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Wikipedia:井戸端/subj/大衆紙は政治問題や存命人物の批判の出典に使用できるか?

大衆紙は政治問題や存命人物の批判の出典に使用できるか?

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ノート:ニュース女子で大衆紙に記載されている、マスコミ問題に詳しいとされるある人物が連載しているコーナーを出典とした加筆ができるかできないかで意見がわかれています。WP:NOTRELIABLEより引用します。ある情報が、例えばタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)のような、信頼性に乏しい出版物ひとつの上にしか見つけられないという時があり得ます。その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、それを件の情報源によるものと明示してください。 この出典は、出典自らが大衆紙だと認めています(ノートでも、これには異論がなかったと思います)。加筆できるとされる方の御意見は、「大衆紙編集部ではなく、その問題に詳しい人物の意見であれば、記載可能」という旨です(私はこの人物自体には異論はありません。これが産経新聞や朝日新聞であれば異論はありませんでした)。反対意見は「娯楽誌と新聞では、発言内容が変わってくる可能性がある」という旨です。要は人物は信頼できるが、出典が信頼できない、という事です。なお、「その情報があまり重要でない」かどうかは、ここでは判断しません。芸能や趣味など「楽しい話」であれば、私も四角四面に煩い事は言いませんが、存命人物の批判や政治など「楽しくない話」でこのような出典は使っても良いのでしょうか?皆様に御意見頂きたいのは、

  1. 掲載可:Wikipedia:検証可能性を変更する必要なし
  2. 掲載可:Wikipedia:検証可能性に一文追加する必要がある(「大衆紙でも、その問題に対し詳しいとされる人物の記名記事は例外とする」)
  3. 掲載不可:
  4. その他:

のいずれと御考えでしょうか?私は3です。2でも良いと思っていますが、1はダメと考えます。以上、御意見頂ければ幸いです。--JapaneseA会話2017年4月7日 (金) 09:19 (UTC)[返信]

コメント 現行の方針に準じて、情報が重要であれば「なにがし氏はなにがし紙でなにがしと述べた。」と書くのが宜しいではありませんか?上記の選択肢でいうと、1に重要性の要件を追加したものになります。また、「楽しい話」「楽しくない話」で信頼性の基準を変えるのはあまりよろしくないかと。--ネイ会話2017年4月7日 (金) 09:41 (UTC)[返信]
コメント 「信頼性に乏しい情報源」という節にそう書かれていると言う事は、「信頼性に乏しいからといって記載してはならないとは限らない」という事でしょう。引用部分の直後の具体例のとおり、記事本文内に出典を明示する形で表記すればよいかと思います。選択肢で言えば1番ですね。もちろん価値のある内容に限りますが。--Hiroes会話2017年4月7日 (金) 09:55 (UTC)[返信]
コメント こんにちは。Moon.riseと申します。私の見解では3になります。2も1ダメです。
以下理由を述べます。Wikipedia:検証可能性では、「それは、査読を受けるのと同様の過程を経ることになります。つまり、まず記者、次に編集者、そしておそらくは事実調査員にチェックされるでしょう。もし問題があれば、さらに弁護士、そして編集長にチェックされるかもしれません。このような事実確認とその評価のしくみがあるのは、新聞に正確で公正な記事を載せるためです」「この事実関係を確認するという過程は、ウィキペディアでは提供できません」「要するに、査読に相当する機能はウィキペディアの外部に求めよということ」とされています。
JapaneseAさんが問題を「要は人物は信頼できるが、出典が信頼できない、という事です」という一文にまとめてくださいました。「査読に相当する機能を果たしてくれる機関が信用できない」のであれば、信頼できる情報源にはならず、出典にもならないと考えます。
最後に「芸能や趣味など「楽しい話」であれば、私も四角四面に煩い事は言いませんが」というお気持ちにも、私も同意させていただきます。--Moon.rise会話) 2017年4月7日 (金) 10:21 (UTC)削除追加--Moon.rise会話2017年8月7日 (月) 17:01 (UTC)[返信]
Moon.riseです。多少追記させていただきます。「信頼性に乏しい情報源(タブロイド新聞など)」は、「通常は信頼できないとされる情報源」とされています。「通常は信頼できない」ということですから、出典として使えるかどうかの評価には、かなり慎重に考えなければなりません。「もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば」という条件が付いて、情報源として使用できるのは、かなり限定された場合だと考えるべきでしょう。ひとつ「方針からの若干の逸脱」が紹介されているからといって、逸脱を拡大適用していくのは望ましくありません。
参考ですが。「通常は信頼できないとされる情報源」として他に「自主公表された情報源」が並んでいます。そしてWikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源では、「自身の専門分野内について記述している著名な専門研究者が、自主公表された情報源で公表した文章」をどう扱うべきかが紹介されています。「一般的に自己公表された情報源については、ほかの情報源が評価したりコメントしたりするまで待つのが望ましいです」ということが結論です。同様に考えるのであれば、「一般的に、自身の専門分野内について記述している著名な専門研究者が、信頼性に乏しい情報源(タブロイド新聞など)で公表した文章については、ほかの情報源が評価したりコメントしたりするまで待つのが望ましいです」という考え方は、方針とガイドラインに対してなじむものではないでしょうか。--Moon.rise会話2017年4月7日 (金) 11:49 (UTC)[返信]
コメント 私も1番または2番(ただし条件付き)を支持します。Hiroesさんと同様で噂レベルの記事や検証可能性を満たさない記事、信頼性に乏しい記事などを除去することで対応可能と考えます。必要となればWikipedia:検証可能性の対応アップデートも必要です。--わたらせみずほ会話2017年4月7日 (金) 11:40 (UTC)[返信]
