に入隊、特別扱いされず一般の士官候補生と共に訓練を受けたが、王家出身であることを隠して生活、決して弱音を吐かなかったという[3][4]

1780年サン・ビセンテ岬の月光の海戦ジョージ・ロドニー提督指揮下の艦隊に参加しスペイン艦隊撃破を体験、戦後ロドニーと共にロンドンに凱旋、素性が割れたこともあって市民から大歓迎され父からも喜ばれた。アメリカ独立戦争の時はニューヨークで勤務しており、イギリス歴代君主の中でアメリカ合衆国を訪問した経験のある最初の人物となった[5]

1783年に帰国して次兄のヨーク=オールバニ公爵フレデリックと共にドイツイタリアグランドツアーに出かけたが1785年にイギリスへ帰国、士官となり、翌1786年に軍艦「ペガサス」の艦長になった。1786年中頃には、ニューファンドランドハリファックス(ノヴァスコシア)に差し向けられ、カナダの土を踏んだことのある最初の君主にもなった。その年の暮れにはホレーショ・ネルソン提督の旗下西インド諸島で勤務した。1790年には海軍少将に進級したが、これは海から陸へと遠ざけられた後方勤務であり、いわば敬遠だった。背景には王子のウィリアムがいては海軍命令系統に不都合だからとされる[4][6]

1789年5月20日マンスター伯爵クラレンス=セント・アンドルーズ公爵に叙された[1][7]

即位前の私生活と公務

[編集]

多数の愛人を囲った兄たち(ジョージ4世とヨーク公フレデリック)とは異なり、ドロシー・ジョーダン(ドロセア・ブラントの名で女優として活躍していたアイルランド人)と1811年までの20年余り夫婦同様に生活し、10人の庶子を儲けた[4][8][9]。庶子達には、自分の公位から取ったフィッツクラレンスFitzClarence:「クラレンスの子」の意味)の姓を与えている。

1811年にドロシーと別れた後の1818年ザクセン=マイニンゲンゲオルク1世の娘アーデルハイト(イギリスではアデレード・オブ・サクス=マイニンゲンと呼ばれる)と結婚した。2人の娘をもうけたが、いずれも夭折した。

1827年に次兄の死去で王位継承者となりロード・ハイ・アドミラル英語版にも任命されたが(1827年 - 1828年)、名目上の役職にもかかわらず職権を行使して迷惑がられることになる[4][10][11]

同年10月、ギリシャ独立戦争中にナヴァリノ海戦[注釈 1]が起きると、ウィリアムは現地のイギリス艦隊司令官エドワード・コドリントン提督を激励した。しかしこの行動は、海軍本部の承認を受けたわけでも、政府の方針を反映したものでもなかった[2]

翌年7月にも、ウィリアムが海軍砲兵委員会に提出した勤務指令書をめぐって海軍本部と対立した[12]。兄王ジョージ4世の支持も得られないことがわかると、ウィリアムは艦隊を率いてプリマスを出港、行き先を告げずに10日間も海上に留まった。政府もこの身勝手な行動を看過できず、8月にウィリアムをロード・ハイ・アドミラルから解任した[12]

治世

[編集]

1830年、長兄ジョージ4世の後を襲って王位に即く。戴冠式などどうでもいいと言い出して側近を慌てさせたが、「華美にしないこと」と「節約」を条件に挙行を渋々受け入れた。派手好きな貴族たちがそんな地味な式など面白くないと騒ぎ出すと、「ウェストミンスター寺院が広々として涼しげではないか」と全く意に介さなかった。65歳という当時としては高齢の新・国王は、海軍時代にロンドン市内を自由に歩き回ったのと同じように、侍従も連れずに気軽に市中へ出かける習慣を止めなかった。幸運にも街角で国王を見つけたロンドン市民は歓喜のもとに彼を取り巻き、彼もまたそうした者たちと気さくに握手をしたり語りかけたりして人気を集めた[4][13]

