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Wikipedia:コメント依頼/柒月例祭とQuark Logo

記事のスタイルをめぐって対立になってしまいました。私の意見は1つも聞き入れられません。第三者の仲裁を求めます。

論点

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  • 主筆者がハーバード方式を選択しないという場合で、第三者が「ハーバード方式」を強制し、主筆者がそれを拒むのは「主筆者による記事の私物化」であり、「妨害的編集[1]」とまで非難を受ける行為なのでしょうか。
  • 特定の記事おける、節構成、画像のレイアウトやサイズについて
  • 相手方が正しく、私の行動はマナー違反なのか

ただし遠因があります。主なものだけ書きます。

  • 関連文書

なお、私(柒月例祭)とQuark Logoさんのあいだには、上で示したように過去にスタイルをめぐる意見の相違が起きています。従いまして、私が提示する過去事例が、私に有利なように公正さを欠いているのではないか、という疑念もあろうかと思います。そのあたりは割引いて下さって結構です。Quark Logoさんは思う通りの主張をなさる権利がありますし、ご自身が正当だと考える根拠を示すこともできます。最終的に第三者がどう判断なさるかです。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 18:50 (UTC)[返信]

過去事例

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ノート:関の五本マツ(2015年12月)
「関の五本マツ」の即時改名の一件
  • 第三者のコメント - 「即時改名が認められるほど「明らか」という判断が下せるものではないと思います。Quark Logoさんにおかれましては、今後は気をつけるようお願いします。[4]」(利用者:Ks aka 98さん)
  • Quark Logoさんのコメント - 「即時改名ではなく改名提案をすべきだったことはその通りなんですが、改名論議は別にして、日本人としてこの名称への違和感は依然ぬぐえないです。そう思っている人は私だけでは無いでしょう。」「意見は対立したまま提案は流れるということでしょう。[5]
  • 第三者のコメント - 「それならば、「意見が対立したまま」ではなく、誤認であった、ということになるでしょう。[6]」(利用者:Ks aka 98さん)
参考文献節の位置の件(2015年12月)
  • 私が「脚注」節のなかに「参考文献」節を含めているものを、Quark Logoさんが異議を申し立て、Wikipedia:スタイルマニュアル (レイアウト)を根拠に、私のスタイルを否定して始まったものです。
  • 第三者のコメント - 「基本的には記述と情報源を対照させて、検証に十分な書誌情報が書かれていることが重要で、常識からかけ離れたものでなければ、名称や順序は大きな問題ではありません。「どっちでも大差ない」ですし、ですから、スタイルマニュアルでは例示にとどめ、特定の書式に統一することは避けられています。[7]」(利用者:Ks aka 98さん)
  • 第三者のコメント - 「要するにQuark Logo様の感覚はあなたの感覚にすぎなくて、さほどの普遍性はありません。記事の書き方はそんなに縛られること無いと思いますよ。そんなつまらないことにこだわるのは百科事典を作るという目的から視るとあまりに些事です。[8]」(利用者:Keisotyoさん)
  • 第三者のコメント - 「「付録節の名称や順番、テンプレートの位置は一例です」というところを含めて、基本的に従うガイドラインですよ。つまり、多くの利用者が基本的に同意しており、従うことが推奨されているのは、書かれている順序は例示に過ぎないものとして同意され、従うことが推奨されているのです。[9]」(利用者:Ks aka 98さん)
Wikipedia:コメント依頼/宇井木辺出夫Wikipedia:コメント依頼/Quark Logo(2016年12月)

論点2

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本件の被依頼者は二人と設定されているので、衝突の原因である利用者:㭍月例祭会話 / 投稿記録 / 記録氏の問題のある編集姿勢についても、論点となるでしょう。

㭍月例祭氏の問題行動は、記事の私有化です。Wikipedia:記事の所有権に「何人も―どんなに熟練していて、コミュニティ内でどんなに高い地位にあろうと―ある記事を所有しているかのように振る舞う権利はありません」と明記されています。

このガイドラインを㭍月例祭氏は納得されていません。下記の㭍月例祭氏の主張の大半は記事の所有権の主張に他なりません。それはガイドラインで否定されていることなので、㭍月例祭氏の主張は他の利用者の従えるものではないのです。

㭍月例祭氏は、まず95ヶ条の論題の記事を問答無用でリパートされました。その際のコメントでは「取り消します。スタイルの変更については執筆者である私にとって加筆しにくくなるため。画像の変更は不要のため。節スタブはノートで。」と書いてます。ノートに投稿されたのは20分以上後で、これはまさに、㭍月例祭氏が事前の合意形成もなくリバートしたということです。

そして㭍月例祭氏がこういう行動をとった理由が「執筆者である私にとって加筆しにくくなるため」だそうです。前述のように、記事の私有化は禁止されているので理由は成立せず、これは不当な差し戻しにあたります。

ノート:95ヶ条の論題でも、㭍月例祭氏は、「主筆者である私の方式と違うものにされると困ります。どちらでもいいものは、執筆者のスタイルを尊重してください。」という記事の所有権を宣言しておられました。しかしこれに従うと逆に私がガイドラインを違反したことになり、特定の記事で執筆者が権威を持つという主張を受け入れることは、利用者としてできません。㭍月例祭氏の要求はガイドラインに100%違反するものであり、他の利用者が承服できるものではないのです。

㭍月例祭氏によると「私には「この記事の執筆者」としていくらか自負はあります。しかし私の意見は1つも聞いてもらえ」なかったことから、このコメント依頼をしたそうですが、私はちゃんと対話していたにもかかわらず十分に議論することなく、㭍月例祭は一方的に途中で対話を中断していますし、㭍月例祭氏の執筆者の自負とやらが記事の私有化である(つまり利用者が従うべきガイドラインに違反するものである)という指摘には耳を貸してません。

㭍月例祭氏が言うように、編集に対して執筆者の許可が必要になると、特定の記事に偽の権威者を容認することになります。本来、ウィキペディアとは誰でも自由に参加できることを方針として設定しており、特定の記事に限って誰かの許可がなければ編集を許されないというようなことはローカルルールでも許されていません。㭍月例祭氏の要求は、執筆者は尊重されて当然というものであり、記事の編集内容の合意形成以前に前提となる考え方が間違っています。そして合意形成の努力を軽視しており、リバートで記事の所有権を主張し、コメント依頼で過去の件も掘り返すなどといった㭍月例祭氏の行為の方が腕ずくで解決しようとしているとしか思えません。皆さんは、どう考えるでしょうか? --Quark Logo会話2017年1月23日 (月) 23:19 (UTC)[返信]

参考リンク

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Quark Logoさんの主張

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最初に言っておきますが、㭍月例祭氏過去の件についても蒸し返したので、話は多岐にわたり、必然的に、トンデモなく非常に長い文章にせざるえないだろうということは、ご了承ください。読むのも大変だと思います。㭍月例祭氏話題や論点を多数もうけた以上は、答えないといけないので、私の方ではどうすることもできません。㭍月例祭氏がガイドラインに違反しているのに、長々と反論を書かされるというのもとても納得しがたいところですが、説明責任の都合上、仕方がありません。長文を投稿するのはそもそも本意ではないということは、言わせてもらいます。

論点についての反論

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柒月例祭氏が上げた#論点には事実と異なる内容もありますので、まずそれを指摘します。

  • 1. ウィキペディアでは、記事について「主筆者」なる地位を設定していません。これは記事の私有化を是認する柒月例祭氏の誤った考え方に基づくものであり、問題の本質でもあります。記事は発展してさらに加筆されるものであり、現在版の多くを執筆したということだけで将来に渡ってその記事に何らかの権利を有するなどと言うことは、規定されていませんし、それどころか、むしろ記事の私有化は明白に禁止されています。
    • 1-2. そして当然の如く、「主筆者」と「第三者」という位置づけは極めて不適切であり、そもそも容認されるものではありません。柒月例祭氏が他の利用者を「第三者」と呼ぶのは極めて排他的であると言わざる得ません。共同作業においては基本的には全員が当事者であるか、その権利を有しています。ウィキペディアでは編集権は参加者であるウィキペディアン全員にあり、参加者の中に「第三者」なる部外者のような一段劣るような存在は(少なくとも編集に関しては)いません。結局、柒月例祭氏はコミニュティが承認していない独自の権利の主張をされているというだけです。それこそがガイドラインに違反しています。
  • 1-3. 「第三者が「ハーバード方式」を強制し」たような事実は存在しません。これはおかしな話です。誰も強制されていないのに、強制されたと主張するのはどういうことでしょうか? 他の利用者による編集を「強制」と受け取るというのは、記事の私有化の極地であるかのように思われますし、私はただの一度も柒月例祭氏に個別参照法や短縮脚注参照法を貴方も使うようになどと言ったことはありません。柒月例祭氏が勝手に誤解したもので、極めて、理解に苦しみます。
    • 1-3-1. 柒月例祭氏は「執筆者である私にとって加筆しにくくなる」と書いてますが、これがどうしてなのか説明されていません。柒月例祭氏側の編集は出典リンクを伴わないものなので、柒月例祭氏が従来通りに記述して、個別参照法や短縮脚注参照法とそれ以外が混在しても、全く影響ありません。このことは「ノート:95ヶ条の論題#差し戻しは不当です」でも説明しましたが、理解されていないようです。
      そもそも柒月例祭氏は「出典形式は自由です。」と言いながら、他人の編集を「自分の好みで置き換える」行為であると決めつけて排除しようとするというのは、理屈がおかしいです。大前提として、柒月例祭氏以外の利用者は、記事の所有権を肯定しませんから、誰かの編集を所有権の行使の結果という解釈をするのはおかしいのです。柒月例祭氏の理屈だと、柒月例祭氏が編集した後はその方針とは違う編集は一切許されないことになりますし、イチイチ柒月例祭氏と相談しなくてはいけないという主張です。しかしそういうルールはありません。これが記事の一部を削除するとか、内容を大幅に改変して趣旨を丸ごと変えるというのなら、また話も違うでしょうし、事前の合意形成もケースバイケースで必要になるでしょうが、ハーバード方式の採用は実質的に何の問題も影響もないのです。短縮脚注参照法方式によって、一般の読者の利便性は向上して、出典を辿り易くなります。「ノート:95ヶ条の論題#差し戻しは不当です」でも言ったように、ハーバード式の著者名・年数という形式が嫌いなら、書名・年数のパターンでも、どんな形式でも対応は可能です。私の編集はより一般的な形式にしただけで、そこの変更は(当然のごとく)自由である旨は伝えたわけで、それを「強制」というのは、極めて不可解であると言わざる得ません。出典リンクを付けるのがそんなに嫌なのでしょうか。仮に嫌いだとしても、私はそうやって記述しろといってるわけでなく、何も要求しておらず、ただ私の側の要求は不当な差し戻しをするなという当然のことを言っているだけなのです。強制という捏造は過剰反応と出典リンクに対する無理解の甚だしいものだと言わざる得ません。
    • 1-3-2. ついでに言っておきますが、短縮脚注参照方式は使いにくいものではありません。慣れれば大したことはありませんし、むしろ記述を定型化できるので便利です。柒月例祭氏のように書名を連呼する形式は、見栄えもよくないし、無駄に文字数を使います。せっかく、書誌情報を参考文献に書くならば、出典とリンクさせるべきです。前述(1-3.)のように、これを他の編集者にヤレとはいいませんが、短縮脚注参照方式に修正されたものを敢えてリバートするというのは、本来の目的に反する行為と言わざる得ません。
    • 1-3-3. 「ノート:95ヶ条の論題#差し戻しは不当です」で、「動かないようにわざわざするのであればそれは妨害的編集といえるのではないでしょうか。意図が問われます。」と、私はその意図によっては妨害的編集になりえるといったのであって、その意図を問うたわけです。柒月例祭氏が妨害的編集をしたかどうかは回答次第で判断することでしたが、回答はなく、柒月例祭氏は一方的に対話を打ち切った(さらにウィキブレイクに入ったようです)のです。これはむしろ、柒月例祭氏の説明責任が問われる問題です。
  • 2. 柒月例祭氏が問答無用でリバートした行為は、#論点2で明示したように、その理由がガイドラインに違反する不当なものであることが本人の発言により明らかになりましたので、不当な差し戻しです。マナー違反というか、(実際にこれで投稿ブロックされることはないにしても)規定上はブロック相当にもなる違反でしょう。
  • 3. 私としては過去の蒸し返しは本意ではありませんし、過去の対立が原因で今回のことが起こったというのは柒月例祭氏の勝手な思い込みに過ぎません。要するに「主筆者」を尊重すべきという独自の主張を柒月例祭氏がしているから、自分の記事を侵害されたと思うのでしょうが、ウィキペディアは誰にでも開かれていて、利用者は基本的にどの記事の編集を行っても良いのです。制限するようなことはないのです。95ヶ条の論題という記事は柒月例祭氏個人の所有物ではないので、この記事を編集したことを氏への攻撃のように受け取るのは、甚だしい誤解であり、指摘はお門違いであるとすらいえます。記事の所有権はないという前提を承知していないからこその誤解でしょう。
また、「過去にスタイルをめぐる意見の相違」とありますが、過去においても、柒月例祭氏は自身が今回述べたような自分が編集した記事には自分に所有権があるという主張を根底に持っていたと考えることができます。今回、初めて柒月例祭氏は心に秘めていた本心を極めてはっきりと明言されたということなのでしょう。しかしその考え自体がガイドラインに違反してます。問題の本質が明らかになりました。