コメント この話題の前段階の議論では、夕刊フジケント・ギルバート(弁護士)のコラムを、ケント・ギルバートの文責として記述することに問題ないとするコメントがありました。また、夕刊フジは、産業経済新聞社発行で日本新聞協会にも加盟しており、株式会社日刊現代発行で日本新聞協会非加盟の日刊ゲンダイ等とは異なる、という意見もありました。この井戸端ではそれが曖昧であります。夕刊フジは「1」〜「2」(噂レベルは不可)、日刊ゲンダイは、内容によっては「3」となることもあると考えるものです。--RXX-7979Ⅲ会話2017年4月7日 (金) 11:46 (UTC)[返信]
コメント 私は夕刊フジと日刊ゲンダイは同格だと思いますが、色んな意見があってよいと思います。ただし、その基準では週刊朝日も夕刊フジと同格という事ですね。--JapaneseA会話2017年4月7日 (金) 12:31 (UTC)[返信]
新聞社系であっても、週刊誌と夕刊紙は異なるのではないかと考えております。週刊誌であれば、継続的な他誌による報道等がない限り「3」となるであろうと思われます。--RXX-7979Ⅲ会話2017年4月7日 (金) 12:44 (UTC)[返信]
コメント WP:NOTRELIABLEそのものではなく、それ以前の文脈も併せて解釈すれば、「信頼できない情報は記載するべきではないが、それが重要な情報である場合には出典を明記するべきである」と読めます。つまり信頼できない情報を無条件に禁止する方針ではなく、現状で充分に運用可能だと思います。--Hiroes会話2017年4月7日 (金) 13:03 (UTC)[返信]
ウィキペディアに限らず、一定の信頼性の保証が必要なものの場合において、一般に大衆紙、ゴシップ紙が信頼できないとされるのは情報源が曖昧な場合においてです。「○○の関係者によると」「△△に近い筋によると」などのような記事が典型例かと思います。
逆に言えば情報源がはっきりしているもの、それこそ情報源として有用な人物の記名記事、コラムである場合に、それの出典を元に淘汰するなんて話は普通無いです。媒体による語調、角度(確度じゃない)などが問題だというなら、それこそ、そこを踏まえて引用なり、記述するのが執筆者に求められている能力であって、そこを否定したら話にもなりません。--EULE会話2017年4月8日 (土) 06:23 (UTC)[返信]
  • 返信 (わたらせみずほさん宛) Moon.riseと申します。わたらせみずほさんのご意見で、一点気になりました。「噂レベルの記事や検証可能性を満たさない記事、信頼性に乏しい記事などを除去することで対応可能と考えます」ということですが、対応可能かどうかではなく、その手順には問題があるのではないでしょうか。Wikipedia:検証可能性には、「この事実関係を確認するという過程は、ウィキペディアでは提供できません。それゆえに、独自研究は載せないという方針と検証可能なことのみ載せるという方針が大変重要となるのです」とあります。つまり、査読に相当する機能(信頼性に乏しい記事の除去など)は、最初から機能としてウィキペディアには置かないというのが、方針ということになります。「誰かが行なえばできるではないか」ということではなく、最初から誰も行わなくても成立する方針にいたしましょう、ということです。
  • 返信 (EULEさん宛) Moon.riseと申します。EULEさんのご意見で、一点気になりました。「媒体による語調、角度(確度じゃない)などが問題だというなら、それこそ、そこを踏まえて引用なり、記述するのが執筆者に求められている能力であって、そこを否定したら話にもなりません」ということですが、そこを特別に否定して、方針として立てているのがウィキペディアではないでしょうか。(上記わたらせみずほさんへと繰り返しになりますが)査読に相当する機能は、執筆者に対して求めないのがウィキペディアの方針となっています。他のサイトであればともかく、ウィキペディアでは特別に考えるべきではないでしょうか。
Wikipedia:独自研究は載せないには「記事に含められるのは、信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、解釈を加えていないものだけです」と明言されています。中立的な観点、検証可能性独、独自研究は載せないについて、この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありませんと明言されています。--Moon.rise会話2017年4月8日 (土) 12:06 (UTC)[返信]
三方針が議論の余地なく一切の例外を認めないという事であれば、WP:NOTRELIABLEの記述と整合性が取れませんね。どちらかを変更するべきだと思いますが、どちらを変更するべきかは判断しません。--Hiroes会話2017年4月8日 (土) 12:15 (UTC)[返信]
  • 返信 (Moon.riseさん宛) すみません、まさに個別に解釈しておりました。という事は「信頼できない情報は記載するべきではないが、それが重要な情報であると考えられる場合には出典を本文に明記するべきである」という解釈で良いという事でしょうか。--Hiroes会話2017年4月8日 (土) 12:47 (UTC)[返信]
  • 返信 (Hiroesさん宛) ちゃんとご挨拶申し上げておきます。Moon.riseと申します、Hiroesさんよろしくお願いいたします。
「信頼性に乏しい情報源」を出典として使う場合、まずは「ある情報が、(中略)信頼性に乏しい出版物ひとつの上にしか見つけられないという時があり得ます」とあります。つまり、他の信頼性のある情報源で見つけられる場合には、信頼性に乏しい情報源を(あえて選んで)出典に使うのはダメでしょう。他の信頼性のある情報源で見つけられない場合には、その先は2種類に対応が分かれます。
  • その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。
  • もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、それを件の情報源によるものと明示してください。
どうやら2種類とも「すでに誰かが情報として記事に書き込んでいる場合、どうするべきか」として書いていますね。「進んで書き込むべきではない」という意図がにじむようにも見えます。そして、あくまでも稀な対応として、情報を残す場合でも、記事本文からですぐに読み取れるように明示することが求められています(脚注などにはしないで本文で明示する)。「それを件の情報源によるものと明示」とまで特別な対応を要求しているのは、ウィキペディア全体からでもめずらしいのではないでしょうか。--Moon.rise会話2017年4月8日 (土) 13:07 (UTC)[返信]
  • 返信 (Moon.riseさん宛) 唯一の情報源である場合でも2種類に対応が分かれる事までは理解していたつもりですが、言われてみれば確かに「あくまでも既存の記事への対応であって、自ら進んで書き込むべきではない」と読めますね。心がけたいと思います。ありがとうございます。--Hiroes会話2017年4月8日 (土) 13:33 (UTC)[返信]
