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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/行田足袋 20201124

行田足袋ノート / 履歴 / ログ / リンク元[編集]

選考終了日時:2020年12月8日 (火) 12:32 (UTC)

  • (推薦)先日の月間新記事賞の次点となっていた記事です。先月末に立項、新着に掲載された時点では、基軸となる文献が確認できていませんでしたが、一通り確認できる文献は通読し加筆修正を終えましたので、自薦します。--漱石の猫会話2020年11月24日 (火) 12:32 (UTC)[返信]
  • 賛成 :--漱石の猫会話2020年11月24日 (火) 12:32 (UTC)[返信]
  • コメント おおむねよく書かれているものと思います。ただ若干疑問点があり、①「明治時代」の節の最後で1911年に1,510万足を生産とある一方、「大正時代」の節だとその翌年の1912年に1,000万足を超えとあって、前年に超えていたのでは、と思ってしまいました。下段の生産量の統計だと1911年は855万足なので、多分「明治時代」の節の記述が誤りなのではないかと思います。また②「昭和時代・戦後」の節、「約2,000万足の正規に生産された足袋に対し1,000万足近いヤミ足袋が出回った」とあって、「ヤミ足袋を含めた行田足袋の生産量は8,000万足とも1億足」というのは計算が合わないのではないでしょうか。--Tam0031会話2020年12月5日 (土) 14:11 (UTC)[返信]
    • 返信 Tam0031さん、査読いただき、ありがとうございます。コメントいただきました2点については、加筆段階から私もだいぶ迷ったうえで出典にあった記述をなるべくそのまま記載していますので、その経緯について回答します。(便宜上、いただいたコメントに①②と入れさせていただきました。)
    ①生産量や大正時代節の1,000万足超という記述の典拠は行田市教育委員会とNPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークであり、いずれも明治期に発足した行田足袋同業組合から引き継がれた記録が原典と思われます。行田足袋が家内産業に由来し、個々に販路拡大して発展した当時の業態の構造から、組合に加盟していない事業所の生産分が把握されていない可能性は高く、組合がどこまで当時の行田地域の足袋生産量を把握できていたかという点がネックになると考えます。より広域な情報源あるいは流通実態など別の要素から分析・執筆されたと思われる「1911年に1,510万足を生産」の典拠(『図説日本文化地理体系第13巻関東II 神奈川・千葉・埼玉』小学館、1960年)の記述を一概に無視できないと思い、読者が疑問に思うこと前提でそのまま記載しました。数値を鵜呑みにせず、おおよそ1,000万~1,500万前後の規模の産業であったと推定できることを期待するものです。
    ②の記述も典拠が異なり、前者は行田市の公刊物なのでおそらく行田足袋組合の記録に基づくもので、①と理由と同じく実態より過少である可能性があります。一方で、個人の研究者による後者の記述は、数値の正確さよりも「ひじょうに多い」という意味で「万とも百万とも」と言うような国語的表現のように私は読み取りましたが、推測の域を出ませんので、「~とも語られている」という表現で併記しました。
    --漱石の猫会話2020年12月6日 (日) 04:56 (UTC)[返信]
    ①について、大正時代の本文中に「行田足袋組合の把握するところでも」との補足をいれました。--漱石の猫会話2020年12月6日 (日) 05:39 (UTC)[返信]
  • 賛成 出典に基づき、多面的かつ丁寧に説明されている記事であると思います。個人的には「食文化」節がとても面白かったです。--MTBM3会話2020年12月8日 (火) 11:08 (UTC)[返信]

選考終了時点で賛成3票のため、通過となります。--Tam0031会話2020年12月8日 (火) 14:17 (UTC)[返信]