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Wikipedia:井戸端/subj/出典について

出典について

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ノート:鳩山幸で、議論になっているんですが、

>>TVメディアにおいて放映された内容は、それは他の読者が検証する術を持たず、ウィキにおいてはこのような再現性のない情報は低いランクにしか認めてられない。「テレビ朝日に問い合わせればこの検証が可能であること」としているが、テレビ局がそんな問い合わせにいちいち応じるとは思えないし、オレが問い合わせたとしても、それはウィキにおいては何の証拠にもならないということを理解すべきである。ウィキにおいて証拠と認められるのは、国会図書館で入手できる文章や、オンラインで再現できる情報などで第3者が後で検証できる資料のみである。 と主張するユーザーがいます。

このことは正しいでしょうか? これを確認するところはどこでしょうか? 教えてください。 --Reishow 2009年9月22日 (火) 03:39 (UTC)[返信]

ウィキペディアの三大方針の一つにWikipedia:検証可能性というものがあります。これは数あるガイドラインの中でも公式な方針に分類されるものでして、信頼できる情報源を参照することにより「検証できる」内容がウィキペディアに記載できる内容であるとするものです。テレビで放送されただけで、DVDやアーカイブになっていないものについては、後から他の人がその情報が本当に放送されたか確認することは困難です。また、誰かがテレビ局に問い合わせて回答を得たとしても、その問い合わせが本当に存在したか第三者が確認することも難しいうえ、同じく三大方針のWikipedia:独自研究は載せないでは、投稿者が行ったインタビューなどは独自研究にあたるとされています。そこで、Wikipedia:検証可能性信頼性に乏しい情報源の項目では事実確認の機能を欠く情報源の例として「TVで観た」等が挙げられています。
同様のことは過去にもよく話題になっておりまして、Wikipedia:井戸端/subj/テレビ番組は検証可能な情報源ですか?などの議論があります。--Mugu-shisai 2009年9月22日 (火) 05:39 (UTC)[返信]


「問い合わせが本当に存在したか第三者の確認」ですが、もう一度別の人が問い合わせすればいいのじゃないでしょうか。
Wikipedia:井戸端/subj/テレビ番組は検証可能な情報源ですか?を見てみました。場合によりそうですね。ウィキペディアは「公の事実」で記されて真か偽かではないということですけど、ここの最初のほうは(真か偽か)で話がすすんだりしてますね。途中で直してくれている人がいますけれど。
ノート:鳩山幸#不倫では、具体的な放送内容を書いているので見ていただけませんか。放送番組名と日時と放送分と具体的放送内容です。これだけ具体的ならば、問い合わせを第三者がすることが可能だと思います。
さらに、これに加えて、他の複数の雑誌メディア、ここでは週刊新潮や週刊文春ですが、同様に報じたことは信頼性を高めることにはなりませんか?--Reishow 2009年9月22日 (火) 07:34 (UTC)[返信]
うーんと、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないは量も多く難しいのでじっくりと読んでいただきたいのですが、「検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。」とあり、すなわち編集者たちが独自に検証できたからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはならないとされています。今回の件で分かりやすくいうと、編集者たちがテレビ局に確認しただけでは不十分で、例えば、大手新聞社が「テレビ局が何々と報じた」と報道すれば、検証可能だということです。
こういった問題がありますから、十分に査読されている出版物で同様のことが報じられるまで待っていただき、それを出典とするのが望ましいです。信頼性に乏しい情報源の項目にもありますように、全ての出版物が信頼性があるわけではなく、タブロイド新聞等のたぐいは不十分とされているので、注意が必要です。
もちろん、検証可能性だからといって何でもかんでも載せていいわけではなく、特に存命人物の伝記を書く際にはより配慮が必要となります。公式な方針のWikipedia:存命人物の伝記もご覧ください。--Mugu-shisai 2009年9月22日 (火) 08:06 (UTC)[返信]

あなたは相手方への反証として「テレビ朝日に問い合わせればこの検証が可能であること。」と記されていますが、相手がテレビ局に問い合わせて答えを得たとしても、それはウィキという媒体においては何の意味もないことです。すなわち第3者が客観的に確認出来る手段を示すことが必要であるということをお分かりください。
あとMugu-shisaiさんも記されていますが、特に存命人物の伝記を書く際にはより配慮が必要となります。公式な方針のWikipedia:存命人物の伝記に目を通してください。有名人であるならば何を書いても良いというわけではないことをどうぞ御理解ください。--多襄丸 2009年9月22日 (火) 08:32 (UTC)[返信]