過去事例について

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  • 4. 関の五本マツの改名議論というのは、五本松五本マツかということで明らかに本件とは関係ありませんので除外しますが、関連して井戸端に提起されたWikipedia:井戸端/subj/改名提案なしの記事移動についてでの柒月例祭氏の発言が、本件と関係あります。前井戸端とWikipedia:井戸端/subj/脚注節のサブセクションに参考文献を落とすレイアウトについては、同時に議論されており、柒月例祭氏が(関係の無い)前者の中で記事スタイルについて話し出したために私もその場で返答しました。
    結果、柒月例祭氏は、「節のレベルについては私としては「そんな大きな問題ではない」「大差ない」「どっちでもいい」と考えており、どっちでもいいならこれを機に、Quark Logoさんがおっしゃるように「参考文献」は節として独立させるようにします」と明言して合意が成立したようでしたが、この発言を反故にされたようです。今年になって投稿された95ヶ条の論題レオ10世による贖宥状ヨハネウム学院ゲレールテンシューレ第一次カッペル戦争ブラウンシュヴァイク工科大学リシャート・フォン・グライフェンクラウ、またさらに古い鳥取しゃんしゃん祭などなど、多数で脚注節のサブセクションに参考文献を落とすレイアウトで行われていたという実態があります。
    合意されたのは嘘だったということでしょうか? 自分の発言に責任は持たないのは不誠実であると思いますし、そもそも「そんな大きな問題ではない」と思っていないから独自のレイアウトにこだわりがあるのではないかと、端からは見えます。柒月例祭氏の独自色の強いレイアウトについては後述します。
  • 5. 宇井木辺出夫氏の編集についてのコメント依頼は「直接的にはノート:徳川義親で始まったもの」ではありません。勝手な解釈で言わないでください。宇井木辺出夫氏は方々で投稿ブロックを可決されるに相当の編集姿勢を示しており、多数の利用者に迷惑をかけていました。
    宇井木辺出夫氏が徳川義親で主張していてのは、主としては出典と脚注を分けることへの反対であり、宇井木辺出夫氏自身は短縮脚注参照法の主張者であって、柒月例祭氏が今反対している出典形式の推進側です。むしろ宇井木辺出夫氏は、テンプレートの記述の内部まで細かく指定しようと強制しようとしていた人であり、ノート:徳川義親で、このタグを使うようにとか、このタグは嫌だから使うなとか、この方式で書けとか様々な細かい指示をしていた人であるので、その場の議論に柒月例祭氏も加わっていながら、宇井木辺出夫氏が細かい(不当な)要求をする人であったというのを指摘しないのは不適切でしょう。概要節などについてもそうですが、徳川義親での宇井木辺出夫氏の主張こそが強制のような言いぐさです(もちろん誰にも強制する権限はないので強制はどこにも存在しない)。1-3.で言ったように私は何も要求していないのに、柒月例祭氏は「強制」との暴言を発してますが、その基準でいうと、宇井木辺出夫氏の言動は何にあたるのでしょうか? 行動で判断するのではなく、発言相手によって話す内容の基準が異なるとは、極めて都合の良い不誠実な解釈であると言わざる得ません。宇井木辺出夫氏と柒月例祭氏の共通点は、記事の所有権を是認する傾向にあることであるといえます。しかしその考えは宇井木辺出夫氏と同様にガイドラインには違反しているのです。この際、間違いは正すべきであると思います。--Quark Logo会話2017年1月24日 (火) 04:26 (UTC)[返信]

柒月例祭氏の主張への反論

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  • 6. Wikipedia:編集方針にあるように「多様な参加姿勢」はウィキペディアで受け入れられています。

多様な参加姿勢が受け入れられます

一人一人の利用者は異なる参加姿勢を持っています。気軽な気持ちで参加して、新しい記事を書くことに主眼を置く人もいますし、既存のスタブ記事やその他の記事を改善したり、内容を拡充することを好む人もいます。雑草とり、リンク付け、ページ名の変更が好きな人もいます。ウィキペディアは、これらすべてを受け入れています。

どの程度大胆に編集するかという点についても、姿勢に違いがあります。多くの人がページの編集は大胆に行うべきと考えています。記事の内容を何か変更する前には必ず前の著者に相談する必要があると考えている人はいませんし、そんなことをしていたら、執筆や推敲は遅々として進まないでしょう。それどころか、遠回しな言い方はすべきではなく、何か問題を見つけたらどのように編集するか話し合うよりも、単に直接ページを編集するほうがよいと考えている人もいます

中間の考え方として、議論は議論として尊重するが、同時に、微修正は早めに行うというものもあります。この観点は、抜本的な編集をするべきか否かは時と場合によるというものであり、十分に合理的だと思われます。繰り返しになりますが、ウィキペディアではこれらの姿勢すべてを受け入れています。

ただ、上記のように、どこにも多様なスタイルが認められるとまでは書いてありません。他のガイドラインにも、柒月例祭氏のいうようなことは書いてないのです。むしろ逆のことがガイドラインよりも上位である方針の多様性の部分に書かれているわけです。前の著者である柒月例祭氏に変更を相談する義務はないことは明らかです。柒月例祭氏の主張(8.を参照)は、上記で明記されている多様な参加姿勢の排除を意味しており、ウィキペディアの方針に直接反していますから、方針が変更されない限り、その要望を受け入れることは誰にもできないはずです。もちろんですが、方針もガイドラインも私が決めたわけではないのです。利用者は誰もが従わなければならないものです。柒月例祭氏が耳の痛い指摘や批判をパーソナルなものとして受け取られることは非常に迷惑です。全員が守るべきものがあることを私は言ってるだけであり、柒月例祭氏の主張(8.を参照)はそれに本質的に反していることを自覚してもらいたいです。
そして外形的な編集という点では、スタイルマニュアルには、第一にそれを推奨する理由が書いてあります。

スタイルマニュアルでは、ウィキペディアにおいて記事を書く際の文章スタイルについて解説します。

ウィキペディアの記事では、文章のスタイルよりも、記事の内容の方が大事であり、執筆者は当マニュアルで規定するスタイルに絶対に従わなければならないわけではありません。しかし、記事の読みやすさや編集のしやすさを保つために、一貫したスタイルに沿って執筆することが推奨されています

このように外形的なスタイルの多様性を積極的に容認するような条項はガイドラインには存在しません。せいぜいスタイルマニュアルは推奨であり絶対ではないという程度で、義務的で無いというだけです。しかし草むしりの際にはスタイルマニュアル・ガイドラインに沿った編集に修正されることは当然のことであって、通常の編集として一般的かつ多数の利用者によって行われている編集行為です。柒月例祭氏が認められていると主張するのならば根拠を示すべきでしょうし、多様性とは言うものの実際には、前述(1. 1-2. 3.)のように記事の所有権を主張しているということならば論外です。
  • 7. 柒月例祭氏のいう「多様性が認められている範囲」という表現が曖昧ですが、ノート:95ヶ条の論題での発言と併せて判断すると、要するに特に制限が設けられていない部分ということらしいです。しかし制限のない部分は次なる編集の制限もありませんというだけことです。柒月例祭氏が保持しようする独自性が尊重されるべきものかであるか、賛同しかねます。柒月例祭氏は外見的に特異な記事を作られており、対話すると個、出典方式や、枠の件や、参考文献節についてといった個別の案件では、大したことではないとかどちらでもいいというようなことをおっしゃっており、多様性というよりも記事の私有化、自分流のスタイルの保持の要求のように聞こえてなりません。しかし画像とかに制限はなくても、記事の私有化には制限があるので、柒月例祭氏の主張には矛盾があります
  • 7-1. 事前の提案や合意形成については、画像の配置を換えるといったことは、通常、大きな編集とは考えられていません。事前合意などは、主にある程度の内容の分量の削除などで用いるのが普通です。禁止されているのは、出典付き記述の合意無き削除だけであり、6.で示したように、すべての編集について前編集者に相談する必要も義務もないのです。
そして柒月例祭氏のいうスタイルとはそもそも何なのか? それぞれの記事に固有のスタイルがあるという考えは、柒月例祭氏の独自のものであり、他の利用者と共有されているわけではありません。柒月例祭氏のいう「スタイル」とは、「執筆者の癖」や「執筆者の好み」のようなものをさしているようですが、それを赤の他人が明確に理解するのは不可能です。そういった「スタイル」が重要なものであるという認識も、ガイドラインにも何も無いので、ウィキペディア利用者間で共有されているものでありません。他人には何か良くわからない2つの私論のようなものを振りかざされても困ります。何がスタイルで何がスタイルではないのかなどは本人以外にはわかりませんから、結局、そういった権利を一度認めてしまえば、特定の人物が書いた記事は他人は何も変えるなということを主張を認めることに成り、道理に合いません。
  • 8. 前述(1. 1-2. 3. 6.)のように柒月例祭氏の「やり方を尊重してほしい」という要求は、方針・ガイドラインに共に反しています。柒月例祭氏や私以外にも多数の利用者が参加することを前提にして考えなければなりません。誰か別の人が別の”スタイル”(前述の意味)を持ち込むたびに、柒月例祭氏の「やり方を尊重してほしい」とコメント依頼を出すのでしょうか。基本的に、リバートするのではなく、ノートの議論で内容についての個別に合意形成を図るべきであり、柒月例祭氏が「執筆者である私」は「尊重」されるべきと権利を主張するのはおかしいです。どう変更するかどう変更しないかという内容以前に、尊重しろという要求が不当なものだからです。利用者は対等であり、どの記事においても優先権のようなものは存在しません。方針にダイレクトに反するような言い方で主張をしても、私だけでなく、皆が反対せざるえないでしょう。柒月例祭氏の言い分が通れることはないと思いますが、柒月例祭氏の言い分だと執筆者に特権を与えるという新ルールになります。私も執筆記事は多いので新ルールができるならば恩恵を得られるわけですが、そういことではないわけで、そんなこともできないわけであり、私と柒月例祭氏の手打ちで済むことではないです。本質の理解を欠くことがないようにしなければなりません。個別の問題以前に、原則が間違っていますから、原則論として否定せざるえません。
  • 9. 礼儀といいますが、「他利用者にまで自分のやりやすいと思うスタイルを排他的に強制する」とは見過ごすことができない暴言ですね。1-3.でも言いましたが、柒月例祭氏は、強制、強制と度々暴言を放ってますが、誰が、いつ、何を、強制しましたか? しっかりと具体的に説明してください。柒月例祭氏が何をさせられたというのでしょうか? 柒月例祭氏がしたことと言えば、リバートをしただけですよね、それも不当な差し戻しを!! それは柒月例祭氏が自主的に違反行為をしただけで、「ノート:95ヶ条の論題#差し戻しは不当です」の追記を見ても、柒月例祭氏は私の編集内容をリバートした後に確認したようなことを言っています。そんな失礼なことがあるでしょうか? まずリバートして考えるというような編集姿勢こそが最も失礼な部類でしょう。慣れた利用者なら差分で確認すれば、編集内容は簡単に把握できるはずです。

(柒月例祭氏の主張)過去事例への反論

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  • 10. 上記の4. 5.を参照。柒月例祭氏は合意を得られなかったという間違った事実をいってますが、4.で示したように明確に合意を得ています。柒月例祭氏は自分の発言を忘れたのか、無視しているのか。いずれにしても合意形成を軽視する態度ではないでしょうか。これほど明確に発言していることを無効にするというのはおかしいと思います。他の利用者ではなく、柒月例祭氏自身の発言です。反故にするとはどういうことでしょう。
  • 11. 「直接対立」とか「同根」といった考え方はいかがなものでしょうか? 対立構造をもとにした思考は必ずしも建設的では無いと思います。柒月例祭氏は通常「第三者」とする節を「関係者」として区別しようとするなどの提案がありましたが、こだわりすぎでしょう。基本的には立場によって意見を変えるのではなく、まず、第一にはどういう行動を実際にしたかということであり、第二には何を主張したかで、判断すべきことです。柒月例祭氏はまず内容の把握する前にノートで議論する前に最初にリバートしているし、記事の所有権の主張とうけとれる発言を繰り返し表明されており、何も強制されてないのに強制だと暴言を繰り返しています。これらは編集内容の討議に入る以前の段階で、柒月例祭氏の行動と主張には問題があったことを示しています。柒月例祭氏の主張が誤りであることを説明するに要した労力は大変なもので、それがここまで前段の段階であるのにこれまでの長文になった理由です。ようやく本題に近づきました。