ただ、この気さくな国王はリウマチを患っており、執務をとるのにも一苦労であった。そこで国王秘書官英語版を再設置することとなり[注釈 2]、父王ジョージ3世の秘書官も務めたサー・ハーバート・テイラー英語版陸軍中将が就任することとなった[15]

ホイッグ党政権期(グレイ伯爵内閣・第一次メルバーン子爵内閣)

[編集]

ウィリアム4世即位時の政権は、初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーを首相とするトーリー党政権であった。当時の政界は、腐敗選挙区の廃止をめぐる選挙法改正問題に揺れており、法改正に腰が重たいウェリントン内閣は野党から激しい攻撃を受けた。その結果、1830年11月15日、政府提出の王室費に関する法案に反対するホイッグ党の動議が233対204で可決される事態となり、ウェリントン公爵は総辞職してしまう[12]

ウェリントン公爵の後任には、ホイッグ党党首の第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ(ウィリアム4世の友人でもあった)が首相に就任した。彼のもとで救貧法の継続、地方政府の民主化、大英帝国内における児童労働の制限と奴隷労働の廃止などいくつかの改革がなされたが、そうしたなかでも腐敗選挙区の廃止・議席の再配分・選挙権の拡大を骨子とした1832年のイギリス初の選挙制度改革は特に重要なものだった。ウィリアム4世は選挙法改正案を通すグレイ伯爵に協力した。貴族院の抵抗を排除すべく、最終的に貴族創家に同意し[2][16]、法案成立に大きな役割を果たした[注釈 3]。これを突破口としてイギリスでは選挙法に次々と改革がもたらされるようになり、そこに議会制民主主義の完成を見ることになる[4][13][17][18]

しかしそのグレイ政権にも陰りが見えてくる。1834年5月、急進派閣僚の陸軍支払長官ジョン・ラッセル卿アイルランド国教会の収入を民間に転用する政策を提案したことをきっかけに、閣内の不満が噴出した[2]。この閣議提案に反発した陸軍大臣スタンリー卿(後の第14代ダービー伯爵)ら3名の閣僚が辞職してしまう。7月、この件で求心力を落としたグレイ伯爵は退陣することとなり、グレイ伯爵の推挙で第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムが首相に任命された。

11月、庶民院院内総務ジョン・スペンサーが父からスペンサー伯爵位を継承して貴族院に転じたため、庶民院指導者のポストに空きができた。そこでメルバーン子爵は、院内総務に急進派のジョン・ラッセルを就任させようとしたが、これを嫌った国王と対立を深めた[2][19]。そうしたなか11月19日、ウィリアム4世は議会の意思に反してメルバーン子爵を更迭してしまった。その後、ウェリントン公爵の暫定政権を経て、12月にメルバーン子爵が推挙したサー・ロバート・ピール保守党[注釈 4])を首相に任命した[2][19]。この交代劇は、イギリス政治史上、議会の意思に反して国王が首相を任命した最後のケースである。

短期間の保守党政権期(第二次ウェリントン公爵内閣・ピール内閣)とメルバーン再登板

[編集]

国王の首相罷免によってお鉢が回ってきたピール政権ではあったが、年末早々につまずきを見せる。1834年の暮れに議会を解散して総選挙英語版に打って出たが、過半数を獲ることができなかった[19]。翌年始まった議会では、野党三党派(ホイッグ・急進派・オコンネル派)が結束してピール政権を攻撃した。その結果、ピール政権は4月に度重なる法案提出阻止で内閣総辞職に追い込まれた[2][19]

後任の首相選定では、ウィリアム4世はメルバーン子爵を嫌って、引退していたグレイ伯爵に首相就任を求めた。しかしグレイ伯爵は高齢を理由に辞退し、メルバーン子爵を改めて推挙した[21]。国王からの更迭を経験していたメルバーン子爵は、再登板にあたって首相を引き受ける条件をウィリアム4世に叩きつけた。「王族議員は政府をしっかりと支持すること」、「その議席に空きが生じたとしても、政府に不利な者を登用しないこと」、「(さきの)アイルランド国教会収入転用法案の成立を進める政府を支持すること」を求め、ウィリアム4世は渋々この条件に同意した[2]