Mugu-shisaiさん、いろいろガイドライン教えていただきありがとうございます。教えていただいたところをもう一度よんでみます。
そのまえに、質問の仕方が悪かったのか、もういちど確認したいのですが、最初に書いたユーザーの主張はこの上に書き込んだユーザー多襄丸の書き込みで、この主張がかなり断定的なので、まずは、これの真偽を確認したいのです。
1 「TVメディアで放映された内容は、ウィキペディアにはかけない」は真でしょうか?
2 「テレビ局にそのテレビ局が放送した内容を問い合わせることは何の証拠にもならない」は真でしょうか?
3 「国会図書館で入手できる文章と、オンラインで見ることができる情報以外では、ウィキペディアで信頼性ある情報と認められず、書くことができない」は真でしょうか?
はなしをふりだしにもどしてすみません。まずは、これで教えてください。その後、Mugu-shisaiさんに教えてもらったところでわからないところあったら、また質問します。--Reishow 2009年9月23日 (水) 00:49 (UTC)[返信]
すみません、上の3つは多襄丸さんの当初の発言よりさらに断定的な書き方になっているようですので、多襄丸さんの言葉をそのまま引用して返答します。
1について、「TVメディアにおいて放映された内容は、それは他の読者が検証する術を持たず、ウィキにおいてはこのような再現性のない情報は低いランクにしか認めてられない」との発言でした。上で述べたとおり、テレビで放映されただけの内容は検証可能性に乏しく、信頼性に乏しい情報源とされており、そのとおりです。検証可能でない情報は書くべきでないとされており、除去されることもあります。
2について、「オレが問い合わせたとしても、それはウィキにおいては何の証拠にもならない」との発言でした。「何の証拠にもならない」とは「検証可能性を満たさない」という意味だと思いますが、それなら上で述べたようにそのとおりです。
3について、「ウィキにおいて証拠と認められるのは、国会図書館で入手できる文章や、オンラインで再現できる情報 など で第3者が後で検証できる資料のみである」との発言でした。ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「検証可能かどうか」とされており、そのとおりです。国会図書館とオンラインの情報はあくまでその例であってそれだけとは限定されていませんので、その発言は正しいといえます。「ウィキペディアにおいて出典と認められるのは、国会図書館やオンラインで再現できる情報などのような第三者が後から検証できるもののうち、ウィキペディアにおいて検証可能性があるとされている資料のみ」という意味であればおおむね正しいと思われます。
ウィキペディアの方針は非常に多く、解釈もいろいろとあって難解で、編集を始められて間もない方は読み込むのがたいへんだと思います。私から言えるのはこれだけですが、どうかご理解いただきますようお願いいたします。--Mugu-shisai 2009年9月23日 (水) 02:43 (UTC) --訂正。--Mugu-shisai 2009年9月23日 (水) 15:42 (UTC)[返信]
(補足)すみません、Akanijiさんの投稿に気づかず投稿してしまいましたが、Akanijiさんのおっしゃるとおりです。--Mugu-shisai 2009年9月23日 (水) 02:48 (UTC) --削除。--Mugu-shisai 2009年9月23日 (水) 15:42 (UTC)[返信]

私のほうからも補足いたします。
本件は特に、個人の名誉に関わる問題ですので、より慎重で確実な出典の提出が求められていると御理解ください。Wikipedia:存命人物の伝記#信頼できる情報源において「存命人物の伝記において、もし間違っていたら中傷となりうる断定(assertion)はソースの裏づけが必要です。信頼できる情報源のない伝記は、独自研究で検証不可能なため、名誉毀損(libel)につながりかねません。」とあります。この点も御確認ください。--多襄丸 2009年9月23日 (水) 01:29 (UTC)[返信]

ウィキペディアの公式方針をご紹介します。

  • 1.「TVメディアで放映された内容は、ウィキペディアにはかけない」は真だと思います。WP:V#信頼性に乏しい情報源に「信頼性に乏しい情報源とは(中略)事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)(中略)です」とあります。
  • 3.「国会図書館で入手できる文章と、オンラインで見ることができる情報以外では、ウィキペディアで信頼性ある情報と認められず、書くことができない」は、だいたいあっていると思います。WP:OR#信頼できる資料に「ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必要です」とあります。
  • 2.「テレビ局にそのテレビ局が放送した内容を問い合わせることは何の証拠にもならない」は真だと思います。根拠は同上です。

ご参考まで。ぜひ、リンク先もお読みください。--Akaniji 2009年9月23日 (水) 02:28 (UTC)[返信]

やっと、御理解いただけたようでなによりです。コミュニティ一同一安心です。分からないことがありましたならばWikipedia:井戸端でも受け付けていますよ。一回Help:目次の最初から目を通されると良いでしょう。--多襄丸 2009年9月23日 (水) 11:28 (UTC) --Akaniji 2009年9月23日 (水) 13:12 (UTC)復帰[返信]

「御理解いただけたようでなによりです」はReishow氏へのメッセージのつもりで記したのですが、AkanijiさんもしくはKs aka 98さん宛になってしまったようで失礼いたしました。お二人に対しこんな文言は失礼ですね。Reishow氏も何とか聞き分けていただけたようで一安心です。--多襄丸 2009年9月23日 (水) 15:23 (UTC) 誤って消去した記述を復帰。--Mugu-shisai 2009年9月23日 (水) 15:48 (UTC)[返信]

1.一般論として、書けることもあるでしょう。ただし、多くは、差し戻しされても文句は言えないというようなものだと思います。 2.真です。 3.偽です。国会図書館に所蔵されている資料はおおむね第三者が検証することができるとみなせますし、オンラインで見ることのできる情報は同時代的には検証が比較的容易なものとみなせますが、いずれも、所蔵されているだけで、オンラインで閲覧可能だからといって、信頼できるものではなく、むしろ数の面から言えば信頼できないもののほうが多いと思います。--Ks aka 98 2009年9月23日 (水) 11:51 (UTC)--Akaniji 2009年9月23日 (水) 13:12 (UTC)復帰[返信]

ああ・・理解不足ですみません、確かに良く考えたらウィキペディアにおける検証可能性は「信頼できる情報源」じゃないと満たせないので、単に「国会図書館で入手できる文章や、オンラインで再現できる情報」という例にしてしまうとよくないですね。申し訳ないのですが上記発言を訂正いたします。Akanijiさんにもお詫びいたします。
1も確かにそうですね。Reishowさんが今回の件で盲目的にルールを適用するような方にはなってほしくないので一応述べておきますと、例えば、国民的に有名な長寿番組で、司会者が毎回主題歌を歌いながら登場する番組があったとして、司会者が毎回主題歌を歌いながら登場するということがウィキペディアに書かれていたとき、誰もが知っているようなことなのにそのことを書いている信頼できる情報源が見つからないからといって「出典がない!」と除去してしまうのは(個人的には)ナンセンスと思います。しかし、今回の件はノートで揉めるような微妙な内容であるうえ、存命人物に関わる情報でもあり、ウィキペディアの原則どおりに記述していただくのがよいかと思います。
理解が浅く解釈と発言に誤りがあったことをお詫びいたします。Ks aka 98さんありがとうございます。--Mugu-shisai 2009年9月23日 (水) 15:42 (UTC)[返信]


