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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/浅間古墳 20240911

選考終了日時:2024年9月24日 (火) 15:35 (UTC)

  • (自動推薦)2024年8月度の月間新記事賞受賞記事。--totti会話2024年9月10日 (火) 15:35 (UTC)[返信]
  • コメント たいへんよくまとまった力作記事だと思います。ただいくつか気になる箇所があったのでコメントさせていただきます。
  • 浅間古墳#自然地形と立地「今もなお、浅間古墳は権力を誇示しており~」→現代に及んで誰が誰に対して権力誇示しているのでしょうか。観光パンフレット的というか大言壮語的というか、どちらにせよ百科事典的でない印象を受けます。この部分は除去して、「墳頂部からは背後に富士山を仰ぎ~」という景観を説明する文章にしてしまうのがベターかなと思います。もしくは別の出典を持ってきて「当時の珠流河国王の権力の強さがうかがえる」というような表現にするとかでしょうか。
  • 浅間古墳#前方部「浅間古墳の前方部前端の北側斜面一帯はとても乱れている」→何がどう乱れているのかわかりにくいので補足いただけると幸いです。次の文章を読むに横穴がポコポコ開いているということだと思いますので、でしたら「乱れている」のような抽象的な表現でなくそのまま「無数の横穴が開いている」とかにしたほうがよさそうです。
  • 浅間古墳#埴輪→埴輪存在論、不存在論、不明論、いずれも主張の根拠の解説が欲しいです。
  • 浅間古墳#築造時代と被葬者「浅間古墳は4世紀後半から5世紀初頭に造営されたと考えられているため」「東坂古墳で発見された鏡などの副葬品から検討が進められ、浅間古墳は珠流河国最古の古墳であると推定された」→両者ともにその根拠の解説がほしいです。
  • 浅間古墳#築造時代と被葬者「邪馬台国(前方後円墳)と闘った狗奴国(前方後方墳)勢力を表す説がある」→この説の具体的な内容が欲しいです。被葬者が狗奴国関係者の可能性があるということでしょうか?
  • 浅間古墳#測量調査と歴史「静岡県史に掲載されていた浅間古墳実測図は現在の見取略図に匹敵するほどの正確さに欠けており」→文意が取りづらかったのですが、著しく不正確であった という趣旨でよろしいでしょうか?
  • 浅間古墳#後藤守一による測量調査(1955年)「最大級の古墳」→Wikipedia:大言壮語をしないWikipedia:言葉を濁さないを参照ください。何と比較して最大級なのか明示したほうがよいでしょう。この時代の古墳のなかで? この地域の古墳のなかで? 前方後方墳のなかで? どれなのかわかりません。
  • 浅間古墳#保存運動→出典先のPDFは「古墳を活かしたまちづくり」「地域の魅力を考えるきっかけ」という内容で、「保存運動が活発になっている」の出典となる文章は存在しないように思います。「富士市史跡保存整備推進委員会」があることと保存運動が活発になっていることはイコールではないと思いますので、保存運動が活発になっていると評している出典を追加したほうがよさそうです。
  • これはGANにはそこまで関係ありませんが、全体的になんだか変わった言い回しが多いように感じました(「古墳文化の研究における問題意識を高揚させた」とか。なんだか翻訳調みたいですね)。あと口語的な表現が多いです。今いちど文章をブラッシュアップしていただいたほうが読みやすい記事なるかなと思います。--Keeezawa会話2024年9月11日 (水) 02:13 (UTC)[返信]
