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サクラスターオー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サクラスターオー
欧字表記 Sakura Star O[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1984年5月2日[1]
死没 1988年5月12日
  (4歳没・旧5歳)[2]
サクラショウリ[1]
サクラスマイル[1]
母の父 インターメゾ[1]
生国 日本の旗 日本北海道静内町[1]
生産者 藤原牧場[1]
馬主 (株)さくらコマース[1]
調教師 平井雄二 (美浦)[1]
厩務員 萩原禎吉[3]
競走成績
タイトル JRA賞年度代表馬(1987年)[1]
JRA賞最優秀4歳牡馬(1987年)[1]
生涯成績 7戦4勝[1]
獲得賞金 1億9632万6600円[2]
勝ち鞍
GI 皐月賞 1987年
GI 菊花賞 1987年
GII 弥生賞 1987年
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サクラスターオー(欧字名:Sakura Star O1984年5月2日 - 1988年5月12日)は、日本競走馬[4]

1987年のJRA賞年度代表馬およびJRA賞最優秀4歳牡馬

奇跡と悲劇の二冠馬と呼ばれた[5]

デビューまで

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誕生に至る経緯

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母のサクラスマイルは、1978年に北海道静内町の藤原牧場で生産された牝馬で、父はインターメゾ、母はアンジェリカである[6]。クレイグダーロッチから派生したスターロッチの牝系であり、アンジェリカから産まれたサクラスマイルの兄弟には、1981年優駿賞最優秀スプリンターサクラシンゲキ、1986年優駿賞最優秀5歳以上牡馬サクラユタカオーがいた[7]。兄弟と同様に「サクラ」の冠名を用いる株式会社さくらコマース(代表:全演植)が所有し、美浦トレーニングセンター境勝太郎厩舎からデビュー[6]。1981年のラジオたんぱ賞京都牝馬特別エリザベス女王杯で3着となるなど、29戦4勝[6]、生まれ故郷の藤原牧場で繁殖牝馬となった。

初年度は、全が交配相手を選択[8][9]。かつてさくらコマースが所有し、1978年優駿賞最優秀4歳牡馬サクラショウリと交配した[10]。境の言う「のんびり屋」のサクラスマイルと、「気性の勝った」サクラショウリという対照的な2頭による組み合わせであった[注釈 1][11]

サクラスマイルは、受胎はしたものの、双子を受胎した[8]。双子は、栄養が行き渡らず、十分な体力を身につけることができなくなると考えられており、そのリスクを忌避して、片方が除去された[8]。取り残されたもう片方はそれ以降も成長。1984年5月2日、藤原牧場にて、初仔となる鹿毛の牡馬(後のサクラスターオー)が誕生する[7]

幼駒時代

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仔は、しばらく母サクラスマイルの乳で過ごしたが、生後2か月経った7月15日、サクラスマイルが腸捻転のために死亡[12][8]。以降は、スターロッチが代わりの母を務めた。母仔の仲は良く、仔が誤って放牧場の柵をすり抜けてしまっても、母のそばを離れなかったという[13]。そこで牧場主の藤原祥三は、母仔がいつでも触れあえるよう馬房を、仔だけが行き来できるように改造した[13]。ただしスターロッチは、老齢で乳が出なかったため、藤原が昼夜問わず4時間おきに、仔にミルクを与えていた[13]。翻って、母を亡くし人との関わりが多かった仔は、他の同期よりも早く自立[7]。他が乳に頼っている中、一足先に飼葉を食むことができた[7]。藤原は「本当にかしこい馬」だと考えていた[13]

仔は、両親[注釈 2]と同様に、さくらコマースが所有[7]。冠名の「サクラ」に「スターオー」を組み合わせた「サクラスターオー」という競走馬名が与えられた。サクラスターオーの馬体は、バランスについての評価は高かったが、脚のある一部分が内側に曲がっているという身体的なハンディを持ち合わせていた[注釈 3]