みなさんご意見きかせていただいてありがとうございます。一つ一つ教えていただいたところを見ています。聞きたいところが出てきたので、また質問します。

「信頼性に乏しい情報源」を見ました「事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)」ってあります。これは、「テレビで見たよ」ってことじゃないのですか?単に「テレビで見たよ」というだけなら事実確認しようにもできないですよね。でも、今回、テレビ局名、番組名、放送日時、放送時刻、放送内容の書き出しがあって、それをテレビ局に問い合わせれば確認できます。Mugu-shisaiさんは編集者だけが確認できるっていってますけど、編集者ができれば読者だってできますよね。「大手新聞社が「テレビ局が何々と報じた」と報道すれば、検証可能だということです。」もそうだろうなとは思いますけど、

日常生活で新聞とテレビと同じように利用しているのに、新聞報道が書けてテレビ報道が書けないのはなぜですか? 大手ならどっちも同じように信頼性ありますよね。

テレビ放送が一律だめみたいにいわれるのはなのでしょう。テレビ番組でもおちゃらけたものから、報道まで幅があります。信頼できる情報かどうかは、番組毎にきまるものじゃないのでしょうか? Mugu-shisaiさんから「タブロイド新聞」の例がありましたけど、テレビ朝日が夕刊フジみたいな新聞と同じってことでしょうか?普通生活していてそうは思ってないと思うんですが。


ところで今回のもともとの相手のユーザー多襄丸が、私のページにまたいやみな話を書き込んでくるんです。こういうのはどういう風に相手にすればいいのでしょう。本来の話だけすればいいのに。ここでも、私の話が終わったかのように書かれてしまっています。困っています。この嫌がらせで逃げちゃうユーザーもきっといます。ここでみなさんから答えをもらったのでちょっと勇気がでました。


まだMugu-shisaiさんから教えていただいた分チェックしきれてないのに、Ks aka 98さんからもまた新しい話をいただきました。ユーザー多襄丸の話がすべて正しいわけじゃないことがわかりました。ありがとうございます。Ks aka 98さんの話もまだ聞かせてもらいたいところがあるので、また書きます。まだ終わりにしないでください。--Reishow 2009年9月23日 (水) 15:37 (UTC)[返信]

すみません、Akaniji さんの書き込みへのお礼わすれました。ありがとうございます。これもあわせてみてみます。--Reishow 2009年9月23日 (水) 15:39 (UTC)[返信]

ちょっと本題とはそれてしまうのですが・・確かに理屈を詰めればウィキペディアの方針なんて法律でもないし突っ込みどころはいくらでもあると思うのです。しかし、今回の件はノートでも揉めているような微妙な案件ですから、誰が見ても「確かにそれは適切な出典だな!」と納得できるようなものが出てくるまで待っていただくのが「無難」じゃないかなあ、と思うのです。載せるかどうか揉めるような内容を無理やり載せる場ではありませんし、急ぐことはないのです。
また、インターネット上のやり取りは文章のみで、相手の表情も見えないので、お互いに思い込みでついついヒートアップしがちです。もしかしたら相手が悪いかもしれないし、悪くないかもしれない。しかし、そこは善意にとって穏やかにいきましょう。とりあえず、本件はことを急がずのんびりいきませんか。--Mugu-shisai 2009年9月23日 (水) 16:02 (UTC)[返信]
ご丁寧にありがとうございます。さて…視聴覚資料に関しては、難しいところですね。NHKアーカイブスなどは、検証可能な資料として扱っても良いのではないかと思います。図書館で手に入りますので。この「図書館で手に入るか」がキーワードになると思います。普通のテレビ番組は、後日閲覧できるように所蔵、公開している施設がありません(たぶん)。なので、検証不可能であるとして、推奨されていないのではないかと思います。新聞は縮刷版で図書館が所蔵・公開しているので、検証可能なのです。出典の要件は2つあって、前提として①検証可能であること(所蔵・公開する施設があり、読者が後日検証できる資料)、その上で②信頼できる資料であること、だと思います。その点、図書館の視聴覚資料として所蔵されそうもない一般のテレビ番組は、①検証可能性を満たさないとして、出典として認められにくいものと考えられます。
利用者間トラブルについては難しい問題ですが、適度にウィキブレイクを取得してリフレッシュするのが一番の方策だと、個人的には思います。--Akaniji 2009年9月23日 (水) 16:32 (UTC)[返信]

皆さんからコメントいただいて、すごく心強いです。

こちらもユーザー多襄丸がノートで何の会話もしていないうちから最初に「いまさらこのようなことを持ち出しXXさんを貶めるような記述は止めにして欲しい。これが繰り返されるならば保護もやむを得ないな」という理由と脅しのような書き込みで書かれたのでちょっとムキになりました。Mugu-shisai さんのおっしゃるとおり「のんびりいきませんか」ですよね。こんな質問に対応していただいて感謝してます。

「存命人物の伝記」では求められる信頼度がもっと高いということはわかりました。今回の件はこのことが一番の理由になると思います。そしてそれは「検証可能性」と「高信頼性」にあるのだろうと理解しました。ガイドを見ましたが、まだテレビ情報が「検証可能性がない」と「信頼性がない」という理由がまだわかりません。「存命人物の伝記」でいう「高信頼性」まではいかないだろうなくらいでの納得です。

ユーザー多襄丸から「いまさらこのようなことを持ち出しXXさんを貶めるような記述は止めにして欲しい」を理由にされても意味不明ですよね。説得理由は「存命人物の伝記で、高信頼性が求められるから、いまはやめておきなさい」ですね。後付でガイドをだされても最初の理由の裏づけになっていないし、ユーザー多襄丸の頭から決め付けの理由の展開がなっていないのはわかりました。後理由がガイドラインに大体沿っていることは皆さんのコメントからもわかりました。でもそれがユーザー多襄丸の最初の削除理由を支えるものではなかったこともわかりました。その一方でMugu-shisai さんの話で今後そういう読み物が出てきてあるいは見つかれば書けばいいということは理解しました。ありがとうございます。