返信 ご指摘ありがとうございます。主執筆者のなまけもの人間です。以下のように修正しました。
  • →「今もなお、浅間古墳は権力を誇示しており~」を除去しました。
  • →そうですね、抽象的でした。変更しました。
  • →埴輪存在論、不存在論、不明論いずれも「埴輪が見つかった」などのような記述しかなく、出典を探しているのですが今のところ根拠など詳細がわかっていなく加筆できない状況です。
  • →浅間古墳は珠流河国最古の古墳であると推定された決定的な理由は、やはり前方後方墳は前方後円墳に先行して築造された説によるものです。「浅間古墳は4世紀後半から5世紀初頭に造営されたと考えられているため」は浅間古墳#築造時期に追加しました。
  • →被葬者が狗奴国関係者であるということではなく、築造当時狗奴国(前方後方墳)の勢力が邪馬台国より大きかったため前方後方墳になったという説があるということです。
  • →その通りです。
  • →静岡県東部で最大級です。修正しました。 
  • →確かに富士市史跡保存整備推進委員会があるからといって保存運動が活発になっているとは言えませんね。Wikipedia:大言壮語をしないに違反してました。「保存計画が策定された」と書き直しました。 --なまけもの人間会話2024年9月13日 (金) 12:51 (UTC)[返信]
 追記誤字脱字の訂正などありがとうございました。--なまけもの人間会話2024年9月13日 (金) 12:58 (UTC)[返信]
  • 返信 さっそくのご対応お疲れ様でした! 前回疑問に思った点については概ね解消したように思います。
  • 浅間古墳#概要「珠流河国の王の墓とされる説が有力」→出典2つのうち富士市教育委員会『富士・愛鷹山麓の古墳を訪ねて』を参照してみましたが、当該資料p12内に上記記述の出典となりうる文章は見当たりませんでした。強いて言うなら「「スルガノクニ」を治めていた首長のお墓である古墳」という記述があり、もしかするとこれを出典としているのかなと思いましたが、そうであれば微妙です。この記述からわかることは、この資料が珠流河国説の立場を取っていることだけです。ある説が有力説であると記述するには、「〇〇説が有力である、主流である、一般的であるetc……」と書いてある出典がなければいけません。もう片方の出典である富士市教育委員会2024 p67にそういった記述があるかご確認いただければ幸いです。
  • 浅間古墳#埴輪「しかし、浅間古墳は発掘調査が行われていないため詳細は不明である」→これを無出典で記述するのは明確によくないため、出典を補遺いただければ幸いです。試しに『富士市内遺跡発掘調査報告書』を読んでみましたが、なまけもの人間さんのおっしゃる通り埴輪の存在についてあまり理由は説明されていないようですね。埴輪存在論の理由付けについてはひとまず疑問解消といたします。
  • 下記は問題を感じたため私のほうで修正した箇所です。今後の参考にしていただければと思います。
  • 出典元[1]の「海上を移動するための目印、灯台のような性格も持ち合わせていたと考えることも出来ます。」を元に「浅間古墳は海上からの目印である灯台のような役割も果たしていた[22]。」という文章を書いておられましたが、原文が「考えることも出来ます」と濁していたにもかかわらず「果たしていた」と断定形にしている点は独自研究の観点からよくないです。あとは灯台というと光源の印象が強いですが、浅間古墳は光源ではないだろうと思いますので、誤解を招かないよう灯台のたとえは除去しました。