現状の方針を総合的に解釈するなら「掲載するべきではないが、既に掲載されているものを削除すべきかは内容による」という事になるかと思います。Moon.riseさんのご指摘の通り、単独で解釈するべきものではない旨それぞれの冒頭に明記はされていますが、中には私のように項目に直行して誤解してしまう人もいるでしょうから、先の解釈をもう少し明示するような記述の方がいいのかもしれません。私としては単純に可否という話でもないと思いますので2寄りの4でしょうか。--Hiroes会話2017年4月8日 (土) 13:57 (UTC)[返信]
(返信)まず、Moon.rise氏のつきましては、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:ルールすべてを無視しなさいを参照していただきたいと思います。重要なのはルールの精神であって、その文言の逐次解釈ではありません。それは三大方針すら例外ではなく、重要なのはその主旨であって、「Wikipedia:検証可能性」(の、さらに言えばたかが日本語版)の文言の一言一句や、そこからサブ的な話題として言及されている内容まで一言一句固守しろというものではありません。まして、社会常識一般と照らして、ルールを杓子定規に適用したら、おかしなことはおかしいのです。
現に、信頼できる情報源の英語版には以下のように、

Editorial commentary, analysis and opinion pieces, whether written by the editors of the publication (editorials) or outside authors (op-eds) are reliable primary sources for statements attributed to that editor or author, but are rarely reliable for statements of fact.

とあるように、それを「事実」として記述する場合には問題があるが、あくまでその主張者の主張として記述する場合には「信頼できる情報源」として問題ないですし、至極常識的に考えて、実に当たり前の話でしょう。例えばケント・ギルバート氏のコラムだとして掲載されながら、実はギルバート氏のコラムではなかったというくらいに「信頼性が低い」情報源であるなら問題でしょうが、今回、俎上に乗っているのはそこまでのものではありません。
また、「査読に相当する機能は、執筆者に対して求めないのがウィキペディアの方針となっています」というのは、私の論旨を理解していないか、または綺麗ごとに過ぎないと切り捨てさせていただきます。まず、ウィキペディアとして信頼できる情報源である朝日新聞や産経新聞に掲載された内容ですら、それら媒体に乗った情報ということを考慮して執筆する必要があるのです。それら情報をどう載せるかというのは、ウィキペディアの執筆者の編集に掛かっており、ここで査読は云々は非常にナンセンスな指摘に過ぎません(ここに査読の意味が掛かるなら、ウィキペディアそのものが成り立ちません)。そうではなく、事実関係に対する査読ということであれば、ギルバート氏の「言った内容」が「事実」であるということを、ウィキペディアの執筆者が査読した場合には問題になりますが、ギルバート氏が「こう言っている」という「事実」の査読は、それが夕刊紙であれ週刊誌であれ、検証可能な媒体に記載されている以上、問題はありません。もし、今回のケースで否定するなら、例えばギルバート氏そのものが信頼できない情報源とする以外なく、そもそもそこがクリアされた上での議論において、媒体を問題視するというのはピントがズレているとしか言いようがありません。 --EULE会話2017年4月8日 (土) 14:48 (UTC)[返信]
Wikipedia:ルールすべてを無視しなさいについては不勉強でした。申し訳ありません。個人的には大局的な見地に立つというのはなかなか苦手な分野でありますので、これ以上の言及は避けようかと思うのですが、一点だけ。ご紹介いただいた英文の方がより解釈がし易いように思いますので、同様に「出典の主張であるということの検証可能性」という観点を盛り込んだ表現に変える方向はどうでしょうか。--Hiroes会話2017年4月8日 (土) 15:13 (UTC)[返信]
  • 返信 (EULEさん宛) Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:ルールすべてを無視しなさいについては参照させていただいております。ウィキペディアは規則主義ではありませんし、いまある方針を十分に考慮した上で、そのルールのいくつかについて、あえてそれらを省略した行動を取っても、それは適切なものです。検証可能性のルールの精神は、ウィキペディアで事実関係を確認するという過程が取れないため、広く信頼されている情報源(査読あり)から発表されている、検証可能なことのみ載せるというものです。私の方ではそう考えております。
EULEさんの「ウィキペディアとして信頼できる情報源である朝日新聞や産経新聞に掲載された内容ですら、それら媒体に乗った情報ということを考慮して執筆する必要があるのです」というご意見につきまして、多少具体的に解説をいただけませんでしょうか。申し訳ありませんが、何について言わんとされているか分かりませんでした。
引用していただいた英文(英語版)について、例としてケント・ギルバート氏を使って申し上げます。この時に「信頼できる情報源」として扱うことができる場合は、ギルバート氏についての記事にのみ、ということが書かれているように思いますが、いかがでしょうか。ご確認お願いいたします。今回ここでの問題は「政治問題や存命人物の批判の出典」ということで、大衆紙でのギルバート氏のコラムが、もっと広い政治問題などの記事で出典に使えるかということです。その場合はbut are rarely reliable for statements of fact.とされるように、信頼できる情報源にはならないでしょう。また、申し添えますが「たかが日本語版」ではなく、私たちが日本語版の利用者である以上、日本語版での方針やガイドラインはもっとも意味の大きいものです。--Moon.rise会話2017年4月8日 (土) 16:51 (UTC)[返信]
Editorial commentary, analysis and opinion pieces, whether written by the editors of the publication (editorials) or outside authors (op-eds) are reliable primary sources for statements attributed to that editor or author, but are rarely reliable for statements of fact.
