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サンエイサンキュー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サンエイサンキュー
欧字表記 Sanei Thank You[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 芦毛[1]
生誕 1989年4月7日[1]
死没 1994年10月21日(6歳没・旧表記)
抹消日 1993年4月25日[2]
ダイナサンキュー[1]
グロリーサクラ[1]
母の父 シーホーク[1]
生国 日本の旗 日本北海道えりも町[1]
生産者 寺井文秀[1]
馬主 岩崎喜好[1]
調教師 佐藤勝美美浦北[1]
厩務員 橘内茂左衛門、斎藤武[2]
競走成績
生涯成績 17戦5勝[1]
獲得賞金 2億5895万5000円[1]
勝ち鞍
GIII クイーンC 1992年
GIII 札幌記念 1992年
GIII サファイヤS 1992年
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サンエイサンキュー(欧字名:Sanei Thank You1989年4月7日 - 1994年10月21日)は、日本競走馬[1]。主な勝ち鞍に1992年クイーンカップ札幌記念サファイヤステークス

1991年阪神3歳牝馬ステークス、1992年の優駿牝馬2着の実績もある。馬名の由来は、冠名+父名の一部より[2]

生涯

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競走馬時代

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1991年7月13日札幌の新馬戦(ダート1000m)でデビュー(6頭立ての2着)し、翌週の新馬戦(1000m・7月20日)で初勝利を挙げる。さらに3連闘で札幌3歳ステークスに出走するも13着に敗れる。5戦目の函館3歳ステークスでそれまでの徳吉孝士から東信二へ乗り替わり、12番人気ながら2着となる。6戦目のいちょうステークスで2勝目をあげ、阪神3歳牝馬ステークス(現在の阪神ジュベナイルフィリーズ)でニシノフラワーの2着。

明けて4歳(当時表記・現在の3歳)となった1992年も休むことなくレースに出走し、初戦の2月2日クイーンカップ重賞初制覇を飾る。その後は牡馬クラシックトライアル弥生賞にも出走したが6着。この後桜花賞では2番人気に推されるが7着。この頃と前後して、億単位の身売り話が出て来たと言われる。田原成貴との新コンビで臨んだ優駿牝馬ではアドラーブルの2着に敗れたが、直線で一旦は先頭に立つなど見せ場を作った。その後、夏期を休養にあてることなく相次いで重賞に出走。7月5日札幌記念に出走し、古馬を相手に勝利を収める。その後函館記念で8着、サファイヤステークスで優勝、ローズステークス2着、GIエリザベス女王杯5着。加藤和宏騎乗で出走した有馬記念でのレース中(最後の直線)に右トウ骨手根骨複骨折のため競走中止した。

闘病生活

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有馬記念におけるサンエイサンキューの骨折は予後不良で、通常であればその場で安楽死処分となるほどの重傷であったが、サンエイサンキューは安楽死される事なく、右前脚の骨折を治す為の手術が行われる事になった。美浦の診療所で5ヶ月入院し、その後5月26日から丸2日かけ、サンエイサンキューは故郷の三栄育成牧場に帰省した。畳と新聞を敷いたベッドで寝起きしながら帰省したサンキューはただでさえ細かった体は更に痩せこけ、床ずれはぶら下がっている箇所もあり、股には穴が開いていた。サンエイサンキューを出迎えた三栄育成牧場代表取締役の住吉長一氏は、サンエイサンキューの惨状に絶句し声も出なかったという。サンエイサンキュー本人は故郷を思い出したのか嬉しそうに鳴いていた。

その日から丸5日間、住吉氏はサンエイサンキューの馬房の前で寝起きした。夜明け前の3時半に起きてサンエイサンキューの好きな青草を刈るのが日課となっていた。夜飼いは普段は7時にしていたが、ある時住吉氏が用事で遅れ8時に夜飼いをした事があった。その時サンエイサンキューは珍しく怒っており、一頭だけで夜飼いを待っていた事を可哀想に思った住吉氏は、それからかかさず夜飼いは7時きっかりに行うようになったという。サンエイサンキューは住吉氏に非常に懐いており、くつろぐ際はいつも住吉氏の膝に頭を乗せていたという。そんなサンエイサンキューの事を、住吉氏もまた可愛がっていた。また、住吉氏が帰ろうとする際にサンエイサンキューは決まって唸ってボロを出したという。ボロを片付けるのには30分程かかり、少しでも住吉氏と一緒にいたいが為に、サンエイサンキューはあえてボロを出していた。

