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横山道哉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
横山 道哉
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県海老名市
生年月日 (1977-06-01) 1977年6月1日(47歳)
身長
体重
190 cm
98 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1995年 ドラフト3位
初出場 1997年7月6日
最終出場 2009年6月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

横山 道哉(よこやま ゆきや、1977年6月1日 - )は、神奈川県海老名市出身の元プロ野球選手投手、右投右打)。現在は横浜DeNAベイスターズのスカウトを務めている[1]

経歴

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プロ入り前

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中学時代は愛甲シニアに所属。

横浜高校出身。1学年先輩には斉藤宜之多村仁矢野英司紀田彰一、2学年先輩には高橋光信、1学年後輩には阿部真宏松井光介幕田賢治、2学年後輩には上地雄輔がいた。

1995年秋のドラフト会議で地元の横浜ベイスターズから3位指名を受けて入団。

横浜時代

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1997年は7月6日の対広島東洋カープ戦(横浜スタジアム)で敗戦処理として初登板すると、その後チームが逆転サヨナラ勝ちを収めて初勝利を挙げる。この年は18試合に登板し、シーズン終盤にはプロ初先発や初セーブも記録している。

1998年は中継ぎとして53試合に登板し4勝4敗・防御率3.09の好成績を残し、横浜の38年ぶりとなるリーグ優勝・日本一に貢献する。当時抑え投手として活躍していた佐々木主浩のようにフォークを武器とする投球スタイルから、「小魔神」「大魔神二世」の異名を取る。

1999年はシーズン中に佐々木が離脱したため、残った中継ぎ投手で抑えを持ち回りで担当した中、横山にもその役が回ってきた。しかし、43試合に登板したが4勝3敗2セーブ・防御率4.93と安定感を欠いた。

2000年はさらに登板機会を減らし、29試合の登板に留まり2勝1敗1セーブ・防御率4.78に終わった。

2001年から2003年も不振で登板機会が激減し、2003年オフには野中信吾との交換トレードで北海道日本ハムファイターズへ移籍[2]

日本ハム時代

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2004年は当初抑えの予定だった建山義紀伊達昌司がシーズン前に故障で離脱、開幕当初に抑えを務めた伊藤剛も開幕直後に故障で離脱。暫定で回ってきた抑えの座ではあったが、チーム最多の58試合に登板し、4勝5敗28セーブ・防御率3.39と安定感は今一つながらも、この年新人王を獲得した三瀬幸司と共に最優秀救援投手を受賞した。チームは3位でシーズンを終え、この年からパ・リーグにプレーオフが導入され、プレーオフでは2位の西武ライオンズと対戦。第2戦でセーブを挙げ、第3戦では2点ビハインドの8回から登板しこの回は無失点に抑えたが、9回に先頭の和田一浩にサヨナラ本塁打を打たれて敗戦投手となり、チームは敗退を喫した。

2005年は開幕から抑えを任され序盤は好投したが7月から不調に陥り中継ぎに降格となった。9月にも復調の兆しが見えず二軍に降格するとそのままシーズンを終えた。2年連続でチームトップの48試合に登板したが1勝4敗12セーブ・防御率4.47に終わった。

2006年は1月20日の契約更改交渉では400万円減の推定年俸4300万円で更改[3]。しかし、この年は武田久MICHEALの活躍もあって一軍登板無しに終わり、9月29日に戦力外通告を受けた。横浜の秋季キャンプで入団テストを受け、合否は10月27日に伝えられる予定だったが、「12球団合同トライアウト前に、各球団が独自で入団テストを行わない」という申し合わせ事項に反するとして日本プロ野球選手会から苦情を受け、合否発表は保留となった。その後正式に獲得が発表され、4年ぶりに横浜に復帰した。

横浜復帰

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2007年は開幕二軍スタートだったが夏場に一軍昇格。肘の故障を抱えながらも貴重な中継ぎ投手として36試合に登板し、6ホールド、防御率3.32と古巣で復活を果たす。