出版物(社説)の編集者によって書かれたのでも外部の著者(op-eds)によって書かれたのでも、編集論評、分析および意見集は、その編集者または著者に帰する記述については信頼できる主な情報源ですが、しかし(編集論評、分析および意見集は)事実の記述についてはほとんど信頼できません。
間違えていたらごめんなさい。--Moon.rise会話2017年4月8日 (土) 20:00 (UTC)[返信]
返答いしますが私に対する問いが多いため、長いですがご容赦ください。
>多少具体的に解説をいただけませんでしょうか
まず、朝日新聞が、ウィキペディアの規定する「信頼できる情報源」であることに異論は無かろうかと思います。では、朝日新聞が信頼できる情報源だからといって、吉田清治の発言や、特に80-90年代の記事を引用して、日本が奴隷狩りのごとき従軍慰安婦をしていたと、全面的な事実として書くことは妥当でしょうか。無論、妥当ではありません。
この時、ウィキペディアの編集者は、媒体自体が行う査読とは無関係に、情報の取捨選択(あるいは重み付けの判断)を行っているし、「中立的な観点」を守るにあたって必要な行為です。この判断において、何らかの執筆者個人の価値基準に基づいて不適切なことが起こる可能性はありますし、ここが一種の独自研究となりうることは否定いたしませんが、だからといって「けしからん」とやったら、ウィキペディアは成り立たないという話です。
氏はおそらくここまで考察しているわけではないのでしょうが、だからこそ、氏の主張というのはそういうところまで踏み込むものであるということを念頭に置いて欲しいと思います。
>この時に「信頼できる情報源」として扱うことができる場合は、ギルバート氏についての記事にのみ、ということが書かれているように思いますが、いかがでしょうか。」
まったく違います。おそらく「attributed to ~」あたりの訳で誤解しているのでしょうが、この場合に通常訳すとすれば「~によって著述された」です(もっとも「起因した」でも同じだと思いますが、切る位置が異なるのかな。にしたって、but以降との文脈的整合性が取れない)。
別に英語論議をせずとも、仮に氏の理解の通りだとすれば、つまり「ギルバート氏についての記事においてのみ媒体に依らずギルバート氏本人の著作物が使える」ということであれば、それは明白に一次資料の問題に抵触するのでありえないことがわかります。それこそ、本人という確証さえあれば、公式サイトもツイッターも、その当人の記事に関しては信頼できる情報源として用いても良いということになってしまう。ありえないです。
>その場合はbut are rarely reliable for statements of fact.とされるように、信頼できる情報源にはならないでしょう。
違います。ギルバート氏の主張を、ギルバート氏の主張ということを明示せず、それ無条件の事実として記述する場合には問題だとする一文です。そもそも氏が前段を読み間違えているので仕方ないですが、「for statements attributed to that editor or author」と「for statements of fact」が対になることを念頭においてください。
>私たちが日本語版の利用者である以上、日本語版での方針やガイドラインはもっとも意味の大きいものです。
これは少し補足が必要かもしれません。まず大前提はルールの精神、意図、そして常識的な判断が重要であって、文言の一字一句には大した意味はありません。それは英語版であってもです。その上で、更に三大方針レベルというのは、英語版と日本語版で大きく異なるようなものではありません。そもそも英語版から引き写したものです。英語版の文面すら一言一句、逐次解釈するのは問題があるのに、ルールの精神や現実の事象を無視して、そこからはるか昔に引き写した日本語版での一文を基に「こう書かれているから、これ以外の解釈は不適切である」などというのはお話にもなりません。「たかが日本語版」と私が言ったのは、本家の英語版ですらそうなのにいわんや黎明期に翻訳されただけの日本語版の一言一句を金科玉条にされても困るということです。
あと私が英語版を引用するのは、日本語版より英語版の規定が優越しているからではありません。私はそもそもルールの精神や社会常識、現実問題に照らして考えれば、まずそれで十分だと思ってます(=ルール全部を把握する必要はない、ルールの精神と常識を尊重する)。ただ、それでも成文になっているものを参考しようとすると、定期的に保守・更新されている英語版の方が妥当だと思うことが多いです。なので、成文法に重きを置く相手に対しては仕方ないのでカウンターとして引用することが多いです。日本語版でも十分ならそっちを引用いたします。--EULE会話2017年4月9日 (日) 06:59 (UTC)[返信]
  • 返信 (EULEさん宛) Moon.riseです。EULEさん各項目解説ありがとうございます。参考にさせていただきます。
英文について、分からなくて困っております。EULEさんから「attributed to ~」の和訳が「~によって著述された」であるとご紹介いただきましたが、「~に帰する」ではいけない理由が分かりません。「EULEさんが正しいと分かった」とも「Moon.riseが正しいと分かった」とも思うことができす、もやもやとしております。私の英語力が高ければよいのにとは思いますが(前回にすでに「間違えていたらごめんなさい」と書くくらいに)、日本語使用者としては日本語で議論ができますとありがたいです。例えば私からEULEさんに(思い当たる適当な言語がありませんが)英語ではなく何かもっと他言語で話しかけさせていただいたとして、それでEULEさんが意思疎通に苦労されるとすれば、それは結果として実りある議論や意見交換にはならないと思えます。--Moon.rise会話2017年4月9日 (日) 15:34 (UTC)[返信]
何か大きな誤解をされているようですが、そもそもMoon.rise氏が日本語部分で意思疎通できていないので、氏にとって結果として実りある議論や意見交換にはなってないのです。もう一度、私の日本語で書かれている部分をよく読んでいただきたいと思います。ちゃんと日本語部分が理解できていれば、少なくとも『「~に帰する」ではいけない理由が分かりません』と返答することはまず無いはずです。--EULE会話2017年4月10日 (月) 11:35 (UTC)[返信]
