マット・ウィリアムズ
サンフランシスコ・ジャイアンツ コーチ #9 | |
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基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州インヨー郡ビショップ |
生年月日 | 1965年11月28日(58歳) |
身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 210 lb =約95.3 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手 |
プロ入り | 1986年 MLBドラフト1巡目 |
初出場 | 1987年4月11日 |
最終出場 | 2003年5月31日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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国際大会 | |
代表チーム | アメリカ合衆国 |
この表について
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マシュー・デリック・ウィリアムズ(Matthew Derrick "Matt" Williams , 1965年11月28日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州インヨー郡ビショップ出身の元プロ野球選手(三塁手)、野球指導者。右投右打。
祖父のバート・グリフィスは、1922年から1924年までブルックリン・ドジャース(現・ロサンゼルス・ドジャース)とワシントン・セネタース(現・ミネソタ・ツインズ)で一塁手や外野手としてプレーした。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]高校卒業時の1983年のMLBドラフト27巡目(全体664位)でニューヨーク・メッツから指名されたが、この時は入団せずにネバダ大学ラスベガス校に進学した。1985年には第14回日米大学野球選手権のアメリカ合衆国代表に選ばれ、左投手3人(西川佳明、園川一美、猪俣隆)から本塁打を放っている[1]。
プロ入りとジャイアンツ時代
[編集]1986年のMLBドラフト1巡目(全体3位)でサンフランシスコ・ジャイアンツから指名され、入団。翌1987年4月11日にメジャーデビューを果たした。当初3シーズンはケビン・ミッチェル(のちダイエーでもプレイ)が三塁を守っており、遊撃手を守る機会も多かったが、ミッチェルが左翼手に転向した1989年のシーズン後半には三塁の定位置を確保。このシーズン84試合の出場で18本塁打、50打点を記録。オークランド・アスレチックスとのワールドシリーズにも出場した。
そして1990年に初のフルシーズンで159試合に出場。打率.277・33本塁打・122打点の成績を残し、打点王を獲得。チームとしては1988年のウィル・クラーク、1989年のミッチェルに次いで3年連続の打点王獲得となった。また、オールスターにも初出場を果たし、シルバースラッガー賞も受賞した。以後は三塁手に定着。その後も、1991年には34本塁打・98打点で、この年初のゴールドグラブ賞を受賞。
1992年は不振で打率.227、20本塁打、66打点に終わるが、1993年には打率.295・38本塁打・110打点と復調した。
1994年には開幕からホームランを量産したが、リーグ最多の43本塁打を記録した時点で1994年から1995年のMLBストライキによってシーズンが打ち切られてしまった。打ち切りが決定した時点で112試合の出場での43本塁打だったことから、仮にこのペースで本塁打を打ち続けると本来のシーズン終了時には61本塁打に到達して当時のメジャーリーグのシーズン最多本塁打記録(1961年、ニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリスの61本塁打)を更新する可能性もあった。
その1995年は故障のため76試合の出場に終わったが、それでも23本塁打、65打点と強打を発揮。
1996年も故障のため105試合の出場に終わるが、22本塁打・85打点を記録。
インディアンス時代
[編集]1997年にクリーブランド・インディアンスにトレードで移籍。この年は6月終了時点の打率は.235と低迷したが[2]、後半戦は復調し、8月13日からは自己最長の24試合連続安打を記録している[3]。最終的に151試合に出場し打率.263・32本塁打・105打点を記録しチームのワールドシリーズ進出に貢献。シリーズは第7戦までもつれこんだがフロリダ・マーリンズにサヨナラ負けし、ワールドチャンピオンはならなかった。
ダイヤモンドバックス時代
[編集]1997年オフ、自宅はフェニックスでシーズン中は子供たちと2回しか会えないのは不十分なため、自宅近くに新設されるアリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍を志願し、それが駄目ならインディアンスに引退すると伝えた[3]。インディアンスのGMは1998年までの契約を延長しようと考えていたため交渉は難航したが、12月1日にダイヤモンドバックス側がトラビス・フライマン、トム・マーティンに金銭300万ドルを加えた1対2のトレードで移籍[3]。そしてノー・トレード条項を盛り込んだ6年総額4,950万ドルの契約を結んだ[3]。
1998年は20本塁打・71打点に終わったが、1999年には自己最高の打率.302を記録。35本塁打・142打点を記録してオールスターにも出場。142打点は2007年終了時点でルイス・ゴンザレスとともにダイヤモンドバックスの球団タイ記録である[4]。以後は故障がちとなり、不本意な成績が続くが、2001年には球団創設4年目のチームがワールドシリーズに進出し、ニューヨーク・ヤンキースと対戦。最終戦までもつれ込んだが、4年前と逆にルイス・ゴンザレスのサヨナラヒットで念願のワールドチャンピオンに輝いた。
