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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/シュチェパン・マリ 20240327

選考終了日時:2024年4月10日 (水) 01:35 (UTC)

  • (推薦)英語版WikipediaでGAとなっている記事の翻訳となります。日本ではあまりなじみのないモンテネグロの君主についての記事ですが、その生涯と治世が詳述されており良質な記事の目安を満たすと思いますので推薦いたします。--Gurenge会話2024年3月27日 (水) 01:35 (UTC)[返信]
  • 賛成 :推薦者票。--Gurenge会話2024年3月27日 (水) 01:35 (UTC)[返信]
  • 賛成 興味深い記事であり、品質もGAの基準を十分に満たすものと考えます。--Nux-vomica 1007会話2024年3月31日 (日) 05:11 (UTC)[返信]
  • 反対 内容は充実していると思うのですが、恐らく翻訳元が原因で一部に物語(伝記小説)のような表現が見られる事が気になります。たとえば「翌朝5時ごろに銃声を聞いて飛び起きた」「ツェティニェ近くの修道院にやってきたのである」「支配者として騎乗したまま修道院の門をくぐっていった」「突入してきたが、すでに牢はもぬけの殻であった」などです。いわゆるウィキペディア文学っぽさを感じました。参考文献を確認できないので何とも言えませんが、ノンフィクション歴史小説の類を参照している可能性も感じました。Wikipedia:信頼できる情報源#歴史この話題は過去の選考でも話題になったことがありますが、やはり優れた読み物と優れた百科事典の記事は異なるものだと思っています。Wikipedia:秀逸な記事の選考/三毛別羆事件 20201121。またシュチェパンの死後どうなったのか(葬儀・墓・国内外の反応・政治体制)が気になります。それと「唯一のツァル」とされているにもかかわらず、Infobox royaltyに先代と後代が書かれていることも気になりました。--あずきごはん会話2024年4月2日 (火) 10:18 (UTC)[返信]
コメント「翌朝5時ごろに銃声を聞いて飛び起きた」「ツェティニェ近くの修道院にやってきたのである」「支配者として騎乗したまま修道院の門をくぐっていった」「突入してきたが、すでに牢はもぬけの殻であった」といった記述はすべてPetrovich, Michael Boro (1955). “Catherine II and a False Peter III in Montenegro”. に依拠するものです。
また、同論文を確認したところ、これらの記述の出典はすべて「Peter Bartenev, ed., "Žurnal'naja zapiska proisšestviam vo vremja ekspedicii ego sijatel'stva Knjaz' Jurija Volodimiroviča Dolgorukova, ot armii general-majora i leib-gvardii Preobraženskago polku majora, v Černuju Goru, dlja, učinenija ottuda v Albanii i Bosnie neprijatelju diverzii 1769-i god.," Russkij arkhiv, IV (1886), 389. 」となっています。commons:File:059 tom Russkiy arhiv 1886 vip 1-4.pdfから閲覧可能です。これはドルゴルコフの部下(Petrovich 1955いわく、使節団のひとりであったIvan Milovskskij Ivan Milovskijという人らしいです)がリアルタイムで書いていた日記のようで、文学的修辞はこの日記に由来するのではないかと思います。参考として、以下にそれぞれの文献から「翌朝5時ごろに銃声を聞いて飛び起きた~」前後の文章を抜書きしてみました。個人的意見としては、こうした修辞は十分に許容範囲なのではないかなと感じます。--Nux-vomica 1007会話) 2024年4月2日 (火) 16:21 (UTC) 衍字訂正 日記の執筆者の名前は「Milovskij」が正しいです すいません…--Nux-vomica 1007会話2024年4月6日 (土) 08:13 (UTC)[返信]
  • 返信 (Nux-vomica 1007さん宛) 詳細に調査いただき有難うございます。とても助かります。出典の信頼性についてはご確認いただけましたので削除します。その上で当時の日記に由来というお話なので、帰属化が望ましいと思います。たとえば「Ivan Milovskskijの日記には~と記されている」などです。--あずきごはん会話2024年4月5日 (金) 12:22 (UTC)[返信]
    日記の雰囲気こそ受け継いでいるとはいえ、Milovskijの手記、Petrovich(1955)、英語版wikipediaの筆致は全く異なりますし(英語版wikipediaがもっとも抑制的な書き方をしていると思います)、帰属化というかたちでの対処はあまり賛同できません。ロシア語の翻訳をできる利用者が日記を訳した上で引用するというのも策としてはありえるのではないかと思いますが、実現可能性があるかといえばまあまあ低いです。「こなれすぎた訳」をなるべく直訳体に直し、Petrovich(1955)に帰属化できる部分については帰属化していくというのが丸いのかなと感じます。--Nux-vomica 1007会話2024年4月8日 (月) 09:02 (UTC)[返信]