育成を経て3歳となった1986年4月10日、サクラスターオーは、サクラの主戦厩舎であった境厩舎ではなく、美浦の平井雄二厩舎に入厩する[7]。平井は、前年まで障害競走の騎手をしていた。さくらコマース所有のサクラオンリーに騎乗し、1976年の中山大障害(秋)優勝していた[注釈 4]。それ以降、平井と全と境は、プライベートを含めた関係を継続していた[注釈 5][14]。騎手を引退し、厩舎を開業することになった平井は、境に「開業祝い」として、境厩舎に入厩する予定のさくらコマースの競走馬を1頭譲るよう要望[14][11]。境と全はそれを受け入れ、平井にサクラスターオーが託された[14]。境は「未勝利で終わる器ではないからな[14]」と言って託したという。入厩直後は、環境の変化に耐えられない馬が多いが、サクラスターオーは平然としており、他より先に環境の変化に順応[3]。平井と担当厩務員の萩原禎吉は、そんなサクラスターオーの姿に手ごたえを感じていた[3]

競走馬時代

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新馬 - 弥生賞

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平井は、サクラスターオーの母父がステイヤーのインターメゾであることから、本格化は古馬になってからと捉えていた[7]。そのため、無理に成長を促そうとはせず、強め調教が施されぬままにデビューを迎えることとなった[7]。1986年10月5日、東京競馬場新馬戦(芝1600メートル)にて、さくらコマースの主戦騎手である小島太が騎乗し、1番人気2着。続く10月18日、同じ条件である2戦目で、初勝利を挙げた。しかしこの2戦は、ハンディを他の脚で庇いながら走ったため、四肢の負担が偏ってしまい故障[注釈 6][7][14]。勝利後4か月出走できなかった[15]。年をまたぎ、4歳となった1987年2月21日、寒椿賞(400万円以下)で復帰。マティリアルに2馬身以上離された5着となった[16]

それから目標をクラシックに据えて、皐月賞優先出走権が与えられる3月8日の弥生賞GII)に参戦。デビューからここまで3戦は、小島が騎乗していたが、東信二に乗り替わった。小島は、さくらコマースと専属騎乗契約を結んでおり、その通りサクラスターオーにも騎乗していた[14]。しかし、小島が好景気[注釈 7]時に台頭した他の馬主[注釈 8][17]と親しくするなど、さくらコマース所有馬以外へ騎乗する機会を増やしたところ、さくらコマースの全と小島の関係が悪化[14]。全は、弥生賞2日前の3月6日に、騎手の変更を指示した[18]。代わりに、母サクラスマイルへの騎乗経験があり、元・境厩舎所属でフリー騎手となったばかり、さらに当時「代打屋[注釈 9]」呼ばれていた東が起用されるに至った[18]。調整ルームに入ろうと支度をしていた東のもとに騎乗依頼が届き、弥生賞前日、3月7日朝の調教で初めてサクラスターオーとコンタクトを行った[19]

当日は11頭が出走する中、重賞2勝、朝日杯3歳ステークス2着のホクトヘリオスが2.4倍の1番人気、共同通信杯4歳ステークス優勝、重賞2着2回のマイネルダビテが2.8倍の2番人気となり、以降オッズ6倍、7倍の3頭がいて、サクラスターオーは18.9倍の6番人気の支持であった[20]

スタートからビュウーコウが逃げ、それにマイネルダビテが続く一方で、サクラスターオーはホクトヘリオスと並んで中団を追走[18]。第3コーナーから最終コーナーにかけて、サクラスターオーは外に持ち出して位置を上げ、大外4番手で直線に向いた。それから末脚を発揮し、逃げるビュウーコウ、抜け出しを図るマイネルダビテを外から差し切り、クビ差をつけて優勝[18]。走破タイム2分2秒1は、1984年のシンボリルドルフに次ぐ史上2番目の速さであった[17]。また平井にとっては、厩舎開業1年で初重賞勝利、それもクラシックに有力馬を送り込むこととなった[18]。レース直後の表彰式に出席した平井は、青ざめた顔で、足の震えを止めることができなかったという[18]