2002年シーズン終了後の11月22日にはラリー・ウォーカーとのトレードを拒否権を行使し残留[5]。6年契約を満了した2003年限りで現役を引退。
引退後
[編集]引退後はダイヤモンドバックスの株式を一部取得し、専属解説者を務める[6]。
2007年11月6日にサンフランシスコ・クロニクル紙が、2002年にウィリアムズに成長ホルモンの購入歴があると報じた。これに対し、ウィリアムズは「足首の怪我の治療のために、医師の処方に従って使用した」と弁明した[7]。
2009年11月、ダイヤモンドバックスの一塁コーチに就任。2011年からは新監督カーク・ギブソンの下、三塁コーチに異動。
2013年10月31日、ワシントン・ナショナルズの監督に就任することを発表した[8]。 就任一年目の2014年は96勝66敗とナ・リーグ最高勝率で地区優勝したが、ディビジョンシリーズでジャイアンツに敗れる。同年の最優秀監督賞を受賞した。
2015年は83勝79敗でナ・リーグ東地区2位の成績に終わり、地区優勝したメッツに7ゲーム差をつけられる。同年10月5日、監督解任が発表された[9]。
2015年11月11日、2016年シーズンより三塁コーチとしてダイヤモンドバックスへの復帰が発表された[10]が、1年で退任した。
2018年シーズンからはオークランド・アスレチックスの三塁コーチを務める[12]。
2020年シーズンからは韓国・起亜タイガースの監督に就任する。契約期間は3年[13]。2020年は6位、2021年は9位と2年連続でポストシーズン進出に失敗するなど成績が振るわず、2021年11月1日、双方合意の上に契約期間を1年残して契約解除と発表された[14]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987 | SF | 84 | 266 | 245 | 28 | 46 | 9 | 2 | 8 | 83 | 21 | 4 | 3 | 3 | 1 | 16 | 4 | 1 | 68 | 5 | .188 | .240 | .339 | .578 |
1988 | 52 | 170 | 156 | 17 | 32 | 6 | 1 | 8 | 64 | 19 | 0 | 1 | 3 | 1 | 8 | 0 | 2 | 41 | 7 | .205 | .251 | .410 | .662 | |
1989 | 84 | 311 | 292 | 31 | 59 | 18 | 1 | 18 | 133 | 50 | 1 | 2 | 1 | 2 | 14 | 1 | 2 | 72 | 5 | .202 | .242 | .455 | .697 | |
1990 | 159 | 664 | 617 | 87 | 171 | 27 | 2 | 33 | 301 | 122 | 7 | 4 | 2 | 5 | 33 | 9 | 7 | 138 | 13 | .277 | .319 | .488 | .807 | |
1991 | 157 | 635 | 589 | 72 | 158 | 24 | 5 | 34 | 294 | 98 | 5 | 5 | 0 | 7 | 33 | 6 | 6 | 128 | 11 | .268 | .310 | .499 | .809 | |
1992 | 146 | 576 | 529 | 58 | 120 | 13 | 5 | 20 | 203 | 66 | 7 | 7 | 0 | 2 | 39 | 11 | 6 | 109 | 15 | .227 | .286 | .384 | .670 | |
1993 | 145 | 619 | 579 | 105 | 170 | 33 | 4 | 38 | 325 | 110 | 1 | 3 | 0 | 9 | 27 | 4 | 4 | 80 | 12 | .294 | .325 | .561 | .886 | |
1994 | 112 | 483 | 445 | 74 | 119 | 16 | 3 | 43 | 270 | 96 | 1 | 0 | 0 | 3 | 33 | 7 | 2 | 87 | 11 | .267 | .319 | .607 | .926 | |
1995 | 76 | 318 | 283 | 53 | 95 | 17 | 1 | 23 | 183 | 65 | 2 | 0 | 0 | 3 | 30 | 8 | 2 | 58 | 8 | .336 | .399 | .647 | 1.046 | |
1996 | 105 | 455 | 404 | 69 | 122 | 16 | 1 | 22 | 206 | 85 | 1 | 2 | 0 | 6 | 39 | 9 | 6 | 91 | 10 | .302 | .367 | .510 | .877 | |
1997 | CLE | 151 | 636 | 596 | 86 | 157 | 32 | 3 | 32 | 291 | 105 | 12 | 4 | 0 | 2 | 34 | 4 | 4 | 108 | 14 | .263 | .307 | .488 | .795 |
1998 | ARI | 135 | 557 | 510 | 72 | 136 | 26 | 1 | 20 | 224 | 71 | 5 | 1 | 0 | 1 | 43 | 8 | 3 | 102 | 19 | .267 | .327 | .439 | .766 |
1999 | 154 | 678 | 627 | 98 | 190 | 37 | 2 | 35 | 336 | 142 | 2 | 0 | 0 | 8 | 41 | 9 | 2 | 93 | 17 | .303 | .344 | .536 | .880 | |
2000 | 96 | 397 | 371 | 43 | 102 | 18 | 2 | 12 | 160 | 47 | 1 | 2 | 0 | 3 | 20 | 1 | 3 | 51 | 11 | .275 | .315 | .431 | .746 | |