普通の馬がする何気ない動作も、サンエイサンキューにとっては一つ一つが一歩間違えれば命を奪いかねない事だった。寝る時は骨折した右前脚を庇ってゆっくりと寝転び、起きる時は右前脚に負担をかけないように一気に立ち上がっていた。飼葉を食べる際も、負担をかけないように右前脚だけを浮かしながら食べる事もあったという。床ずれが痛い時は体を壁に寄りかからせて、傷口が触れないようにしていた。

蹄葉炎を患い苦しんだ日もあったが、サンエイサンキューの強い生命力や住吉氏の必死の看病の甲斐もあってか、骨折から2年後の1994年の春についに庇う事なく四本の脚で立てるまでに回復した。その年の5月7日、サンエイサンキューは縁あってより静かに療養できる越湖ファームに移動する事が決まった。受け入れ先の越湖ファームの越湖正和氏が阪神3歳牝馬ステークス時に「繁殖にする時にはうち(越湖ファーム)に」と冗談交じりに言った事がきっかけだったが、当の越湖氏はその後サンエイサンキューが活躍を遂げた事により、本当にサンエイサンキューが自身の牧場に来るとは思っていなかった。何より、越湖氏はサンエイサンキューのファンでもあった。

越湖氏は「脚は曲がっているが、球節さえ真っ直ぐ脚について歩ければ繁殖牝馬として使える」と思っていたが、あくまでも繁殖というのは希望であり、越湖ファームではリラックスして体力づくりをするのが目標だった。越湖ファームに移ったサンエイサンキューは毎朝6時に起き、普通の馬の半分の量の飼葉を食べてから1時間ほど休み、10時ごろから夕方までを放牧場で過ごす生活をしていたという。

秋になると、骨折により球節から蹄にかけて彎曲した脚が正常になるよう、右前脚の腱を切って伸ばす手術が行われる事が決まった。怪我をした右前脚は骨折箇所を取り巻く筋が上下に引っ張られ、曲がったままの状態になっていた。その為自然と脚が内向きになり、サンエイサンキューも立ちやすくしようと球節から蹄を内に巻き込む形で姿勢を保っていたが、蹄を内に巻きすぎるとやがて球節で脚を支える事になる。そうなると皮膚の薄い部分が裂け、そこから細菌に感染する恐れがあった。また、右前脚を庇っていれば左前脚の負担は避けられず、左前脚が負担によって鬱血し、蹄葉炎が再発する可能性もあった

手術自体は腱を8cm程度切れば済むもので、手術時間も約40分ほどと比較的短時間だった。手術以上に大切なのがその後のリハビリで、手術後に右前脚を正常な位置に戻し、均等に体重をかける動作をサンエイサンキューが覚えられるかどうかがポイントだった。

10月15日、住吉氏は手術を前日に控えたサンエイサンキューの元を訪れた。サンエイサンキューの大好物である林檎をいくつか与え、いつもの通り膝枕をしてやった。「サンキュー信じてるからね。手術頑張って。また明日来るから。」。「信じている」が住吉氏の口癖になっていた。

手術当日の10月16日、雨の中1時15分から行われた手術は40分後に無事に終了した。手術を終えてから1時間後、サンエイサンキューは四本の脚で立てていた。食欲もあり、住吉氏から貰った林檎と青草を嬉しそうに食べていたという。「僕はサンキューを信じているから絶対治ると思っているよ。リハビリも大丈夫、あの子なら必ず覚えるよ」住吉氏はそう語っていた。手術前は片側でしか寝られなかったが、手術後は両側で寝返りを打って寝る事もできる様になっていたという。サンエイサンキューの術後は良好で、住吉氏や越湖氏、獣医らも安心していた。

手術から5日後、いつもの通り朝6時に越湖氏が馬房の戸を開けると、サンエイサンキューの様子がおかしかった。首と内股に汗をかいていた。越湖氏はすぐに獣医に連絡したが、獣医の到着を待たずして、1994年10月21日午前6時40分、サンエイサンキューは息絶えた。死因は心不全。解剖が行われていない為詳しい事は分かっていないが、前日まで変わらず良好に過ごしており、余りにも突然の死だった。延べ6度の手術の末、現役時に430kgあった体重は300kgまで減少していた。