こうして首相に就いたメルバーン子爵であったが、国王からいつ罷免されるかわからず戦々恐々としており、前政権の更迭劇で国王を止めなかったテイラー秘書官の存在も不満だった。メルバーン子爵はいざという時に国王に味方するテイラー秘書官を信頼しなくなり、ウィリアム4世の崩御後に国王秘書官職を廃止してしまうほどであった[22]

ただ一連の政権交代は、後継首班の選定が国王と政党指導者の相談で決められ、内閣総辞職も慣例化していく経過を辿り、国王大権の弱体化と相対的に議会や内閣の権限強化が見られ、議会内の政党政治も定着していき二大政党制へと行きつくことになる[4][23][24]

王位をめぐってケント公妃と対立

[編集]
ケント公未亡人ヴィクトリア(左)は、王位継承者の娘ヴィクトリア(右)を笠に着て、ウィリアム4世を蔑ろにする振る舞いをみせた。

2人の娘に先立たれたていたウィリアム4世にとって、姪のヴィクトリア(弟ケント公エドワードの娘)が王位継承者であった。しかし彼女の母ケント公妃ヴィクトリアは、ドイツの出自であること、度重なる手当増額の要求、ヴィクトリアへのドイツ風の教育をしていることから、兄王ジョージ4世をはじめとする王室から煙たがられていた[25]

ウィリアム4世もケント公妃には不信感を抱いていた。このドイツ人の義妹がヴィクトリアに干渉してくる姿勢に眉を顰め、ケント公妃が実家から娘の結婚相手に王子たちを迎えたことにも苛立ち、ケント公妃が将来の王母として摂政になることに強い抵抗を示していた[26]。また政治的にも、ウィリアム4世がホイッグ党政権と揉めた際、ホイッグの肩を持つケント公妃が腹立たしかった[注釈 5][28]

1836年8月21日、71歳の誕生日を記念してウィンザー城で開かれた宴席でケント公妃への怒りが爆発した。ヴィクトリアが18歳で成人を迎え摂政を置く必要が無くなるまでの9か月生きることを熱望し、ケント公妃を公衆の面前で叱責する答辞を述べた[29][30]

一方で、姪のヴィクトリアとの関係は良好だった。王室から嫌われているケント公爵家ではあったが、ヴィクトリアは関係改善を図り、ウィリアム4世やアデレード妃を定期的に訪問したためである。国王夫妻はだんだんとヴィクトリアを好きになり、娘のように可愛がった[31]

ウィリアム4世の目論見通り、ヴィクトリアは崩御1か月前の5月24日に18歳の誕生日を迎え、ケント公妃の摂政就任は無くなった[32][33]

18歳になったヴィクトリアを祝福して、10,000ポンドの年金を贈った。このとき国王は「この年金はヴィクトリアの自由によるもので、母親は干渉できない」としたためた[34]。また、宮内長官英語版の第2代カニンガム侯爵フランシス・カニンガムには、ヴィクトリア本人に手紙を渡すよう命じて、公爵家の住まい(ケンジントン宮殿)に向かわせた。ケンジントンでは案の定、ケント公妃が手紙を受取ろうとしたが、カニンガム侯爵は王命を理由に断り、あらためてヴィクトリアの手に渡ったという[34]

この頃からウィリアム4世は病に伏せるようになり、心配したヴィクトリアが頻繁に国王を見舞い、アデレード妃を励ますこともあったという[31]

崩御前日の6月19日、ヴィクトリアは叔父のベルギー国王レオポルド1世にこのように書き送っている[35]

国王のご容体は…絶望的で、…とても残念です。国王は個人的にいつも私に親切にしてくださいました。 — 1837年6月19日

崩御

[編集]