  • 浅間古墳#測量調査と歴史「古墳文化の研究における問題意識を高揚させた」やはり文章の違和感を拭えなかったので出典元を読んだところ、問題意識を高揚させたのは浅間古墳でも新山古墳でもなく山本清や大塚初重の研究であり、これらの研究に触発されたことで浅間古墳が前方後方墳だと気がついた、という内容でした。この文章を出典に「このような前方後方墳を前方後円墳と誤って理解することは(中略)古墳文化の研究における問題意識を高揚させた」と、書いてしまっているのは問題です。本来の因果関係は「山本清や大塚初重の研究→問題意識が高揚→浅間古墳の間違いに気がつく」なのに「浅間古墳や新山古墳の形式理解の誤りが発覚→問題意識が高揚」というふうに因果関係が入れ替わってしまっているからです。正しい因果関係に書き直そうかなと思いましたが、正直あまり浅間古墳に関係ない記述だと思われますので除去しました。また、新山古墳と問題意識のくだりに考古学研究会1958 p20が出典として付されていましたが、実際には同書p21の記述だったので出典を付け替えました。ページ数が間違っていると検証に余計な手間がかかるので今後気をつけていただければと思います。
  • 記述に違和感を感じた部分の出典を一部精査しただけですが、このようにいくつか微妙な記述が出てきております。正直に申し上げてちょっと不安です。こんな漠然とした不安をGANの反対理由にするつもりはないのでご安心いただければとは思いますが、それは別として出典と記述に整合が取れているか改めてご確認いただければ幸いです。--Keeezawa会話2024年9月15日 (日) 02:03 (UTC)[返信]
    返信 出典の検証ありがとうございます。本当は記事の立項をする前にやるべきであった出典と記述の整合の確認を行いました。Keeezawaさんご指摘の通り、ページ数の誤表記や関係のない出典が表記されたりしておりました。現在は改善しました。
    ・「珠流河国の王の墓とされる説が有力」については富士市教育委員会2024 p67での記述も直接的に「珠流河国の王の墓とされる説が有力」と述べていないため、修正しました。—なまけもの人間会話2024年9月17日 (火) 15:02 (UTC)[返信]
    修正と出典の確認お疲れ様でした。 賛成 といたします。--Keeezawa会話2024年9月19日 (木) 01:10 (UTC)[返信]
  • コメント古墳記事の力作であると思いますが、良質な記事レベルまでにはいくつか改善すべき点がありますので、以下に列挙します。
  • 改善すべき点の第1点は、Keeezawaさんもコメントされていますが、4世紀後半から5世紀初頭と推定されている築造時期を導き出した根拠を書く必要があります。やみくもに築造時期が推定されているわけではなく、何らかの根拠によっているはずで、その根拠を書く必要があります。
  • 改善すべき点の第2点は、やはりKeeezawaさんがコメントされていますが、「今もなお、浅間古墳は権力を誇示しており、背後に富士山を仰ぎ、眼下に浮島沼を見下ろし~」のくだりです。今もなお権力を誇示しているというのは確かに表現的にどうかと思いますし、浮島沼はすでに消失しているため、現在の光景の表現としてはまずいと思います。
  • 改善すべき点の第3点としては、まず浅間古墳は209基以上の古墳を擁する須津古墳群に属しているとのことですが、古墳群の中で初期に造られたものか、中期なのか後期なのか、古墳群の中で何番目くらいの大きさの古墳であるかなど、古墳群の中の位置づけを明確に書いた方が良いと思います。また古墳群に属しているという記述と、浅間古墳#築造時代と被葬者での「古墳時代前期〜中期に造営された古墳の特徴として、規模が比較的大きく単独で存在していることが挙げられる。そのことから浅間古墳でも一般的な前期〜中期の古墳と同様、弥生時代以降に各地で成長してきた在地豪族である首長が祀られていると考えられている」。との記述は矛盾していませんか?