皐月賞の優先出走権を獲得し、続いて皐月賞に出走することになるが、弥生賞から1週間後、皐月賞を1か月前に控えた3月15日、サクラスターオーにミルクを与えた藤原祥三が59歳で脳梗塞のために死去[18][注釈 10][21]。祥三の妻・京子によれば、生産馬サクラユタカオーが活躍していた際に、競馬月刊誌『優駿』の特集「GI勝ち馬の故郷[注釈 11]」に取り上げられ、祥三は「死ぬまでにせめてあと一回でいいからこれに載りたい[注釈 12][13]」と言っており、またサクラスターオーの走りを見届けた際には「クラシックが楽しみになった[18]」とも言っていた。

皐月賞

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弥生賞優勝後は、休養していた4カ月の遅れを取り戻そうと「スパルタ方式[11]」(有吉正徳)での調教を敢行。他よりも倍の6000メートルの調教をこなしたうえで、4月19日の皐月賞(GI)に参戦する[11]。20頭が出走し、うち重賞優勝馬は史上最多となる9頭であった[22]。寒椿賞でサクラスターオーを下してスプリングステークスで連勝、4戦3勝としたマティリアルが単勝オッズ2.0倍の1番人気、サクラスターオーはそれに次ぐ5.6倍の2番人気であった[23]

映像外部リンク
1987年 皐月賞(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートからトチノルーラーとビュウーコウが逃げて、後続の馬群は一団となった。サクラスターオーはその馬群の外、後方を追走した[24]。後方有利の展開となる中、サクラスターオーは第3コーナーから、弥生賞より早いタイミングで外から位置を上げた[25]。9番手、中団外から直線に向いて末脚を発揮[25]。残り200メートルで抜け出し、後続との差を広げて入線した[25]。2位入線のゴールドシチーに2馬身半差をつけて優勝、GI初勝利を挙げた[21]

走破タイム2分1秒9は、1984年にシンボリルドルフが樹立した皐月賞レコードの2分1秒1、1976年トウショウボーイの2分1秒6に続く皐月賞史上3番目の速さであった[22][注釈 13][11]。レース後の表彰式では、東がサクラスターオーの背に跨り、人差し指を立てて天に向けるパフォーマンスを実施[21]。これは1984年に岡部幸雄がシンボリルドルフの背で行ったパフォーマンスと類似しており、岡部と同じように「三冠宣言」と捉えられたり[21]、亡きサクラスマイル、藤原祥三に向けたものとも捉えられた[26]。(競走に関する詳細は、第47回皐月賞を参照。)

その後は、クラシック二冠目の東京優駿(日本ダービー)を目標とし、平井も「さらに鍛えあげる」と宣言した[26]。しかし、東京優駿16日前の5月15日に、前脚の繋靭帯炎を発症し、全治4カ月の重傷、東京優駿出走を断念した(東京優駿を勝利したのは皐月賞7着だったメリーナイス)。療養は、しばらく厩舎で行われた。平井は、騎手時代に治癒のために通った山梨県下部町の下部温泉の源泉[注釈 14]を、ジープで往復12時間かけて調達。それをサクラスターオーの脚部につけて、1日10分から15分、朝夜2回のマッサージを20日間実施した。それから6月3日には、福島県いわき市の「馬の温泉」(JRA競走馬総合研究所常盤支所)に入所する。脚元に負担をかけないプールを用いた調教が行われた。プールでは、並みの馬が30秒以上かかるところを25-26秒でこなし、心拍数は他よりも低い数値に収まった[27]。さらに、夏場の訓練のために疲労回復剤を使用する馬が多い中、サクラスターオーにはその必要がなかった[27]