Akaniji さん、ウィキブレイクの紹介ありがとうございます。でもわたしはユーザー多襄丸の言い方振る舞いは言語の暴力だとおもうんです。これで自分の方が休むなんてことは「相手の思うつぼ」じゃないでしょうか?ウィキペディアはこういう攻撃的ユーザーを野放しにしていていいのでしょうか。イエローカードが集められるようなものはないのでしょうか。身を守るには、活動を休むしかないのですね。個人的にはそうなのかもしれませんけどウィキペディア全体がそれを前提とするなら先行きが恐ろしいです。声が(態度が)大きいもの勝ちの世界ってことになっちゃいます。

本論ですけど検証可能な情報源、信頼性ある情報源、独自研究を見ました。上に書いたようにテレビ情報が「検証可能性がない」と「信頼性がない」という理由がガイドラインをみてもまだわかりません。テレビ情報が検証可能ではないとか、テレビ情報は信頼性ある情報源ではないとか、はっきりと書いてないんです。皆さんがいう話が本当なら、もっとハッキリかいていないと同じことをするユーザーがたくさんいると思うんです。なぜあいまいに書いてあるのでしょう。「存命人物の伝記」をおいておいて、まずウィキペディアガイドラインでのテレビ情報の扱いが、皆さんのおっしゃる意味どおりでガイドラインに書いてないのが気になります。こういうあつかいになっていることが自分の都合のいいように解釈するユーザーができる下地があるのじゃないですか?これだけ皆さんハッキリ書いているならガイドラインにハッキリ書いてください。

Mugu-shisai さん、Akaniji さん、「検証可能でない情報は書くべきでない」ですが、「テレビで放映されただけの内容は検証可能性に乏しく」というのはWikipedia:検証可能性の「信頼性に乏しい情報源」の「事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)」以外にどこにあるのでしょうか?「事実確認の機能」はテレビ情報ではありえないということなのでしょうか?それはどこに書いてあるのでしょう。検証可能性って「事実確認の機能」があることですか?そもそも「事実確認の機能」って具体的にどこに書いてあるのでしょう。悩んでしまいます。

このガイドラインの上のほうに「その情報をウィキペディアに載せてよいものにするには、まず、広く信頼されている報道機関を説得してあなたの話を発表してもらわなければなりません。」ってあります。「広く信頼されている報道機関が発表していれば検証可能性がある」って読めますよね?でもみなさんの話の方向は「テレビ朝日は広く信頼されている報道機関じゃない」に聞こえます。一般の認識はテレビ朝日は広く信頼されている報道機関だと思いますがちがいますか?ここのガイドラインで言っている「信頼されている」って世間一般の言葉とちがうのでしょうか(法律用語みたいに)?なぜ「テレビ朝日が発表していれば検証可能性がある」と解釈してはいけないのでしょう。ガイドラインの書き方も二転三転しているように見えます。とても不思議なんです。ガイドラインを読むとよけい迷います。皆さんの言い方の方が断定的ですよね。これじゃユーザーが都合のいい部分だけ引用して説得にかかったら弱気のユーザーだったら言いくるめられそうです。ガイドの二転三転もガイドラインがわかりにくいだけじゃなくて、ユーザー自分本位の「また利用」とか「意味がちょっと変えられ都合よく使われやすい」っていうのの下地になってるんじゃないでしょうか。--Reishow 2009年9月24日 (木) 02:34 (UTC)[返信]

ええと、要は実際に検証できるかどうかが問題ではなく、ウィキペディアにおいて適切とされている検証方法で検証できないので、「ウィキペディアにおいては」検証可能性に乏しいということです。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないをよくご覧になれば読み取れるかと思うのですが、ウィキペディアは編集者が直接対象者に「取材」なり「インタビュー」して執筆することはできないとされています。例えば、(適切でない例えかもしれませんが極端な例を出しますと)とある大企業がこんな大発見をしたと発表したとします。とあるウィキペディアンが「それは間違いでは?」と問い合わせてみると、その大企業は「ご指摘のとおり先ほどの発表は間違いでした」と回答したとします。そこで、そのウィキペディアンが「先ほど会社に問い合わせたら間違った発表をしたと認めました。読者のみなさんも問い合わせて確認してください。それで検証できるでしょ」と言って、その企業の項目に間違った発表をしたと書くことはできないということです。その後、大手新聞社などが、その企業が間違った発表をしたと大々的に報じた、その時点で初めてウィキペディアに書くことができるということになります。
ウィキペディアが新規参加者に非常に敷居が高いのはご指摘のとおりです。「ウィキペディアでこんなことがあったけど、常識的に考えてこれはおかしいだろう」と思っても、方針などをよく調べてみると、ウィキペディアではそうするのが適切だった、ということもままあります。方針などもあいまいですが、自由な編集と合意を尊重すると、仕方がない部分もあります。ですので、あまり方針を読み込んで悩まれないほうが良いと思います。また、完全に納得できるまで他の人に質問されてばかりだと勉強になりませんので、ご自身でもぜひ研究してみてください。堂々巡りになってきていますし、あまり長くなってしまっても不毛ですので、私からは回答はこのくらいにしたいなあと思います。よろしくお願いいたします。--Mugu-shisai 2009年9月24日 (木) 11:40 (UTC)[返信]
「発行者の信頼性が高いこと」と「後日閲覧による検証が可能であること」は別だと思います。テレビ番組は録画していない場合、後日閲覧するのが大変困難です。読者の大半は当該番組を録画していないでしょう。一方、書籍や新聞であれば、国会図書館に行けば、たいていのものは閲覧が可能です。よって、書籍や新聞は検証可能な資料とされ、テレビ番組は検証不能(困難)な資料とされるものと考えられます。そして、検証可能な資料のうち、発行者の信頼性の高い資料のみが、ウィキペディアの出典として認められるのだと思います。テレビ番組は、信頼性を議論するまでもなく、後日の閲覧による検証が困難であるため、出典として認められないのではないでしょうか。これ以上は申し訳ありませんが、私の手に余ります。--Akaniji 2009年9月24日 (木) 14:17 (UTC)[返信]