(柒月例祭氏の主張)出典形式・節構成のスタイルへの反論

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  • 12. 独断といいますが、出典形式を相談して決めるという慣習もガイドラインもありません。そして柒月例祭氏自身も「いえ、出典形式は自由です。Wikipedia:出典を明記するには様々な表記スタイルが認められています。」と明言しており、では何がダメなのかというと、出典形式についても「やり方を尊重してほしい」ということらしいです。こういう主張に行き着くということは#論点2や8.で示した記事の所有権の主張と同じ事であり、ここで話は終わってしまいます。柒月例祭氏が合意形成をするのではなく権利の主張をすることは容認しがたいものです。編集内容についての合意形成は可能ですが、利用者の権利のような主張を認めるような権限が私にはありませんから、そもそもそれを私に言っても無駄です。柒月例祭氏はまさにウィキペディアの方針と戦われています。
    • 12-1. 1-3-1. 1-3-2で示したように、個別参照法も短縮脚注参照方式も他の表記法の弊害になるものではありません。逆に言えば、他の表記法も個別参照法も短縮脚注参照方式の弊害になりません。混在しているページは沢山あります。柒月例祭氏が出典形式は「どちらでもいいもの」と理解しているなら、短縮脚注参照方式に変えられたことで怒る理由が不可解です。怒る理由は柒月例祭氏が専有しているつもりだった記事が他の利用者に侵害されたと思ったからとしか判断できません。もし、そうではない、他の理由があるならば、是非、柒月例祭氏は説明されるように強く要望します。私有化の疑いのあるもの以外で、そういった説明はいっこうに聞いていません。納得できる説明は伺っておりません。
    • 12-2. 私はかつて柒月例祭氏からこう指摘をうけました。
ただ、Quark LogoさんはH:EXPLNOTEを持ちだして「ガイドラインに完全に合致するので…避けられません。」とおっしゃっていますけれど、これはヘルプページであって、ガイドラインとは違います。(ガイドラインは「推奨」であって、「義務」の方針文書とは違いますが、それはそれとして。)ヘルプページは技術的な解説を述べているのであって、「こうしないと駄目だよ」という趣旨とは違います(Wikipedia:ヘルプ)。でもやっぱり私も注釈と出典は分けたほうがいいと思いますけどね。 — 柒月例祭氏発言
Wikipedia:出典テンプレートも同じく手引き書ですね。全く同じ言葉を返します。そして事前の合意を義務づけられていないのは明らかです。さらに実際の行動としては柒月例祭氏は話し合いの場を設けるでなく真っ先にリバートしました。それがどうなんだというのがまずあります。そもそもさっきから1-3-1. 1-3-2 12-1. で指摘しているように、「執筆者である私にとって加筆しにくくなるため」というのは間違いであり、実際には何の問題なく加筆できるため理由になりません。出典テンプレートを拒否する理由を何も伺っていません。
  • 13. 「多様性」と大仰におっしゃいますが、
    出典テンプレートを用いないという柒月例祭氏の表記は、『ドイツ民主共和国1』p284-296「宗教改革と農民戦争―ドイツ初期市民革命」で、
    出典テンプレートを用いた私の版がベーレント 1983, pp. 284-296, 「宗教改革と農民戦争―ドイツ初期市民革命」です。
    この差をもって多様性が侵害されたといえるのでしょうか? 勘弁してください。
    1-3-1.やノート:95ヶ条の論題[12]でもすでに指摘しましたが、年数を出さないことも、著者名を書籍名に変えることも、出典テンプレートを用いた上でも可能です。基本的に何でもできます。ただし、柒月例祭氏からは書籍名を出典表記に残したいなどといった具体的な要望は受けていません。具体的な話がなくては合意形成ができるはずもありません。これははぐらかしか対話拒否に近いものです。
    • 13-1. 1-3. 9.でも言ったように、柒月例祭氏は何も強制されていません。1-3-1. 1-3-2.で説明したように、ハーバード式を使うと編集しにくくなるという事実は存在しませんし、柒月例祭氏が使いたくなかったら使わなければ良いだけです。何の弊害もありません。柒月例祭氏の言うことは事実無根であり、理解に苦しみます。出典テンプレートは難しいという固定概念でもお持ちなのかもしれませんが、それは偏見ですし、使わないなら記述する上で何の関係もありません。だいたい今までもそうやって記述をしていたはずです。「しにくくなる」と言っていることの意味が分かりません。柒月例祭氏の言説は同じ事の繰り返しのような感じですが、他の利用者が合理的に納得できる説明を要求します。
  • 14. 内容節について、柒月例祭氏が自らの行動を感情論というのならその部分は全く正当化できないものです。95ヶ条の論題の記事に内容ついての節がないのは事実であり、柒月例祭氏は「「内容」は重要性が低いと考えました」とのことですが、概要も全く言及しないのは奇妙です。同記事は背景説明と影響に9割以上を割いており、95条そのものについても簡単にであっても説明するぐらいはあってしかるべきです。大した内容でないかも、紹介しないと伝わらないことです。柒月例祭氏も下の方にかくとかなんとかいっていました。
    • 14-1.「はねつけた」という事実は存在しません。柒月例祭氏不当な差し戻しをしたのが原因であり、柒月例祭氏の不当な差し戻しを戻しただけです。むしろ柒月例祭氏が個別の確認もすることなく議論もなくリバートしてはねつけたのであり、自己の行動を認識してください。ノートでの議論を一方的に打ち切ったのも柒月例祭氏です。勝手に悪いように解釈しないでください。非常に迷惑です。
  • 15. 参考文献節については、4.ですでに述べましたが、柒月例祭氏が前言を翻して合意を破棄したのはなぜでしょうか? 
  • 16. 関連図書節については、2つの書籍は実際にどこにも参照されていませんでした。参照があるならば、出典の表記を付けることで、問題なく参考文献節に戻せます。柒月例祭氏は参考文献として用いていたのかもしれませんが、それを読者や他の編集者にもわかる形で残さないといけません。出典の明記は加筆する側にあり、この場合は柒月例祭氏側の義務となります。これはウィキディアでは基本事項であり、知らないはずはありません。参考文献節に参照が無い書籍を残すと、後進の編集者を戸惑わせることになります。多くの場合、参照方法のテンプレートが付記されたりしますが、こういうことは本来望ましくありません。柒月例祭氏の考えていたことなどは、他人には理解できないのであって、別の書籍を勉強するためにこの書籍を利用したなんてことを後で言われても、困ります。何も書き残されてないことは誰にも伝わるはずがありません。それを私はどうやって知るのでしょうか? 無茶苦茶を言われても困るのです。申し訳ないですが、大人の世界で通用しないような理屈です。普通に参照した箇所を指示して書けば良いだけであるし、柒月例祭氏の出典表記は10頁ぐらいの長さをとっていたりもしており、章全体のような長さになるとしても参考にした部分を書いて表記すれば良いだけです。それもできない程度の参考ならやはり関連図書でしょう。こんな当たり前のことをわざわざいう必要があるのか腹立たしいです。
  • 17. 書誌情報に関する出典テンプレートについても同様です。出典テンプレートは非テンプレート記述の弊害になりませんんし、非テンプレート記述は出典テンプレートの弊害にもなりません。私は(不当なリパートをするな以外には)柒月例祭氏にどうしろこうしろとは言っていません。私が出典テンプレートを使うことがなぜ悪いのでしょうか? そもそも柒月例祭氏の書籍情報は間違っており、世界の教科書=歴史013というのは『韓国』であり、『西ドイツII』は全訳世界の歴史教科書シリーズという出版社も異なる全く別の書籍であり、一部訂正させてもらいました。柒月例祭氏はそういう事も含めて誤情報の方に差し戻すということをしているわけで、失礼であるし、不当でもあります。
  • 18. 下記の文章の意味がわかりません。
その記事の編集を行った利用者は、その調査や加筆の程度の応じてそれ相応の判断を行って節構成や出典形式を整えているのであり・・・」 — 柒月例祭氏発言
「出典形式を整え」るとは何のことでしょうか? 意味がわかりません。柒月例祭氏が使っているのは書名・ページ・章名という組み合わせのだけです。これを他の書籍と揃えるということでしょうか? それに何の意味が? 余人には理解できません。基本的には出典のガイドラインに従うか、出典テンプレートを使うことで出典形式は自動的に揃うのであって、出典形式を揃えるのが大変ならば、出典テンプレートを使え、という話じゃないのでしょうか。それが出典テンプレートを使わない結果なら、ただの自動自得です。自ら好んで面倒な方法でやっていることを大変なことみたいに言われても、この人は何を言ってるのだろうかと訝しい感情で一杯です。
  • 19. 下記も意味が分かりません。
clip2については、確かに私が作ったテンプレートです。私以外使っていないでしょう。機能として両者はほとんど差のないものですし、これを入れ替えることに対して、それほど異議を述べるものではありません。(逆に言えば、わざわざ入れ替えるほどのことか、ということにもなります。)(何かで画像を並べるのに「枠あり」と「枠なし」が並んでしまい、それを整えるのに作ったはずです。) — 柒月例祭氏発言
「わざわざ入れ替えるほどのことか」というのは誰が誰に何をいっているでしょうか。「何かで画像を並べるのに「枠あり」と「枠なし」が並んでしまい、それを整えるのに作ったはずです。」と言ってますが、具体的に何の話をしているのか、なぜそういう話をするのか脈絡がわかりません。これだけ面倒をかけているわけですから、相手に説明する気が無いなら書かないでください。

画像やレイアウトに関するもの

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マインツ大司教アルブレヒト(1519年)
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マインツ大司教アルブレヒト(1519年)
教皇レオ10世(1518年頃)
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教皇レオ10世(1518年頃)
シュタウピッツ
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シュタウピッツ
マインツ大司教アルブレヒト(1519年)
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Clip
マインツ大司教アルブレヒト(1519年)
教皇レオ10世(1518年頃)
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Clip
教皇レオ10世(1518年頃)
シュタウピッツ
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Clip
シュタウピッツ
引用文の中の顔写真は、追加した以外で、変えていません。
  • 22. エンゲルス等の小画像について、議論を途中で中断しておいて、柒月例祭氏が「私の意見は全く考慮してもらえません」とかいうのは、強い憤りを感じます。まだ話の途中でしたよね! 誰が結論を出したのでしょうか。勝手に議論を終了しておいて意見を聞いてくれないとか言われても困ります。議論は途中放棄で、コメント依頼して、さらに勝手極まることを宣って、2週間のウィキブレーク宣言されたのは、あ・な・た、です。というか、合意形成どころか、話をする気もないという姿勢でしょう
  • 23. 表題部については右の余白に対するレイアウトの変更です。これについても議論の途中で投げだされています。
  • 24. 尾太鉱山については蒸し返しになりますが、柒月例祭氏版は画像が小さかったり、大きかったり、バラバラで統一感がなく雑然とした感じでした。私が調整したレイアウトが現在版でも維持されています。そもそも柒月例祭氏は尾太の菱マンガン鉱の例を15例も掲示されており、所謂、画像過剰の状態であるために、こんなに多くしたら1つづつが小さくならざるえないのは必然です。下記のように2つならばそういう表示も可能でしょうが。残りの13個があるのです。レイアウトというぐらいならば全体を見る目が必要でしょう。基本的には元の記事をあまり変更しないで画像を調節しただけであり、本格的に配置を変更する考え方もあるでしょう。大画像ということならば、柒月例祭氏がしていたようなコの字型の配置を辞めれば可能なのですが、それを尊重したがゆえに、2年経っても事ある毎の文句を言わ続けるということなんでしょうね。--Quark Logo会話2017年1月24日 (火) 10:55 (UTC)[返信]

柒月例祭氏へのコメント

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柒月例祭氏のコメントはとても承服しがたい内容です。柒月例祭氏は私が言ってないことを勝手に曲解してオマエはこうだと想像で決めつけています。これは議論が混線するもとであり、そもそも不適切です

1-3. 9. でも次の第三者様の意見へのコメントでも繰り返し言わせてもらいますが、何も強制してません。経緯はこうです。

私が95ヶ条の論題を編集→柒月例祭氏がリバート→ノートに柒月例祭氏が記述(1)→ノートに私が記述しリバートは不当である書く(1)→私が柒月例祭氏のリバートを差し戻し→ノートに柒月例祭氏が記述(2)→ノートに私が記述(2)→柒月例祭氏がコメント依頼です。

さて、ここで柒月例祭氏にも皆さんにもお聞きしたいのですが、①柒月例祭氏のリバートは正当でしょうか?  ②私が柒月例祭氏のリバートを差し戻したのは正当でしょうか? ③対話は十分に行われたでしょうか? ④対話は何かの結論に達していたでしょうか? ⑤柒月例祭氏は何か強制されたでしょうか?

柒月例祭氏は、二度のやりとりで素早く対話を打ち切って、「私には「この記事の執筆者」としていくらか自負はあります。しかし私の意見は1つも聞いてもらえません。私はこの記事から手を引き、以後は第三者に委ねることにします。」とおっしゃって、対話を放棄されました。それはさすがにどう考えても性急でしょう。

「リバート」とはそもそも妨害的編集そのものじゃないのでしょうか? リバートをいきなりした柒月例祭氏だからこそ妨害的編集をしないように、ノート:95ヶ条の論題において1-3-3で説明したようにと発言したのであり、柒月例祭氏がやることはすべて妨害的編集だなんていってません。妨害する意思がなくて、合意形成をめざすのならば当然問題ないわけです。しかし回答はなく、それで柒月例祭氏がブチ切れたということならば、誤解でしかない。いきなりリバートをした柒月例祭氏の行動をこちらが不審に思うのは当然であり、いや、柒月例祭氏の行動こそどうなのかということです。自分の行動によって相手にどう見られているか考えるべきではないでしょうか。柒月例祭氏も私を知らないし、私も柒月例祭氏がどんな人か知りません。柒月例祭氏は勝手に私がどういう考えでどうこうどうするか決めつけているようですが、そういった一方的な偏見は議論の土台を崩すもので不誠実ですし、それでは対話が成立しません。

合意を求められてすらいないと言いますが、対話の最中ではないかったでしょうか? ウィキペディアのガイドラインやら方針やらを読むと、どこにも編集前に事前連絡が必要とまでは書いてありません。これは事実です。慎重さを求められてはいますが、義務とされているわけではないです。

主筆者という定義についても問題があります。主筆者のようなことが書かれているガイドラインは、まさに最初に指摘したように記事の所有権という記事なのです。Wikipedia:記事の所有権を読むと、ここには「記事を私有化している編集者」が存在するという注意が悪い意味で書かれており、決して良い内容ではありません。

主筆者を優先しろと、おっしゃってますが、そのような方針やらガイドラインやらがあるならば従いますし、私も沢山の記事を執筆しているので主筆者としての権利を行使できるならそんな楽な事はありませんが、ウィキペディアのガイドラインや方針のどこにもそういった規定はないと思います。もしあるならば、誰でも良いのでお示し下さい。逆に言うと、今後、主筆者的立場になったらその記事で他の利用者の意見よりも優位にたつことがウィキペディア全体の合意として有効なのか?ということです。次に議論になった際に、何を根拠としてその優位を示すのでしょうか? 主筆者に記事に関して優先権があるなら、私だってバンバン使いますよ。そういった特権を喜ぶウィキペディアンは多いでしょう。しかしそんな権限が許されているのか?ということなのです。群雄割拠みたいに利用者がそれぞれの記事に陣取って縄張りをするような世界でいいのですか?ということなのです。管理者でもガイドラインでも方針でも何でも良いいですが、主筆者の特権が認められているとウィキペディアが公式に認定しているというのなら、そうしましょう。しかしそんなことはないのです。違いますか?