菊花賞

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発症から4カ月が経過した9月15日、完治した状態ではなかったが、いわきを退き、美浦に帰厩する。平井は、全を説得し、目標を11月8日の菊花賞出走とした。脚に不安がある状態で調教、追い切りを敢行。実際に出走させるか否かは、レース10日前まで決めかねていたが、平井は東から追い切りでの状態[注釈 15][28]と東本人の意思を確かめた。東は「これなら大丈夫ですよ。行きましょう」と菊花賞出走を進言[28]。平井はそれを受けて、全に提案。全は「1%の可能性に賭けてみよう[29]」と改めて了承し、正式に菊花賞参戦、関西遠征が決定した[29]。11月1日、栗東トレーニングセンターに入厩する[28]。平井は菊花賞参戦について、このように捉えていた。

「やつ(サクラスターオー)はサクラさん(全オーナー)の厚意でウチの厩舎に入った馬。新米の私に花をもたせてあげようということでね。なのに私は、その馬をダービーに出してあげることさえできなかったんですよ。情けないですよ……だからこそ、なんとしても菊に出してやりたかったんです。
それに、クラシックは、とくに4歳クラシックっていうのは、私たち競馬人にとって一番大切なレース。やつの脚がブッ壊れても淀の3000メートルを走らせてみたいって気持ちも大きかったんですよ。え? 馬にはいい迷惑だろうって? ま、そうですね。そんなのは私のワガママに過ぎないかもしれません。ええ、サクラさんにもそう言いましたよ。“後生ですからオレのワガママを聞いてやってください”ってね」 — 平井雄二(カッコ内補足加筆者)[30]

出走を表明した以降も脚の不安は続き、最終追い切りは「追ったら終わり」だとして追われず、93秒かけて7ハロンを消化した[31]。出馬投票後の出走2日前には、長期休養から復帰する際に必要な検査を受け、JRAの獣医師に「レースにでるにはぎりぎりの状態です」とされつつも、出走許可を得た[32]。当日朝にも、脚の腫れがあったが、装蹄師の処置により、腫れがおさまった状態で参戦が実現する[32]。平井は、東に対し「もし万が一の時は、馬を止めてもかまわない」と話したうえでの出走となった[33]

18頭が出走。サクラスターオー不在の東京優駿勝利、秋始動戦のセントライト記念勝利から臨むメリーナイスが単勝オッズ2.2倍の1番人気、加えて単枠指定制度の対象となった[28]。続いて皐月賞2着、京都新聞杯3位入線失格処分のゴールドシチーが8.5倍、古馬相手のオールカマー3着のウイルドラゴンが10.6倍となり、サクラスターオーは14.9倍の9番人気の支持であった[34]。皐月賞優勝馬のこの評価は、半年間の休み明け初戦とぶっつけでの参戦が懸念されていた[25]

5枠9番から発走したサクラスターオーは、中団馬群の内側に位置[28]。先行した4頭と最後方の3頭以外は、中団馬群を形成していた[28]。2周目の第3コーナーからは、馬群の馬が続々と追い上げにかかり、外に進路を求める馬が多かったが、サクラスターオーは内を保って最終コーナーに至った[28]。直線では、残り300メートルで失速するメリーナイスをかわし、先行する同じ5枠の10番、11番の間から抜け出した[28]。サクラスターオーの背後から追い上げたゴールドシチーに半馬身差をつけ、先頭で入線。GI2連勝を果たした[28]。この時、実況を担当した関西テレビアナウンサー、杉本清が発したフレーズ「菊の季節に桜が満開!」は、レースの象徴として、複数で引用されている[35]

映像外部リンク
1987年 菊花賞(GI
JRA公式YouTubeチャンネルによる動画
1987年 菊花賞(GI
関西テレビ競馬公式YouTubeチャンネルによる動画

1949年トサミドリ、1954年ダイナナホウシュウ、1974年キタノカチドキ、1985年ミホシンザンに続いて、史上5頭目となる皐月賞と菊花賞優勝による二冠を達成[36]秋初戦、菊花賞にぶっつけで臨み、優勝するのは史上初めてであった[36]。また、皐月賞から菊花賞の「中202日」は、1984年シンボリルドルフの「中41日」を上回り菊花賞史上最長間隔での優勝[36]。加えて、1940年ルーネラが優駿牝馬を優勝した際の「中120日」を上回り日本のクラシック競走史上最長間隔での優勝[36]。そのうえ、1943年クリヒカリが帝室御賞典(秋)を優勝した際に並ぶ八大競走史上最長間隔タイでの優勝を記録した[36]

