アレクセイ・パンフィーロフ
アレクセイ・パンフィーロフ Алексей Панфилов | |
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生誕 |
1898年5月5日 ロシア帝国 カザン |
死没 |
1966年5月18日(68歳没) ソビエト連邦 モスクワ |
所属組織 |
赤軍 ソビエト連邦軍 |
軍歴 | 1918年4月 - 1959年11月 |
最終階級 | 中将 |
勲章 | ソ連邦英雄など |
出身校 |
スビヤズスク高等小学校 カザン高等専門学校 |
墓所 | ノヴォデヴィチ墓地 |
アレクセイ・パヴロヴィチ・パンフィーロフ(ロシア語: Алексей Павлович Панфилов、1898年5月5日 - 1966年5月18日)は、ソビエト連邦の軍人。1918年4月から1959年11月まで軍務にあった。
経歴
[編集]1898年5月5日にロシア帝国のカザンに誕生した。1918年4月に赤軍に入隊し、同年5月に全連邦共産党に入党した[1]。東部戦線でロシア内戦に従軍し、1919年1月から第26歩兵師団の書記官、会計係、経済部長及び政治部長、1920年5月から経済部長補佐及び経済部長、総局長を務めた。1922年2月に第30騎兵連隊の軍委員に任命され、同年9月に第5騎兵師団の一部として第3騎兵旅団の副委員に任命された。1923年2月に第27騎兵連隊の政治助手、同年6月に第4騎兵旅団の政治部の情報部長、同年12月から同軍管区の政治部長補佐を務めた。
1924年5月から赤軍の本部で特別任務に就き、1925年9月から赤軍陸軍士官学校の政治部門で勉強した。1926年に上級指揮要員完全化課程を修了し、1928年11月から1931年9月まで第18狙撃軍団検事補、レニングラード軍管区軍事検察庁課長となり、1937年7月にI.V.スターリン名称機械化・自動車化軍事アカデミーを卒業した。1938年4月から労農赤軍自動車装甲戦車局長補佐官となり、第1赤旗軍第39歩兵軍団隷下の第2機械化旅団長として張鼓峰事件、ノモンハン事件に参加した。1940年4月に旅団指揮官(少将に相当する)となったが、同年6月に同階級の廃止に伴って装甲兵少将となった。
1940年6月から労農赤軍参謀本部情報局副局長、1941年9月から情報局長となった。ヴワディスワフ・アンデルス将軍のポーランド軍編成の際に全権代表を務めたが、1942年8月にアンデルスが赤軍で戦うことを拒否してソ連を離れた時、パンフィーロフは情報局長を解任された。1942年8月から1944年8月まで第3・第5戦車軍の副司令官であった。戦後は各職を経て、1956年9月に装甲戦車兵アカデミーと参謀本部軍事アカデミーの講師を務めた[2]。
1966年5月18日にモスクワにて、68歳で死去した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Колпакиди А., Север А. ГРУ. Уникальная энциклопедия. — М.: Яуза Эксмо, 2009. — С. 690. — 720 с. — (Энциклопедия спецназа). — 5000 экз. — ISBN 978-5-699-30920-7.
- Колпакиди А., Север А. Разведка в Великой Отечественной войне. — М.: Яуза Эксмо, 2010. — С. 301—302. — 736 с. — (Энциклопедия спецслужб). — 3500 экз. — ISBN 978-5-699-40836-8.