6月18日、ウィリアム4世は臨終間近となった。カンタベリー大主教ウィリアム・ハウリ英語版)が寄り添っていると、国王は今日がワーテルローの戦いの戦勝記念日であることを思い出した[36]。「今日の日が過ぎるまでは生きていたい。次の日の日没まではとても保つまいが…」と語ったとされ、侍医のチェンバーズ医師英語版が「陛下が多くの日没をご覧になれるよう祈ります」と返すと、「それはまったく別のことだ、まったく別のことだ」と答えたという[36]。王は次の日(19日)もなお生き、日没を拝むことができた。

その翌日の朝、1837年6月20日に崩御した[36][37]。イギリス王位はヴィクトリアが、ハノーファー王位は弟のエルンスト・アウグストがそれぞれ継いだ(ハノーファーではサリカ法により女子の王位継承が認められていなかったため)。

人物

[編集]
1837年の1月、庶子の中で最も可愛がっていた長女ソフィアが描いた父ウィリアム4世。4月10日、ソフィアは41歳で産褥死する。

家族・他王族との関係

[編集]
  • ドロシー・ジョーダンとの子を全員王室で引き取ることとなり、並行して妃となる花嫁探しもしていた。実質的に連れ子となる10人の子の養母ともなることを即決し、針仕事の得意なアデレードはまさに探していた女性であった。
  • 庶子のうち、息子たちは父にしょっちゅう金銭をせびり、より高い地位を要求していたため、マスコミの格好の的であった。逆に娘たちはみな美しく社交的で聡明であったために「宮廷の花」ともてはやされた。
  • 娘たちとの仲は晩年まで良好であり、ロンドン近郊に住む娘や孫にたびたび会いに行っていたという。
  • ヴィクトリア女王は王女時代、ウィリアム4世を「一風変わった方、…(中略)…その真意はしばしば曲解される」と評している[34]

子女

[編集]

アデレードとの間に2女をもうけたが、いずれも夭折した。

  • シャーロット(1819年3月21日 - 1819年3月21日)
  • エリザベス(1820年12月10日 - 1821年3月4日)
結婚前の愛人ドロシー・ジョーダン女優として女王ヒッポリュテーを演じる衣装を着ている。

ドロシー・ジョーダンとの間に10人の子を儲けた。子供たちの名前は次男ヘンリー以外は自身の兄弟姉妹にちなんで名付けられた。ただし、いずれも王位継承権のない庶子の扱いである。

栄典

[編集]

爵位・君主号

[編集]

イギリス

[編集]

外国

[編集]