有馬記念

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年末の有馬記念のファン投票にて、14万1494票を集めて1位、1976年トウショウボーイ以来、11年ぶり10頭目となる4歳馬の1位であった[37]。その後について当初は、有馬記念を回避して休養し、翌年の天皇賞(春)を目標にしようと考えていた[38]。しかし、ファン投票で1位となったことで、主催するJRAが全に出走を求めていたこと[注釈 16][38]、平井がファンの期待には応えなければならないという信念を持ち合わせていたことから、予定を変更し、有馬記念への参戦が決定した[38][39]。サクラスターオーは、レースと比べて調教は走らない傾向にあったため、有馬記念に向けた調教でも、いつも通り格下相手に後れを取っていた[40]。これに付け込んだマスコミは、サクラスターオーの不安説を展開していた[39]。しかし、実際のところは「(前略)肩と腰に厚みが加わった。毎日みているオレが驚くくらい[40]」(平井)、「生涯最高の仕上がりでした[38]」(平井)「(前略)体調も、体の切れ、気合とも間違いなく菊花賞以上[40]」(東)と評するほどの状態であった。

映像外部リンク
1987年 有馬記念(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

12月27日、有馬記念(GI)に出走、単勝オッズ4.0倍の1番人気に推された。以降、ジャパンカップで日本勢最先着の3着となった5歳牝馬ダイナアクトレスが4.6倍、菊花賞9着のメリーナイスが4.9倍、8連勝からエリザベス女王杯で2着となった4歳牝馬のマックスビューティが7.7倍と続いた[41]。3枠5番から発走したサクラスターオーは、中団の内側に位置[42]。そのままの位置を保って1周し、2周目の第3コーナーからは、後方待機勢の追い上げが始まり、サクラスターオーも他と同様に進出を試みた[25]。しかし、第3コーナーから最終コーナーの中間あたりで後退し、競走中止[42]。優勝は、サクラスターオーの後退により生まれた空間を利用した、10番人気のメジロデュレンであった[42]。(競走に関する詳細は、第32回有馬記念を参照。)

競走中止の原因は、馬場が荒れたことで生じた穴に脚をとられたためであった[42][43]。また、故障の瞬間は、サクラスターオーから「バグー」という音が発生[44]。それを聞いた東は、レースを止めようとしたが、サクラスターオーの行く気が勝ってしばらく止めることができなかった[44]。直線に入って、下馬すると、球節から下の部分が90度折れ曲がっていたという[45]。左前脚繋靭帯断裂および第一指関節脱臼と診断され、併せて予後不良が宣告された[38]

137日に渡る闘病の末に安楽死

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予後不良を宣告されたものの、全や平井の希望から直ちに安楽死されなかった[46][45]。代わりに、これまでに前例のない延命治療が行われることとなり、1988年1月1日には、特別医師団を結成した[35]。厩舎スタッフは、通常業務を終えてから自主的に参加し、昼夜問わずサクラスターオーに寄り添った[47]。有馬記念翌日の12月28日に美浦で行われた精密検査では、命に別条はないとの診断[45]。1988年1月には、脱臼部分を支える「副木」や、L字型の特殊な蹄鉄、特殊なギプスを装着したことで小康状態を保ち、一時患部が平熱になることもあった[48]

ところが4月に入ると、特殊ギプスでは耐えられなくなってしまった[35]。そこで大安の4月8日に、28人のスタッフと3人の執刀医が参加する手術を実施[49]。3時間かけて患部にスチールプレートを埋め込み、ボルトによる固定に成功した[35][49]。しかしまもなく、馬房内で動いたことでプレートが飛び出てしまい、4月23日に再び5時間の手術を決行[35]。25日には、ついに自力で寝たり起きたりすることができなくなるほど悪化した[48]