ええと。「本論」について、順に。

テレビ情報が検証可能であるとか、信頼性ある情報源であるとかも、書かれてはいません。テレビに直接関係する項目は別として、通常、百科事典の執筆で、テレビを情報源とすることは、考えにくいでしょう。検証可能かどうか、という点で言えば、実際に事後的な検証は困難です。

「事実確認の機能」についての言及は、「分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。」として記述されています。

信頼性について言えば、テレビは、新聞よりも、ウィキペディアよりも信用度が低いという調査があります[1]。これはちょっとどうかとも思いますが、たとえば災害などのように、ある程度迅速に編集を更新していく必要があるような記事であれば、警察や気象庁の発表を伝えるテレビの報道は、一定の信頼性があるとして記事を書き、後に別の媒体を確実に検証できる情報源として加えていくという編集があってもよいと思います。しかし、放送局や番組の性質にもよりますが、一般には、テレビの信頼度はNHKを除けば新聞には劣りますし[2]2008年 メディアに関する全国世論調査(PDF)、学術論文のように、時間をかけて、事実関係を調査するという姿勢や機能を持ち合わせているわけではないです。

言語化されていることで、解釈の余地は生まれるでしょうし、矛盾も生じているかもしれませんが、要は、ウィキペディアというのは百科事典を作るプロジェクトで、質的にも世界最高の百科事典を、専門家に限らない、誰もが編集できるようなかたちで作り上げる上では、どうするのが最善かを考えた場合、「あなた」はどうしますか、というところが、方針やガイドラインの出発点です。読者にとって、ウィキペディアの執筆者それぞれというのは、匿名で、専門家ではないであろう人々なので、書かれていることをそのまま鵜呑みにすることはできないでしょう。それでも、できるだけ信頼性を高め、読者自らが資料にあたれるようにするためには、どうしたらよいか、というと、事後的に確認できない放送媒体よりも、紙の媒体のほうが好ましいですし、信頼性で言えば、査読つきの学術論文のほうが好ましい。そうしたことを、ある程度一般化して、まとめたものとして、方針があると理解していただくのがよいと思います。あとは、項目や記述の内容によっては、新聞やテレビを情報源とせざるをえない場合や、したほうがいい場合というのもあるでしょうから、そういうときには、内容と、記述方法に留意して、情報源をできるだけ明らかにしつつ、加筆することがあっても構わないと思います。逆に、いかに信頼できて、検証できるとしても、百科事典の内容としてふさわしくなければ、書くべきではありません。--Ks aka 98 2009年9月24日 (木) 20:04 (UTC)[返信]