死後4時間が経ち、サンエイサンキューは住吉氏がいる故郷の三栄育成牧場へ無言の帰宅を果たした。翌日、盛大な葬式の後、サンエイサンキューは住吉氏が作った墓に眠った。「サンキュー信じてたのに。」住吉氏はそうサンエイサンキューの死を嘆き[3]、田原は「何故サンキューを有馬の(故障の)ときに楽(安楽死措置)にしてあげなかったのか。今でも腸が煮えくり返る思いだ。」と連載エッセイで怒りを露わにした。

エピソード

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過酷なローテーションと故障発症

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競走馬としての実績だけでなく、過酷なローテーションで次々と重賞競走に出走した挙句、故障を発症したことでも知られる。佐藤勝美厩舎調教助手だった菅野年美は、出走が相次いだ原因として馬主の岩崎喜好が資金難に陥っていた可能性、さらにサンエイサンキューのライバルであったニシノフラワーの馬主・西山正行への対抗心から積極的にレースに出走させることでサンエイサンキューの名前を売ろうとした思惑を挙げている(サンエイサンキューは岩崎にとって生涯唯一の重賞勝ち馬であった)。

岩崎はエリザベス女王杯に至る過程でサファイアステークスとローズステークスという2つのトライアル競走に出走させる方針だったが、主戦騎手の田原成貴は「ローズステークスは使うべきではない」と反発した。菅野によると彼自身も出走に反対したが、ローズステークスで2着と好走したことで岩崎が「自分の言うことが正しい」と思うようになったという。

菅野によるとエリザベス女王杯の直前は疲労の蓄積によって体調に変調をきたし、トウ骨に痛みを訴えるようになったという(ちなみにそのことは田原も察知しており、サンエイサンキューの体調に関して歯に衣着せぬ言動をとっており、そうした発言は田原と馬主および厩舎スタッフとの対立、さらには後述するいわゆるサンエイサンキュー事件を引き起こすこととなった)。エリザベス女王杯の後、厩舎は休養を取らせるつもりだったが、岩崎は有馬記念への出走を決断。当時のサンエイサンキューに騎乗するとトウ骨が軋む音が聞こえ、菅野と担当厩務員が「あまりにむごいことをする」と涙するほどであったという。菅野は有馬記念を「何とか無事に回ってきて欲しい」と願ったものの、サンエイサンキューはレース中にトウ骨を骨折した。このレースでトウカイテイオーに騎乗していた田原は「俺が止めなきゃいけなかったのに何もしてやれなかった」と嘆いている。

サンエイサンキュー事件

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主戦騎手、田原成貴の発言をめぐって、同騎手とサンケイスポーツとの間で起こったトラブルである。

事件の概要

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オークス出走後、休養を取ることなく出走を続けていたサンエイサンキューの体調について不満を募らせていた田原は、ローズステークス出走前から同馬の体調が思わしくないというコメントを繰り返していた。エリザベス女王杯の調教後もテレビのインタビューでも同様のコメントをしたが、録画が終了した際に「こんなに悪く言っちゃって、これで勝ったら頭を丸めなきゃなんないな」と発言した。

サンケイスポーツの水戸正晴記者は録画に立ち会っていたテレビディレクターから田原の発言内容を伝え聞き、翌日の同紙1面で「田原2着以上なら坊主頭になる」という見出しでスクープした。見出しからは田原が故意に2着以上になることを放棄するという競馬法に抵触する発言をしたという疑惑が読み取れるため、田原は「八百長の誤解を招く書き方は勘弁して欲しい」と釈明した。同紙はそれを「田原謝罪」という見出しで報道した。

一連のサンケイスポーツの報道姿勢に田原は不信感を抱き、同年の有馬記念では有力馬の一頭、トウカイテイオーに騎乗する予定だった田原はサンケイスポーツの取材を拒否。その理由について「又聞きで書かれ、その上事実を歪められたら、どうしようもない。そういう状況なので取材を受け付けられない」と日刊スポーツに手記を掲載した。これについてサンケイスポーツが日刊スポーツ編集部に抗議した。