問題の部分、「帰する」も「著述」も、原文の意味をとりにくい訳語だと思います。あえていえば、「帰する」の方が近いですが。原文が言っているのは、社説や意見文寄稿は帰属化された記述(「<当該部分著者>は○○と言った<ref>...」)のソースには使えるが、事実記述(「○○である」<ref>...)のソースには使えない、ということです。この場合、attributed は「帰属化」(誰の意見であるか明示すること)に当たります。 --49.239.68.245 2017年4月10日 (月) 12:11 (UTC)[返信]
英語そのものは得意とは言えないのですが、大昔に機械翻訳システムに関わった経験からひとこと。ある意味WP:IGNOREと似た考え方ですが、個々の語の訳に囚われると正しく意味を汲み取るのが困難になります。辞書ではひとつの語に対して複数の訳が対応する事は珍しくありませんが、大抵の場合はそれらが表す「意味」は一つです。特に異文化間では「意味」の違いを正確に言葉で記述するのが困難であるため、複数の訳として表しているのです。よく例に出されるところでは「青」と「blue」なんかがありますね。その「意味」を正しく捉え、組み立て直してから言葉に戻す事が重要です。
と長々と書かせて頂いた上で、Google先生の助力を得て私なりに意訳するとするならば、
出版社の編集者や著者によって書かれた編集論評・分析・意見などは、その編集者または著者の言説としては信頼できる一次出典ですが、事実としてはほとんど信頼できません。
こんな感じでしょうか。ご参考になりますでしょうか。--Hiroes会話2017年4月10日 (月) 13:21 (UTC)[返信]
返信 (EULEさん宛) Moon.riseです。日本語部分でのお話をさせてください。先に、情報をどう乗せるか(査読ではない)についてです。「例えば朝日新聞の記事からの情報の取捨選択」という解説をいただきまして、これが例えば中立的な観点を守るために必要な行為であること、EULEさんの意図が(私の言い出した)査読とは関係ない所にあるということを理解いたしました。EULEさんが一度「私の論旨を理解していないか」と推定されたのが適切だと思います。私がEULEさんの意図を誤解して、2017年4月8日 (土) 12:06 (UTC)に言及させていただいた部分につきまして、申し訳ありませんと撤回させていただきたいです。解説いただいた「例えば朝日新聞の記事からの情報の取捨選択」など、EULEさんのお考えの深さとしてよく読ませていただきました。「氏はおそらくここまで考察しているわけではないのでしょうが、だからこそ、氏の主張というのはそういうところまで踏み込むものであるということを念頭に置いて欲しいと思います」というお言葉をありがたくいただきます。[返信]
次に、三大方針についてです。三大方針はなぜ議論の余地がなく、他の合意によって覆されないのか。私がルールの精神として思いますのは、それによって複数の人が協調し、無用な論争を避けることができるからだと思います。三大方針に対して、100人が100通りの異論を掲げて持ち寄れば、それではいつまでも論争が避けられません。三大方針は議論の余地がないとすることで、必要なときにはお互いにここに立ち返ろうと思うことができます。三大方針についてだけは、「ルールによく従うAさん」と「先進的だがルールに従っていないBさん」がいた場合、立ち返るべきはAさんの立場です。「先進的だがルールに従っていないBさん」が、自分とは意見の異なるすべてのウィキペディア日本語版編集者に、自分の行為について説明して行くのは、やはりうまい方法ではないと思います。もちろん、現実と三大方針がかい離すれば、その時に三大方針を変更するのはよいことです。「先進的で新ルールに従っているBさん」というのは理想的でしょう。ただ、今日現在、三大方針では「タブロイド紙など大衆紙は、通常は信頼できないとされる情報源」とされています。今日現在という限定はつけさせていただいた上で、これが立ち返るべき所ではないでしょうか。--Moon.rise会話2017年4月10日 (月) 21:06 (UTC)[返信]
三大方針においても議論の余地がないのは、そのルールの精神であって、その文面の一言一句ではありません(ということも日本語で言っているはずです)。三大方針は重要だけれども憲法ではないです。下のKojidoi氏やHman氏のコメントの趣旨と同じなのですが、Moon.rise氏は、私や、また私以外の人たちが三大方針を軽視していると思っているようですが、軽視もしてないし、矛盾もしておりません。むしろ、文脈や全体との整合性を無視して、ただ一字一句の厳格な解釈にこだわり、媒体のことを解釈に争いのないものとして厳格に定めていると主張することが不適切であるとご理解いただきたいです。
(49.239.68.245氏とHiroes氏へ)補足感謝いたします。ただ私のちっぽけな名誉のために弁明させていただきますと、元よりそうした点は理解しているつもりです。「もっとも「起因した」でも同じだと思いますが」「英語論議をせずとも」と述べているように厳格な訳語にはこだわってませんし、「帰属する」だったとしてもMoon.rise氏は、その当人のついての記事にのみ可能ということを意味していると理解したでしょう。--EULE会話2017年4月10日 (月) 22:44 (UTC)[返信]
返信 (EULEさん宛) 私としては仰る通りの補足のつもりで、EULEさんが理解されていないとは全く思っていません。ちょっと付ける位置がまずかったかもしれませんね。申し訳ありません。--Hiroes会話2017年4月11日 (火) 00:26 (UTC)[返信]