    選考と直接関連するわけでもないのですが、別に百科事典に文学的修辞があること自体に大きな問題があるとは思いません。たとえば日本大百科全書『アイスランド文学』の項は「氷雪と火山の国、北大西洋の孤島アイスランドの歴史は9世紀のバイキングの植民活動に始まる~」というあまりにも文学的な起筆をしています。Wikipediaにおいてこうした修辞がどの程度認められるかというのはおおむね方針・ガイドライン、具体的にはWP:SUBSTANTIATEWP:APTなどに立脚すべきかなとは思うのですが、同記事の場合、二次資料を要約したところ元資料にあった修辞が多少見え隠れしてしまったということになると思いますから、本当に問題視すべきかどうかについてはかなり疑念があります。--Nux-vomica 1007会話2024年4月8日 (月) 09:12 (UTC)[返信]
返信 (あずきごはんさん宛) ご指摘の内容がよく分からないので確認させてください。該当の参考文献執筆者Petrovich, Michael Boroは東ヨーロッパを専門とする歴史学者のようで、特にWP:RSを逸脱するような文献では無いように思います。文章表現についても「いわゆるウィキペディア文学っぽさ」という点が理解できていないため、現状何を問題視されており、どのように直せば良いのか分かりませんでした。お手数ですがもう少し具体的に指摘頂けないでしょうか。
なお、「唯一のツァル」についてはen:List of monarchs of MontenegroでTsarを号している君主はおらず、シュチェパンによる統治はサヴァ・ペトロヴィチの在位期間中に起きた乗っ取りのようなものだと思いますので、こちらも特に矛盾は無いと思いました。--Gurenge会話2024年4月4日 (木) 12:19 (UTC)[返信]
  • 返信 (Gurengeさん宛) WP:RSについてはNux-vomica 1007さんの調査により解決したと思います。ウィキペディア文学っぽさについてですが、具体的にというのがちょっと難しいです。まず、第一としてWikipediaは百科事典をつくることを目的としたwikiです。WP:5P1。その上で私は、良質な記事には百科事典として優れた記事が選ばれるものだと思っています。この事について選考の目安(WP:GAC)にないとおっしゃる方も過去にいらっしゃいましたが、私は選考理由以前の自明な事だと思っています。そして私だけではなく、過去にもそのような理由で「秀逸」な選考で通過出来なかったことがあるということを例に挙げました。これがウィキペディア文学です。ですので本記事がウィキペディア文学だといっているのではなく、それに似たものを感じるので反対だというのが主張の根幹になります。たとえば想像してください。「本能寺の変」「織田信長」などを百科事典で調べた時に「払暁の空に響き渡る鬨の声に信長は飛び起きた」と書かれていることが想像できますか?私は出来ません。これを「物語のような」と表現しています。なにをもって百科事典とするかという問いに正解はありません。百人百通りだと思いますが、私の主張は「この文章は百科事典をつくるという目的から逸脱している」と思うので反対しています。Nux-vomica 1007さんは許容の範囲だとおっしゃられていてそれも一つの考えです。これ以上の説明はちょっと難しいです。唯一のツァルについてですが、infoboxに「モンテネグロのツァル」という標題があります。サヴァがツァルに就任していないのであれば、シュチェパンの前後は空位が正しい表記です。--あずきごはん会話2024年4月5日 (金) 12:22 (UTC)[返信]
    返信 (あずきごはんさん宛) WP:RSについて解決済である点について承知しました。
    文章表現についてあずきごはんさんは記事全体に「百科事典をつくるという目的から逸脱している」と主張するほどの大きな問題を感じており、一文一文の表現をすべて改める必要があるという主旨であると受け取りました。当方はNux-vomica 1007さんの考えに近く、現状の文章表現で特に問題ない/許容範囲であるという認識です。ある文章が「物語のような」と感じるかどうか、許容できる表現かどうかは個々人の主観であり、他者との共有は困難なものと思います。
    現状指摘のあった箇所についてはより硬い表現、あるいは文意を変えない別の表現で言い換えてみましたが、現状これ以上の対応は当方では難しいと思われます。infoboxについては標題を「モンテネグロの統治者」に変更しました。--Gurenge会話2024年4月5日 (金) 14:40 (UTC)[返信]