Mugu-shisai さん、Akaniji さん、Ks aka 98さん、ガイドラインを呼んで背景はだんだんよく見えてきました。
  • 検証できない情報では記事を書いちゃダメ。
  • 信頼性あるなしは比較の問題で程度の問題、ないよりはあったほうがよく、よりよいものを選んで。
  • 一から独自研究は当然だめ。情報源が上2つOKでも独自研究にまで踏み込んだらダメ。
でも、でもガイドラインを読むと知りたいテレビ番組情報源掲載についてはわからなくなりました。皆さんの話のほうがガイドラインより断定的で説得力ありわかりやすい。ガイドラインには具体例があるものもあるけどテレビについてほとんどなにも書いてない。皆さんの話よりも抽象的で幅広く取れるように書いてある。
しかもまず文章がよくないです。わかりにくさはそのせい?。「検証可能性」の最初に、「この文書の要旨: ウィキペディアに掲載される情報は信頼できるものでなければいけません。あらかじめ信頼できる情報源から公表、出版されている事実、視点、理論及び議論だけを収録してください。記事は可能なかぎり情報源を明記すべきです。情報源が明らかでない内容は、異議を述べて取り除くことができます。」ってあります。
この文章の中心文はいままで教えていただいたことから考えれば「記事は可能なかぎり情報源を明記すべきです。」なんでしょうけれど、このガイドラインをはじめてみたら、この前の2つの文と並列に読むのが普通の人です。そうすると、ウィキペディアに掲載できるのは、1、信頼できるもの(2文目はその説明)と2.記事は可能なかぎり情報源を明記すべき(4文目はその説明)ですって。
でも、ここは「検証可能性」の説明をするところだから「ウィキペディアに掲載される情報は信頼性の高い情報を元に記述されなければならないため、実際に記事に書かれたウィキペディア記述から、その元情報の信頼性を確認できるよう、あなたが記述した部分には可能なかぎりあなたが参考にした情報源を明記すべきです。情報源を明記が検証可能性の出発点です。情報源が明らかでなければ、異議が述べられ、削除されることがあります。」と、「信頼性を確認する目的のためにこれから説明する検証可能性が求められている」とわかるように、「文章中で視点(主語)を一貫させて」書いてくれれば、間違わないのにって思いました。
文章がよくなくても、ガイドラインの心は最初に書いたとおりにわかったとおもってますが、テレビについてはまったく参考になりません。
検証可能性でテレビは「事実確認の機能を欠く情報源の(「TVで観た」等)」だけで全部ダメなのか「テレビ見た!」なのかハッキリかいてないんです。信頼性の方は「歴史」での公開物の情報元がテレビ番組の場合もあるというの文脈だけ。これをみてもテレビで書いちゃだめとはとれません。テレビはだめというその裏づけとして皆さんが読んでというガイドラインにはテレビについて理解するだけの内容がないです。皆さんがいうようにガイドラインをよく読んで理解すればと思ったのですが、テレビについては助けになりません。基本でないことも分野別にたくさん書いてあったり、でもテレビはない。ガイドラインだけで今回の解決の理解には役立ちませんでした。とにかく、私にできることとして、ガイドラインと皆さんからいただいたことと照らし合わせてみました。
テレビ番組の情報はAkaniji さんのいうとおり「信頼性に乏しい」や「信頼性が低い」でなく「検証可能性」の方でしょうね。信頼性に関してはどんなものでも高いものもある低いものもある。もしテレビ朝日がテレビ番組のDVDを出していたらその信頼性は第一にテレビ朝日の信頼性の評価ですよね。「テレビ局は一般に信頼性はあるが、テレビ番組放映だけでは検証可能性がない」とガイドラインに書いてあれば「ウィキペディア的意味での検証」がわからない初心者でも間違いなく、とりあえずやめておこうと思います。いまのままなら書いちゃダメとは思わないでしょう。学術的記事でない高度な信頼性の出典がない大衆文化的な視点で書き込もうとしている場合に特にです。
まず信頼性とテレビはほかのメディアの関係と変わることはないでしょう。テレビは信頼性低いは違うと思いました。
信頼性のところの「大衆文化やフィクション」に「Wikipedia:検証可能性およびWikipedia:信頼できる情報源は、芸能ゴシップ等、大衆文化に関して要求される情報の信頼性について特別な規定を置いていないが、これらの分野で査読済みの研究を期待するのは現実的でない。従って、例えば "bisexual" "James Dean"をキーワードにしたGoogle検索のように[5] 相当量の情報源が存在するときには、その中で最良の情報源は許容可能であり、情報の信頼性についてのコメントが含まれている場合は特にそうである。[6]」ってあります。
一国の首相夫妻に今回追加したような情報は、結局、芸能ゴシップ、大衆文化と同等です。首相だから政治の話だけじゃなく有名人には付きまとう話でサルコジさんの話も同様です。「これらの分野で査読済みの研究を期待するのは現実的でない。」ときちんと書いてあり、今回の情報掲載に当てはまる視点です。「相当量の情報源が存在するときには、その中で最良の情報源は許容可能であり、情報の信頼性についてのコメントが含まれている場合は特にそうである。」まで、しっかりガイドラインに書いてあります。
ガイドラインにハッキリ書かれているこの話が、今回皆さんから紹介してもらえなかったのはどうしてでしょう。ガイドラインにない話を例をあげてしていただく前に、まずはガイドラインにあることを複数視点から話題にしてもらえれば多面的な話になるのでは。このガイドラインを読んで、ここでの話題も非核三原則の精神の話に終始しているのかもと思ったんです。精神を理解していないって。道場みたいに。
「信頼できる情報源では、情報を集めた手段を再現あるいは検証できます。確認できる事実は、たとえ確認が行われていないとしても、全体的には確認できない事実よりも信頼できます。」とガイドラインに書いてあり「放送局名、番組名、放送日時、時刻、主旨、記述内容」があれば確認できるっていっているように取れます。
「信頼できる情報源は、情報源が誰かをはっきりと表明する傾向にあります。なので、作者名の付いた引用は「匿名の情報源」よりも信頼できます。このことは特に、匿名の情報源が自身の関係者について語っているときにあてはまります。」とガイドラインに書いてありテレビ朝日は作者名にあたりそうです。だから大丈夫に思えます。
「どの情報源についても、複数の独立した立証の存在は信頼性へのよきガイドラインであり、もしある事実や主張が複数の情報源により個別に確認されているならば、それは確認されていない情報源よりも信頼できます。」は、大衆文化、ゴシップものでは、国会図書館にあるような週刊新潮や週刊文春だけに加えて、テレビ朝日の放送(の具体的日時)もあれば、信頼性は一般には増すと思います。単にテレビはだめで、複数情報の一端から消してしまったのでは、これはこれでおかしいと思うんです。