返信 (EULEさん宛) Moon.riseです。EULEさん、連日お相手くださりありがとうございます。三大方針の精神は何であるのか、EULEさんがそうおっしゃって下さるのですから、ここは得られるもののある所だと思い、振り返ってみるために三大方針+αとこのページのEULEさんの書き込みを、2~3回でも改めて熟読してみようと思います。それから2~3日でもぐるぐる考えてみます。そういたしますと、私は数日か十数日か沈黙することになりそうです。それが外見的に不親切(沈黙意図が見えない)と思い、ここで「やってみます」というお返事だけ、出させていただこうと思いました。--Moon.rise会話2017年4月11日 (火) 10:00 (UTC)[返信]

コメント 皆様コメントありがとうございます。予想以上に盛り上がり、提起者としては嬉しい限りです。まだ「まとめ」とはしませんが、中間コメントします。さて、「重要かどうか」という御意見が見受けられます。例えば、信頼できる情報源である新聞で、「〇〇さんの2017年4月10日の朝食はパンだった」と書かれていても、それは記載しないと思います(WP:IINFO)。新聞であろうが、基本的に重要な情報のみを記載します。これと、大衆紙の「もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、」は、違うレベルだと思います。WP:RSの場合は(どちらかといえば)除去側に「重要でない事の説明」を求めるのに対し、WP:RSでない場合は明確に加筆側に「重要である事の説明」を求めるのではないかと思います。もし、大衆紙も新聞と同じ扱い(単に「重要なものだけを載せる」)で良ければ、わざわざ「大衆紙は~」などと方針・ガイドラインに書く必要はないはずです。つまり、「大衆紙だけれども、これは載せる価値がある」、と誰もが認めるレベルのものだけが記載されるべきではないでしょうか?--JapaneseA会話2017年4月9日 (日) 08:40 (UTC)[返信]

件の記事の議論をざっと見る限りでは「大衆紙だけれども、これは載せる価値があると誰でもが認めるレベル」だと考えている人が当該記述を載せようと主張して議論になっているように思います。それに対して情報源の評価云々いっても仕方がないでしょう。「その情報があまり重要でない」かどうかについて議論するしかないです。そのギルバート氏の主張や発言したという事実は信ずるに足りるのか? 記事主題との十分な関連性や重要性を持つのか? すなわち、件の記事に関してはJapaneseAさんの論点がずれているように見えます。そのうえで当スレッドにおける当初の問題提起に即して意見を述べるなら、答えは「1」しかないでしょう。WP:NOTRELIABLEにわざわざ「もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、」などと但し書きがあるということは、裏を返せば「信頼性に乏しい出版物上の情報は無条件に削除相当である」との命題は偽であるということです。ようするに内容をきちんと吟味しろという話につきます。これは方針文書上のどの記述とも矛盾しないし、方針云々以前に、仮にも調べ物をしてそれを人に読ませる文章にまとめようとするならば至極当然の話に過ぎないでしょう。--Kojidoi会話2017年4月9日 (日) 09:20 (UTC)[返信]
健康を害しておりまして、私がコメントを行う前にどうやら落着してしまった様です。ですが、妥当な結論に落ち着いた様でほっと致しました。結局、情報源の解釈については、EULE氏の仰る『一般に大衆紙、ゴシップ紙が信頼できないとされるのは情報源が曖昧な場合においてです。「○○の関係者によると」「△△に近い筋によると」などのような記事が典型例かと思います。』と言う点、また同時にKojidoi氏の仰る様に、記事にとって要不要は情報源のみに依存するものではない点に尽きるでしょう(私もたまに、出典があれば何でも書いていいわけじゃないんですよ!とか言いますし)。まあ検証可能性の文書の原則に則れば、専門家が書いたものでもやはり査読はされていないものはいないもので、これをさも「事実」のように書く事はできません。しかしそれが記事にとって必要な情報と見なせるのであれば、「○○によれば××である」と、その論を紹介する事は可能であると考えます。事実として断り無く書き下ろす事と、断りを入れ一つの論を紹介すること、この行為には大きな隔たりがあります。それを同一視し同一の基準で仕分けようとするからわけのわからないことになるのです。検証可能性の文書は、原則として事実で有ると見なせる筆致で記事を執筆するケースのみを想定していると見なせ、また、より細かく書かれているガイドライン「信頼出来る情報源」においては明らかに、検証が可能である前提下において「意見」を「紹介」する事が認められています。このケースの場合、その人が意見を表明した事が事実であることを証明できればよいとだけされています。まさか、夕刊フジがケント・ギルバート氏の発言を捏造したなどと想定することはできないでしょう。--Hman会話2017年4月10日 (月) 02:13 (UTC)[返信]
夕刊フジがケント・ギルバート氏の発言を捏造」とまでは言いませんが、[1][2][3]のような御意見もあります。私も以前は「本人談は大衆紙でも問題ないだろう」と思っていましたが、「大衆紙は面白おかしく書く場合もあるから本人談でも使うべきではない」と言われた事があり(このノートが、どこなのか覚えていないのが悔やまれます)、それを機に認識を改めました。なお、議論元のニュース女子のギルバート氏の意見を載せる・載せないだけで考えるのであれば、それは所詮一意見に過ぎないので、除去・加筆で記事に対し致命的に何かが変わるわけではありません(そういう意味では重要ではないのですが)。これがグレーゾーン出典ならば、はるみエリー様やHman様の顔を立てるように、何かしら理由をつけて一任する事もしたでしょう。しかし、Moon.rise様も仰るように「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。」です。いつまでも納得しないようですみませんが、覆す事のできない方針に関わる事です。まだ落着するには早いかと思います(私の中間コメントの疑問も未解決ですし)。これで暫く黙ります。--JapaneseA会話2017年4月10日 (月) 03:05 (UTC)[返信]