2001 | 106 | 436 | 408 | 58 | 112 | 30 | 0 | 16 | 190 | 65 | 1 | 0 | 0 | 3 | 22 | 3 | 3 | 70 | 15 | .275 | .314 | .466 | .780 | |
2002 | 60 | 238 | 215 | 29 | 56 | 7 | 2 | 12 | 103 | 40 | 3 | 1 | 0 | 2 | 21 | 1 | 0 | 41 | 8 | .260 | .324 | .479 | .803 | |
2003 | 44 | 156 | 134 | 17 | 33 | 9 | 0 | 4 | 54 | 16 | 0 | 0 | 0 | 4 | 16 | 1 | 2 | 26 | 1 | .246 | .327 | .403 | .730 | |
MLB:17年 | 1866 | 7595 | 7000 | 997 | 1878 | 338 | 35 | 378 | 3420 | 1218 | 53 | 35 | 9 | 62 | 469 | 86 | 55 | 1363 | 182 | .268 | .317 | .489 | .805 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
[編集]年度 | チーム | 地区 | 年齢 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位/ チーム数 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2014年 | WSH | NL EAST | 48 | 162 | 96 | 66 | .593 | 1 / 5 | 地区優勝 |
2015年 | WSH | NL EAST | 49 | 162 | 83 | 79 | .512 | 2 / 5 | 東地区2位 |
MLB:2年 | 324 | 179 | 145 | .552 |
タイトル
[編集]表彰
[編集]- シルバースラッガー賞:4回(1990年、1993年、1994年、1997年)
- ゴールドグラブ賞:4回(1991年、1993年、1994年、1997年)
- プレイヤー・オブ・ザ・マンス:2回(1995年5月、1999年4月)
- ナショナルリーグ最優秀監督賞:1回(2014年)
記録
[編集]背番号
[編集]- 60(1987年 - 同年途中)
- 10(1987年途中 - 1988年)
- 9(1989年 - 2003年、2010年 - 2016年、2020年 - 2021年)
- 4(2018年 - 2019年)
代表歴
[編集]- 第14回日米大学野球選手権大会 アメリカ合衆国代表(1985年)
脚注
[編集]- ^ 第14回 日米大学野球選手権(2018年10月3日閲覧)
- ^ “Matt Williams 1997 Batting Gamelogs - Baseball-Reference PI” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年7月21日閲覧。
- ^ a b c d 奥田秀樹「祝新球団誕生 マット・ウィリアムス[ダイヤモンドバックス]」『月刊メジャー・リーグ』1998年6月号、ベースボールマガジン社、1998年、雑誌 08625-6、15 - 18頁。
- ^ “Arizona Diamondbacks Batting Leaders” (英語). Baseball Reference.com. 2008年7月21日閲覧。
- ^ “The Ballplayers - Matt Williams Chronology” (英語). BaseballLibrary.com. 2008年7月21日閲覧。
- ^ “Matt Williams 1997 Batting Gamelogs - Baseball-Reference PI” (英語). Baseball-Reference.com. 2015年9月16日閲覧。
- ^ “Franchise-best 151 D-backs games to be televised in 2007” (英語). The Official Site of the Arizona Diamondbacks. 2007年2月9日閲覧。
- ^ Matt Williams hired by Nationals ESPN MLB
- ^ “Washington Nationals fire manager Matt Williams” (英語). ESPN. (2015年10月5日) 2015年10月6日閲覧。
- ^ “Washington Nationals fire manager Matt Williams” (英語). ESPN. (2015年11月11日) 2017年12月1日閲覧。
- ^ Alex Pavlovic (2017年3月28日). “Matt Williams joins NBC Sports Bay Area's Giants TV coverage” (英語). NBCsports.com. 2018年4月9日閲覧。
- ^ Jane Lee (2017年12月6日). “Williams joins A's staff as third-base coach” (英語). MLB.com 2017年12月6日閲覧。
- ^ “KIA타이거즈 제9대 감독에 맷 윌리엄스 선임” (韓国語). KIA Tigers. (2019年10月15日) 2019年10月15日閲覧。
- ^ https://tigers.co.kr/contents/press/994061
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com