実際の記事をみても「テレビ情報の掲載は場合による」というのが実感で、皆さんの話が「非核三原則」の講釈みたいに思えてきます。ガイドラインじゃなくて、説明のほうでハッキリいうのはお役人の法解釈みたいだから。どうにでも取れるような法律と、お役人の都合のいい解釈みたいに。
皆さんの説明とガイドラインを比べてみました。
信頼性
Ks aka 98 さん「テレビは、新聞よりも、ウィキペディアよりも信用度が低いという調査」は単にたくさんある調査のひとつですよね。
「放送局や番組の性質にもよりますが、一般には、テレビの信頼度はNHKを除けば新聞には劣りますし[2]2008年 メディアに関する全国世論調査(PDF)、学術論文のように、時間をかけて、事実関係を調査するという姿勢や機能を持ち合わせているわけではないです。」は、この話がガイドラインか、ガイドラインにつづくガイドラインに(編集者が任意の時点で確認できるような場所に)あるのならわかります。単にこの場所に今回一時的な話で書かれて、アーカイブされて、この話をたまたまみた一部の編集者の経験となるだけなら、テレビ番組がウィキペディア的検証に合致しないのと同じ理由で、せっかくいただいた情報もほかの人は知らなかったってことになっちゃいます。ウィキペディアのルールが難しいのは、こういう経験の積み重ねを横目でみてないとわからないからじゃないでしょうか。ガイドラインをいくらみてもこれはわからないし。あやしい知ったかユーザーが跋扈するのは、みなさんの賢いtips発言をブックマークして、都合のいい文脈に織り込んで、高い位置から、自己の理屈の裏づけにつかってしまうからじゃないでしょうか。
検証可能性
Mugu-shisaiさんの「ウィキペディアにおいて適切とされている検証方法で検証できないので、「ウィキペディアにおいては」検証可能性に乏しいということです。」は、やっぱり「事実確認の機能」と同じじゃないといけないと思うのですが、テレビがそうだとは書いてないです。
「ウィキペディアは編集者がに「取材」なり「インタビュー」して執筆することはできないとされています。」は、テレビ朝日は直接対象者じゃないです。テレビ朝日は「取材」なり「インタビュー」して執筆した著者でそれを出版した出版社ですね。だから、「先ほど会社に問い合わせたら」以降のたとえは意味が違います。このたとえは編集者が著者の役割でMugu-shisaiさんの筋にあってますけど、私のいった編集者はテレビ朝日という著者や出版社への問い合わせです。テレビは放映されると消えてしまうのですが、局名、番組名、放送日時、放送時刻が出典としてあれば、ウィキペディアに書かれている内容での主旨で放送したのかしなかったのか、別の人でも問い合わせで対応でき検証できます。国会図書館にいって調べるのと、そんなに大きく違うのでしょうか?ちがうならここでの「検証」って一般の意味とはちがいます。
Akaniji さん、「テレビ番組は、信頼性を議論するまでもなく、後日の閲覧による検証が困難であるため、出典として認められないのではないでしょうか。」は、ダメというならその理由が一番わかります。それは「テレビ番組のウィキペディア検証はできない」とそうハッキリ言っていただけるのであればそのとおりですね。
Ks aka 98 さん、「百科事典の執筆で、テレビを情報源とすることは、考えにくい」とすれば、「すべての編集者が任意に確認可能な状態で出典元がオープンな場所に保管されていることが出典元の条件。一時的に公にされたものでも継続的に出典元すべてが別の編集者が確認できないものは情報源とみなさない。テレビ番組(テレビ情報源)、ラジオ番組(ラジオ情報源)など放送で公開されたものでも、任意の後日に広く一般の誰もがその内容全体を再生検証することができない保管状態にあるものはすべてこれに該当します。DVDなど一般に入手可能なメディアにより再出版されたものはここに含みません。これはDVD情報源でありテレビ情報源ではありません。」と検証可能性にあれば、わかりやすいのにどうしてないのでしょう。
「実際に事後的な検証は困難です」といわれても、ガイドラインに「検証」(「事実確認の機能」)が書いてないので、それは法律用語みたいで勉強したひとしか知らないみたいな使い方で、検証とは「目で出典元の全情報を確認すること」とか明記してください。一般には「放送局、番組、時刻、主旨、記述内容がわかれば電話で確認して検証した」(つまり、そういう主旨でそういう言葉遣いで放送したのは間違いないということがわかります)。これを「検証」といわないのなら、ハッキリわかるように書いてください。
方針の精神、百科事典の内容
Mugu-shisai さんからの「方針などをよく調べてみると、ウィキペディアではそうするのが適切だった、ということもままあります。」も、ガイドラインが頼りないから、解説本が跋扈するような感じに思えます。解説してくれる人がMugu-shisai さんやAkaniji さんやKs aka 98さんだったら説得されますが、ユーザー多襄丸じゃ反発します。ウィキペディアはこういうことで進むのですか。すごく基本だから、みんなが間違いそうだから、ガイドラインがあるんじゃないですか。ガイドって言うくらいですもの。ほかの人に解説してもらわないと意味不明な状態ってなんだかなあとおもいます。
Mugu-shisaiさん「方針などもあいまいですが、自由な編集と合意を尊重すると、仕方がない部分もあります。」もテレビ情報はダメなんですよね?ダメなものはダメと書いてないとガイドラインではなくて、「抜け道を知っている人、わたり方を熟知した人が御旗とできる一見すばらしい法律」とそれを操る官僚や弁護士になってしまって、市民参加じゃなくなるんじゃないですか?まるで政治です。わからない人はわかるようになれでしょうけど、すごく基本的で、また、一般市民が一般に思っていることと違うのだったら、それをハッキリ書くのがガイドラインでしょう。法律でさえ最近は変わってきてます。なんか日本国憲法はできた当時のままで、解釈は別にって感じでしょうか。米国では修正修正があたりまえで時勢や状況を適時反映できるのに。最初はよかったけど運用がよくないのでしょうか。そこをみなさんがカバーされているような。いい人に当たればいいし、そうじゃないとひどいみたいな。
Ks aka 98 さん「いかに信頼できて、検証できるとしても、百科事典の内容としてふさわしくなければ、書くべきではありません。」は、いろんなところで結局、個別の記事での話とありました。百科事典ではと大上段になると判断ができません。個別の事情であればあるほど、情報源の個別の信頼性を見ないといけないのじゃないでしょうか。「暴露本」よりも「大手テレビ局の大ニュース系番組で、単にコメンテーターが発した言葉ではなく、ビデオを事前に構成作成して放映された番組での放送内容です」。一般的な信頼性はあります。Akaniji さんのように信頼性じゃなくて検証で、それも編集者が私みたいな一般人だから(ウィキペディアの意味での)検証ができないからだめだってことでしょうね。私が百科事典の編集人だったら、テレビ局に掛け合って確認して、ほかのメディアも当たって確認して複数の裏をとります。それは公になっていないものもいれるかもしれません。テレビ百科だったら余計そうです。だから「百科事典の内容としてふさわし」かどうかと、テレビ番組だからとは別の話でしょう。
