アーツ・アンド・クラフツ運動

アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)は、イギリスの詩人、思想家、デザイナー、社会主義活動家であるウィリアム・モリス(1834年-1896年)が主導し、19世紀末の1880年代から20世紀初頭にかけてイギリスで興った美術工芸運動。「真の芸術」で構成された住居に暮らすことで民衆の人間性が向上し「平和で公正な社会」が実現されると考え、理想化された中世ヨーロッパを範とし、手工芸の復興を目指し、住環境の改善を推進した[1][2][3]。産業革命後のイギリス社会の諸問題の解消を目指すもので、地域共同化や自然と一体化した生活を大切にする運動であり、社会運動の面を持つ[4][5][2][3]。
前史
[編集]
1830年代にはすでに萌芽が見られるが、1880年代から運動としてとらえられるようになった[5]。
産業革命後の当時のイギリスでは、機械化された大量生産により安価な商品があふれていた[4]。機械生産に合った新たなデザイン教育の必要から学校や組織の創立が続いたが、新しい様式を確立するには至っておらず、混乱した状況であった[5]。
建築家・建築理論家のピュージン(1812年-1852年)は中世主義を信奉してゴシック様式を提唱、実際に多くの教会を建築し、彼が提唱したゴシック・リバイバルは支持を集めた[6][5]。また、歴史家・評論家のトーマス・カーライルや社会思想家、美術批評家ジョン・ラスキン(1819年-1900年)による機械文明批判も始まっていた[5]。これらに大きな影響を受けて1848年にロセッティ(1828年-1882年)らが芸術家グループのラファエル前派を結成した[5][7]。
成立と展開
[編集]



アーツ・アンド・クラフツ運動はラファエル前派の強い影響下にあり、ラファエル前派の理念にあった中世ヨーロッパ的な理想を、手工芸品を通して当時の19世紀後半のヨーロッパ社会に再現しようとした運動である[5]。デザイン運動と呼ばれることもあるが、根本的には手工芸の復興を目指す運動である[5][2]。モリスは機械生産の商品を俗悪な工芸品とみなして批判し、「美的感覚に働きかけることによって道徳心や倫理観を育成することがよりよい社会の形成につながる」というラスキンの思想を根拠に、中世の手工芸に美術の本質があると考えるようになり、広く改革運動を展開[4][1]。芸術とは「労働におけるよろこびの表現」であると考え、それを体現する(と彼が考えた)、中世ヨーロッパの理想化されたギルド的な労働のあり方、クラフトマンシップ(職人の技)、「ゴシック的手工芸」にこだわり続けた[8][9]。そのためアーツ・アンド・クラフツ運動は、近代的な意味での工芸様式を生み出すことはなかった[4]。
産業革命後の社会問題への応答として生じたもので、人間と事物との全体的な調和を図ろうとする社会運動の面を持つ[5][2]。アーツ・アンド・クラフツ運動は「人間にとって好ましい労働とは何か、人間の生活とはどうあるべきか」といったことの追及から生まれ、モリスがモリス商会を拠点に展開した運動は、「労働者たちが疎外されている労働状況とその労働が生み出す醜悪で粗悪な製品に対する怒り」、高い倫理感から生まれたものであった[10]。モリスは中世ヨーロッパの手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。無名の職人による手仕事から生み出される室内装飾、家具や日用品という「真の芸術」「美しいもの」で構成された、質素、素朴で快適な住居での生活を通して民衆の美的感覚が養われ、美しいもの(正義)を愛し、美しくないもの(不公正)を憎む感性が育まれ、こうした人間形成により平和で公正な社会が実現されると考えた[1]。このような思想を基盤に展開された運動は、「人々の生活を美しく豊かなものにするという、それまではほとんど試みられなかった事業」であった[1]。