少なくとも挙げられた発言のうち最初の二つは「内容をよく吟味しよう」ではないですか。最後の一つはWP:GNG/Sの「必要とされる信頼できる情報源の質および数は、その情報源の言及内容の深さや質により変わりますが、一般的に、複数の情報源があったほうがよいでしょう。」あたりに対応するものと考えられます。方針文書との矛盾はないし、これ以上方針文書やガイドラインに何かを追加・改変する必要があるとも思えません。これ以上議論を続けるつもりなら論点の再設定をお願いしたいですね。--Kojidoi会話2017年4月10日 (月) 03:49 (UTC)[返信]
再度申し上げます。「事実として断り無く書き下ろす事と、断りを入れ一つの論を紹介すること、この行為には大きな隔たりがあります。」であり、適用範囲が違うため、矛盾はありません。--Hman会話2017年4月10日 (月) 04:38 (UTC)[返信]
私の意見も挙がっているのでコメントしますが、Hmanさんのご意見の「断りを入れ一つの論を紹介すること」を広く認める方が無駄な論争が減って良いだろうと思います。
「〇書店や×新聞は△党や□翼の御用だから出典として認めない」等の議論はしないで済みそうですし。
ただし、記述が誹謗中傷や名誉棄損とならないように注意する必要はあるかと思います。--Zakinco会話2017年4月15日 (土) 02:11 (UTC)[返信]
そもそもwikipediaの結構な歴史の中で、「○○によれば××である」は広く用いられていますしね・・・。査読期間の質まで素人集団であるjawpが厳密に判断することは無理です。無理な以上、無責任な様ですが、「○○によれば××である」として、○○を信用するかどうかは読者に委ねるしかありません(もちろん、関係者・談など、誰が言っていたのかわからない様なものは基本的に採用すべきでしかありません。あくまで専門的な相応の権威ある人物があくまで記名で寄稿もしくはインタビューなどに応じた際に限って適用されるべき考え方です。○○は新聞雑誌などより、その専門家のお名前であることが好ましい。機関誌の類でしたら同様に、ある団体による当事者の主張として紹介することはできるでしょう)。ほとんど無いと思いますが、極めて一部の読者または編集者は、今回でしたらケント・ギルバート氏の発言をフジの捏造とみなすと思われるかもしれませんが、それはもう、個々人の主観ですから致し方ありません。我々はただ、確認出来る事実を紹介することしかできませんからね。ただしあくまで、その記事にとって必要な情報であると認められるなら、と言う前提付きですよ!--Hman会話2017年4月16日 (日) 14:43 (UTC)[返信]
情報源で著者が自分の意見を述べている(批評)か「誰がいつ何した」のように事実報告しているのかを区別していただきたいですね。「○○によれば××である」という形式は条件付にしても「である」と断定してしまっているのでどちらかと言うと事実記述に適します。提示の例にある情報源からとるなら、「……がネットで話題となっている<ref>ケント・ギルバート...[4]</ref>」などであれば事実記述に当たりますね。事実記述は追加出典を補強していくことで改善できます。「ネットで話題になった」と言っている人が他にいないか探せばいい訳です。一方、ノート:ニュース女子で争点となった批評(「笑うしかない」等)は事実報告ではありませんので、複数出典で補強することも困難です。意見や感想は一人の人物の頭の中にあるものですので。あの人物のとあの人物のも似た意見だからといって一まとめにするとどうしても独自研究のきらいがあります(無論、あの人物のとあの人物のも似た意見だと専門家が言っているのであれば話は別です)。やるとすれば「ギルバートは……について「笑うしかない」と評した」みたいな表現で単一出典で記述せざるをえない訳ですが、突然これが記事に出てくると、ギルバート氏がこう思ったということはそこまで決定的に重要な情報なのかな?と読者は疑問を覚えるでしょう。なお、意見を複数出典で補強できる例外として、その意見がさらなる議論を呼んで専門家間での論争に発展したケース(例「Aは……と評したがこれを受けてBは……」)がありますが、提示の例の場合、そういう発展はあったでしょうか。 --210.149.250.6 2017年4月22日 (土) 04:11 (UTC)[返信]

コメント 皆様コメントありがとうございました。そろそろ閉めたいと思います。私の意見に賛成なのは、御一人だけのようです。それ以外の皆様の御意見をまとめると「意見は、事実ではなく、それが意見だという事がわかるようにする」や「内容によって掲載の有無を決める」でしょうか。しかしそれは大衆紙どころか、WP:RSである「新聞」にも適用されますので、結論は(文責がわかる場合は)「大衆紙であろうが、扱いは新聞と同じで良い」という事になります。正直全く納得行きませんが、それがコミュニティの見解であれば仕方ありませんね。--JapaneseA会話2017年4月29日 (土) 02:02 (UTC)[返信]

コメント 議論が終わりかけのところですが、「存命人物の批判」という点からご意見申し上げます。まず、
存命中の人物の項目中で、その人物に関する批判、否定、あるいは有害と解釈できる情報が掲載された場合にはすぐに取り除くべきであり、ノートページに移動してもいけません。他の記事の、存命の人物に関する記述を含んだ節についても同じです。実在の人物が巻き込まれ、あなたのことばで傷つく可能性があります。私達は雑誌の記述活動をしているのではありません。私達は百科事典を作っているのです。 — Wikipedia:信頼できる情報源#存命人物の伝記
とあります。「他の記事の、存命の人物に関する記述を含んだ節についても同じです。」という但し書きもあることから、存命人物の伝記に限らずこの観点が重視されるべきと考えます。
批判というものには、純粋な批評や見解だけでなく、往々にしてその人に対する揶揄や嘲笑、人格否定を伴う表現が用いられることがあります。信頼性の高い情報源は(大抵の場合)査読や編集の過程でフィルターが入り、そのような表現や除去されたり意訳されたりした「配慮された情報」になっていると考えられます。一方信頼性に乏しい大衆紙の場合、人を傷つけやすい表現がそのまま残ったりしてしまう可能性が高く、それゆえ信頼性に乏しい情報源を使用することに慎重になっているのだと思います。