5月5日にいったん平熱に戻るも、8日に転倒[48]。固定したボルトが取れてしまったり、身体の一部の皮がめくれて、肉がむき出しの状態になるなど衰弱[50]。有馬記念時には、450キログラムあった体重は、脚元への負担を軽減させるために痩せさせられ300キログラムを割るまでになった[51]。12日には、再び発熱し立ち上がることができなくなった。午後6時、立ち上がろうと頑張ったところ、患部と反対側の右前脚第一、第二指関節脱臼を発症。両前脚の脱臼となり、起立不能に至った[48][50]

衰弱死の一歩手前だったから、安楽死させたということだね。もうこれ以上だめだっていう体力の衰えがあったし…。(中略)みんな相談した。それで"わかった、もう楽にしてやれ"ということになって、最終的には俺が決めた。
生かすだけならもうしばらく生かすことはできたよ。でも、種馬として残すには無理な状態だったし、もし奇跡的に生き延びて牧場に帰ったとしても、スターオーにかかりっきりの厩務員さんが10人ぐらい要る。そういうことを総合的に考えて、判断したんだ — 平井雄二[52]

午後9時56分、診療所にて安楽死処置がなされ、午後10時2分、5歳で死亡する[48]

5月18日、美浦の馬頭観音にて葬式が執り行われた[53]は美浦の他に、東京競馬場の馬頭観音にも納められた[53]。ただ生前に使用したメンコについては、平井は「天国に行ってまで走らなくてもいい」と考えて、馬頭観音に納めることはしなかったという[53]。17日には、亡骸を冷凍したうえで、藤原牧場に輸送、墓が建立された[54]。闘病中は、ファンから手紙や電話、千羽鶴が届き、サクラスターオーの馬房に並べられていた[53]。中には、フランスからのものもあったという[55]

全や平井が延命を選択した理由は、二冠馬サクラスターオーの優秀な「血」を残すために、種牡馬にさせたいと考えていたためである[56]。厩務員の萩原は、有馬記念から死亡するまで休むことなく働き続け[57]、平井は腕が上がらなくなるまでサクラスターオーに全身マッサージを施した[58]。萩原は「(サクラ)スターオーが直るためなら、自分の身体が壊れたっていいんだ。スターオーに良い思い出をたくさんもらったんだから、つらい時は助けてあげなくちゃ…[57]。」と述べていた。東信二の妻、東葉子によれば、サクラスターオー死後の萩原は「身体は一まわりやせてしまい、手にはタコ(中略)菊花賞の時の写真と比べると、年をとったようにやつれていた[57]」状態であった。また萩原だけではなく、平井も65キロから10キロ以上痩せるなど、厩舎全体が消耗[51]。厩舎所属の他の馬が勝利しても盛大に祝えず、他のオーナーに食事を誘われても断らざるを得なかった[51]。平井は、闘病中の厩舎の様子を「重病人を抱えた家[51]」と表現している。

安楽死処分を下した平井には、実情を知らないファンから「馬が可哀想」というような批判、抗議があった[51]。平井は、そのような声に対して以下のように答えている。

殺してしまうのは可哀相〔ママ〕だなんて気持ちは、俺の場合は全然ない。逆に殺してあげなきゃ可哀相だ、という場合がほとんどだ。脚がブラブラで、血が吹き〔ママ〕出していて、皮一枚でつながっているような馬を殺しちゃ可哀相だなんて、本当にそう思うかい?冗談じゃない、殺してあげなきゃ可哀相なんだ。大体、俺たちが馬を安楽死させる時、どういう気持ちでいることか…。
俺はスターオーが可哀相だった思うよ。あれほどの怪我は、本来早く注射打って楽にさせてやるべきなんだから。日本のサラブレッドのために、お前、もう少し頑張れってみんなで号令かけてたんだ。あいつもよく頑張ってくれたけど、これ以上はもう手を貸しようがないとなったときに、仕方がないから命をとるような結果になったんだ。本当ならあのときすぐに線を引くべきだったんだろうけど。
傍らから見ている人がいう感情的な"可哀相"と、俺たちの"可哀相"は全然違うんだ。例えば、落馬して鎖骨を折った騎手がいるとする。"ああ、怪我をして可哀相に"と思うでしょ。でも、そうじゃない。骨なんかいつかはくっつくんだから。その騎手にとってそれ以上に可哀相なことは、休んでいる間にそれまで自分が乗っていた馬をとられてしまうことなんだ。同じようなことで、安楽死についても俺たち競馬人は俺たちなりの捉え方をするし、またしなければならないんだよね。 — 平井雄二[52]