紋章

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 1827年10月、三国(イギリス、フランス、ロシア)連合艦隊がギリシャ独立戦争中、ナヴァリノ湾に停泊するオスマン帝国艦隊に対して、ギリシャへの敵対行動の停戦交渉を行った。その後、使者を乗せたカッターがオスマン側から銃撃を受けたことをきっかけに大海戦に発展した。海戦はコドリントン提督らが指揮する連合艦隊があっさりとオスマン艦隊を撃破し、潰走させた。しかし本国政府(ウェリントン公爵内閣)はこの現地艦隊の独断専行を『思いもよらない出来事(untoward event)』と非難して、のちにコドリントンを解任している。
  2. ^ 兄のジョージ4世は摂政の頃から自身で国王秘書官を任命していたが、歴代秘書官のサー・ジョン・マクマホンベンジャミン・ブルームフィールドらはいずれも職権乱用して国王秘書官の評判を下げた。1822年、ジョージ4世はときの首相の進言をいれて、国王秘書官職を廃止していた[14]
  3. ^ 貴族創家の必要数は、『英国人名辞典』の50名、小泉信三による80名など、一定しない。
  4. ^ 1833年の会期からトーリー党は選挙法改正反対運動で名前に付いた悪いイメージを払拭するために保守党という名称を使用するようになった[20]
  5. ^ ケント公妃は亡き夫の影響から、急進派英語版ダーラム伯爵やアイルランド独立運動家ダニエル・オコンネルとも親交が深かった[27]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e Laughton, John Knox (1900). "William IV" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 61. London: Smith, Elder & Co. pp. 325–331.
  2. ^ a b c d e f g h Brock, Michael (23 September 2004) [2004]. "William IV". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/29451 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  3. ^ 森 1986, p. 538-539,544.
  4. ^ a b c d e f g 松村 & 富田 2000, p. 821.
  5. ^ 森 1986, p. 539.
  6. ^ 森 1986, p. 540-541.
  7. ^ a b "No. 13097". The London Gazette (英語). 16 May 1789. p. 377.
  8. ^ 森 1986, p. 541.
  9. ^ 君塚 2007, p. 7.
  10. ^ 森 1986, p. 541-544.
  11. ^ 松村 & 富田 2000, p. 433.
  12. ^ a b c Gash, Norman (23 September 2004) [2004]. "Wellesley [formerly Wesley], Arthur, first duke of Wellington". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/29001 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  13. ^ a b 森 1986, p. 544-546.
  14. ^ 君塚 (2023), p. 38-39,42.
  15. ^ 君塚 (2023), pp. 42–43.
  16. ^ 小泉, 信三『ジョオジ5世伝と皇室論』(第一刷)株式会社 文藝春秋東京都千代田区、1989年、53頁。ISBN 9784163430607 
  17. ^ 君塚 1998, p. 58-62.
  18. ^ 君塚 2015, p. 91-94.
  19. ^ a b c d 君塚 (2023), p. 46.
  20. ^ 神川信彦、君塚直隆(解説)『グラッドストン 政治における使命感』吉田書店、2011年、55頁。ISBN 978-4905497028 
  21. ^ 君塚 (2023), p. 47.
  22. ^ 君塚 (2023), p. 47-48.
  23. ^ 君塚 1998, p. 27-29,58-65.
  24. ^ 君塚 2007, p. 24.
  25. ^ ジャッフェ (2017), p. 26-27.
  26. ^ ストレイチー (1953), p. 43-46.
  27. ^ ストレイチー (1953), p. 26.
  28. ^ ストレイチー (1953), p. 46.
  29. ^ 森 1986, p. 546-548.
  30. ^ 君塚 2007, p. 16-19.
  31. ^ a b ジャッフェ (2017), p. 36.
  32. ^ 森 1986, p. 548-549.
  33. ^ 君塚 2007, p. 19.
  34. ^ a b c ストレイチー (1953), p. 51.
  35. ^ ジャッフェ (2017), p. 37-38.
  36. ^ a b c ストレイチー (1953), p. 54.
  37. ^ ジャッフェ (2017), p. 41.
  38. ^ 湯浅 1990, p. 107.
  39. ^ バーネット, アラステア、ネリガン, ティム 著、千葉隆章 訳『ダービーの歴史ーその世界最高の競馬を語る財団法人競馬国際交流協会東京都港区、1998年、113-114頁。 
  40. ^ a b c d e f g h i Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. p. 1465.
  41. ^ Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 261–262.
  42. ^ a b c d e f 君塚 2004, p. 304.
  43. ^ 君塚 2004, p. 303.

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]
ウィリアム4世 (イギリス王)
ヴェルフ分家

1765年8月21日 - 1837年6月20日

爵位・家督
先代
ジョージ4世
イギリスの旗 連合王国国王
第3代:1830年 - 1837年
次代
ヴィクトリア
ハノーファー国王
第3代:1830年 - 1837年
次代
エルンスト・アウグスト
公職
先代
メルヴィル子爵英語版
(海軍大臣)
海軍卿英語版
1827年 - 1828年
次代
メルヴィル子爵
(海軍大臣)
名誉職
先代
ヨーク・オールバニ公
バス騎士団グレートマスター
1827年 - 1830年
空位
次代の在位者
サセックス公