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アレクサンドル・スヴェチン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクサンドル・スヴェチン
スヴェチン、1923年頃
赤軍参謀本部軍事アカデミー
個人情報
生誕アレクサンドル・スヴェチン
Александр Свечин

(1878-08-17) 1878年8月17日
ロシア帝国 ヘルソン県オデッサ
死没1938年7月28日(1938-07-28)(59歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
国籍ソビエト人英語版
政党全連邦共産党(ボリシェヴィキ)(1918–1938年)
専業軍人
兵役経験
所属国ロシア帝国の旗 ロシア帝国
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
所属組織ロシア帝国陸軍
赤軍
軍歴1899–1938年
戦闘日露戦争
第一次世界大戦
ロシア内戦
日ソ国境紛争

アレクサンドル・アンドレーエヴィチ・スヴェチンロシア語: Александр Андреевич Свечи́н, ラテン文字転写: Aleksandr Andreevich Svechin, 1878年8月17日 - 1938年7月29日)は、ロシア帝国ソビエト連邦の軍人。ロシア帝国軍時代は少将。

経歴

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オデッサ出身。父は将軍。

軍歴

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  • 1897年 - ミハイロフ砲兵学校卒業
  • 1903年 - 参謀本部アカデミー卒業
  • 1904年~1905年 - 日露戦争に従軍
  • 1905年~1914年 - 参謀本部参謀本部総局で勤務
  • 1914年 - 最高司令官本部附属委任将校
  • 1915年 - 連隊長
  • 1917年 - 師団長
  • 1917年7月 - 第5軍参謀長
  • 1917年9月 - 北部戦線参謀長

赤軍

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1918年3月から赤軍に入隊し、スモレンスク地区軍事指導官となった、1918年8月~11月、全ロシア参謀総長。1918年11月から労農赤軍参謀本部アカデミー(後のフルンゼ軍事大学英語版ロシア語版)の教授。1918年~1921年の間、第一次世界大戦の経験研究に関する戦史委員会議長を兼任する。

1927年に上梓した『戦略』(Стратегия)において作戦術という概念を提唱しており、これは後の縦深戦略理論の礎となった[1][2]

1938年大粛清最中、ソビエト連邦最高裁判所で有罪判決を受ける。 7月29日、モスクワ州コムナルカで射殺され、埋葬された。[3]

出典

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  1. ^ Angstrom & Widen 2021, pp. 87–94.
  2. ^ 葛原 2021, pp. 60–71.
  3. ^ СВЕЧИН АЛЕКСАНДР АНДРЕЕВИЧ”. 2021年8月30日閲覧。

参考文献

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  • Angstrom, Jan、Widen, J. J. 著、北川敬三 訳「第4章 作戦術」『軍事理論の教科書: 戦争のダイナミクスを学ぶ』勁草書房、2021年、87-114頁。ISBN 978-4326302963 
  • 葛原和三『機甲戦: 用兵思想と系譜』作品社、2021年。ISBN 978-4861828607