  • 返信 (Gurengeさん宛) 前回のご返答と合わせると、権力と位を同一視されているようですがまったく別です。標題を「モンテネグロの統治者」に変更したのであれば、記述すべきは「在位期間」ではなく「統治期間」です。当然、投獄されていた期間は除かれるでしょう。本文にもドルゴルコフが「事実上のモンテネグロ統治者の座に収まった」と記されています。また「事実上の君主として推戴」されたのは即位の前年と記されていますのでこれも一致しません。そして前後を「代」で括ることも表記としては誤りです。足利将軍家が終焉したのちに混乱期を経て秀吉が天下人になりましたが、関白に就任したのであって「16代」足利将軍になったわけではないことと同様です。私が明記した4つについて表記をあらためて頂いたところ恐縮ですが、「など」と付記しているようにこれが全てではありません。そしてNux-vomica 1007さん宛てに返信済みですが、当時の史料を引用する場合には帰属化が必要です。たとえば(すでに修正済みですが)「モンテネグロの支配者として」が「歴史的な事実」なのか、あるいは「Ivan Milovskskijの目にそのように映った」のかでは説明が全く異なります。これはドルゴルコフのモンテネグロ行節に「あるドルゴルコフの随員によれば「曖昧で目まぐるしい会話の中で~」などと記述されていることと同様の扱いが必要ですという意味です。私が違和感を感じる文章を全て書き記しておきます。ドルゴルコフのモンテネグロ行節「重要人物が姿を見せていなかった」「事態の成り行きを注意深く伺おうとしていた」。投獄と復活節「状況ではないことに気付くことになった」「自分の命も危うくなってきていることに気付いた」「十分あると感じていた」「心づもりでいると伝えた」。ご覧いただけるとお分かりいただけると思いますが、歴史上の人物の内心については本人の手記・日記などに記されていなければ、歴史家による推測でしかありません。「~と考えられている」などの表記は、本記事にも繰り返し現れますが、これと同様の扱いが必要です。手記などに記されているのであれば帰属化が必要です。「回顧録に「そうした場所~」などと同様の扱いが必要です。それと既に指摘していることの繰り返しになりますが、シュチェパンの死後についての記述も必要と思います。これだけ熱狂的な支持者がいて、周辺国にも影響があった人物が「死んでおしまい」であったとは思えません。--あずきごはん会話2024年4月6日 (土) 02:36 (UTC)[返信]
  • 返信 (あずきごはんさん宛) その織田信長の例は確かに違和感バリバリですが、でも実際にそういう文章が議論の末に除去されたというならともかく、それはあずきごはんさんがここの議論のために作った物ですよね。自説に都合の良い例を持ち出すのは議論の姿勢としてフェアなものであるとは言えません。--220.211.38.69 2024年4月5日 (金) 15:12 (UTC)[返信]
  • 返信 (220.211.38.69さん宛) 違和感を共有いただけたのならば、例示した文章の役割は終わりです。私は選考に参加し反対する理由を述べているのであって、記事の編集方針についてコメントしているわけでも除去を要求してるわけでもありません。百科事典らしからぬ文章であることを理由に選考を通過しなかった事例は既に紹介していますが、前例がなくとも考えは変わりません。--あずきごはん会話2024年4月6日 (土) 02:36 (UTC)[返信]
    Wikipedia:秀逸な記事の選考/三毛別羆事件 20201121はあくまでも「百科事典らしからぬ文章であることを理由に選考を通過しなかった事例」ではなく、「優れた読み物と優れた百科事典の記事は異なるもの」であることを示す事例ではないでしょうか。同じく「三大wikipedia文学」と呼ばれる記事であるところの(私はあまりこの概念が好きではないですが)地方病 (日本住血吸虫症)はFAですし、現状GAのツァボの人食いライオンなんかもかなり「文学的」な語り口に思います。百科事典としての品質が担保されていることと読み物として面白いことは無論別枠の概念ですが、後者を満たす記事が前者を満たさないという結論は導かれないでしょう。--Nux-vomica 1007会話2024年4月8日 (月) 09:16 (UTC)[返信]
  • 返信 (Nux-vomica 1007さん宛) 色々と書き方がまずく誤解を生みました。もう少し補足しておきます。Wikipedia:秀逸な記事の選考/三毛別羆事件 20201121が「優れた読み物と優れた百科事典の記事は異なるもの」の事例であることは、反対票を投じたコメントに記しており認識に齟齬はありません。そのうえで「物語のような表現がみられる」ことが反対理由であることは繰り返し表明しておきます。「百科事典らしからぬ文章であることを理由に選考を通過しなかった事例」については、正確には同じく三大ウィキペディア文学に挙げられるWikipedia:秀逸な記事の選考/岡田更生館事件 20200105でした。この選考で反対票を投じてらっしゃる方は同ノートにノート:岡田更生館事件/過去ログ1#この記事の問題についてにつけたコメント(まず「括弧書きの会話文」を主体とする構成や、情景描写や人物描写が過剰な点は、百科事典の記事というよりはもはやドキュメンタリーもしくはルポルタージュの類いです。あまりこういう言い回しは好きではありませんが「百科事典的でない記事」になっています。)も引き合いに出して反対されています。そのうえで岡田更生館事件の選考はこの意見だけではなく、他の要因もからんで選考を通過しなかったことは事実であり「百科事典らしからぬ文章であることを理由に選考を通過しなかった」とするのは踏み込み過ぎであったと感じます。ただ、この発言は「実際にそういう文章が議論の末に除去された」というコメントへの反論であり(そもそも除去するか否かは論点にしておらず、困惑するのですが)、過去に同様な議論(ノートにおけるコメントに対し、他の方から同意する意見があったことも付記しておきます)があったことを示す目的で書きました。その意図をくみ取っていただきたいという点もお願いしつつ、そのまま残しておきます。そもそも「百科事典的ではない」についてはTemplate:百科事典的でないも用意されており、改善が図られるべき記事であることに異論はないはずです。