柒月例祭氏が主張しているのは、マナーでは無く、私論です。それがガイドラインとなったら従いましょう。しかし現在のガイドラインでは、むしろその反対に「何人も―どんなに熟練していて、コミュニティ内でどんなに高い地位にあろうと―ある記事を所有しているかのように振る舞う権利はありません」とあります。だからどの利用者も一兵卒であると認識するしか無いのです。

主筆者に特権がないといったとき、柒月例祭氏側に権限がまったくないと言っていると誤解しているようですが、そんなことは一言も言っていません。特権がないから対等なのであり、合意形成の議論を続けなければならないということです。ここの理解が柒月例祭氏らはおかしいです。結局のところ、一利用者は結論がでるかある程度煮詰まるまで、延々と話し合うだけであり、2回の対話で終了できるものではありませんし、強制など発生しません。強制だなんてレッテル貼りもいいところで、ほとんど個人攻撃といって差し支えないです。

柒月例祭氏の過去の発言については4.や10.でも述べました。柒月例祭氏は尾太鉱山という2015年12月18日の変更も鮮明に覚えておられるので、忘れていたとは思われません。私個人は約束は絶対に守り、信義を重んじる人なので、人よりも約束や合意に厳しいかもしれませんが、ああもはっきり明言したことを、後で黙って撤回したとすれば、それが露見した際に「反故にした」と誹られるのは当然の理です。ノート:95ヶ条の論題で脚注節のサブセクションに参考文献を落とすレイアウトをしていないと最初に指摘したとき、柒月例祭氏からは返答はなく黙殺されています。私としては当然守られているものと思っていますので、合意を撤回したと知ったとき、やはり柒月例祭氏の誠実さは疑わざるえません。柒月例祭氏は言ったことを守らない人なんだ、と判断せざる得ないし、強い不信感を抱きます。柒月例祭氏はそもそも合意を本気で守る気が無いなら、なぜあんな発言をしたのか? 守れない約束などをするのは人間としてダメでしょう。もちろん発言を強制なんかしてないので、柒月例祭氏が率先して発言したことなのにです。結局、その場を収めるための方便だったのでしょうか、柒月例祭氏には大変に失望しました。合意されたことは守られるべきものと考える私の方がナイーブなのでしょうか。ついでにいうと私は、すでに投稿ブロックされたユーザーとの間で結ばれた記事合意形成すら守ってますけどね。ウィキペディアンに自らした合意を守らない人がいるということ自体が腹立たしものです。しかも大したことじゃ無いみたいなことを言っておられたようなのに。なんか、全然、言っていることと考えていることが違うようです。そしてすぐに弁明してもよさそうなのではないでしょうか。ということであるならば、柒月例祭氏と合意形成しても無駄しょうか? 何年かたてば気が変わって合意は簡単に撤回されるということでしょう。しかしそれだと、柒月例祭氏とで合意する価値がないです。

柒月例祭氏は、議論で心にも無いことを言い過ぎです。これは議論の妨害や攪乱に等しいです。枠はどうでもいいとか言いながら、日本のウィキペディアンで枠無し画像に置き換えて推進しているのは柒月例祭氏ぐらいなものです。脚注節の作りも。これをわざわざ作って広める人もそうは多くはないです。そしてそれについて議論すると、どうでもいい見たいな態度をとる。そういうのは妥協とか譲歩というのではなくて、その場限りのというべきものです。思っていないようなことを口走って、後で実は違うみたいなことを平気でやられると、発言の信頼性が全くないということになります。議論も合意も成立しない。考えがあるならそれを貫くべきであるし、その場をとりつくろう嘘で塗り固めるようなことをするべきではない。枠についてどう思っているのか。参考文献節についててどう思っているのか。記事の所有権についてどう思っているのか。どうでもいいと思っていないなら、どうでもいいと言うなということなのです。それがね、意見の対立以上に迷惑です。言ったことは守る人間であるべきで、守らないことは最初からいうべきではない。でないとそれは嘘になります。

「フレーム有り無し」はどうでもいいです」という明白な発言は、「譲歩を示唆」なんてものではありません。”どうでもいい”って日本語でどういう意味でしょうか? 柒月例祭氏がどういう人か知りませんので、発言に重みがない人なのかもしれません。しかし今、議論して、合意形成をしようという時に、そういう軽率な発言をするのは、常軌を逸している。こちらはそれはもちろん文字通りにしか受け取りませんよ。はっきり「どうでもいい」と言ってるからね。真面目に対話をされてないという意味なんでしょうか、言葉を大切にしていないということなのでしょうか。いずれにしても、迷惑なんですが。その考えがないならそんな発言はしないでください。この部分は対話というよりも、説教であるととらえていいです。示唆したいなら婉曲表現とかあるでしょう。はっきり断言したら示唆にならない。譲歩で交渉材料にしたいなら、そう言え、言わないことは伝わらないのは当然です。柒月例祭氏が何を考えているのか、全然こちらには伝わっていないわけで、理由の説明もまったくされていない。なぜもっと言葉を尽くさないのか、言葉を大切にしないのかということです。発言に信用性がなければ、柒月例祭氏が合意に達することなんか誰ともできるはずがありません。それは誰の責任でしょうか?--Quark Logo会話2017年1月24日 (火) 18:40 (UTC)[返信]


返信 (柒月例祭宛)  - 柒月例祭氏は「私には「この記事の執筆者」としていくらか自負はあります。しかし私の意見は1つも聞いてもらえません。私はこの記事から手を引き、以後は第三者に委ねることにします。」と言っていたのに、またもや前言撤回して、こういう編集を行われたことに、強い不快感を覚えます。利用者:Triglav会話 / 投稿記録 / 記録氏が投票期間中に編集しないように自重してくれといわれた[13]ので、こちらはそのページの改訂を投票後まで待って予定しているのに、投票中に内容を変えるとはなんなのでしょうか? 手を引くのではなかったのか。柒月例祭氏が自分の宣言を守ったことなんてあるのでしょうか? いや、誰も強制して言わせたわけではないのですがね。強制捏造もそうですし、柒月例祭氏の発言は信用性ゼロです。時間がたつと発言は無効になるかのような柒月例祭氏の振る舞いは、何らかの制裁があってしかるべきです。厳密にそのようなルールは残念ながらありませんが、これが赦されるなら、ウィキペディアでは嘘つき放題ということになります。柒月例祭氏は撤回したとすら言わない。言っておきますが、これは個人攻撃ではなく、柒月例祭氏の言動、行動に対する強い批判です。自分で任意に発言した内容を守らない、ということを、柒月例祭氏は繰り返していることについて、皆さんにもコメントを頂きたいところです。
もしコメントを得られない場合でも、ここに書き留めておくことで、将来、また柒月例祭氏の行動がコメント依頼等で問題になったときに、同氏の問題行動の一つとして前例とされるべきと思い、記述しました。いつかご利用されるように期待します。--Quark Logo会話2017年2月22日 (水) 04:46 (UTC)[返信]


返信 (柒月例祭宛)  - 該当記事の良質な記事への選考はそもそも、このコメント依頼の対象外である一方で、上記のように、柒月例祭氏本人が「この記事から手を引き、以後は第三者に委ねることにします」と言って、このコメント依頼を始めたにもかかわらず、コメントをくださった第三者へのほぼまったく返事もせず、同じく上記のように前言を撤回して記事の変更を続け、このコメント依頼は放置しているというのは、柒月例祭氏の無責任さは全く酷いものです。これはそもそも誰が始めたのでしょうか? 柒月例祭氏のせいでこれを長々と書かされたわけですが、その私の指摘への返事も反論もないに等しいわけです。
私個人としては、強化記事、月間強化記事賞、良質な記事の選考などには、何の興味もありません。恐らくそこが柒月例祭氏の完全な誤解と悪意に満ちた解釈の根源で「Quark Logoさんには対話する気はなく、ありとあらゆることで私を攻撃しようとしているように思います」という訳の分からんコメントになるのでしょう。私の投票権は通常の権利であり、いささかもそれは損減されていないであって、反対の意見を表明をすることは何の問題もありません。最初に反対票とのきに明記したように、「今後大幅に加筆されることなりますのでご了承下さい」ということを告げただけのことで、投票の結果すら興味はさほどありません。そして私が知る限り、柒月例祭氏がやったような投票者に圧力をかけるような言動は、むしろ投票の場に相応しくないのであり、マナー違反はあなたの方です。腕ずくで解決しようとしている。投票者に対して説得のような議論はすべきでもないし、する必要も無いのです。投票の質問は赦されてますが、これは質問というよりも演説でしょう。こんなに長々と演説されては、いちいち答えるよりも、改訂版を完成させた方が明らかに早いですし、記事全体の内容は大幅に向上できます。柒月例祭氏の話は、私の反対票の理由を曲解しており、見当違いな方向に拡大してますし、どう言ってもこちらの意図はつたわからんでしょう。そもそも柒月例祭氏は聞く耳があるような感じでは一切無いのですから。2回やりとりしただけで強制捏造するような人と、どうやって議論できるのかむしろこっちが知りたいぐらいです。
柒月例祭氏は決めつけが酷すぎる。強制捏造もエキセントリックですが、柒月例祭氏は「意味もなく道路に横たわって交通を阻害するのに等しい行為」と言ってますが、言いたくないけど、そんなことをしたら車に轢かれて死ぬわけで自殺にしかならんので、たとえ話として論理矛盾です。何を言ってるのでしょうか? 意味不明すぎる。さらに「自分は誰にも何の相談もなく自由にいくらでも記事を編集するが、自分以外の人間が手を触れるのは一切認めない、と言っているのに等しいです。」なんかも書いてますが、そんなことは一言も言ってないのであって、それが、それこそが個人攻撃に該当する決めつけです。言ってないこともって何かに等しいとかいわれても、無茶苦茶にも程がある。個人攻撃が何かぐらい知ってるでしょう。
強制もしないし、阻害もしてないし、いつ私がそんなことをしましたかね? 私が道路に寝てたとでも? やってないこと、言ってないことをもって、勝手なことを言われるのはウンザリなのであって、柒月例祭氏こそが議論する姿勢が全くないのです。確かに上記のように私は厳しいことを言っていますが、批判を言うにはそれだけの理由があり、それは柒月例祭氏の実際の言動にすべて由来するものです。決して、空想やたとえ話ではありません。
攻撃されたと思い込んでいるのは圧倒的に柒月例祭氏、あなたの方ですよ。そもそもやり方も解釈も、勝手すぎる。下記の皆さんのコメントでもわかるように、柒月例祭氏の極端な言動は対話の妨げ以外の何ものでもないです。
そして言い回しの悪さも目に付きます。前述のように、柒月例祭氏の発言は信頼性が低いといいましたが、その原因は一つが下手な言い回しです。
また、今回のトラブルの発端になっているQuark Logoさんの編集は記事の「内容」には及んでおりません。画像の配置やテキストにテンプレートを適用するなどのスタイル面の編集であれば、今回の私の編集のあとにそれを適用するとしても、障害はないでしょう。そのような状況で私が編集すること自体をここまで口汚く罵られるとはあんまりです。 — 柒月例祭氏発言
この言いぐさだと、「スタイル面の編集」後からしても良いと柒月例祭氏が考えているかのように受け取れますが、いや、いや、いや、あなたがそれをリバートしてまさに阻害したんだろという話で、ここまでの経緯を考えれば、そう思っていないのも明らか。思ってないことを口走る柒月例祭氏のこんな言説もまた状況を悪化させるわけです。「阻害」はまさに柒月例祭氏あなたがやったことですよねということですし、スタイル面の変更が嫌で主筆者に従えと言い出したのも柒月例祭氏あなたなわけです。全く真逆のことを言われても困ります
あと「実際には私から根拠を示した提案を全てはねつけており」と書いてますが、何のことでしょうか? 「はねつけて」と書いているところをみると、ノートの議論のようですが、そんな提案などは受けた覚えはありませんし、ここのコメント依頼にも書かれていません。何をいっているのでしょうか? 意味の分からないことを言い続けるのはやめてもらいたい。--Quark Logo会話2017年2月26日 (日) 10:17 (UTC)[返信]


