太田三郎 (外交官)
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おおた さぶろう 太田 三郎 | |
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戦艦「ミズーリ」艦上の日本側全権代表団。最後列で帽子を着用していない人物が太田三郎。 | |
生誕 |
1905年4月5日 茨城県 |
死没 | 1978年7月19日(73歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
職業 | 外交官 |
太田 三郎(おおた さぶろう、1905年4月5日[1] - 1978年7月19日)は、日本の外交官、政治家。初代公選横須賀市長を経て、駐ビルマ特命全権大使、駐ポーランド特命全権大使、駐オーストラリア特命全権大使を歴任した。
経歴
[編集]戦前
[編集]茨城県出身。1925年第五高等学校文科甲類卒業[2]。1928年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省[3]。1930年任外交官補、英国在勤[4]。1931年在シドニー領事館補[5]。1937年在ソビエト連邦大使館三等書記官[6]。1940年外務省欧亜局第三課長[7]。1943年外務省調査局第三課長[8]。
戦後
[編集]1945年8月ポツダム宣言による終戦受諾により終戦連絡中央事務局第三部長[9]、9月2日、ミズーリの艦上での降伏文書調印式では日本側全権団随員で参列した。
1946年終戦連絡横須賀事務局長[10]。1947年の第1回統一地方選挙で横須賀市長に当選[11]。1949年運輸審議会委員[12]。1954年外務省参与[13]。1955年駐ビルマ特命全権大使[14]。1957年駐ポーランド特命全権大使[15]。1961年駐オーストラリア特命全権大使[16]。1971年国際観光振興会会長[3][17]。 1975年勲一等瑞宝章受章[18]。1978年叙正三位[19]。
親族
[編集]父は教育者の太田秀穂。外交官の太田一郎は兄。外交官の太田正己は弟[20][21]。
出典
[編集]- ^ 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)お261頁
- ^ 第五高等学校一覧 昭和8至9年
- ^ a b 『Hotel review』第261号、日本ホテル協会、1972年1月。
- ^ 官報 1930年05月29日
- ^ 官報 1931年10月01日
- ^ 官報 1937年12月22日
- ^ 官報 1940年11月15日
- ^ 官報 1943年12月10日
- ^ 官報 1945年9月4日付
- ^ 官報 1946年10月24日
- ^ 2 市長選挙の経緯横須賀市
- ^ 官報昭和24年本紙第6714号 26頁
- ^ 官報昭和29年本紙第8395号 453頁
- ^ 官報昭和30年本紙第8451号 94頁
- ^ 官報昭和32年本紙第9269号 216頁
- ^ 官報昭和36年本紙第10286号 97頁
- ^ 官報昭和46年本紙第13442号 15頁
- ^ 官報昭和50年本紙第14499号 4頁
- ^ 官報昭和53年本紙第15465号 13頁
- ^ 東京文理科大学心理学教室 編『教育心理研究』第13巻第7号、培風館、1938年7月。
- ^ 『財界展望』第23巻第4号、財界展望新社、1979年4月。
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