当該記事が百科事典的か否かについては個人に判断にゆだねられることは前にも申し上げました。ほかの事例も調べていただきましたが、選考に参加された方々の判断基準の差であったと推測します。また個別の選考にコメントする予定はありません。この記事については私は百科事典的ではないと判断しています。その理由はたとえ話と同じ違和感を感じるからです。この点、Nux-vomica 1007さんがご納得いただけているか否か置いておいて特に反論はされておらず、つまりそのような文章で書かれた百科事典は存在しないという点では異論はないものと推測します。あとは感覚の問題です。過去の個別の事例がどうのという話ではありません。「前例がなくとも考えは変わりません」と記したこともご配慮ください。「後者を満たす記事が前者を満たさないという結論は導かれないでしょう」という御意見には同意しますが、とくに反論にはなっていないと存します。「読み物として面白い」から反対しているわけではありません。はじめから(読み物としては優れてはいるが)百科事典的な記事ではないことが反対理由です。またほかの反対理由もお汲み取り下さい。--あずきごはん会話2024年4月8日 (月) 14:49 (UTC)[返信]
  • 賛成 :一部の修辞的表現などで反対意見について首肯できる部分もありますが、全体として良質な記事の目安を大きく逸脱する水準ではないと判断しますので賛成とします。以下は個人的に気になった点です。
  • 一部ではありますが修辞的な表現について気になる箇所があります。導入部に関して言えば、私であれば「君主の座に返り咲いた」→「君主の地位に復帰した」、「逆説的な評価がせめぎ合っている」→「相反する評価が存在する」くらいの客観的な記述にすると思います。
  • あずきごはんさんも指摘されていますが、心情的な表現の部分は(一部はきちんと帰属化されていますが)極力誰がそう言ったのかを明確にするか、客観的な事実の記述に留めておいたほうが百科事典的にはベターでしょう。
  • シュチェパンの死後の動向について、個人の評価の記述は充実していますが、政治的な影響の記述に乏しい点は気になります。後継者や当時のモンテネグロの政治情勢について詳述した記事があれば必須ではありませんが、そのような(日本語版の)記事はなさそうなので、簡単な内容でもこの点について加筆があればより良い記事になると思います。--Los viajeros 77会話2024年4月10日 (水) 01:21 (UTC)[返信]
日本語版wikipedia 英語版wikipedia Petrovich 1955 Milovskijの手記
これで任務は成功したと思っていたドルゴルコフであったが、翌朝5時ごろに銃声を聞いて飛び起きた。シュチェパンと近衛騎兵たちが、ドルゴルコフが滞在していたツェティニェ近くの修道院にやってきたのである。 Though he believed he had succeeded, Dolgorukov was awakened at five in the morning on the next day by the sound of gunshots. Šcepan and his mounted guards arrived at the monastery where Dolgorukov was staying near the capital. The Prince's slumber was shattered, however, by the firing of guns at five in the morning. Stephen the Small and his mou guard had arrived! The very people who had heard Stephen posed and who had solemnly sworn allegiance to Catherine j few hours before, now greeted the same Stephen with joy. Въ пятомъ часу поутру, когда еще всѣ спали и все казалось тихо и спокойно, то вдругъ нечаянной возлѣ окошекъ выстрѣлъ изъ многихъ ружей и пистолетовъ разбудилъ всѣхъ спящихъ; и какъ о при- чинѣ того грому спрашивано было, то съ торопливостію въ отвѣтъ сказано, что на Цетинскомъ полѣ показался Степанъ Малый, которой, разъѣзжая на лошади съ обнаженною саблею, удержалъ возвращаю- щихся Черногорцовъ и идеть прямо въ монастырь. Очевидное дока- зательство сей вѣсти подало причину разбудить его сіятельство и увѣдомить о такой нечаянности.

選考終了時点で賛成3票、反対1票のため、通過となります。--Tam0031会話2024年4月10日 (水) 14:32 (UTC)[返信]