返信 (柒月例祭宛) - 本人が興味がないといってるのだから、それ以上のことはありません。ノート議論の前提として、相手の言うことを信じないというでは、話になりませんが、そもそも発言の信憑性が低いのは柒月例祭氏ならではの主張でしょう。前言撤回ばかりで、軽率な行動も繰り返し、(私以外にも)複数の利用者に批判されているのは、柒月例祭氏です。私ではありません。
Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/95ヶ条の論題 20170211での経緯は以下通りです。
私は既に2017年2月1日頃より該当記事の改訂準備を進めており、会話ページでTriglavさんに2017年2月9日 (木) に投票期間中の改訂の自重を要請されており、その際に改訂予定であることも告げています[14]。そしてこれが重要な点ですが、この時点で私は、柒月例祭氏が自らの宣言通りに該当記事から手を引いたものと考えており、前言撤回をするなんてことは予測できません。投票においては下記のように該当記事の現状が内容の不備があり、それを拡充させる改訂があることを予告しているものです。
反対 ノートですでに指摘したように、肝心の95個の条項について記述が欠落しており、条文の説明や付帯的説明も不足しています。また査読も行われておらず、構成の順番に問題があり、内容について偏りがあります。歴史上の意義が必要以上に軽視されているように読め、疑義ついて示唆するような部分が強すぎて、明確に書かれていません。基本的には条々への言及が少ないので、何だったのかという本質が曖昧で不十分です。また、Triglav氏によって選考中を理由にリバートされていますが、細部を把握してないからだと思いますが、間違った書誌情報に戻された部分もあり、存在しない書籍が書かれています。これらすべての部分について改訂予定で、まだ少ししか執筆できていませんが、今後大幅に加筆されることなりますのでご了承下さい。 — Quark Logo 2017年2月15日
柒月例祭氏は、2017年2月20日 (月) 23:13頃に該当記事を突然なんの通告もなく加筆[15]しており、その後で2017年2月20日 (月) 23:22頃に投票ページで演説[16]しています。それに対して前記のように2017年2月22日 にここで私は柒月例祭氏の前言撤回を抗議したわけです。
これが事実を時系列でならべたものです。
柒月例祭氏の「1番乗りで参加し、票を投じています。これで「何の興味もない」はないでしょう。」という言いぐさは、それが何?という話でしかなく、何がしたいのかよくわかりませんし、何が言いたいかもよくわかりません。柒月例祭氏が、私が選考に興味があると主張する、唯一の理由は、最初に投稿したということのようですが、誰かが書き込むまで待たなければならないのでしょうか? ただの一利用者にすぎない私はそんなに自意識過剰ではないので、最初に書き込んだら興味あるように思われるから誰かが投票した後にしようとか、そんな回りくどいことを思い悩んだり、深読みしたりはしません。
前述のように該当記事を執筆中であるため、これに関わっている者として、ただ、投票し、意見を述べて、今後の改訂予定についても述べただけです。何の問題があるのでしょうか。これは柒月例祭氏と私とで、物事の考え方が本質的に異なるという良い例でしょう。柒月例祭氏が考えるように私は考えないのであって、柒月例祭氏も相手の考えがわかってるといった幻想を持ったり、見えないものを見ようとするのではなく、相手の発言を正確に読み取ってもらいたいものです。相手の発言や行動からのみ判断すべきだからこそ、発言そのものが重要なのであって、柒月例祭氏のような自分の発言に責任を持たない態度は、ウィキペディアのコミュニティにおいて大きな問題となるわけです。
柒月例祭氏が過去の件をこのコメント依頼で蒸し返そうとしたのは、上も見れば誰にもわかります。関係ない話を出しています。どちらが先に蒸し返したか、というような議論で、柒月例祭氏が相手に蒸し返されたから蒸し返したんだという主張するのならば、それは正当化できないでしょう。上にあるように、過去の発言を反故にしていたという問題はあったから言ったのであって、スタイルの問題として、しないといっていたのに、なぜやってるのか、ということは、私でなくても言うでしょう。そしてこれは柒月例祭氏の発言の信頼性にもかわわる問題であり、問いただす必要はあるわけです。参考文献節の独立が標準的な形態であって、柒月例祭氏がスタイルマニュアルに従ってないのも明らかで、虫取りの対象です。
サムネイル画像と枠無し画像の使用は過去の問題ではなく現在の問題です。柒月例祭氏が枠無し画像で個人的なレイアウトを多用していることを、現在も問題視しています。これは井戸端で提起できるよに準備をしようとしていましたが、そこまで手が回らない状態となってますが、現在の問題として認識しています。蒸し返しとは全然次元が違いますし、これを蒸し返しと同じだと考えるというのが柒月例祭氏の問題意識の欠如を示すものでしょう。各国版をみても、サムネイル画像が標準化されており、特別な理由がなく、利用者の好みで枠無しを用いてる例はほぼないのであって、スタイルマニュアルの一貫したスタイルに沿って執筆するという推奨モデルからの逸脱です。
この件はコメント依頼ではなく別に議論されるべき重大な問題なので、あまり深くは語りません。{{file clip2}}について、何を語る気かしりませんが、コメント依頼で議論の対象とすべきではないでしょう。
それより、前回聞いた「実際には私から根拠を示した提案を全てはねつけており」の提案とは何を指すのかを答えるのが先でしょう。なぜこれを答えないのでしょうか。ほかにも、節をもうけて細かく書いた反論や指摘で明らかにした、柒月例祭氏のガイドラインや方針に基づかない主張であったということも理解したのでしょうか。そもそも読んだのかすらわかりません。そして、強く言いたいのは、「強制してないよね」ということです。強制捏造を取り消すのがまず第一歩でしょう。勝手な決めつけもやめてもらいたいし、言ってないことをいったとするのは取り消すのが筋でしょう。対立した場合こそ、相手の実際の言動をもとにして、議論でも口論でもするべきであり、相手はきっと○○なんだとか、相手はきっとこうだからそれは○○に等しいとか、勝手な想像や読みを交えない、というのは大前提であり、ルールだと言っても良いでしょう。議論の場で、柒月例祭氏が求められていることは、たった二つのことです。発言に責任を持つこと、勝手な想像や憶測で議論しないことです。この二つを承知してもわらないと議論は成立しません。「主執筆者」という地位がウィキペディアのガイドラインや方針のおいて存在しないことは、私の説明と、皆さんのコメントなどを読んで理解されたと思います。よって主執筆者だからというような主張はすることができません。これは当初よりいっていることです。
出典方式の向上(変更)が加筆について何の障害にもならないということは、なかなか理解されないようですが、これは普通のことなのです。
あと、これはコメント依頼ですから、皆さんがコメントを寄せてくれています。柒月例祭氏に対するものも多くあるので、自分でコメントを求めて置いて返事もしないで放置するというのは極めて不誠実だと思います。すぐに対応すべきでしょう。--Quark Logo会話2017年2月27日 (月) 10:07 (UTC)[返信]


返信 (柒月例祭宛) - {{file clip2}}は、柒月例祭氏自身が掲示した論点にも、私が示した論点の中にありません。論点でない問題に集中するという意図がよくわからないし、問題の解決になりません。皆さんのコメントに{{file clip2}}に関するものは一つしかなく、そもそも皆さんへの返事を柒月例祭氏は書いていない。何か言いたいのなら、そんな大仰に一つに絞るなんていわないで、勝手に話を始めればいいわけですが、まず自身の発言の説明をしてもらわないと、対話にならない。なぜ自分の直近の発言すら説明できないのか、訝しい限りです。「実際には私から根拠を示した提案を全てはねつけており」とは何のことか、何を指しているのかと三度も聞いているのですから、答えてもらいたい。
柒月例祭氏自身が始めたコメント依頼に結論を出すには、当然、論点について議論する必要があります。一点つづでもいいが、論点のなかからでないと解決に繋がりません。そしてその途中であっても自分の発言についての説明は、随時やってもらわないと、意思疎通が成立しない。何を言っているかわからないというような状況で、話は進められません。これは当然のことでしょう。何度も言いますが、利用者は発言に責任を持たなければなりません。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 05:48 (UTC)[返信]
返信 (柒月例祭宛) - 依然として返答がなく、「実際には私から根拠を示した提案を全てはねつけており」とは何のことか、何を指しているのか、回答を求めます。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 10:01 (UTC)[返信]

解決のためのロードマップ

[編集]

長期化したコメント依頼で、外の皆さんからも終結するように意見がでているので、解決のためのロードマップを示します。

解決のためには、幾つかの問題をかたづける必要があります。まず論点論点2が示されている内容に決着をつける必要があります。特に「主筆者」の権利については、少なくとも2年前から同様の間違った主張が繰り返されていることから、紛争の原因そのものであり、明らかにするべきでしょう。根拠についてはすでに議論しましたから、合意されることが確認されるべき内容をだけを箇条書きにします。

  1. 如何なる強制も行われていないことを認めて、発言を取り消すこと。
  2. ※「主筆者」「主執筆者」という地位は、ウィキペディアに存在しないことの確認。
  3. ※「主筆者」「主執筆者」の特権は、ウィキペディアに存在しないことの確認。
  4. ※「主筆者」「主執筆者」の地位や特権があると主張して権威者のように振る舞うことは、Wikipedia:記事の所有権に記述されてあり、「ある記事を所有しているかのように振る舞う権利」に相当する禁止されている行為であることの確認。以後そのような主張で偽りの権限を行使しないことの確約。対話を一方的に中断せずに、合意形成に務めること。
  5. ※2. 3.に付随して、利用者間はすべて対等であり、特定の記事に対して特定の権威者がいるわけではないこと。ウィキペディアの方針は権威者の存在を否定していることの確認。執筆に携わったものがメンテナンスをするというのは慣行にすぎず、特別な権限が与えられているわけではないことの確認。
  6. ※ウィキペディアの方針は記事への新規参入、多様な参加者の参入を促しており、「主筆者」「主執筆者」を称する者が一方的に拒んだり排除することは許容されていないことの確認。
  7. ※5.に付随して、記事のメンテナンスは、執筆者の義務ではなく公には要求もされていないことの確認。(執筆者にあるのは加筆に関しての説明責任等のみ。)
  8. ※7.に付随し、メンテナンスについても、「主筆者」「主執筆者」に特別な権限が与えられているわけではないことの確認。従って、「主筆者」「主執筆者」の好みを理由にメンテナンスの方法を決めることはできないことの確認。
  9. ※内容の変更ではなく、内部的な加筆、向上であっても、「主筆者」「主執筆者」がその好みを理由にしては、拒むことはできないこと。何らかの合理的な理由を述べる必要があること。意見対立の場合も、安易にリバートできず、内容の変更の際と同じく、通常の合意形成が必要なこと。
  10. 他国版にもあり、日本語版にだけ存在しない内容についての節について、加筆要請は不当ではなかったことを認めること。
  11. 10.に付随して、節スタブは利用者全てに対する告知であり、柒月例祭氏に対して加筆を要請したような事実が存在しないことを認めること。柒月例祭氏が勝手に「主筆者」がやるべきことだと誤解したのか、または良筆な記事の選考てマイナスになるという理由で異論を排除しようとしたのか、説明すること。
  12. 出典テンプレートの使用は一般的に推奨されていることであることの確認。
  13. ハーバード式とその他の形式は、混在も可能で、現状として多くの記事で実際に混在する状態であること、かつそれで支障が起こっていないことの確認。
  14. 12.13に付随して、適切に行われた出典形式の変更は、加筆やメンテナンスの障害にならないことの確認。
  15. 出典形式の向上はウィキペディアの利用者間で一般的に行われているメンテナンス業務であり、「攻撃」のような性格のものではないことを認めること。
  16. ノートページ等で交わされた発言は、(特別削除されない限りは)記録に永続的に残るものであり、利用者は自分の発言に責任があることを自覚すること。
  17. ログは永続的に残ることから、時間が経過したからといって発言・宣言が風化するわけではないことを自覚すること。(ただしWikipedia:エチケットにあるように、古い批判は無視してもよい。)
  18. 一度発言した内容や約束を取り消したい場合には、その旨を他の利用者にも分かるようにはっきりと記述して、必要に応じて広く知らしめること。さもなければ約束を反故にしたとか、前言を撤回したとか、批判に晒されるというのは当然であると自覚すること。
  19. 「参考文献」節について、柒月例祭氏は「執筆に便利」を唯一の理由としているため、加筆終了後にはそうしておく理由がないこと。編集終了後にスタイルマニュアルに沿って節を独立節に戻すか、あるいは本人は何もしなくても、他者がこれを訂正する(=を一つ削るというだだけです)のに異議を唱えないことの確認。
  20. ※19.に関しても、4.や8.と同様に、「主筆者」「主執筆者」の権限が存在しないことの確認。

上記の20点のうち、1. 11. 15. 16. 17. 18. 19.の7点は私からの要求(特に1.)・要望・助言です。強制がないことはすでに明らかであり、不当な暴言です。このコメント依頼の前提が間違っていたことを明示させるための要求でもあります。残りの13点は「主筆者」「主執筆者」に関するウィキペディアの方針とガイドラインに理解に関係するものであって、これに異議があるとは伺っていませんので、確認することはできるものと思います。

次に、柒月例祭氏自身がこのコメント依頼が自発的に始めた責任として、コメント依頼の間に行われた柒月例祭氏自身の軽率な行動について、私というよりも、皆さんに対して説明する必要があります。

  1. 自らこのコメント依頼を起こして、記事から手を引くといったにもかかわらず、これを反故にした理由を、説明すること。
  2. 自らこのコメント依頼を起こして記事から手を引いたことで、投票期間中に該当記事の編集ができないことを自覚していたのか、説明すること。
  3. 1.2.について、誰からも強制されておらず、自発的に行ったものであり、軽率な行動はすべて自らの責任であることを認めること。
  4. 3.に関して、「意味もなく道路に横たわって交通を阻害」するに等しいことを行った者などはいないこと、阻害されていないことを認めて、発言を取り消すこと。
  5. コメント依頼に応えてくれた皆さんに柒月例祭氏が返答を書くこと。
  6. 特に釈明を要求されているはるみエリーさんの指摘に応えること。

これらの点はコメント依頼を起こした本人の責任として、複数上がっている批判について答えるべきであり、柒月例祭氏には説明責任があると考えます。

利用者:㭍月例祭会話 / 投稿記録 / 記録氏には、この提案について強く回答を求めます。この長大なコメント依頼で多大なる迷惑を被った身として、強制やら阻害やらと事実とは異なる誹謗中傷されたまま、黙って終わることはできません。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 10:01 (UTC)[返信]

