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Wikipedia:井戸端/subj/「公式な方針」をめぐる対話拒否について

「公式な方針」をめぐる対話拒否について

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繰り返されるかなりうんざりな議論についての問題提起と確認の要請です。

Wikipediaには「公式な方針」というのがあって、「それらは議論するまでもなく厳守されるべきもの」とされています。たとえばこんなふうに書かれています。

これら三つの方針は相互補完的、議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。

で、これをめぐって何かというとトラブルが起きているんですね。典型的な例としては、「何かの記述を抹消したい者が『検証可能性がない』ということを理由に掲げ、議論の余地がなく消して良いと主張する」というスタイルのものが挙げられます。これ、いいかげんめんどくさいので、これらの方針に記されている「議論の余地がない」「他のガイドラインによって覆されない」「利用者同士での合意によって覆されない」という文言の意味やこれら方針の取り扱い指針について確認をしておきたい。というのが、本稿の主旨です。最初からサブページ化しておきますので、後日同様のトラブルが繰り返されたときにこのページへのリンクを置いてループを避けるといった使い方を想定しています。

おれは、「これらの方針は、確かに重要なものであり、Wikipediaの自己規定でもあって、方針そのものは議論の余地がなくガイドラインや利用者の合意によって覆されて良いものではない」が、しかし「これらの方針を適用すべき局面であるかどうかについては慎重に審議する必要がある」と考えています。もうちょっとわかりやすく説明します。

明文化された規定がありそれが絶対視される世界として「法律」を例にして考えてみます。たとえば「人を殺してはいけない」という規定があると仮定しましょう。まあ、その規定は、少なくともその法律が効力を持つ範囲内では「議論の余地がないもの」であり「当事者の合意によって覆されたりしないもの」でもあります(ま、立法権を使って覆すことは、原理的には不可能ではありませんが)。じゃあ、議論の余地がなく議論によって覆る可能性もない規定があるからといって、そしたら裁判を開かずに機械的に処分を決められるのかというと、そんなことはない。「そのケースでは人を殺したことになるのか」をはじめとして争点はたくさんあり、個別具体的に検討をする必要があるわけです。

これらの「公式な方針」をめぐる議論についても、同じことが言える。何に対してこれらの公式な方針を適用するのか、適用するにふさわしい局面なのか、公式な方針の解釈に問題はないか、などなど検討すべきことは個別具体的にいろいろとあります。

方針そのものについては議論の余地がなく議論によって覆ることがないかもしれないが、だからといって議論をすることが無駄だということにはならない。少なくとも、誰かが「自らの解釈に基づいて『議論の余地なく○○すべき』と主張する」ことは不適切です。しばしば、この手の主張をするひとは、そこに「自分が解釈するという段階が介在していること」を見落としており、いわば「自己の絶対無謬性を信じている」とでもいうか、そういう状態だったりする。どちらかというと、「方針に明記されているからこうしろ」という主張は、それを出したが最後「対話拒否姿勢の表明」と断定してしまって良いようなものだとすら思うわけです。

というわけで、「方針を理由として『議論の余地なく○○すべき』とする主張は間違っている」「『議論の余地なく○○すべき』と主張した者は一般に方針を誤解している」というあたりが確認できればうれしいなあと思うんですが、いかがなもんでしょうか。では、ご意見をお聞かせ下さい。--Nekosuki600 2008年3月8日 (土) 09:32 (UTC)[返信]