モリスは工業化された社会への反感から、中世ヨーロッパ的価値観を標榜したが、これは工業化・商業化される前の時代の価値観(と考えられるもの)であり、中世ヨーロッパ的な、職人の手仕事による生産体制が神と人間と物との幸せな関係をもたらすと信じた[10][5]。職人の手仕事による生産体制の復活で産業革命後の社会の問題を解決しようとし、「正しい労働」に支えられた理想社会、厳選された材料による機能的で独創的な用と美を併せもつ手工芸品の喜びを皆が享受する世界の実現を目ざした[5]。このような社会主義的ユートピアには社会主義の原理が不可欠であり、アーツ・アンド・クラフツ運動は当然ながら、非常に社会主義的な性格を持っていた[5]。
モリスは1860年に自身の新婚生活のために、友人のフィリップ・ウェッブ(1831年-1915年)に設計を依頼してレッド・ハウスを建て、これがアーツ・アンド・クラフツ運動の出発点となった[11]。レッド・ハウスは、中世イギリスの土着的な住宅建築をベースに、「精神性において極めて中世的な家」を目指しており、古典主義などの様式・形式を排除し、外壁は赤煉瓦を直に見せ、立面は内部の要求に従い表現されるなど革新的なものであった[11]。美術史家のニコラウス・ペヴズナーは「新しい芸術文化の最初の住宅」と賞賛している[11]。モリスと彼のラファエル前派の仲間がレッド・ハウスの内装、家具、調度品など全てをデザイン、制作し、彼らはこの経験をもとに、1861年にロセッティ、バーン=ジョーンズ、フィリップ・ウェッブら7名を設立参加者に、ステンド・グラス、絵画、彫刻、家具、調度、金属、タイル、壁紙、染織など室内装飾全般を扱う美術工芸家集団、モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立した(1875年にモリスの単独経営によるモリス商会〔Morris & Co.〕として再発足)[11][12]。
またモリスは、私家版印刷所のケルムスコット・プレスを設立して「理想の書物」を追い求め、細々とブックデザインを行い、中世風の手引き印刷機を導入して、装飾された芸術的な書物を制作した[13]。モリス率いるアーツ・アンド・クラフツ運動で生み出された多様で非常に質の高い美術工芸品は、商業主義に支えられた機械生産に対するアンチテーゼであり、運動はひとつの理念や方法論、造形の特質では捉えきれない多様な展開を見せた[10][2]。数多くのギルドや工房が誕生し、工芸も絵画や彫刻と同等に展示の機会をもつべきという考えから、1888年にクレインを初代会長にアーツ・アンド・クラフツ展示協会が設立され、協会には当時の主な芸術家、建築家、工芸家の多くが加わり、運動は最も盛り上がった[4][5]。
しかし、アーツ・アンド・クラフツ運動はかなり時代錯誤な面があり、職人の手仕事による高コストで生産数の限られる製品が一般大衆向けになることは難しく、当時広い共感を得ることはなかった[4][5]。
運動の出発点となったレッド・ハウスは、産業革命に伴う人口の都市集中と労働環境や住環境の悪化という状況にあった当時のイギリスで、都市生活者が田園的な住居に住むという当時の中流階級の理想の住居を初めて実際に示したものであり、その後のイギリスに「田園郊外」(garden suburb)、「田園都市」が生まれる契機をつくった[11][3]。モリスは、労働者階級の住環境の改善には、新設街路・建築物の規制だけはなく、 住宅の周辺環境の秩序と美も重要だと主張し、「良き市民に必要なものは、第一に名誉ある、適した仕事、第二は良質の環境で、それは①良き住居、②充分な空間、③全体的な秩序と美」「第三は余暇」と述べ、②として「都市の豊富な庭園と農村の自然」を挙げている(1884年)[14]。彼は住環境改革を目指す人々の指導的役割を果たし、アーツ・アンド・クラフツ運動の建築家たちは、イギリスで1860年代から20世紀初頭にかけて起こったドメスティック・リバイバル(住宅再興運動)と呼ばれる建築デザイン運動を主導した[11][3]。彼らは、工業化社会への移行で生じた「近代家族」の職住分離の生活様式、新興の中産階級のモダン・ライフに対応する新たな理想の住宅像の実現を目指し、伝統工法に立脚した住宅の近代化を試み、この取り組みから、田園郊外と呼ばれる新しい居住形態が生まれた[15]。