水戸記者の行動について

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田原が知人の記者に「これで勝ったら…」と発言した時、水戸正晴はその場に居合わせなかった。水戸は田原が公式に行なったマスコミ記者会見に寝坊で遅刻したため、個別にサンエイサンキューの状態を尋ねたところ「見れば分かるだろう」と田原にコメントを拒否された。そこでテレビディレクターから又聞きした発言を「田原2着以上なら坊主頭になる」という見出しで記事にした。

片山記者退社事件

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当時、サンケイスポーツの競馬記者だった片山良三は文藝春秋の雑誌「Sports Graphic Number」でサンエイサンキュー事件に触れ、「赤面するほど恥ずかしい」などと自社批判を展開。それが原因となって片山はサンケイスポーツを解雇された。さらに片山に追随して同社を退職するレース部社員も数人現れ、一連の騒動はフジサンケイグループの体質を焦点にした特集記事が組まれるほどの騒動となった。

「ありゃ馬こりゃ馬」における描写

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田原は後年、自らが原作を手がけた漫画競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬」で、サンエイサンキュー事件を連想させる描写をしている。まず、スクープ記事を作るために主人公の騎手の発言を曲解し、悪意をもって報道する新聞記者(「サンオウスポーツ」の記者で、その名も「水田」)が、そして事件の伏線となったサンエイサンキューの酷使に関して、賞金を稼がんがために負担の大きなローテーションで競走馬を出走させようとする馬主と厩務員の姿、さらには水田とサンオウスポーツの体質を批判する記事を他紙に寄稿し、職場を追われる同僚記者が描かれている。

事件後の水戸記者

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水戸個人に対する処分発表は無く事件後もサンケイスポーツ紙に在籍。競馬記者として通算40年以上にわたり紙面に関わり続け、輝ける団塊の星サンスポの看板記者として水戸の名を冠したコーナーを与えられるに至る[4]

越湖ファームの越湖正和氏曰くサンエイサンキューは頑固なところもあるが、とても大人しく利口で、自分の体が不自由な事も理解しており、なおかつ何事にも動じない性格であったという。また、林檎と青草が大好物だった[5]

競走成績

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以下の内容は、netkeiba.comの情報に基づく[6]

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム

(上がり3F)

着差 騎手 斤量

[kg]

1着馬(2着馬) 馬体重

[kg]

1991.07.13 札幌 3歳新馬 ダ1000m(良) 6 6 6 009.50(4人) 02着 R1:01.4(36.6) -0.1 0徳吉孝士 50 ハグロビュウティ 420
0000.07.20 札幌 3歳新馬 芝1000m(良) 7 3 3 005.30(4人) 01着 R0:59.0(35.1) -0.9 0徳吉孝士 50 (ゴールデンゼウス) 424
0000.07.28 札幌 札幌3歳S GIII 芝1200m(良) 14 6 9 050.2(10人) 13着 R1:12.7(38.2) -2.2 0徳吉孝士 53 ニシノフラワー 420
0000.08.25 函館 クローバー賞 OP 芝1200m(良) 8 8 8 031.70(7人) 07着 R1:11.8(36.5) -1.5 0徳吉孝士 53 シャートストーン 424
0000.09.22 函館 函館3歳S GIII 芝1200m(不) 14 7 11 052.6(12人) 02着 R1:13.7(37.6) -0.0 0東信二 53 アトムピット 426
0000.10.27 東京 いちょうS OP 芝1600m(不) 14 5 7 011.80(4人) 01着 R1:38.7(36.9) -0.4 0東信二 54 (オンエアー) 426
0000.12.01 阪神 阪神3歳牝馬S GI 芝1600m(良) 15 6 10 015.20(3人) 02着 R1:36.3(48.1) -0.1 0東信二 53 ニシノフラワー 424
1992.02.02 東京 クイーンC GIII 芝1600m(不) 12 7 9 002.00(1人) 01着 R1:36.0(35.9) -0.0 0東信二 54 (ディスコホール) 436
0000.03.08 中山 弥生賞 GII 芝2000m(良) 9 5 5 010.70(5人) 06着 R2:02.1(36.7) -0.6 0東信二 53 アサカリジェント 430
0000.04.12 阪神 桜花賞 GI 芝1600m(良) 18 2 4 006.40(2人) 07着 R1:38.6(50.6) -1.1 0東信二 55 ニシノフラワー 428
0000.05.24 東京 優駿牝馬 GI 芝2400m(良) 18 3 5 017.40(6人) 02着 R2:29.0(36.3) -0.1 0田原成貴 55 アドラーブル 426
0000.07.05 札幌 札幌記念 GIII 芝2000m(良) 13 6 9 007.30(4人) 01着 R2:00.2(36.7) -0.4 0田原成貴 52 (ニックテイオー) 432
0000.08.23 函館 函館記念 GIII 芝2000m(良) 14 3 4 003.30(1人) 08着 R2:01.3(37.2) -0.7 0田原成貴 55 ヒガシマジョルカ 434
0000.10.04 阪神 サファイヤS GIII 芝2000m(良) 14 8 13 002.10(1人) 01着 R2:04.7(48.4) -0.1 0田原成貴 54 (ケージーカグラ) 432
0000.10.25 京都 ローズS GII 芝2000m(良) 13 7 12 003.60(3人) 02着 R2:00.5(46.8) -0.3 0田原成貴 55 エルカーサリバー 436
0000.11.15 京都 エリザベス女王杯 GI 芝2400m(良) 18 8 17 007.50(4人) 05着 R2:28.0(47.1) -0.9 0田原成貴 55 タケノベルベット 436
0000.12.27 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 7 13 039.6(13人) 競走中止 0加藤和宏 53 メジロパーマー 438