同意します。「議論の余地がない」というのは、これに反する「公式な方針の改正・解釈」を禁じたものだと理解しています。日本国憲法の改正禁止事項のようなもので、利用者が自分の立場を守るために主張するのは不適当だと思います。 --Yhiroyuki 2008年3月8日 (土) 10:08 (UTC)[返信]
議論の余地がなくウィキペディアがウィキペディアであるためのアイデンティティーとしてその三大方針として確立しています。これらの方針を「じゃあ、コミュニティの合意が得られたから自分の意見を勝手に書いていいよ、出典はしめさなくていいよ、賛成派の意見ばっかり書いていいよ」というものではない、というのがその文章の意味で、その点に関して「議論の余地がない」のだと思っていますが・・・。一方、ここで問題とされてるのは「中立的な観点から外れてないか」「検証可能性が満たされてないか」「独自研究になっていないか」という判断で、それについては十分議論し考えて、個々のケースで判断するべきでしょう。結論としては「三大方針に反していれば、議論の余地はない」が、「三大方針に反しているかどうかは、十分議論すべき」ということだと思います(的外れな意見かもしれませんが、その時はまたご指摘ください)。--青子守歌会話/履歴 2008年3月8日 (土) 10:42 (UTC)[返信]
三大方針に反するとの合意が取れても対処法で議論の余地がありますから、「議論の余地なく○○すべき」の主張が有効な局面はなさそうですが、どうでしょうか。 --Yhiroyuki 2008年3月8日 (土) 12:59 (UTC)[返信]
インデント直しました。青子守唄さんのコメントはYhiroyukiさんへのコメントではなく独立した意思表示であると思量します。で、Yhiroyukiさんの再コメントですが、異議はありません。「議論する余地がないこと」をめぐって、しかし「議論する価値があること」っていろいろあって、事実認定もそうですし対処方法もそうです。おれも、「議論の余地なく○○すべき」の主張が有効な局面はないと思うんですよねえ。いろいろシミュレーションしてみたんだけど、やっぱ、ないよねえ・・・。--Nekosuki600 2008年3月8日 (土) 13:05 (UTC)[返信]
中立的な観点・検証可能性・独自研究は載せない が、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではない、に同意。
そのうえで、「何かの記述を抹消したい者が『検証可能性がない』ということを理由に掲げ、議論の余地がなく消して良いと主張」して振り回すのは勘弁してほしい、に完全に同意。議論してほしい。
「方針を理由として『議論の余地なく○○すべき』とする主張は間違っている」「『議論の余地なく○○すべき』と主張した者は一般に方針を誤解している」を確認します。Uryah 2008年3月9日 (日) 05:32 (UTC)[返信]
誤認したまま方針を振りかざすのは論外。方針を誤認しているかどうかについては、審議する必要がある。「『議論の余地なく○○すべき』と主張する」のは、まあいいのだけれど、それですんなりいかなければ、方針の趣旨および項目の特性や記述内容にに即して説明できなければ、誤認について警戒しないとしょうがないところではあると思う。「方針を理由として『議論の余地なく○○すべき』とする主張」は別に間違ってないけど、今の日本語版の状況からは戦略的に適切ではないかなあ。「これらの方針を適用すべき局面であるかどうかについては慎重に審議する必要がある」とは、あまり思わない。適用すべきではない状況は限定的ですし、方針に則って解決させてしまうほうが早いことも多いと思う。この種の議論、特に検証可能性については、しばしば実際に情報源を示していないという状況も少なくないし、ファンの間では常識とか、詳しくないのに口を出すなとか、そういう反論も出てきたりする。どっちかというと、検証可能性をきちんとクリアしていない状態のほうが深刻だと思う。きちんと出典つける習慣が定着すれば、方針振りかざして絡んでくることもできないし、方針の解釈がどうこうじゃなくて百科事典としてどう書くかとか、そういう話の議論になるわけで。--Ks aka 98 2008年3月9日 (日) 16:02 (UTC)[返信]
まあ、「議論の余地なく○○すべき」を一回言っただけでアウトにしちゃうのはちょっと過酷かもしれませんね。でもそこで説明を求められ、しかしそれに正面から答えず複数回繰り返したらアウト扱いでもいいのじゃないかと思ったりしますが。--Nekosuki600 2008年3月10日 (月) 11:32 (UTC)[返信]
「これらの方針を適用すべき局面であるかどうかについては慎重に審議する必要がある」と思う。たとえば、「直会」「社会史」「ランブルストリップス」に、「出典が付いていないから 即 削除」を主張する人が現れたとしたらどうだろうか。私は支持しない。
私なら、典拠が欲しいと素朴に思ったら{{出典の明記}}を、記述に疑問を感じたら{{要出典}}を貼っておく。それで読む人は、ああ、何が情報源になっているのか、いま明らかになっていない情報なんだな、あるいは、利用者の間で疑問を感じている人がいる記述なんだな、と理解することができる。
これから、今から、2008年3月10日 (月) 11:38 (UTC)以降から付け加えられる記述について、きちんと出典を付けておけば「方針振りかざして絡んでくることもできないし」には完全に同意。
いま英語版で行われていくような、cleanup や citing sources といったタグを貼って記事の向上を目指す・原則の姿に近づけていく動きを支持する。
でも、典拠が付いていないから即削除とか、24時間以内に典拠を付けろ、さもなくば削除、検証可能性を御旗に有無は一切言わせないと凄む、とかいった口上・やり方に、完全に反対(←ここのテーマはそこだと思っている。そういうやり方をする人は、記事・Wikipediaの向上を目指したいというより、その記述を世の中から消したい、人の目に触れるのが許せない、という希望と欲求でそうする場合が多いということがどうやら明らかになりつつある、というのがここのテーマだと思っている)。どちらかと言うのなら、{{出典の明記}}{{要出典}}を貼り付けて1年でも2年でも放っておけばいいじゃないか、といま私は思う(1年・2年という数字は、実際にはどうか、かもしれないけど)。Uryah 2008年3月10日 (月) 11:38 (UTC)[返信]