2008年は中継ぎ投手陣の一角としてチーム最多の51試合に登板、5月17日の対中日ドラゴンズ7回戦では移籍後初、自身としても3年ぶりの勝利投手にもなりシーズン防御率も3.22と良化させたが、同点の場面では安定せず勝ち越しを許して5敗を喫した。

2009年は肘の状態が悪化したため二軍暮らしが続き、さらに投球すらままならない程度にまで悪化していた[4]。わずか14試合の登板に終わり、10月1日に戦力外通告を受け、「横浜で終われたのは幸せな部分もある」とコメントして現役引退を表明した。

引退後

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2010年からはスコアラー(アナリスト)として球団に残り、2022年からは同球団のスカウトに転身した[1]。主な担当選手に度会隆輝などがおり、度会は横山の現役時代の応援歌を継承した(後述)。

人物

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横浜在籍時は、投手ながら専用の応援歌が作られていた[5]。当時発売されていた選手テーマCDにも1998年版から収録されているものの、中継ぎ起用が中心だった上投手の応援歌を球場で演奏することは殆どなかったため、披露される機会は少なかった。スカウト転身後の2024年、横山の担当にして高校の後輩でもある度会隆輝が入団した際、歌詞を一部変更した上でこの応援歌を流用している[6]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1997 横浜 18 1 0 0 0 2 0 1 -- 1.000 105 27.0 20 1 6 0 0 27 1 0 5 5 1.67 0.96
1998 53 0 0 0 0 4 4 0 -- .500 286 70.0 62 5 22 1 0 59 3 1 28 24 3.09 1.20
1999 43 1 0 0 0 4 3 2 -- .571 298 69.1 77 12 19 1 1 57 2 0 38 38 4.93 1.38
2000 29 0 0 0 0 2 1 1 -- .667 143 32.0 40 1 15 2 0 24 2 0 17 17 4.78 1.72
2001 4 0 0 0 0 0 0 0 -- .--- 27 6.1 5 2 4 0 2 2 1 0 3 3 4.26 1.42
2002 13 0 0 0 0 1 2 1 -- .333 58 12.1 10 2 8 2 3 13 1 0 10 6 4.38 1.46
2003 3 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 48 9.0 18 4 3 0 1 5 0 0 10 10 10.00 2.33
2004 日本ハム 58 0 0 0 0 4 5 28 -- .444 248 61.0 48 5 20 4 0 54 2 0 27 23 3.39 1.11
2005 48 0 0 0 0 1 4 12 3 .200 225 50.1 49 5 21 0 4 46 5 0 27 25 4.47 1.39
2007 横浜 36 0 0 0 0 0 0 0 6 .--- 164 38.0 40 2 15 1 1 27 2 0 14 14 3.32 1.45
2008 51 0 0 0 0 3 5 0 11 .375 254 58.2 55 8 22 3 4 61 2 1 25 21 3.22 1.31
2009 14 0 0 0 0 0 0 0 0 .--- 66 15.0 19 2 4 1 0 12 0 0 9 8 4.80 1.53
通算:12年 370 4 0 0 0 21 26 45 20 .447 1922 449.0 443 49 159 15 16 387 21 2 213 194 3.89 1.34
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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表彰

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記録

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投手記録
その他の記録

背番号

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  • 43 (1996年 - 2003年)
  • 15 (2004年 - 2006年)
  • 99 (2007年 - 2009年)

脚注

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  1. ^ a b 2022スカウト布陣から読む12球団補強ポイント【セ・リーグ編】”. 週刊ベースボールONLINE (2022年1月22日). 2022年4月6日閲覧。
  2. ^ 「日本ハムと横浜でトレード」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2003年(平成15年)10月15日付朝刊、19面(スポーツ面)。
  3. ^ 日刊スポーツ大阪版 2006年1月21日 11版 4面
  4. ^ 惜別球人(横浜ベイスターズ) スポニチ Sponichi Annex
  5. ^ 横山道哉のテーマ - 横浜ベイスターズ”. Spotify. 2024年3月20日閲覧。
  6. ^ 2024年新応援歌特設ページ 全国星覇会 2024年3月20日付。

関連項目

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外部リンク

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