アメリカ合衆国にもアーツ&クラフツ運動はあった。イリノイ州のシカゴがアメリカにおける運動の拠点で、建築家のフランク・ロイド・ライトも創立者の一人であったし[16]、ミシガン州にあるクランブルック・アカデミー・オブ・アートの創設者であるジョージ・ゴフ・ブースも運動の推進者であった[17]。
イギリスでは20世紀初頭になると、デザイン産業協会(1915年)のようなモダニズム推進派が台頭し、アーツ・アンド・クラフツ運動はイギリスのデザイン活動の中心から外れていった[18]。アーツ・アンド・クラフツ展示協会の活動は、1916年の展示会以降は研究者からほとんど評価されていない[18]。1920年代は非常に排他的だったが、スウェーデンの影響などから1930年代には協調志向になり、機械への敵視の見解を公式に修正している[18]。
影響
[編集]
アーツ・アンド・クラフツ展示協会の展示は第一次世界大戦勃発まで続き、ヨーロッパ各地の工芸作家の活動に刺激を与え[5]、自然主義的でありながらも機能性と実用性の高いデザインを目指すドイツ工作連盟設立のきっかけをつくるなど、デザイン史に大きな足跡を残した[4][20]。この運動はチャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868年-1928年)らが推進したアール・ヌーヴォーから、グロピウスが創立したバウハウスに至るモダン・ムーブメント、近代デザインの誕生に大きな刺激を与えた[5]。ウィーン分離派、ユーゲント・シュティールなど各国の美術運動にもその影響が見られる。
近代デザイン史研究では、「アーツ・アンド・クラフツ運動の価値観を受け継ぎ、モダニズムの精神を現実のものとすることができた唯一の国」は、運動の発祥の地イギリスでもドイツ工作連盟やバウハウスが生まれたドイツでもなく、スウェーデンだと考えられている[21]。スウェーデンにラスキンやモリスの思想を紹介したのは社会活動家で差異派フェミニストのエレン・ケイで、彼女は産業革命の波が普及したスウェーデンで、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動やスウェーデンの手工芸復興運動にいち早く注目し、生活用品に簡素で機能的な美しさを求め、人々の美意識を改革する家庭生活改革活動を行った[20]。ケイは美への意識を高めることが道徳観念を高め社会全体に調和をもたらすとも考えており、アーツ・アンド・クラフツ運動の価値観を受け継いでいる[22]。1845年には、ケイの影響を受け「日常生活に美を」のスローガンを掲げるスウェーデン工芸協会が設立され、手工芸の保護・デザインの改善・育成の活動が行われた[21][22][20]。1907年にドイツ工作連盟が結成されると、美術史家のグレゴール・ポウルッソン(1889-1997)ら協会関係者はドイツ工作連盟の影響を受け、同連盟のヘルマン・ムテジウスを招いて学び、機械による工業生産を肯定しその製品の品質向上を目指すモダン・デザイン推進へと協会の方針は大きく転換され、1910年代初頭以降、若いアーティストたちを陶磁器やガラス工場の職工たちと積極的に協働させた[20]。またポウルッソンらの活動は当時の政権の支持を受け、スウェーデンの住宅政策、福祉国家形成、国家アイデンティティ・国民形成に直接的な影響を与えた[23][18]。ポウルッソンらによってスウェーデンの近代産業デザインは大きく発展し、国際的にも高い評価を得るようなった[21]。ヨーロッパ諸国に遅れて1920年代に工業化が進んだスウェーデンでは、工芸とデザインの概念が重なり、社会的な意義を持ちながらこうした運動が発展した[24]。ポウルッソンらスウェーデン工芸協会の思想とスローガンは、北欧諸国の近代工芸運動とモダニズム思想に多大な影響を与えた[22]。