 追記 - 「主筆者」「主執筆者」の地位や特権が存在しないと言うことに関しては利用者間で共通認識たりえるわけですが、現在ないが、将来的には優先権のようなものが有った方が良いという意見を表明された方もあったので、 「主筆者」「主執筆者」のついて※を付けた9点について、井戸端など別の場での議論に決着を移すということはやぶさかではありません。㭍月例祭氏はこれらの点で意見表明されていませんので、こちらは同意できるのかできないのか不明です。㭍月例祭氏が別の意見を持っている場合は、最低限、強い疑義が持ちあがってる問題なので、今後は結論がでるまで、これをもとに主張することは控えるぐらいはしてください。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 13:12 (UTC)[返信]
終了にむけて
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  • まず、皆さんからのコメントについては、㭍月例祭氏はこれまでほぼ全く言及されてきませんでしたので、度々対応を迫ってきました。今回、㭍月例祭氏は「論争についてのコメント依頼の場では、第三者からのコメントについて逐一返信するのはやめておいたほうがいい、と考えています。解決から遠ざかってしまう結果を生むことが多いからです。」という立場を明記されて、皆さんのコメントには答えないと表明されました。㭍月例祭氏がコメントを寄せてくれるように依頼して第三者に委ねて仲裁を求めていたはずでは・・・という矛盾を感じなくもないですし、㭍月例祭氏の第三者コメントの扱いはぞんざいではないかと思うわけですが、これについては㭍月例祭氏の姿勢は第三者である皆さんが評価するべきことなので、私からは特に言うことはありません。第三者コメントの扱いは第三者である皆さんのご意見に従って下さい。ただ、具体的に説明を求めているのは、はるみエリーさんだけなので、一人に答えることができないとはおかしなことであり、㭍月例祭氏自身の行動について個別に説明を求められて答えないというのは対話拒否にあたるのではないかという苦言も呈しておきます。㭍月例祭氏の第三者コメントの扱いがそれで良いかは第三者である皆さんに任せるものの、はるみエリーさんは既に2回も説明するように主張されていることを鑑み、重ねて回答を求められた場合には(または求められなくても)㭍月例祭氏には説明責任があると考えます。
  • 「主筆者」については、地位と特権について議論しています。概念について議論していないし、否定もしていないことは上の記述でも分かると思います。主筆者が尊重されるべき、あるいは優先されるべき、という主張は、地位と権利を主張していることと同じであるということを理解してもらえたでしょうか? 地位というよりも、とかじゃなくて、㭍月例祭氏の言動が論理的に地位と特権を主張することになるわけです。地位ではないのに、地位であるかのように振る舞うことが問題のなのですから、表現は慎重でなくてはなりません。検索では一つもガイドラインや方針はヒットしないことでもわかるようにこの名称も単にその記事を主に書いた人というだけの意味しかないということをご理解くさださい。書いた人の役割あるいは義務というのは、書いたことに対する説明責任であり、書いていないことの義務ではありません。
    • 㭍月例祭氏は「主筆者」「主執筆者」の地位や特権を主張する気が無いということが明らかになりましたので、2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 20. は同意された、または特に異議がないものと理解します。「主筆者」「主執筆者」について具体的に機会がもしあれば井戸端などで提起したいと思います。
  • 「丁寧に」についての話は、現実的ではないと思います。それは他人に強制できるものではないと考えるからです。㭍月例祭氏が相手にこうあって欲しいと思うことは自由ですが、相手は常にそう振る舞うわけではないし、そう期待することもできません。現実世界の人間は”多様性”に満ちており、ウィキペディアのようにスタイルマニュアルやらガイドラインで統制されてはいません。私は㭍月例祭氏が考えていることは、ウィキペディアと現実世界とで逆転していると思います。百科事典であるウィキペティアの編集は統一されたスタイルで統一されたルールで動きますが、現実世界の住人である利用者の言動は多様です。法を犯すというのでなければ、行動に制限は受けません。㭍月例祭氏はウィキペディアの編集で多様性を求めて、現実世界の住人に統制された行動を求めています。全くの逆です。失礼ながら、それは不可能です。自分の考えを他人に押しつけることもできませんし、他人がこうあるべきというようなことは考えるだけ無駄です。自分が思うように相手が動かないといってフラストレーションをためるようでは非常に困ります。フラストレーションをためた結果、強制だとか、阻害だとか、事実とはかけ離れたありもしないことを言い出すわけですから、そうしたら㭍月例祭氏自身が迷惑の中心になる。思い通りにならないのは当然と受け入れて落ち着けとしか言いようがないし、多様性は必ずしもポジティブな意味ではないと理解することでしょう。㭍月例祭氏は「丁寧に」すれば紛争を回避できると思ってるかもしれませんが、コメント依頼のような強い方法で相手に「丁寧に」を要求することは、激烈な紛争にしかならないと学んで頂きたい。基本的に自由な社会では、相手に何かをさせるということはできないものと理解すべきです。自分が率先てきに「丁寧に」するということは素晴らしいことですが、よかれと思っても、相手に求めるとなるとそれは強要・強制になるのです。ここの大節の冒頭でも書いたように私は㭍月例祭氏に何も強制していませんが、逆に㭍月例祭氏はコメント依頼によって私に「丁寧に」を強制しようとしたということになるわけです。結果は逆になっているのだということは、是非、自覚してもらいたい。
  • 「意思表明しないと承服したことになる」は㭍月例祭氏との会話ではないのでコメントは差し控えます。
  • 出典テンプレートについて、12. 13. 14. 15.は、障害にならないというの正しいのですから承服できると思います。もし出典テンプレートの使用で何か支障が発生するというのならば、具体的にどんな問題がでるのか主張するように求めます。そうすればそれを回避する方法も見つかる可能性もありますし、改善もできるでしょう。多様性や主筆者であるという主張は前段で否定されたものであり、もっと実務的な問題意識をもって返答ください。実際としては出典テンプレートの利用とテンプレートへの変更は、多くの利用者によって現在各所で行われており、機能性の向上のためのメンテナンス業務です。注意しておきますが、㭍月例祭氏に出典テンプレートを使って編集しろといっているわけではありません。混在も可能であるし、誰かが内部記述を改善させても、何の影響もないのであって、出典テンプレートを使わない人が気にするようなものではないと言っているのです。使わない人は使わないままでもいい。問題を明示しないなら、出典テンプレートに置き換わっても問題ないということを納得すべきです。加筆終了後なんですから、誰かが勝手にやってくれても問題があるはずがないのです。またそこそこの編集歴があるのですから、テンプレートの記述も読めるはずですし、理解も容易なはずです。外見的にもほとんど変わらないわけで、この件に関して、何もしなくて良いのに、なぜ嫌がるるのか理由がわかりません。
  • 95ヶ条の論題の記事は、自分の編集状態に戻すという主張はせず、執筆して新しく改訂するので、これに関することで合意形成する必要性は、記事が完成していない現時点ないと考えます。よって議題はこのコメント依頼とコメント依頼期間中の行動だけになります。
    • 終了に向けては、以下の点については事実とはかけ離れた暴言であるため強く要求します。
1. 如何なる強制も行われていないことを認めて、発言を取り消すこと。
4. 「意味もなく道路に横たわって交通を阻害」するに等しいことを行った者などはいないこと、阻害されていないことを認めて、発言を取り消すこと。
  • 10. 11.については、内容が理解できれば、返事はしなくても良いです。不足した内容を指摘して節スタブの利用は通常の行為です。節スタブの利用方法として間違っておらず、勝手に攻撃と解釈されただけです。
  • 16. 17. 18. 19. は、肝に銘じておいて欲しいと言うもので、特に返事は必要ありませんが、特に前者三つは利用者の行いとして必要なもので、怠ることがあればやはりまた誰かとトラブルを起こす原因になると考えます。

以上ですが、先ず隗より初めよ、というように自らが率先して「丁寧に」を実行して、発言の取り消しを行うことは必要不可欠であると考えます。--Quark Logo会話2017年3月1日 (水) 09:09 (UTC)[返信]

あくまでも「強制」を主張するのか

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ちょっと待って下さい。

㭍月例祭氏は、あくまでも「強制」があったと主張する気でしょうか? 

強制云々は、このコメント依頼で㭍月例祭氏が言い出したことであり、こちらとしては事実無根であると何度も何度も言っているのです。

これについて、㭍月例祭氏が説明責任も果たさず、発言の取り消しもしないというのは、対話拒否と判断せざるえません。私はそれは㭍月例祭氏の違反行為として強く抗議します。 第三者の皆さんはどう思われるでしょうか。

Wikipedia:ノートページのガイドラインWikipedia:説明責任」、Wikipedia:投稿ブロックの方針)

見解の相違ではなく、誇張された表現にも留まらず、㭍月例祭氏がコメント依頼で嘘を付いたというだけです。㭍月例祭氏は、暴言であり個人攻撃である発言の取り消しを要請されても、それを無視して拒否するような利用者だと、判断していいということでしょうか。打ち消し線を入れるという、ただこれだけの行為も拒むということでしょうか。結局は㭍月例祭氏こそがWikipedia:礼儀を忘れないを守らない利用者であるということではないでしょうか? たった二文字・四箇所、打ち消し線も入れないということですか。

㭍月例祭氏は、発言を度々無断で撤回する、嘘を付く、極端に誇張する、あらゆることを自分への攻撃と曲解して要約欄に暴言の残す、不適切なリバートはする、議論の途中に軽率な編集をする、第三者コメントを無視する、発言の取り消しを求められても応じない、自身の行動に対して説明責任を果たさない、対話拒否の姿勢をとる、といったことをしていますが、これはコメント依頼の対象ではなく、コメント依頼の㭍月例祭氏の行動には自省すべき点があることを示していると、言えないでしょうか?

ちょっと待って下さい。

㭍月例祭氏は依頼後に問題行動しか起こしていません。自分の一連の行動を認識しているのでしょうか? 話が長すぎるという苦情はあっても、こちらは何一つ問題となるような行為はしておらず、㭍月例祭氏だけがそれを行っているという状態が現状なのです。これは氏が認めようが認めまいが事実です。

話を進める前に、このコメント依頼の内で起こったことにけりをつける必要があると言っているのです。条件等と関係なく、発言の取り消しを行うこと気があるのか、ないのかお答え下さい。--Quark Logo会話2017年3月3日 (金) 11:23 (UTC)[返信]

ウィキ化されていないことが問題

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㭍月例祭氏の多様性のある記事スタイルと称するものは、単に十分にウィキ化されていない記事というだけです。

㭍月例祭氏の編集の特徴は、リシャート・フォン・グライフェンクラウの初版を見てもらえれば、典型的な特徴がでています。極端に小さい画像、枠無し画像、冒頭右置き、画像過多、節の扱い。この記事に見られない㭍月例祭氏の他の特徴としては画像の、画像両構え。これはノート:95ヶ条の論題でTriglavさんも批判的なコメントを残しています。

出典テンプレートの使用とかだけでなく、たくさんの問題があるわけですが、これらの点は、このコメント依頼ではまともに議論されていません。というか、㭍月例祭氏は議論を拒絶しているに等しい態度です。

㭍月例祭氏は「多様性」と言ってみたり「主筆者」と言ってみたりしてますが、とにかく自分のスタイル、個性的すぎるレイアウトを頑なに守ろうとしているだけです。はるみエリーさんが指摘していることはまさに正しいと思います。㭍月例祭氏には多様性はありません。自分だけのスタイルがあるだけです。

しかし考えて下さい。ここは㭍月例祭氏の個人HPではありませんウィキペディアという共同参加の百科事典なのです。レイアウトスタイルは、㭍月例祭氏のスタイルでも、私のスタイルでもなく、ウィキペディアのスタイルでなければなりません

私は㭍月例祭氏を付け狙ってるわけでもなんでもなく、ウィキ化されていない記事を修正しようとしているのに過ぎません。

逆に㭍月例祭氏は十分にウィキ化できていない記事を造って「多様性だ」と称しているだけなのです。それはWikipedia:ウィキペディアは何ではないかをよくわかっていないと考えざるえず、Wikipedia:記事の所有権にあるように自分が造ったものなら記事を所有して 私物化していいという感覚があるからではないかと思わざる得ません。

ウィキペディアにおいて記事はすべて共有財産であり、それはスタイルやレイアウトも例外ではありません。すべてが共有物であって、一利用者の好みに合わせることは、積極的に許されているわけではありません。共有化のためのスタイルマニュアルであり、メンテナンス作業です。

確かに、㭍月例祭氏は十分にウィキ化できていない記事を書くことは許されます。しかしそれはその後のメンテナンス編集を経て、ウィキ化されていくことで、皆が共有できる共通的な姿、一つに百科辞典の一ページとして完成するのです。

㭍月例祭氏はこれを「攻撃」と解釈しているようです。しかしメンテナンス作業もするウィキペディアンは組織の中の白血球のようなものであり、攻撃を受けていると思うとすれば、それは異物だからではないのかと。新たなテンプレートを創作してまで、枠なし画像を多用して自分足跡のような個性的すぎるレイアウトを作って、記事を自分ナイズしていくというのは、そもそも目的外利用ではないのか? 㭍月例祭氏の自分ナイズはウィキペディアとしても異質なものであり、本質的にウィキペディアの目的から外れています。

私が㭍月例祭氏の十分にウィキ化できていない記事をウィキ化することを悪いように言いますが、㭍月例祭氏が記事を自分のコラムのように自分ナイズして利用していくことこそ、禁止されている行為ではないのでしょうか? この点について強い疑念があります。--Quark Logo会話2017年3月3日 (金) 11:23 (UTC)[返信]

解決を要する問題は他の利用者と協議するしかない
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ここまで見てきたように、㭍月例祭氏には議論をする姿勢が全くみられません。自らが要求した第三者の皆さんのコメントすら放置しています。㭍月例祭氏と話そうとしても埒があかず、合意形成どころか、一歩も話は進みませんでした。

よって、解決を要する問題は、後日、井戸端に提起して他の利用者の方々とウィキペディアの方針やガイドライン、スタイルマニュアル、ヘルプ等における一般の問題として議論するしかないというのが、私の結論です。もちろんそれが極めて困難なことであることはわかっていますが、協議すべき内容は単なる利用者間の合意形成の枠を超えています。特に発言の信頼性に問題がある利用者(前言撤回の常習者)との約束が余りに不確かであるということも理由の一つです。