競走成績

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以下の内容は、JBISサーチ[59]およびnetkeiba.com[60]に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順 タイム
(上がり3F)
着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬) 馬体重
[kg]
1986.10.05 東京 3歳新馬 芝1600m(良) 11 5 5 002.4(1人) 02着 R1:38.3(36.5) -0.2 0小島太 53 ウイルドラゴン 478
0000.10.18 東京 3歳新馬 芝1600m(良) 10 3 3 001.5(1人) 01着 R1:37.3(36.6) -0.2 0小島太 53 (ティーウイン) 464
1987.02.21 東京 寒梅賞 4下 芝1800m(良) 15 6 10 017.7(8人) 05着 R1:50.4(35.9) -0.4 0小島太 55 マティリアル 460
0000.03.08 中山 弥生賞 GII 芝2000m(良) 11 1 1 018.9(6人) 01着 R2:02.1(36.2) -0.1 0東信二 55 (ビュウーコウ) 456
0000.04.19 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 20 3 6 005.6(2人) 01着 R2:01.9(37.1) -0.4 0東信二 57 ゴールドシチー 450
0000.11.08 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 5 9 014.9(9人) 01着 R3:08.0(37.9) -0.1 0東信二 57 (ゴールドシチー) 446
0000.12.27 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 3 5 004.0(1人) 競走中止 0東信二 55 メジロデュレン 450

血統表

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サクラスターオー血統パーソロン系 / Nasrullah5×5・5=9.38%, Avena・Choclo5×5=6.25%〈父内〉) (血統表の出典)

サクラショウリ
1975 鹿毛
父の父
*パーソロン
Partholon
1960 鹿毛
Milesian My Babu
Oatflake
Paleo Pharis
Calonice
父の母
*シリネラ
Shirinella
1968 芦毛
*フォルティノ
Fortino
Grey Sovereign
Ranavalo
Shirini Tehran
Confection

サクラスマイル
1978 鹿毛
*インターメゾ
Intermezzo
1966 鹿毛
Hornbeam Hyperion
Thicket
Plaza Percian Gulf
Wild Success
母の母
アンジェリカ
1970 黒鹿毛
*ネヴァービート
Never Beat
Never Say Die
Bridge Elect
スターハイネス *ユアハイネス
スターロツチ F-No.11-c