アーツ・アンド・クラフツ運動と同時期に詩人・劇作家のウィリアム・バトラー・イェイツが主導したアイルランド文芸復興運動では、イヴリン・グリーソン、エリザベス・イェイツ、スーザン(リリー)・イェイツが設立し、運動に参画した作家たちの初版本のほとんどを出版したアイルランドの私家版出版社ダン・エマー・プレス(のちクアラ・プレス)も大きな役目を果たした[25][26][27]。この運動は、イギリス(イングランド)による長年の厳しい支配下にあったアイルランドにおいて、ケルト神話やアイルランド民話、それらの英雄に光を当て、英語で書き、舞台化する演劇活動を通し、アイルランドの国民に民族の文化、ルーツを意識させ、誇りを抱かせようというもので、こうした運動の理念は、ダン・エマー・プレス、クアラ・プレスの本の装丁に施されたケルト工芸にも見られる[25][26][27][注 2]。
日本の柳宗悦(1889-1961)もイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に触発され、職人の手によるの日用品の再評価と保護・復興に取り組んでおり、これは民藝運動と呼ばれる[20][注 3]。柳の民藝運動は日用品の中に美(用の美)を見出そうとするものであり、彼はトルストイの近代芸術批判の影響から出発し、モリスの運動に共感を寄せ、1929年にかつてモリスが活動していたロンドンのケルムスコット・ハウスを訪れている。
モリスやラスキン、そのフォロワーは理想化された中世の生産形態「ギルド」に惹かれたが、これは無駄なく楽しく美しいものを生み出す環境であると同時に、当時の非熟練労働者の不安定な生活という問題、工場の非人間的な分業体制の問題を緩和する可能性を秘めると考えられた[28]。ギルドと、これを時代に合わせて改編したワークショップ(工房)を単位とする生産活動形式に関する産業デザインの議論や、小規模な共同体を単位とした社会という考えは、アーツ・アンド・クラフツ運動内に留まらず、中世主義と相まって19世紀以降のイギリス社会改良思想の中で重要な地位を占めるようになった[29]。ギルト/ワークショップの概念は、因襲的なアカデミーや中央権力に対する草の根運動の拠点とも言え、政治イデオロギー的にも脱中心化の基本単位とみることもでき、社会主義理論として成熟し、フェビアン協会の芸術界のメンバーにより、「ギルドが中世の芸術工芸に成したことを現代の労働組合が産業にすべきである」と考えるギルド社会主義[注 4]が生まれた[28]。こうしてアーツ・アンド・クラフツ運動の哲学の核である「ギルド」の概念は再生産され、受け継がれていった[28][注 5]。
19世紀末から20世紀前半にかけて世界各地に起こった住環境刷新を目指す諸運動は、程度の差はあれモリスの思想と運動から影響を受けている[31]。アーツ・アンド・クラフツ運動の建築家たちが主導したドメスティック・リバイバルは、リチャード・ノーマン・ショウ(1831年-1912年)が設計したイーリングの住宅街ベッドフォード・パーク(1875年)等の田園郊外を生み出しており、ベッドフォード・パークはイギリスで最初の田園郊外であり、当時始まった鉄道沿線開発の最初の事例でもあった[11]。また、世界中の都市計画に大きな影響を与えた田園都市の思想は、エベネザー・ハワードの思想として知られるが、その実践には、当時の時代を背景にハワードと意を同じくして活動していたアーツ・アンド・クラフツ運動のモリスやラスキンらの共同が果たした役割が大きい[32]。
モリスは自然保護の先駆者としても知られ、1877年に古建築物保護協会を設立、同協会は、ラスキンが設立に関わったナショナル・トラストと共に、イギリスの環境保護運動を牽引する存在となった[33]。モリスやラスキンは歴史的建造物を修復せずオリジナルのまま保存することを訴えており、アーツ・アンド・クラフツ運動は環境保護運動に影響を与えた[34][33]。また、中流階級のボランティアが貧民地区に住み住民と触れ合いながら状況の改善を目指すセツルメント運動にも影響がある[35][36]。