◆あ、どーも。
なんていうかな。「出典を明示してくれ」という要求は、それはそれでありだと思うんですよね。だけど、「出典を明示しないんだったら削除するぞゴルァっ!」というのは、それは違うんじゃないかと、おれも思います。出典をつけれっていうならつけることは可能だけど、全部の出典をつけるとなるとかなり面倒っていうか、可読性を損なうレベルになっちゃうこともある。また、ちょっと探せばすぐにわかる程度のことについてまで「出典を書かなければすぐ消すぞ」とか言われると、怒る前に脱力しちゃったりしますね。
この項目では、そういうレベルのしょもないばとるの再発防止を考えたい。
英語版ではじまっている試みは、参考にはなると思う。どうやって日本語版に導入するかというあたりはかなりたいへんで、近々に着手できることではないんだけどもね。ま、そのあたりはじっくりやっていきゃいいんじゃないだろうか。
付帯して、「なんらかのPOV」に基づいて、自分の意見や立脚点・立場に近い記述にするために、出典が詳細に記されてはいないことを理由として、情報を削除したりテキストを改変したりするひともいる。ああいうのは、ほんとかんべんしてほしい。--Nekosuki600 2008年3月11日 (火) 22:50 (UTC)[返信]
自己の意見や独自理論や何処かで聞いた情報や妄想の類をあたかも学説のように書く人も沢山いるので、その方法だとウィキペディアの百科事典としての価値がなくなります。--122.132.180.206 2008年3月16日 (日) 04:25 (UTC)[返信]
そういう編集をする人間は、たいてい中立的な観点を守れていなくて遅かれ早かれ消える運命なので、深刻に考える必要はないんじゃないかな。それに、根拠がないことを確認するのは意外と簡単です。主要研究者の学説を理解していなかったり、元ネタのコピペ・ブログがあったり、単純な事実を間違えていたり、参考文献と全く違うことをかいていたり、新研究であることを自白したり…… --Yhiroyuki 2008年3月16日 (日) 06:00 (UTC)[返信]
そういう人が消える運命にあるというのは、希望的観測に過ぎません。要出典は必要悪なのです。--125.192.197.112 2008年3月16日 (日) 07:47 (UTC)[返信]
ここでやっているのは「誰かが自分独自の判断で『ここには典拠が必要だ。典拠が記されていないから削除する』と主張することの是非」なので、話がほとんど無関係な方に逸走しているように思うわけだが。--Nekosuki600 2008年3月16日 (日) 08:06 (UTC)[返信]
「ちょっと探せばすぐにわかる」ならなんで最初からちょっと探して付けておかないのかなあ、そうすれば無駄な争いが起きることもないのに、と思います。実際に探してみたら泥沼にはまったと言うこともありますし。新河岸川の読みとか。
面倒なのは重々承知ですが、百科事典というものがそんな気軽に書けるはずはないのですから、何を調べて書いたのか明示する程度のことは面倒がらずに是非やっていただきたいものです。個人的には「ここには典拠が必要ない」と考えることこそ独自の判断になると思います。
可読性については一考の余地がありますが、WP:Vはすべての出典をインライン形式の脚注で付けることを求めているわけではありませんからやりようはあるでしょう。
言うまでもないですが本当は別の理由で消したいのに出典が付いてないから表向き「検証可能性がありません」と称して消したりするのは勘弁してもらいたいです。そういうことをする人がいるから「議論の余地なく○○」の適用は慎重に審議する必要がある、なんて話に発展するわけで。--emk 2008年3月16日 (日) 20:16 (UTC)[返信]
ところがそう簡単でもなくてね・・・。
たとえば何に書かれているかを参考文献として明示しておいても、特定の文に出典が明示されていないというのを理由として消してしまうひととかがおいでになるんですよ。で、そういうひとがわりと簡単に「問答無用のばっさり削除」「自分のWikipediaの決まりに関する理解は絶対的に正しいという主張」をやらかしたりするんです。
なお、本項目は、そういう場合に「議論をすべきである」ということを確認するためのもので、どこまで注釈をつけるかといったことは検証可能性のノートあたりでやるのが適切かと思います。--Nekosuki600 2008年3月19日 (水) 11:39 (UTC)[返信]
示された典拠を検証してみたところ、もし原典と文意が違って捉えられていたら、典拠を付けた人の能力(読解力)の問題として、まあ仕方ないか、と出典をはずし、以後気をつけてね、と受けとめることが出来ます。
敷衍すればそういう理解もあり得るよな、でもそのことそのものは原典には書かれていなかった場合には、これは典拠として採用出来ない、とはずし、でもまあ今度からちょっとだけ集中して情報を読んでね、と対処することが出来ます。
書いた人の記憶違いで、あれ?違ったかな?その本じゃなかったかな?ということになった場合には、じゃあ改めて典拠が見つかるまでノートに移しておきましょう、とか、{{要出典}}を貼っておきましょう、とか対処することが出来ます。
でも、もし、そもそも何も関連がない・記述がないものを「出典」としてでっち上げられていたら、どうしたらいいだろうか?Uryah 2008年3月18日 (火) 11:10 (UTC)[返信]
最後のケースですが、「同時に記載されたものであれば、記載まるごと削除」でいいと思うんですが、「あとから別人によって出典が追加された」ということならば悪戯の可能性が高いわけで、履歴を確かめてどうするかを決めないといけないでしょうね。
後者の場合「要出典レベル」に戻るだけで「内容に疑義」にいっちゃうわけではないので、記述まるごとばっさり削除というのは不適切な場合があることは否めないのではないでしょうか。--Nekosuki600 2008年3月19日 (水) 11:39 (UTC)[返信]
なるほどなるほど、{{要出典}}に戻して、広く皆さん本当の(?)典拠を付けてください状態に戻るのが妥当ということですね。Uryah 2008年3月19日 (水) 22:39 (UTC)[返信]