血統表

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サンエイサンキュー血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ノーザンテースト系
[§ 2]

ダイナサンキュー
1984 栗毛
父の父
*ノーザンテースト
Northern Taste
1971 栗毛
Northern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic
Natalma
Lady Victoria
1962 黒鹿毛
Victoria Park
Lady Angela
父の母
メルシーダイナ
1979 栗毛
*ボールドアンドエイブル
1968 栗毛
*ボールドラッド (USA)
Real Delight
スイートターフ
1965 栗毛
*ガーサント
アリエッタ

グロリーサクラ
1984 芦毛
*シーホーク
Sea Hawk
1963 芦毛
Herbager
1956 鹿毛
Vandale
Flagette
Sea Nymph
1957 芦毛
Free Man
Sea Spray
母の母
ジャガーサクラ
1979 芦毛
*ラフィンゴラ
1965 芦毛
Grey Sovereign
Cameo
ヤシマキーパー
1961 栗毛
トビサクラ
昇城
母系(F-No.) 星旗系(FN:16-h) [§ 3]
5代内の近親交配 Lady Angela 5・4(父内) [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ サンエイサンキュー 5代血統表2016年8月29日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com サンエイサンキュー 5代血統表2016年8月29日閲覧。
  3. ^ [7] JBISサーチ サンエイサンキュー 5代血統表2016年8月29日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ サンエイサンキュー 5代血統表2016年8月29日閲覧。


5代母に名牝クレオパトラトマスを持ち、曾祖母はハクチカラの全妹という日本土着の名血。父はゴールドシチーサクラスターオーらの同期で野路菊賞、デイリー杯3歳ステークスの勝ち馬。故障のため(旧)3歳時の3戦3勝のみで引退。中央競馬の重賞を勝った産駒は本馬のみである。

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o サンエイサンキュー”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2022年7月3日閲覧。
  2. ^ a b c Gallop臨時増刊 週刊100名馬Vol.18 サンエイサンキュー
  3. ^ 『日本母馬列伝 黄金の母たち』夏目書房、3.20。 
  4. ^ 『水戸正晴の「俺に任せとけ」』、『サンスポ水戸正晴の「絶対馬券論」』
  5. ^ 『日本母馬列伝 黄金の母たち』夏目書房、3.20。 
  6. ^ サンエイサンキューの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 株式会社ネットドリーマーズ. 2021年5月11日閲覧。
  7. ^ 『優駿』1992年9月号、日本中央競馬会、143頁

参考文献

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  • 渡辺敬一郎(編)『星になった名馬たち』 オークラ出版、2000年、ISBN 4872785185

外部リンク

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