Wikipedia:井戸端/subj/「という何々もある」の多用
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「~もある」を多用している記事は
[編集]物凄く頭が悪そうに見えるのは自分だけでしょうか?例えば「という例もある」「という説もある」「という批判もある」とか
それらは修正していいんでしょうか?--Hokkahoka 2006年12月13日 (水) 12:16 (UTC)
- それぞれの語句の意味を保ったまま、どのように変更したいと思われているのでしょうか。単に「そう見える」という事でしたら、他の何かを加筆・修正するついでに直すのならいいかと思いますが、その部分だけを修正するというのはどうかと思います。 By 健ちゃん 2006年12月13日 (水) 13:02 (UTC)
- WikipediaにはWikipedia:言葉を濁さないというガイドラインがある訳ですが、それはWikipedia:五本の柱に優先される性質のものではなく、また主要5ガイドラインの内の一つWikipedia:ウィキケットによれば他の編集者の活動を論うことも問題です。しかるに「 物凄く頭が悪そうに見えるのは自分だけでしょうか? 」とすることも、考えもの。「言葉を濁さない」では「出所を明確化するか、削除するか」とされていますが、まず自分が「記述者よりも頭が良いと思っている」という部分がそもそも「イタい傾向」なんじゃないかと自重することも肝要かと思われ、故に「無闇に削って廻るよりも、よりブラッシュアップする方向で、自身の頭の良さをアピールする」方が宜しいかと存じます。削ることはボットにだって出来そうですから。--夜飛 2006年12月13日 (水) 13:43 (UTC)
- 出典を記してない時点でWikipedia:検証可能性に触れるんじゃ?ついでにあんた、何処にいっても殆ど個人攻撃とも取れる皮肉をぶちまけてるけど止めた方がいいと思いますよ。微妙な日本語で誤魔化してるけど。--かびお 2006年12月13日 (水) 17:46 (UTC)
- 皆が書いて皆が読むのがwikipediaである以上は、ある程度逃げを打つのも仕方のないことではないかと思います。むしろ、知恵と工夫をこらした結果としてそのような記述になっている、と考えてみてはどうでしょうか。はっきりと言い切ってしまうのは、場合によってはWikipedia:中立的な観点やWikipedia:独自の調査に当てはまる、とされる可能性もありますから。--Wikipediasherpa 2006年12月13日 (水) 18:12 (UTC)
- 出典を記してない時点でWikipedia:検証可能性に触れるんじゃ?ついでにあんた、何処にいっても殆ど個人攻撃とも取れる皮肉をぶちまけてるけど止めた方がいいと思いますよ。微妙な日本語で誤魔化してるけど。--かびお 2006年12月13日 (水) 17:46 (UTC)
文脈次第ではあり、どれも一概には言えませんが「という例もある」はそれ自体は必ずしもおかしくない例が思い浮かぶように感じます。「という説もある」「という批判もある」は、その内容がよほど自明のケースでなければ出典の指摘が必要になると思います。「物凄く頭が悪そうに見える」という理由で修正を行ったとすると、修正後の内容を第三者が見る目はシビアになると思います。ご自身の修正のハードルを自分で高く上げていることになるかと思うので適切な方法論ではないと私は思います。一般論で言えば、頭が悪そうでも、書いてある内容が妥当であれば修正しなければならない、わけではないと思います。--磯多申紋 2006年12月13日 (水) 18:40 (UTC)
- 単純に作文技法の話だけしますと、「~もある」という付記はその前段でふさわしくない狭い定義を行った上でそれを補正するものです。つまり初めから適切な範囲設定が為されていれば必要のないことで、読者は定義認識を続けて2度要求され、ストレスを感じます。定義者と補正者が同一とは限らないwikipediaで頻出する文体なのはある意味避けられませんが、補正者の文章力が最初の定義者と同等以上であれば、最初の定義自体を修正して定義を一度で済ますことができる事例も多々あるでしょう。この統合を第三者が行うこと自体は記事を改善する上で有用であり、奨励されると思います。但し。内容の正確は文体の流麗に優先するということには留意してください。
- また、この形の付記は後者が例外乃至少数例であることを示す場合がむしろ多く、その場合、下手に統合すると情報量が減ってしまいます。その場合は、先の定義文中にそれが多数であるが全てではないことを明示することで読者に定義文がまだ続くことを予感させれば、ストレスを与えず済むことがあります。LR 2006年12月14日 (木) 00:23 (UTC)
- 最初に大まかな概観を提示し、次に例外を付記するという手法は否定されるものではありません。最初から例外を意識した定義を形成することによって瑣末にとらわれた見通しの悪い説明となることが多くあります。--Extrahitz 2006年12月14日 (木) 06:50 (UTC)
中立性のためには、両論併記の必要がある場合もあるでしょう。そういう場合は、やむを得ないのではないでしょうか。Aという団体からBという団体が分立した場合、Aの言い分とBの言い分とをみないと、真相がわからないこともあるのかと思います。 --ねこぱんだ 2006年12月14日 (木) 06:41 (UTC)
「論争における様々な立場を公正に説明すること」が中立のwikipediaで一方の意見のみを数文字に省略してる時点で中立性を失っている気がしますが。--218.110.176.18 2006年12月14日 (木) 11:48 (UTC)
そもそも何を指して「頭が悪そうに見える」のかはっきりさせてもらった方が議論になると思うのですが。
- 複数の説を並立させること
- 主文の説に比べて付け加えられた説の分量が少ない、あるいは内容が軽いこと
- 単に「もある」という語句、文体
とりあえずこれくらいが思いつきましたが、他にもあるかもしれません。
Wikipedia:中立的な観点からすれば、1.はむしろ望ましいことです。複数の説について公正に扱うことは求められていますが、そのどれをも同分量で記述することは求められていません。その一方、分量によって特定の説が真実であると暗示することもいけません。2.または3.の場合であれば、それぞれの説を節に分け、論拠および他の説の支持者からの反論を記述するように修正するとよいと思います。もちろん出典を明記することが必要です。
具体的な記事およびそれをどう修正したいのか、Hokkahokaさんに示してもらえるとより話が早いと思います。--Hamo73 2006年12月15日 (金) 15:43 (UTC)
同分量で記述しろとは言ってませんが「批判もある」とか「ある」という事実だけ紹介しても、読み手からしたら「だから何?」としか思えないでしょう。--218.110.176.18 2006年12月17日 (日) 17:11 (UTC)
- 単に「批判もある」という記述だけでは有用な情報になり得ないでしょう。Wikipedia:言葉を濁さないでは、誰某という著名人が何と言った、という記述が望ましいとされています。--Extrahitz 2006年12月18日 (月) 03:08 (UTC)
- ふと思うんだが、之なんかは出所の怪しい意見なんか全部取っ払うと凄いことになりそうね…編集合戦とか罵り合いとか荒らし書き込みとか。そういう意味で、外し難い「曖昧な物言い」はあると思う。--夜飛 2006年12月22日 (金) 13:45 (UTC)
- 編集者の感想や誰が言ってるのかわからんような情報は調べものの際には糞の役にも立ちませんからね。--Wrath 2006年12月28日 (木) 09:23 (UTC)
Wikipedia:言葉を濁さない#改善を求める場合で当人に改善を促す--113.40.58.218 2019年11月21日 (木) 23:00 (UTC)