批評
[編集]手工芸にこだわるモリス商会の製品自体は結局高価なものになってしまい、裕福な階層にしか使えなかったという批判もある。モリスは「みんなで共有できないのであるならば、そんな芸術にいったいなんの用があるというのか」と問いかけ、芸術が少数の特権的な者たちのためにあるヴィクトリア朝社会を批判し、これにより彼は「20世紀には『みんな』が芸術を『共有』できるように要請する」という「モダン・ムーヴメント(近代運動)」の父とみなされているが、彼は理想化された中世ヨーロッパ的な「ゴシック的手工芸」にこだわり続けた[8][9]。モリスのこうした中世主義的モダニズム(Medieval Modernism)は「19世紀の歴史主義」というヴィクトリアニズムの継承であり、アーツ・アンド・クラフツ運動は、「ゴシック的手工芸」は「少数の者のための芸術」にほかならないこと証明することとなった[8]。社会主義者としてのモリスは芸術を庶民の手に取り戻す使命を意識していたが、彼が制作した私家版の本の値段は平均2ポンド半(現在の6万円相当)で、これは工房の職長の週給に相当するほど高額であり、その50倍の価格の本もあった[13]。モリスは、彼の「理想の書物」は庶民の手には届かないという問題を指摘されると、「われわれが全員社会主義者だったら…どの街角にも公立図書館があって、最良の最も美しい活字で刷られた名著のすべてを誰でもそこに読みに行けたでしょう」と釈明した[13]。
建築史家・美術史家のニコラウス・ペヴズナーの1936年の著作『近代運動の先駆者たち――ウィリアム・モリスからヴァルター・グロピウスまで』を先駆とする、ヨーロッパにおけるデザインのモダン・ムーヴメントを扱った歴史書の多くは、19世紀的なものを醜悪なものとみなし、アーツ・アンド・クラフツ運動は、それを美的・社会的観点から乗り越えようとしようとした人々の闘争の運動と考え、その過程に注目してきた[37]。ペヴズナーはイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を、ヨーロッパのモダン・ムーヴメントの源泉のひとつとして高く評価したが、イギリスはそれに続くモダン・ムーヴメントのお株を大陸諸国に奪われたとみなしている[37]。
伝統や既成の権威を否定し脱却を目指す「モダン・ムーヴメント」と、物事を歴史的に理解し歴史・伝統に価値を認める「歴史主義」には齟齬があり、ペヴズナーは1936年の著作で、モリスが死去した1896年から10年も経たないうちにイギリス(イングランド)における「モダン・ムーヴメント」に向けての活動は頓挫したが、それはモリスの「教義」がヴィクトリアニズムからの分断を目指しながらも、その分断が中途半端だったことに原因があると分析している[8]。
関係人物の一覧
[編集]![]() |
既出の人物は除く。
- ヘンリー・コール(1808年-1882年)ロンドンデザイン学校の校長。
- ジョージ・エドモンド・ストリート(1824年-1881年)建築家。
- エドワード・ウィリアム・ゴドウィン(1833年-1886年)建築家。アングロジャパニーズ・スタイルの影響を受ける。
- クリストファー・ドレッサー(1834年-1904年)デザイナー、植物学者。
- ウィリアム・ド・モーガン(1839年-1917年)画家、小説家。
- ウォルター・クレイン(1845年-1915年)挿絵画家、装飾芸術家。ロイヤルカレッジオブアートの校長。
- クリストファー・ウォール(Christopher Whall、1849年-1924年)ステンドグラス作家。
- アーサー・ヘイゲート・マックマード(1851年-1942年)建築家・デザイナー。
- C・F・A・ヴォイジー(1857年-1941年)建築家、家具・テキスタイルデザイナー。
- アレキサンダー・フィッシャー(1864年-1936年)画家・デザイナー。
