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アルヌルフ・フォン・バイエルン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルヌルフ・フォン・バイエルン
Arnulf von Bayern
ヴィッテルスバッハ家

全名
出生 (1852-07-06) 1852年7月6日
バイエルン王国の旗 バイエルン王国ミュンヘン
死去 (1907-11-12) 1907年11月12日(55歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国ヴェネツィア
埋葬 バイエルン王国の旗 バイエルン王国ミュンヘン、テアティーナ教会
配偶者 テレーゼ・フォン・リヒテンシュタイン
子女 ハインリヒ
父親 ルイトポルト・フォン・バイエルン
母親 アウグステ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ
宗教 キリスト教カトリック教会
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アルヌルフ・フォン・バイエルンArnulf Prinz von Bayern, 1852年7月6日 - 1907年11月12日)は、ドイツバイエルン王国の王族、陸軍軍人。最後のバイエルン王ルートヴィヒ3世の末弟にあたる。

生涯

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バイエルンの摂政を務めるルイトポルト王子と、その妻でトスカーナ大公レオポルド2世の娘であるアウグステ・フェルディナンデ妃の間の第4子、三男として生まれた。全名はフランツ・ヨーゼフ・アルヌルフ・アーダルベルト・マリア・フォン・バイエルン(Franz Joseph Arnulf Adalbert Maria von Bayern)。次兄のレオポルトと同様にバイエルン軍に仕官し、最終的には上級大将陸軍元帥となった。

馬上のアルヌルフ(1890年)

長年にわたってバイエルン胸甲騎兵連隊(Königlich Bayerisches Infanterie-Leib-Regiment)の連隊長を務めた。ミュンヘンのトルコ通りにあったバイエルン軍の兵舎、通称トルコ兵舎(Türkenkaserne)は、アルヌルフに因んだ「プリンツ・アルヌルフ兵舎(Prinz Arnulf-Kaserne)」の公式名を掲げていた。また、ミュンヘンのザルツ通り(Salzstraße)も1890年にアルヌルフ通り(Arnulfstraße)と名を変えている。

1882年4月12日にウィーンにおいて、リヒテンシュタインアロイス2世の娘テレーゼ侯女と結婚し、間に一人息子のハインリヒをもうけた。1901年にはイギリスヴィクトリア女王の葬儀に、父ルイトポルトの代理で出席している[1]

1907年に旅行先のイタリアヴェネチアで死去、遺骸はバイエルン王家ゆかりのテアティーナ教会英語版に葬られた。

子女

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脚注

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  1. ^ "The Funeral of the Queen", タイムズ (1901年2月4日)

参考文献

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  • Das Bayernbuch vom Kriege 1914-1918. Konrad Krafft von Dellmensingen, Friedrichfranz Feeser, Chr. Belser AG, Verlagsbuchhandlung, Stuttgart 1930
  • Die Wittelsbacher. Geschichte unserer Familie. Prestel Verlag, München, 1979

外部リンク

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