全体で思ったこと
皆さんの見解が正しいならテレビ情報はダメとガイドラインに書いてください。DVDになっているものはいいとかではなくて。DVDならDVDであってテレビじゃないです。それならテレビはだめ、DVDはいい、だけです。「テレビ番組でもDVDになっていればいい」という表現はコンテンツと媒体を混同していて、誤解をあたえますよね。
テレビの情報がダメの理由に、「テレビ番組は録画していない場合、後日閲覧するのが大変困難です。読者の大半は当該番組を録画していない」というのがあげられています。でも「放送局、番組名、放送日時、放送時刻」がその出典で、ウィキペディア記述があって、テレビ局に問い合わせれば、「その主旨で放送したかしないか」はわかります。普通はこれが事実の検証です。ウィキペディアは学術レベルの検証を検証と言っているんだなと思います。検証できるかできないかは「再放送でもなければ見ることはできない特性をもつテレビ情報の確認手段をウィキペディアがどこまでを許し、どこまで許さないか、あるいはどれも許さないか」というだけの問題だとおもいます。そのどこまでが人によって違っています。こちらの方の意見はほとんど「すべて許さない」です。もしそうであれば、そうハッキリ、ガイドラインにかいてください。
単に「ウィキペディアにおいて適切とされている検証方法で検証できない」といわれても「検証方法」が具体的でないからわかりません。ここではこれだけわかりやすい回答をいただけているのだからガイドラインに書いてないとおかしいと思うんです。反対にこれだけハッキリいわれているのにガイドラインにないならガイドラインは、なんだかわかっている人たちだけの六法全書みたいなものでしかないと思うんです。みんなに役に立つものがガイドラインなんじゃないですか?「ウィキペディアが新規参加者に非常に敷居が高い」のは、ガイドラインがはっきりしていないから(精神はハッキリしているけど具体的な説明はいい加減だから?)で、ウィキペディアが悪いわけじゃないでしょう、きっと。ユーザーが勝手な解釈をするような複雑な書き方になってるからでしょう。賢明なユーザーの皆さんが読めば賢明に理解でき、愚弄なユーザーが見ると愚弄に解釈でき都合のいいところだけ使えるガイドラインになっているような。
「テレビはダメっていうほうが簡単、ガイドライン書くのはなんか大変」と思わないと現状は理解できないです。ユーザー多襄丸は一方的で怖い、皆さんのはやさしいから理解が進みましたが、どちらもガイドラインに書いていないことまで踏み込んで言っているように思えるんです(いまのところ)。「1m離れてください」でいいのに「2m離れていれば安全なんじゃない?」といわれている感じです。(多襄丸は「はいってくんなっていってんだろう」という感じですが)確かにそうすればガイドラインは絶対に踏み外さないだろうけれど書けることまで書かないようにさせられている気がします。ガイドラインを見てもテレビというメディアの情報というだけでダメとは思えません。でもみなさん詳細に踏み込まず「テレビはやめておいたほうがいいんじゃない」です。
皆さんがいっている、主旨はよくわかるんです。でも、単に「テレビで見た」ではなくて「テレビ局名、番組名、放送日時、話題としているトピックの放送時刻、そして、放送主旨、あるいは、あらすじ、場合によっては、文字で起こしたもの」まで用意していて、一般には、それだけあれば、テレビ局に問い合わせができ、そういうことがそういう主旨で放送された事実を確認できます。これが「ウィキペディア検証ではない」ということを、ハッキリ知るためには、どこのガイドラインでわかるのでしょうか。ウィキペディアの記事を書くために「検証可能」でなければならないとされていることと同じように、ユーザーにそれは絶対にだめ、とわかるためには、ウィキペディアのわかりやすい場所に明確に誰でも(初心者でも)わかるように書いてないといけないと思うんです。
終わりに
当初の疑問は解決しないですけど、状況の理解はしたと思います。ウィキペディアのガイドラインとその運用状況からくるものだということがわかったということです。テレビ番組を元にするものはいっぱいかかれていますし今後も書かれるでしょう。後付でいわれて初めて、そうなのとおもいます。言われなければわからないです。皆さんもきっとガイドラインで理解したのじゃなく、経験です。これは市民活動のための活動原則を知るのにその分野の専門の弁護士さんを雇わないといけない状況みたいなものです。ウィキペディアはそういうことで運営されていていいのでしょうか。「ガイドラインを読んで」と皆さんがおっしゃるのですが、そしてそこだけ見るとガイドラインの説明をしてくれているように読めるのですが、実際に読むと、言っているようには書いてないんです。皆さんの説明は、ガイドラインの精神を皆さんなりに解釈された結果のようです。
個別の法律がないのに、個別の解釈だけは皆さんある程度一致していて、テレビはだめ、って言われている感じなんです。それで、ここに書いてあるよって言う場所をみると「憲法」があるって感じです。どこにもテレビはだめとは書いてないんです。「憲法(信頼性と検証可能性のガイドライン)」に「個別の解説」が書いてあるように見えると、立派なウィキペディアン?ってことになる感じがします。
Mugu-shisai さん、「今回の件はノートでも揉めているような微妙な案件ですから、誰が見ても「確かにそれは適切な出典だな!」と納得できるようなものが出てくるまで待っていただくのが「無難」じゃないかなあ、と思うのです。載せるかどうか揉めるような内容を無理やり載せる場ではありませんし、急ぐことはないのです。」ですが、トンデモ理由でユーザーからいわれたら揉めます。それでとめたら、おかしいですよね。単に「ノートでも揉めている」から「微妙な案件」ではないですよね。これを原則とすると変なユーザーの思う壺になりませんか? 一方、議論が正しくされても紛糾しているのを揉めるととるのは古い日本的な見方で、それぞれが主張を言い合い解決に向かうのが議論です。ユーザー多襄丸は最初の書き込みが「揉める」ような原因をつくる言い方でした。これを単に揉めるから喧嘩両成敗というのは日本的解決策だと思います。
Mugu-shisaiさん、Akaniji さん、Ks aka 98さんから話が聞けたからこそ、(正しい理解じゃないかもしれないけど)こう考えられ、第一、勇気がでました。解決がつきそうにもないのでこの辺で終わりにします。皆さんありがとうございました。いい経験になりました。--Reishow 2009年9月25日 (金) 19:17 (UTC)[返信]
関連する議論へのリンクを置いておきます。Wikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組
--Akaniji 2009年9月25日 (金) 22:57 (UTC)[返信]