- アーネスト・ギムソン(1864年-1919年)家具デザイナー・建築家。
- ジェシー・ニューベリー(1864年-1948年)刺繡作家・デザイナー。
- ベイリー・スコット(1865年-1945年)インテリアデザイナー・建築家。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ チャールズ・レニー・マッキントッシュとマーガレット・マクドナルド・マッキントッシュがデザインした[19]。
- ^ モリスとアーツ・アンド・クラフツ運動に影響を受けたイヴリン・グリーソンの発案で、グリーソンとウィリアム・バトラー・イェイツの妹のイェイツ姉妹の3人で1902年にダン・エマーを設立、ダン・エマー・プレスはこの一部門だった。エリザベス・イェイツが出版部門のダン・エマー・プレスを、グリーソンが織物部門(のちダン・エマー・ギルド)を、リリー・イェイツが刺繡部門を率いた。ダン・エマー・プレスの本はアイルランド産の紙と麻を使い、アイルランドの若い女性を雇って職業訓練を施し、彼女たちが本を組版し、印刷した。「アイルランド製」の本を出版することは、ダン・エマー・プレスのアイデンティティにとって非常に重要なことだった[26][27]。アイルランド文芸復興運動は政治的な民族独立運動と相まって、1922年のイングランドからの実質的な独立(アイルランド自由国)へとつながった[25]。
- ^ 近年の研究に、島貫悟『柳宗悦とウィリアム・モリス』(東北大学出版会、2024年)がある。
- ^ A・R・オラージュやアーサー・ペンティが推進した[30]。
- ^ アーツ・アンド・クラフツ運動の関係者の中で、同運動とギルド社会主義の関係を唯一把握していたのが建築家・工芸家のチャールズ・ロバート・アシュビー(1863年-1942年)である[30]。
出典
[編集]- ^ a b c d 太田 2015, p. 21.
- ^ a b c d e 竹内有子 (2024年3月11日). “アーツ・アンド・クラフツ運動”. artscape. 2025年2月17日閲覧。
- ^ a b c d 齊木 2001, p. 27.
- ^ a b c d e f g 『アーツ・アンド・クラフツ運動』 - コトバンク
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『アーツアンドクラフツムーブメント』 - コトバンク
- ^ 『ピュージン』 - コトバンク
- ^ 『ラファエル前派』 - コトバンク
- ^ a b c d 木下 2017, pp. 223–224.
- ^ a b 木下 2017, p. 220.
- ^ a b c 山田 1992, p. 104.
- ^ a b c d e f g 佐藤 2015, p. 6.
- ^ 『モリス・マーシャル・フォークナー商会』 - コトバンク
- ^ a b c 藤井哲、前田雅晴. “W・モリスのケルムスコット・プレス”. 福岡大学図書館. 2025年2月17日閲覧。
- ^ 秋本 2017, p. 915.
- ^ 『ドメスティック・リバイバル』 - コトバンク
- ^ 月刊神戸っ子「フランク・ロイド・ライト その思想と建築を今に Vol.6 」
- ^ NYタイムズスタイルマガジンJAPAN
- ^ a b c d 菅 2000, pp. 15–16.
- ^ “Argyll & The Isles The Hill House”. National Trust for Scotland. 2025年2月19日閲覧。
- ^ a b c d e 長久 2015, p. 100.
- ^ a b c 太田 2015, p. 23.
- ^ a b c 長久 2013, p. 36.
- ^ 太田 2015, pp. 23–24.
- ^ 長久 2013, p. 37.
- ^ a b c 吉津 2000, pp. 159–160.