「主筆者」「主執筆者」の問題、出典テンプレートの利用の問題、サムネイル画像と枠無し画像の使用についての問題、{{file clip2}}についての問題、小さすぎる画像を使用する問題、参考文献節の扱いの問題、多様性の許容範囲とスタイルマニュアルについて、などなどについて、コミュニティで協議して、ウィキペディアとしての一つの見解を出す必要性があると考えます。

私の主張は一貫して記事をウィキ化するということであって、多様性を悪用して記事を私有化するが如き利用者との不確かな協定よりも、コミュニティが問題について見解を出せるならば、その方が有益でもあります。--Quark Logo会話2017年3月3日 (金) 11:23 (UTC)[返信]

不誠実な交渉態度

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私もバカではありません。現状の記事95ヶ条の論題は㭍月例祭氏の記述だけで構成されているので、今、双方が手を引いたら㭍月例祭氏の記述だけのままになるという寸法で、公平でもなんでもない

そもそも何で記事から手を引かなければならないのか? いや、いや、いや、手を引くべきとしたらこのコメント依頼から双方が手を引くべきなんでしょうに。揉めているのはまさにここであり、ここだけです。そして揉めている内容というのは、記事で揉めているわけではなく、㭍月例祭氏の自分ナイズされた個性的すぎるレイアウト(および出典テンプレートの利用)で揉めているわけです。そもそも私の編集で95ヶ条の論題で内容はほぼ変えてないわけであり、内容についての節が必要という私の主張は、結局のところ、私の意見とは違い形ですが、㭍月例祭氏自身が内容に関する節を作りました。つまりは内容についての争いは現時点でないということです。95ヶ条の論題では、不正なリバートをしたのは㭍月例祭氏だけなのであり、不適切で軽率な編集をしたのも㭍月例祭氏だけなのであり、該当記事では編集合戦も起こっていません。双方に記事から手を引くという制約の理由はなく、問題の本質はそこではありません。

にもかかわらず、㭍月例祭氏の云う「「条件」というよりは、私からの一方的譲歩です。」とは、さすがに失礼極まり、如何にも不誠実な交渉態度で、人をバカにするにも程がある。節穴だとおもっているのか、㭍月例祭氏が一ミリも譲歩していないのは誰の目にもわかります。下手な脅迫であり、実に不愉快です。㭍月例祭氏も最終的には理性的な判断をするだろうという僅かな期待は見事に打ち砕かれました。--Quark Logo会話2017年3月3日 (金) 11:23 (UTC)[返信]

即時終了
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㭍月例祭氏は、あらゆる質問、議論、要請にも応じず、不誠実であり、もはや、上記の発言の説明要求や暴言の取り消しなどに応じる可能性は低いと考えざる得ません。現状でも何日も㭍月例祭氏にとって都合の悪いことは全て無視されています。対話に期待したのですが、無駄だったようです。

ここまで私は自分の発言を責任をもって守ってきており、一方で、㭍月例祭氏は発言を軽々に撤回したり無視したり、軽率な行動を繰り返すなど無責任な行動を一貫してとっているということが、図らずもこのコメント依頼期間中の㭍月例祭氏の行動によって証明されました。

この期に及んでは、㭍月例祭氏は全く信頼できず、これ以上、議論を続けることは無意味です。私は合意などしなくても言ったことは守ります。

よって、㭍月例祭氏が守る確証がない合意形成は不可能であり、コメント依頼は何ら結論に達することなく即時終了とするというのが合理的結論です。--Quark Logo会話2017年3月3日 (金) 11:23 (UTC)[返信]


提案  - このコメント依頼の即時終了を提案します。--Quark Logo会話2017年3月3日 (金) 11:23 (UTC)[返信]

Quark Logoのコメント

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この迷惑な依頼のせいで大幅に時間をロスしたため、合意形成の当事者が戻る程度先までこちらもウィキブレイクすることにしました。返答はそれ以後になるのでご了承ください。--Quark Logo会話2017年1月24日 (火) 19:10 (UTC)[返信]

終了について意見が出てます。どなたか終了提案の投票などを提起される方はいないものでしょうか? 柒月例祭氏が答えないだろうという前提で終了の議論をするのは早すぎるかもしれませんが、もうやめろという意見がでていますので、合意不成立のまま終了を宣言するのか、どのような方法をとるか意見を求めたいと思います。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 13:36 (UTC)[返信]

第三者様の意見へのコメント

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返信 (ネイさん宛) - ネイさんの意見とは幾つかの点で同意見です。出典形式の変更が書きにくくなるという根拠がよくわかりません。ただ節スタブの件は、まずは告知であり、ある内容についての言及が欠如していることを指摘したまでです。この記事は翻訳記事ではないので、原文というものがあるわけではないと思います。整理している段階で、この記事において95条の内容という重大な部分が書かれていないことに気付いたので、スタブで指摘して加筆が求められていることを告げることは、節スタブというものの役割ではないでしょうか? そして放置する意思はありませんし、まずしばらくは待って、誰かが編集に手を出せば良し、誰も書かないのなら私が自分で下書を起こして執筆に入るということです。

小画像については、全部するか全部しないかの方が統一感はあると思って発言したのですが、その後は柒月例祭氏から回答はなくて、議論は中断でコメント依頼(かつウィキブレークだそうです)ですから話もできない状態です。普通、ディスカッションというのはこうでもないああでもないと話し合うものだと思うのですが・・・。いきなりシャットダウンされたので、このような長文を書かされて非常に迷惑しています。いずれにしもて、コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年1月24日 (火) 15:22 (UTC)[返信]

返信 (ネイさん宛) - 95ヶ条の論題の加筆のためにすでに史料を買い集めたし、執筆中なので、関わらないというような宣言はするつもりはありません。ただ一方で、私は包摂主義者であり、対立する相手だからといって、その記述を無碍に扱うとか、どうかするようなことをしたこともないし、するつもりもありません。
私の加筆は、不足する内容を大幅に書き足して、より明確でわかりやすく論旨を整理するというものです。出典付き記述の扱いも熟知していますし、柒月例祭氏が使った同じ書籍も数多く集めました。出典主義に基づく記述で、異議が挟まれないような書き方をしてきましたし、今回もするつもりです。私が一貫して指摘してるのは、内容の不足であって、内容の不足から来ているバランスの悪さです。今回は内容そのものの執筆であって、執筆してないのにスタイルを変えるなという異議でしたので、改訂が完成すれば、特にそれについて異議がでることはないと思います。
また「主筆者」「主執筆者」という件に関しては、明文化されていない、存在しないルールであることはこの際、明らかにすべきでしょう。それがこのコメント依頼での柒月例祭氏の主張の骨子ですから。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 10:57 (UTC)[返信]
返信 (ネイさん宛) - 全面降伏しろといってるわけではないのですが、強制された事実がないのだから、それは発言を取り消すべきでしょう。強制がないことが確かならばこのコメント依頼自体が無かったことになります。他の点についても、「意味もなく道路に横たわって交通を阻害する」みたいなたとえ話ではなくて、具体的な説明があってしかるべきだと思うのですが、長引いたので「もういいよ」という感想が多いようですね。何度もコメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 13:29 (UTC)[返信]

返信 (J8takagiさん宛) - J8takagiさんのお悩みの件は全く知らないので言及できませんが、95ヶ条の論題においては記事の内容の除去はされていません。13.に書いたように、出典方式が、著書名・ページ番号・章名の順を、一般的に使われているハーバード式に沿って著者名・年数・ページ番号・章名にしただけですし、出典テンプレートを使っただけですし、一般的な画像の表示法である枠を付けて、21.のように大きさなどを調整しただけです。

議論することもなくリバートすることの方が私には編集強行であると思います。リバートは基本的に編集方針の相違で用いることはできないものです。そこでまず議論して合意に達するべきでした。そしてリバートした理由が、柒月例祭氏の言説から#論点2であるとしか私には思えません。合意形成については議論の途中で柒月例祭氏が席を立っており、途中放棄の状態です。柒月例祭氏は勝手に結論をだしてますが、実際には合意に達しておらず、何の結論もでていません。

この件とは関係ありませんが、J8takagiさんのいう編集権を先着順にするというアイデアは非常にラディカルな提案で興味深く拝見させてもらいました。

出典方式を改めて出典リンクを作ることは「必要もない」ことではないと考えます。これは読者にとって凄く便利なのです。また検証可能性を向上させます。ガイドラインとしてはそもそも推奨もされています。必要ないことならガイドラインに書かれていないし、テンプレートも用意されているはずはないです。そして、出典方法は他の方法の記述に邪魔になるものではないです。これまで通りに書くことはできます。

J8takagiさんのお悩みの件についてはアドバイスできませんが、コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年1月24日 (火) 15:22 (UTC)[返信]

返信 コメント、ありがとうございます。また、私の悩みについても配慮していただき、ありがたいのですが、とりあえず無視してください。さて、私の「アイデア」ですが、「編集権を先着順にする」というよりも、「記事改善の立証責任に手番がある」というほうがいいかもしれません。既存の記述(今回は柒月例祭さんの記述)を上書きで変更した場合、変更した人が記事を改善したことを立証できなければリバートされても仕方がない、ということなので。
今回の場合、画像の表示法については、先にも述べたように立証責任の手番が柒月例祭さんに移っていると私は考えます。一方、出典方式、画像の大きさの調整については別途考えるべきです。
出典方式については、「ガイドラインとしてはそもそも推奨もされ」ているの該当部分(どのガイドラインのどの部分か)を示すべきです。ガイドラインをもとに議論できれば、「立証責任」などとややこしいことを考えなくても済みます。EULEさんの仰る「こうした問題を解決する一番いい方法は、明確な指針・規定を作ることです」にもつながると思います。なお、ヘルプはガイドラインとは違いますし、テンプレートが用意されているからといってそのテンプレートを使うことがWikipediaで推奨されているとは言えないと思っています。
また、画像の大きさについては人ごとに感覚が異なるという問題もあり、合意がむつかしいと思っています。ガイドラインや方針をもとに議論することもできませんし、優劣もつけることもむつかしいでしょう。写真が小さくて極端に見づらいとか、スマホ環境で見づらいなどの合理的な理由が示せれば、立証責任の手番が移ると思うのですが。「統一性」も、あえて画像ごとに大きさを変えるほうがよい場合もあることなどを考えると、論拠としては薄いと思います。この点については、Quark Logoさんには申し訳ありませんが、改善の立証は困難ということで、先に書かれた柒月例祭さんの記述を残すべきだと現時点では考えています。--j8takagi会話2017年2月1日 (水) 11:26 (UTC)[返信]

返信 (ぱたごんさん宛) - まず、ぱたごんさんのいうスタイルとは具体的には何でしょうか? 私は7-1で書いているように、柒月例祭氏がスタイル、スタイルというものの具体的に何を指すのかはっきりしないと思っています。少なくとも私は承知していません。スタイルとは、出典のスタイルでしょうか? 13.で示したように柒月例祭氏の出典記述はハーバー式とほぼ変わらないものであり、相違があるといえるほどではないし、書名が表示されるようにも簡単に変更もできるわけです。書籍情報についても出典テンプレートの表記とほぼ変わらないものがテンプレートを使わずに書かれていました。表示を見比べても、出典のスタイルを変えたといわれるほどの差異はないし、間違った書籍情報を正しい情報に書き換えてもいます。強制も押しつけもしておりません。誰にも何かしろとはいっていません。要するに出典テンプレートが使うことがダメだと言いたいのでしょうか? ではなぜ出典テンプレートはあるのでしょうか。そして別に出典テンプレートが使われていても、使われていなくても、それは自由なはずであり、どの記事も普通に混在しています。出典テンプレートで記述されたことで生じる不利益とはなんでしょうか? 出典テンプレートがメンテナンスの障害になるとは思いません。ちょっと用語の混乱で、説明に不備があったかもしれませんが、柒月例祭氏は脚注部にまとめて出典を書かれており、そこは全く変更していないので、メンテナンスに障害がでたとは考え難いです。具体的にいうと、{{harvnb}}を用いただけであり、脚注部にまとめられたままなので、メンテナンス性はそのままです。書誌情報は基本的にISBNでほとんどは参照できるものであり、検証もできますから、書き換える必要のないものでもあり、出典テンプレートによってメンテナンス性を損ねることがあるとは思えません。nameなどは一切変更していない、柒月例祭氏の設定のままです。{{harvnb}}の使い方がわからないという苦情ではないと思いますし、どうしても出典テンプレートの使い方がわからないというのなら、その部分は平文で書けば良いのではないでしょうか。そもそも出典部分を頻繁に書き換えるという必要性がないのが普通で、ここれを頻繁にメンテナンスの必要があるとは思えません。一度書いたら本文を変えるというのでなければそのままでしょう。編集内容も把握せずにとりあえずリバートするというようなことは許されていないし、議論もせずにリバートをするなと主張するのは利用者の通常の見解です。柒月例祭氏は話し合うべきだったのです。押しつけも、強要などもしてません。議論の途中に柒月例祭氏が席を立たれたということです。何一つ強制も強要もしていません。議論はまだ決着をみていないのに、なぜ、一方的に終了させた側から非難を受けなければならないのか承服できません。ノートでのやりとりはたった2回(2往復)です。2回のやりとりで完全な意見交換は不可能ですし、こちらの質問で返事を貰えなかった内容もあります。対話を強制的に切断したのは柒月例祭氏です。認めない、とかおっしゃいますが、まだ話は途中であり、何も結論はでていないものと考えます。それにノートのやりとりでもここのやりとりでもわかりますが、柒月例祭氏はかなり性急に誤解しています。ぱたごんさんはノートでの2回のやりとりで利用者間が理解し合えると本当にお考えですか?

