アーチボルド・ケネディ (初代エイルザ侯爵)
初代エイルザ侯爵アーチボルド・ケネディ(英語: Archibald Kennedy, 1st Marquess of Ailsa KT FRS、1770年2月 – 1846年9月8日)は、イギリスの貴族、政治家。1796年から1806年までスコットランド貴族代表議員を務めた[1]。
生涯
[編集]第11代カセルス伯爵アーチボルド・ケネディと2人目の妻アン(Ann、旧姓ワッツ(Watts)、1793年12月29日没、ジョン・ワッツの娘)の長男として、1770年2月に生まれた[1]。
1790年に歩兵中隊を編成し、のちにウェスト・ローランド・フェンシブルス(West Lowland Fencibles)副隊長を務めた[1]。
1792年に父がカセルス伯爵位を継承したとき、議会入りを望んだ[2]。このとき、カセルス伯爵家のエアシャー選挙区における勢力が強かったが、1794年12月30日に父が死去してカセルス伯爵位を継承することになり、スコットランドにおける庶民院議員の被選挙権を失った[1][2]。1795年4月、父の遺産継承者として正式に認定された[1]。
1796年イギリス総選挙ではウィリアム・フラートンを支持してたが、フラートンはダンダス家の支持を得られず、対立候補のヒュー・モンゴメリーが勢力の強いエグリントン伯爵家出身だったこともあり、フラートンは26票対30票で落選した[2]。同年にヒューがエグリントン伯爵位を継承すると、フラートンは補欠選挙に出馬して、カセルス伯爵の支持を得て無投票で当選した[2]。1797年にはカセルス伯爵がグレートブリテン貴族への叙爵を目指して、フラートンへの支持をやめると噂されたが、伯爵はこれを否定、フラートンは1802年イギリス総選挙で再選した[2]。
1803年2月に同族のトマス・ケネディ(Thomas Kennedy)の出馬を模索したが、初代メルヴィル子爵ヘンリー・ダンダスに支持を拒否され、ケネディの立候補を断念している[2]。1796年から1806年までスコットランド貴族代表議員を務めた後、1806年11月12日に連合王国貴族であるエアシャーにおけるエイルザのエイルザ男爵に叙された[1][3]。以降もエアシャー選挙区におけるエグリントン伯爵への敵対を続け、1819年12月にエグリントン伯爵が死去するとエアシャー統監への任命を期待したが、結局任命されなかった[2]。
1821年戴冠式記念叙勲において、1821年7月17日にシッスル勲章を授与された[5]。
貴族院では1820年にジョージ4世妃キャロライン・オブ・ブランズウィックへの痛みと罰法案に賛成票を投じ[6]、第1回選挙法改正の第2次法案(1831年10月)に代理投票で賛成票を投じた[7]。
国王ウィリアム4世の親しい友人であり、次男がウィリアム4世の庶出の娘と結婚したほか[1]、1831年9月10日には連合王国貴族であるエアシャーにおけるエイルザ島のエイルザ侯爵に叙された[8]。
1846年9月8日にロンドンのセント・マーガレッツで死去、アンガスのダンで埋葬された[1]。長男アーチボルドに先立たれたため、孫アーチボルドが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1793年6月1日、マーガレット・アースキン(1772年ごろ[9] – 1848年1月5日、ジョン・アースキンの娘)と結婚、2男4女をもうけた[1]。
- アーチボルド(1794年6月4日 – 1832年8月12日) - 庶民院議員[9]。1814年5月1日、イリナ・アラーダイス(Eleanor Allardyce、1832年11月16日没、アレクサンダー・アラーダイスの娘)と結婚、子供あり。第2代エイルザ侯爵アーチボルド・ケネディの父[1]
- アン(1797年6月26日 – ?) - 1821年8月10日、第2代準男爵サー・デイヴィッド・バードと結婚、子供あり[1]
- メアリー(1799年5月4日 – 1886年) - 1833年12月10日、リチャード・オズワルド(Richard Oswald、1834年1月9日没、リチャード・アレクサンダー・オズワルドの息子)と結婚[1]
- マーガレット(1800年6月16日 – 1889年9月3日) - 1817年11月14日、トマス・エア(Thomas Eyre、1790年10月21日 – 1833年3月22日、ニューバラ伯爵の僭称者)と結婚、子供なし[1]
- ジョン(1802年6月4日 – 1831年3月6日) - 1827年7月5日、オーガスタ・フィッツクラレンス(1865年12月8日没、国王ウィリアム4世の庶出の娘)と結婚、子供あり[1]
- アリス・ジェーン(1805年7月2日 – ?) - 1824年3月19日、ジョナサン・ピール(1879年2月13日没、初代準男爵サー・ロバート・ピールの息子)と結婚、子供あり[1]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Paul, James Balfour, Sir, ed. (1905). The Scots Peerage (英語). Vol. II. Edinburgh: David Douglas. pp. 496–501.
- ^ a b c d e f g Thorne, R. G. (1986). "Ayrshire". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月26日閲覧。
- ^ "No. 15971". The London Gazette (英語). 1 November 1806. p. 1438.
- ^ "Kennedy; Archibald (1770 - 1846); 1st Marquess of Ailsa". Record (英語). The Royal Society. 2021年9月26日閲覧。
- ^ "No. 17729". The London Gazette (英語). 24 July 1821. p. 1537.
- ^ "Preamble". Parliamentary Debates (Hansard) (英語). House of Lords. 10 November 1820. col. 1744.
- ^ "PARLIAMENTARY REFORM—BILL FOR ENGLAND—SECOND READING—AD JOURNED DEBATE—FIFTH DAY.". Parliamentary Debates (Hansard) (英語). House of Lords. 7 October 1831. col. 340.
- ^ "No. 18846". The London Gazette (英語). 9 September 1831. p. 1833.
- ^ a b Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 67.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Archibald Kennedy
- "アーチボルド・ケネディの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
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