また、Wikipediaに情報が載るという意味も考える必要があります。大衆紙(いわゆる週刊誌)に載っている場合と大手の新聞に載っている場合ですと、一般の方が受け取る印象はまるで違います。Wikipediaは世界最大級のオンライン百科事典を目指しており、内実は千差万別ながらも世間的にはある程度の知名度があり、国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス[5]の検索結果には「外部サイトへのリンク」として「Wikipediaで検索を行う」というリンクが出てくる程です。大衆誌に載っている情報をWikipediaに書くことで、情報が社会に与える影響力を持ってしまうことになり、それは表現的に問題のない批判であってもということになります。
仮に、あるスポーツにおいて著名な元選手がある指導者に対して「~~の試合における……については、彼の采配ミスと言えるだろう。」と発言したという記述があった場合、それが事実で建設的な励ましを含む文脈での批判だったとしても、その指導者はいたく傷つくことがあるかもしれません。大手の新聞にこの発言があった場合は、この発言がその指導者や試合を語る上で大事なのであれば、Wikipediaに載せて良いのかもしれません。また大手新聞に載っていなくても、この発言がテレビで取り扱われて有名な場合で、検証可能な情報源が大衆誌以外にない、という場合であればWikipediaに記載しても良いのかもしれません。ですが、そうでなければ(そうであっても)極めて慎重に取り扱うべき案件だと思います。
今回の議題の発端となった議論は拝見していないためその件について意見はしませんが、井戸端の議論が一般的なケースへ波及することを懸念し、書かせていただきました。JapaneseA様がここで懸念されていらっしゃることについて、基本的に共感する次第です……m(_ _)m。--Assemblykinematics会話2017年5月3日 (水) 01:24 (UTC)[返信]
そのご意見は2つの観点で誤解されているように思います。
まず1点目は、Kojidoi氏やHman氏が指摘されていることですが、「信頼できる情報源」とみなせる余地があっても、即、記述すべきという証明にはならないという点です。だから、「そうでなければ(そうであっても)極めて慎重に取り扱うべき案件だと思います」というご指摘はそもそも考慮されている。
2点目は、何を持って文責の所在が明白だと言えるかです。例えばその「あるスポーツにおいて著名な元選手がある指導者」で言えば、その「著名な元選手が受け持っているコラム」の中で言及したことであれば、それはその元選手に文責があるとみなせます。しかし、「Aという記者が書いた記事やコラム」の中で「なお、元選手の○○は「××」と論評した」と書いてあった場合、ここでいう文責とは元選手ではなくAという記者に帰属するものです。実は前後の脈絡を無視して一文を抜き出し異なる印象を与えていたとか、そもそもそんなことは言っていなかっただとか、そういった問題の可能性を考慮する必要がある。この時、Aという記者が情報源として信頼できるものかという話になり、大衆紙や週刊誌の信頼性の問題につながってきます(無論、朝日新聞や産経新聞だったら発言者の意図を正しく記事にしているかといえば、そんなことはないですが、だからと言って週刊紙ほどではないと言ったところでしょうか)。
また、そもそも元選手の発言を引用する必要があったのかという点もあります。いわゆる、メディアの議題設定機能と呼ばれるものですが、大衆紙や週刊誌の議題設定の信頼性は言わずもがなでしょう。ただ、それは文責がはっきりしてて、その信頼性が媒体の信頼性とは分けられる場合には、考慮する必要がないということです。
だからもし、今回の一連の議論で「○○は××と言った」という形式だったら、何を出典にしても良いという風に捉えた者がいたとしたら、それは誤りであると明言しておきます。--EULE会話) 2017年5月3日 (水) 03:44 (UTC) 追記--EULE会話2017年5月3日 (水) 03:56 (UTC)[返信]
コメント 最後にJapaneseA様の懸念に共感する旨書いてしまったため、紛らわしい文章になってしまったかもしれません。また、伝わりにくい文章で恐れ入ります……(>_<")。自分としては別の観点を提示したつもりでした。特に「大衆紙や週刊誌の議題設定の信頼性は言わずもがなでしょう。ただ、それは文責がはっきりしてて、その信頼性が媒体の信頼性とは分けられる場合には、考慮する必要がない」とは考えておりません。例えば大前研一氏など評論家の方々も週刊誌に連載コラムを持っていたと思いますが、そこでの記述が週刊誌の中に留まっている場合とWikipediaに書かれる場合とでは、批判されたご本人が受け止める印象や社会に対する影響が違ってくるのではないか?ということを言いたかった次第です……m(_ _)m。--Assemblykinematics会話2017年5月3日 (水) 10:16 (UTC)[返信]
内容は理解いたしました。ただ、そうであるならば、それはもはや論ずる方法がありません。朝日新聞に掲載された大前氏からの批判なら問題視しないが、週刊誌に掲載された大前氏からの批判なら問題視するという人がいないとは断言しませんが、危急の問題として検討しなければならないほどいるかと言えば、正直わかりません。むしろ週刊誌程度なら歯牙にも掛けないが、大手紙に掲載されたとなると、猛反発するという人だっております。これは週刊誌(ゴシップ紙)というものは事実性に乏しいという社会的な共通認識があるから合ってても間違ってても相手にしないが、大手紙だと合ってても間違っても事実だと思われてしまうという問題を抱えているためです。氏の観点は、結局、ウィキペディアでは存命人物に対する人物批評はしてはいけないということになってしまい、話に収拾がつかなくなってしまいます。--EULE会話2017年5月3日 (水) 13:00 (UTC)[返信]