母サクラスマイルの半兄にサクラシンゲキ(父:ドン)、半弟にサクラユタカオー(父:テスコボーイ)がいる。

脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ 皐月賞優勝後に境は、この父母が「うまく配合された結果」であると振り返っている。
  2. ^ サクラショウリとサクラスマイル
  3. ^ 阿部珠樹によれば、「前肢のひざから上がやや曲がっていた[7]。」。また、江面弘也によれば「生まれつき右の橈骨が内に曲がっていて(後略)[14]」という状態であった。
  4. ^ 木村幸治によれば、平井のサクラオンリー騎乗のきっかけを作ったのは、平井の馬事公苑時代の同期で、さくらコマースに親しい小島太だったという。
  5. ^ 平井の結婚にあっては、全の経営する式場にて行われ、境が仲人を務めるという間柄であった。
  6. ^ 骨膜炎とも伝えられる。
  7. ^ 後にバブル景気と呼称される。
  8. ^ 具体的には「モガミ」の冠名を用いる早坂太吉と伝わる。
  9. ^ 1981年の有馬記念にて、二本柳俊夫厩舎は、アンバーシャダイ、ホウヨウボーイを出走させる「二頭出し」を実施。どちらにも騎乗していた加藤和宏は、二択から有馬記念を最後に引退するホウヨウボーイを選択した。そして残ったアンバーシャダイには、東信二が「代打」として起用されて参戦。「代打」の東が騎乗するアンバーシャダイが勝利した。
    他にも境厩舎所属時には、境厩舎のサクラシンゲキ、サクラトウコウでも、小島太の「代打」を務めていた。
  10. ^ 心臓病とも伝えられる。
  11. ^ 春、秋のGI優勝馬の生産牧場を追う、不定期の連載。1頭当たり毎回複数頁割かれた。
  12. ^ これが実現するのは、サクラスターオー皐月賞優勝後、「『優駿』1987年8月号 18-20頁」のことである。著者は、サクラユタカオー特集時と同じ結城恵助であった。
  13. ^ 1976年の皐月賞は、東京競馬場での開催。中山競馬場のみでは、史上2番目に早い決着であった。
  14. ^ 武田信玄が戦いで負傷した馬を癒したと伝わる。その噂を聞いた平井は、騎手時代に落馬負傷した際に利用するようになっていた。
  15. ^ 追い切り時、濃霧のために平井自ら確認することができなかった。
  16. ^ JRAにとって、人気馬の不参戦は、馬券売り上げに関わると考えられていた。江面弘也によれば、この行動は「きわめて自然なこと(中略)ファンも望んでいたこと」だったという。

出典

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参考文献

[編集]
  • 東葉子『ガラスの脚 <悲運の名馬 サクラスターオー>』三心堂、1989年12月22日(第4刷)、ISBN 4915620336
  • 江面弘也「サクラスターオー 奇跡のサクラ」『名馬を読む2』三賢社、2019年8月30日(第1刷)、ISBN 4908655146
  • 競馬最強の法則』(KKベストセラーズ
    • 1998年5月号
      • 瀬戸慎一郎「【最強ヒストリー】サクラスターオー 神がかりのサラブレッド」
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1987年5月号
      • 「【第47回皐月賞速報】'87年に輝く新しい星、サクラスターオー」
      • 古宮正弘(報知新聞)「【今月の記録室】第24回報知杯弥生賞(GII) サクラスターオー」
    • 1987年6月号
      • 瀬上保男「【今月の記録室】皐月賞に重賞優勝馬9頭 関西馬は1頭だけの出走」
      • 有吉正徳(東京中日スポーツ)「【今月の記録室】第47回皐月賞(GI) サクラスターオー」
      • 鶴木遵「【ジョッキーズームアップ 21】『代打屋』廃業 東信二」
      • 今井寿恵「【素敵な散歩道 28】平井雄二調教師」
    • 1987年8月号
      • 結城恵助「【'87春のGI競走勝ち馬の故郷紀行】藤原牧場 すばらしきホースマンの遺産」
    • 1987年10月号
      • 「馬の温泉だより」
    • 1987年12月号
      • 「【第48回菊花賞詳報】常識などは吹きとばし、4歳最強馬の証明だった、サクラスターオー」
      • 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】サクラスターオーが中202日の鉄砲で菊花賞馬に」
    • 1988年1月号
    • 1988年2月号
      • 「【第32回有馬記念詳報】菊花賞馬の底力、メジロデュレン」
      • 「【JRA賞年度代表馬・各部門最優秀馬決定】'87年度代表馬にサクラスターオー」
      • 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】有馬記念ファン投票は 4歳馬が1、2位」
      • 鶴谷義雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第32回有馬記念<グランプリ>(GI) メジロデュレン」
    • 1988年7月号
      • 結城恵助「'87年度代表馬サクラスターオーへ ぼくの弔辞」
    • 1993年9月号
      • 石田敏徳「【特別レポート サンエイサンキュー生還】走った、闘った、そして生きた!——1頭の牝馬が私たちに投げかけたこと——(下)」
    • 2006年6月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 61】サクラスターオー 桜色の流れ星」

外部リンク

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