- ^ a b c Caoilfhionn Ní Bheacháin (2023年5月4日). “'A little republic': how Dun Emer created a utopian space for Irish women”. RTE. 2025年2月19日閲覧。
- ^ a b c Caoilfhionn Ní Bheacháin. “The Dun Emer Press”. MAPP. 2025年2月19日閲覧。
- ^ a b c 菅 1999, pp. 6–8.
- ^ 菅 1999, pp. 8–9.
- ^ a b 菅 1999, p. 9.
- ^ 太田 2015, p. 20.
- ^ 齊木 2001, p. 35.
- ^ a b 太田 2015, pp. 26–27.
- ^ 太田 2015, p. 22.
- ^ 太田 2015, pp. 21–22.
- ^ 『セツルメント運動』 - コトバンク
- ^ a b 中山修一. “中山修一 著作集1 デザインの近代史論 第三部 英国デザインの近代 第二章 アーツ・アンド・クラフツから近代運動へ”. 中山修一 著作集. 2025年2月17日閲覧。
参考文献
[編集]- 木下誠「A・R・オラージュの中世主義的モダニズム : ヴィクトリアニズムとモダニズムの文化の分断/継承」『ヴィクトリア朝文化研究』第15巻、日本ヴィクトリア朝文化研究学会、2017年11月、217-231頁、CRID 1520290884405196288。
- 秋本福雄「「タウン・プランニング」再考:イギリスの都市計画家は建築的アプローチを捨てたか?」『都市計画論文集』第52巻、公益社団法人 日本都市計画学会、2017年10月25日、915-920頁、CRID 1390001204215156480。
- 太田美幸「住環境の文化史から〈近代の人づくり〉を読み解く」『〈教育と社会〉研究』第25巻、一橋大学〈教育と社会〉研究会、2015年12月14日、19-29頁、CRID 1050006065579416320。
- 佐藤健正『近代ニュータウンの系譜 : 理想都市像の変遷 (市浦ハウジング&プランニング叢書)』市浦ハウジング&プランニング、2015年10月 。
- 長久智子「1950年代北欧モダニズムと民藝運動との親和性・非親和性」『デザイン理論』第65巻、意匠学会、2015年2月28日、100-101頁、CRID 1390295568877450624、doi:10.18910/56347。
- 長久智子「1950年代における北欧モダニズムと民藝運動、産業工芸試験所の思想的交流―スウェーデン、グスタフスベリ製陶所のヴィルヘルム・コーゲ、スティグ・リンドベリとフィンランド、アラビア製陶所のカイ・フランクの来日を視点として―」『愛知県陶磁資料館 研究紀要』第18巻、愛知県陶磁資料館、2013年3月31日。
- ジリアン・ネイラー『アーツ・アンド・クラフツ運動』、川端康雄・菅靖子共訳、みすず書房、2013年
- 大内秀明『ウィリアム・モリスのマルクス主義』 平凡社新書、2012年。ISBN 978-4582856453
- 齊木崇人「レッチワース100年の経験から生まれた新田園都市の思想」『家とまちなみ』第20巻、住宅生産振興財団、2001年9月、27-35頁、CRID 1523106605702801152。
- 菅靖子「両大戦間期のアーツ・アンド・クラフツ展覧協会とスウェーデン」『デザイン理論』第39巻、意匠学会、2000年11月11日、15-28頁、CRID 1390295568877274368。
- 吉津成久「アイルランド文芸復興運動とクアラ・プレス : 母なるものへの回帰」『英米文学研究』第36巻、梅光女学院大学英米文学会、2000年12月、157-172頁、CRID 1050845762372490368。
- 菅靖子「アーツ・アンド・クラフツ運動とモダニズムのはざまで : チャールズ・ロバート・アシュビーの機械文明観」『デザイン理論』第38巻、意匠学会、1999年10月23日、1-14頁、CRID 1390295568877293184。
- 山田眞實「イギリスにおける産業デザインの発達 : モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動とそれ以後」『同志社商学』第43巻、同志社大学商学会、1992年1月25日、102-136頁、CRID 1390853649841163776。