  • 改善した方が良い点として、4世紀後半から5世紀初頭のこの規模の古墳として埴輪の存在が確認できていないというのはかなり特筆すべき内容(3世紀代とか6世紀後半の古墳だったらわかるのですが)だと思いますので、Keeezawaさんがコメントされているようにもう少し解説が欲しいです。
  • やはり改善した方が良い点として、Wikipedia:査読依頼/浅間古墳 20240823でも触れましたが、被葬者論は慎重に書かれた方が良いかと思います。珠流河国造の片堅石命と断定した記述は修正していただいたようですが、浅間古墳#浅間古墳の特徴からわかる被葬者像のところには残っていますし、珠流河国造であると断定するのも望ましくないと考えます。
  • できれば記述した方が良い点としては、国の史跡に指定された理由がわかれば記述出来たら良いと思います。ただ、1957年の指定ですので,この頃の史跡指定はあまり理由が出てこないことも多いため、ここは出来たらで構いません。
  • 注文が多くてすいません。基本的にはよく調べられており、ブラッシュアップしていただければ古墳記事の模範ともなり得ると思いますので、よろしくお願いいたします。--のりまき会話2024年9月11日 (水) 11:04 (UTC)[返信]
返信 ご指摘ありがとうございます。主執筆者のなまけもの人間です。Wikipedia:査読依頼/浅間古墳 20240823の際もありがとうございました。以下のように修正しました。
  • 浅間古墳#築造時期に追加しました。 
  • →「浅間古墳は権力を誇示しており」を除去し、出典を再読し加筆しました。
  • →須津古墳群で初期、増川I群で最古。須津古墳群最大であることを書き加えました。また、増川I群最古であるため浅間古墳が単独で存在しその後様々な古墳ができていったため矛盾に当たらないと思います。
  • →出典を探しているのですが、「埴輪が見つかった」「見つかっていない」などのような記述の出典しかなく詳細は分かりません。発掘調査が行われていないことも意見が割れる原因だと思います。
  • →被葬者論について全て説として断定しない形で体裁編集しました。また、他の説も書き加えました。
  • 浅間古墳#概要に追加しました。 --なまけもの人間会話2024年9月13日 (金) 12:55 (UTC)[返信]
  • 返信 GANでの意見をもとにした加筆修正、お疲れ様です。被葬者に関する記述は相当よくなったと思います。ところで出典のひとつである[2]を確認させていただきました。当文献によればまず古墳の築造に関しては4世紀半ば頃としたうえで、「編年根拠が乏しい」古墳としております。これらの情報、とりわけ編年根拠に乏しいことは記事内に明記すべきかと思います。また当文献は前回私が指摘した「古墳時代前期〜中期に造営された古墳の特徴として、規模が比較的大きく単独で存在していたことが挙げられる[13]。そのことから浅間古墳でも一般的な前期〜中期の古墳と同様、弥生時代以降に各地で成長してきた在地豪族である首長が祀られていると考えられている[28]」の、後段の部分の出典とされていますが、出典にはそのような記述が見当たらない上に前段との繋がりが全く不明であり、この部分の記述はWP:SYNではないでしょうか?Keeezawaさんも触れておられますが、参考文献を確認した印象として出典の扱い方に正直不安が拭えません。--のりまき会話) 2024年9月15日 (日) 22:27 (UTC)一部修正ならびに追記--のりまき会話2024年9月15日 (日) 23:15 (UTC)[返信]
    返信 返信ありがとうございます。
    ・編年根拠に乏しい事について記事内に明記しました。
    ・「そのことから浅間古墳でも一般的な前期〜中期の古墳と同様、弥生時代以降に各地で成長してきた在地豪族である首長が祀られていると考えられている[28]」の出典を[28]としていたが、記述と出典の整合を確認した際、出典が違っていたため修正しました。正しくは富士市須津地区まちづくり会議 1997、 71頁です。申し訳ございません。—なまけもの人間会話2024年9月17日 (火) 15:03 (UTC)[返信]

インデント戻します。加筆修正作業お疲れ様です。相当程度改善したとは思いますが、浅間古墳が前期に造られたとしている部分「そのような立地の特徴は、浅間古墳が古墳時代前期に築造されたことを表している[29]」がある一方で、「浅間古墳は4世紀後半から5世紀初頭に造営されたと考えられているため、古墳時代の分類に当てはめ、古墳時代前期〜中期に造営されたとわかる[13]」と、古墳時代の前期とは限らない書き方をしている部分があり、また出典のひとつである[3]を見ると編年根拠が乏しいとしながらも4世紀半ば頃の築造と図示されており、やはりまだ大きな課題が残っている状態と思いますので、反対は致しませんが賛成票は投じません。--のりまき会話2024年9月21日 (土) 08:36 (UTC)[返信]


賛成のみ3票以上の状態が48時間継続したため通過となります。--Keeezawa会話2024年9月24日 (火) 00:51 (UTC)[返信]