カッペル戦争の記事では、柒月例祭氏の記述を同様に、知識熊さんがハーバード式に変更しています。出典方法のハーバード式への変更は、ウィキペディアで特異な編集とは言えません。ぱたごんさんが去年執筆された埼玉県の貝塚の一覧を見ると、ぱたごんさんは出典テンプレートを利用されており、{{harvnb}}ではありませんが、表記法はハーバード式を用いられ、#で内部リンクを設ける方法で出典リンクを設けられています。ハーバード式も出典リンクも、ぱたごんさんも用いているほど一般的な方法であることの証左といえるのではないでしょうか。敢えてリンクを設けて利用されているところから判断すると、ぱたごんさんも出典リンクの有益性をご理解されていると思います。となると、出典方法の改善は「何の利もない」とは言えないのではないでしょうか?

「コミュニティを疲弊させる」というのはマジックワードですが、柒月例祭氏のコメント依頼で私はだいぶ疲弊しました。長文になるのはわかっていましたし、最初に指摘させてもらいました。説明責任がない、合意形成もしなくていいというのなら何も言いませんが、そうではありませんから、長い指摘には言葉を尽くして説明せざる得ないです。合意形成については柒月例祭氏がいないのでできない状態です。いずれにしても、コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年1月24日 (火) 15:22 (UTC)[返信]

返信 (Caserioさん宛) - Caserioさんの仰る通りでしょう。同感です。記事は百科事典の読む側の利便性も重要です。出典リンクは読者にとって便利だと思います。コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年2月1日 (水) 07:20 (UTC)[返信]

返信 (Yapparinaさん宛) - Yapparinaさんの言われることも確かにその通りだと思います。書いているうちに脱線した部分がありました。該当部分などを削除致します。コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年2月1日 (水) 07:20 (UTC)[返信]

返信 (Bellcricketさん宛) - その通りだと思います。個々に議論することもなく、主筆者だからと主筆者のスタイルにするというのは間違ってると思いますし、編集は投稿された直後から誰にでも引き継がれていくもので、全員にとってどうなのかを考えるべきです。敬意を払うについては、ノートで「執筆者のスタイルを尊重してください」と言われたのですが、執筆者が使いやすい出典形式を使うことを尊重してほしいということだったので、主筆者の権利というのは違うという話をしましたが、このコメント依頼では、私の口調とか態度が悪いみたいなことになってるのかなと思います。しかし強制されたとかいわれるとこちらもカチンときます。ただし礼儀ただしくする努力はしなければなりませんので、気をつけていこうと思います。コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年2月1日 (水) 07:20 (UTC)[返信]

返信 (EULEさん宛) - 記事の所有権が否定されている第一の理由はやはり著作権でしょう。執筆者の著作権は記事となった段階で共有財産化されるということがまずあり、これによって自由に利用可能な百科事典形としての前提が成り立ちます。主筆者なるものは存在せず、編集履歴に登場する全員、IPユーザーも含めて全員が著者になるようです。そして権利はウィキペディア全体(利用者全体)で共有されるはずです。Wikipedia:著作権の記述は小難しいですが、利用者はコンテンツを使用許諾することに同意しているので、変更や修正を、所有権があると主張するという方法では、拒むことができません。内容について議論してその賛否を問うのはいいのですが、権利としてこれは自分の記事だと主張するとGNU文書であることに矛盾してしまいます。基本が、常に「この文書を無断で改変してよい」の状態であるはずで、誰かの許可が必要という状態はウィキペディア文書の原則に反しています。第二が文責の否定だと思います[17]。記事に所有権がないことで利用者は個人で法的責任を負いません。特定の記事に誰々が執筆者だと設定すると権利と義務が同時に発生します。誰か利用者個人が編集権を持つとなると、その文責も負うことになりますが、それはしないのがウィキペディアなので、逆に言えば、特定の利用者には特定の記事の編集権や記事の所有権は与えないことになるのでしょう。これら二つは方針に関係するものなのでマストのものだと思います。検証可能性や出典の明記、出典付き記述の削除の禁止などのルールによって、有意義かどうかにかかわらず、出典付き記述は削除することは現実的に難しいです。記事の所有権の内容を読むと、記事を私有化する迷惑ユーザーについての記述のように読めます。だから第三には記事を私有化しようとする人への注意・警告であると思います。解決するために、明確な指針・規定を作ることは、良いことであると私も思いますが、ウィキペディアの構造上「主執筆者なる存在」は定義できないし保護もされないと思います。コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年2月15日 (水) 07:50 (UTC)[返信]

返信 (EULEさん宛) - まず、私は上記においてEULEさんが書かれた『主執筆者の権利を否定する「記事の所有権」の規定がある第一の理由は、有意な編集が主執筆者なる存在によって否定されること(記事の質に対する実質的な損害)を防ぐためにあり、第二には「相手の編集を尊重する」という規範が破られる破る際の「もっともらしい」理由になりやすいからでしょう。前者に異論は無かろうと思いますし、今回の議論でも争点では無いと思います。後者については既に指摘もされていますが、「相手の編集を尊重する」というのは主執筆者のみに課せられた義務ではなく、誰にでも課せられた義務なわけです。』についての話をしています。で、EULEさんが異論がないといわれた前者について、いやそうではないでしょう、と上記のように「記事の所有権」の規定がある第一の理由がEULEさんが言われたこととは異なるのではないかと反論をしたのであって、それを無視されては会話が成立しません。
EULEさんは「主執筆者に裁量権を与えること」を”可”とされていますが、それを認めるルールがどこにもないという話を長々としていたのです。また記事の所有権で書かれている内容が、記事において誰かに特権をあるということを認めいていないようにしか読めないと言っているのですから、「主執筆者に裁量権を与えること」が現在存在するガイドラインに違反しているのではないかと申しているのです。そして私の拙い読解力では、記事の所有権の内容は、主執筆者なる存在が有意な編集を否定されることを禁じるよりも、むしろ私有化の振る舞い(つまり記事に主執筆者という裁量権を行使できる存在が存在すること自体)そのもののを禁止しているとしか読めません。私としては「「記事の所有権」のルールの精神に反しているかといえばそんなことは無い」といわれる理由が理解できませんから、(前回)上記のような返信をしたわけです。
「フォーマットを統一して回るなら、まず明確な指針・規定を作ってから行動すべき」は、その通りでしょうが、すでにスタイルマニュアルがあるので、スタイルマニュアルはガイドラインとして明確なフォーマットと言えますし、私の立場としてはスタイルマニュアルに準じる編集を目指すということです。その部分について意見の相違はないように思います。
出典テンプレートの利用については、はるみエリーさんも指摘されているように、ガイドラインであるWikipedia:出典を明記する#個別参照法で「やや難しいですが、ハーバード方式など、一覧文献の個別参照法を利用すれば、正確性と一覧性が両立できます。これは、同一著者による異なる著書や、同一書籍中の異なる箇所を参照するときに便利です。」と利点が述べられており、「半角スペースを削除」や「関数/函数の変更」と全く同じだと論じるのは乱暴だと思います。いずれにしろ、度々コメントくださってありがとうございました。--Quark Logo会話2017年3月4日 (土) 07:25 (UTC)[返信]
返信 (EULEさん宛) - ああ、なるほど。実は「関数/函数の例」というのの議論の経緯を私はほぼ全く知りません。それでEULEさんが何を言っているか全くわかりませんでした。調べてみましたが、その議論があったのは2009年とかではないでしょうか? 1、2年前なら覚えちゃいますが、8年前だと参加すらしてませんね・・・・。EULEさんは主執筆者に裁量権を与えるという利用者間合意があった、ということを言われていたのですか。それなら意味不明で当然ですね。度々コメントくださってありがとうございました。--Quark Logo会話2017年3月5日 (日) 19:33 (UTC)[返信]

返信 (SilverSpeechさん宛) - SilverSpeechさん、コメントありがとうございます。おっしゃることはその通りである点が多いと思いますが、一点だけ誤解されているようなので、その点だけ説明させてもらいます。私は、Triglav氏が投票中の自重を呼びかけられたから、編集すべきではないといっているわけではないのです。このコメント依頼は、そもそも柒月例祭氏がノート:95ヶ条の論題で、「私(=柒月例祭氏)はこの記事から手を引き、以後は第三者に委ねることにします。」と高らかに宣言して、始められたものなのです。にもかかわらず、柒月例祭氏は、コメント依頼も終了していないのに、軽々と、前言を撤回して平然と記事を編集していることに不快感をしめしているわけです。考えてもらいたいのは、このコメント依頼は柒月例祭氏が起こしたものであって、第三者に委ねるといって皆さんのコメントを求めておきながら、結局、ガン無視しているというのは何なのかということなのです。個々にコメントを寄せてくれて皆さんを蔑ろにし、ほぼ個別には返事すらしてないわけです。柒月例祭氏は委ねる気なんてなかったのではないかとすら思われますし、コメント依頼で皆さんに迷惑をかけるという意識が全くないようです。急に強制とか言いがかりを付けてきて、発言は軽視するは、前言は撤回するは、皆さんは蔑ろにするは、柒月例祭氏の空騒ぎの振る舞いこそが「コミュニティを疲弊させる」行為だと思うわけです。--Quark Logo会話2017年2月23日 (木) 14:22 (UTC)[返信]

返信 (SilverSpeechさん宛) - 今更感があると思いますが、「主筆者」「主執筆者」に関する点が柒月例祭氏の主張の根幹であると考えますが、この点について柒月例祭氏は主張すらしてません。それは議論としていかがなものか、という思いがありますが、そういった難しい問題に答えることができないというのならば、それは井戸端などに回すというのは、私からの譲歩です。出典方式の変更によってなんら障害が発生しないということも論説したわけですが、柒月例祭氏は主筆者だからスタイルを決める権限がある/あるいは尊重されるべきだというような主張をされているので、それならば柒月例祭氏は「主筆者」「主執筆者」の地位や権限について論説するべきなのにそれをやってませんから、今後はそういう主張は慎むべきです。出典テンプレートの使用は、外面的な変更がほとんどないだけでなく、読者の利便性を向上するもので、一般的に推奨されています。内容を書き換えるのではなければ脚注や参考文献を弄ることはあり得ないので、メンテナンス性を損なうというようなこともありません。これらもこともすでに書きましたが、これらについても、柒月例祭氏の反論はありません。
要するに、具体的な指摘に対して柒月例祭氏は一切議論を拒否しているというのが実態のなのです。こんなに長く書いているのに、まだ一つも議論してないのですから、合意形成は不可能と考えるべきでしょうね。ロードマップは、議論を避ける柒月例祭氏への勧告のつもりで出しました。結局のところ柒月例祭氏は対話拒否と変わらない姿勢なわけで、議論に参加しないのなら、これについてどう思うかぐらいは答えるべきだと思ったのですが、それすらなしで終わるのでしょうかね。ついでに言うと、どっちが先だとか、一番に書いたらから興味があるだろうとか、最近、本題と関係なさ過ぎる不毛な水掛け論を始めたのは主に柒月例祭氏なんですけど。いずれにしろ、度々コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 15:54 (UTC)[返信]

返信 (湖紫陽さん宛) - このコメント依頼ですが、そもそも「強制された」といって柒月例祭氏が始めたものなのです。Husaさんがコメントで確認していただけたように、私が柒月例祭氏に何かを強制してやらせたような事実は存在しません。強制されたという事実が存在しない以上は、発言を取り消してもらう必要があります。私の立場から言わせてもらえば、2回の応答のあと、突然、コメント依頼に参加させられることを無理強いされたわけで、その点については譲れない強い不満があるのです。

「主筆者」「主執筆者」については、柒月例祭氏からは何の反論もありません。反論がないことが承服したということなのか確認する必要があります。承服していないないのならば、「主筆者」「主執筆者」の権限をどのような根拠で主張するのか示す義務があるでしょう。

またコメント依頼を起こした側である柒月例祭氏は、皆さんへの回答と、軽率な行動の説明責任があると考えます。

もちろんそれらをせずに無視して、コメント依頼を投げ出すことも柒月例祭氏はできるでしょう。その場合はそれが柒月例祭氏の客観的な評価として広く認知されることになりますから、それでも今後に活かされると思います。だから湖紫陽さんがいわれるようにこのまま終息しても、ロードマップを示したことは無駄にはならないと考えます。コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 12:14 (UTC)[返信]

返信 (湖紫陽さん宛) - なるほど。ただ私が言いたいのは、この我々の経緯をみて(ここに参加してないような)第三者が柒月例祭氏は強制捏造したり前言撤回したり、軽率な行動しても説明を避けたままにするかもしれないと、そういう行動をする人なんだなと判断するだろうということで、私の言ってることの全てが客観的だといっているわけではないです。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 13:29 (UTC)[返信]
返信 (湖紫陽さん宛) - 事実ではない発言の取り消しがそんなに難しいことだとは思いません。<del>(または<s>)を入れるだけのことです。我々ウィキペディアンの慣習では普通のことだと思うのですが。実社会と違って、ウィキペディアの発言の取り消しは簡単だと思います。ルールがありますから。--Quark Logo会話2017年3月1日 (水) 23:08 (UTC)[返信]

返信 (Keisotyoさん宛) - いつまでも納得しないユーザーというわけではないですし、生き生きとやってるわけではないです。Wikipedia:妨害的編集において定義されているように、”いつまでも納得しない”という行為は、『「他の議題に移るのが生産的なことだ」とコミュニティにより合意が為されたでも、利用者が同じ主張を続けること』であって、コミュニティが合意に達するには、投票が必要であると承知しています。その前に、最後にまとめて意見を集約的に表明しただけのことです。強制してないのに強制したと言われるのは、暴言であり、発言の取り消しを求める権利は依然としてあります。

Keisotyoさんが、コミュニティの合意として終結を提案されるならば、もちろんご存じだと思いますが、Wikipedia:論争の解決に従って投票を提案されるのが正しいやり方です。いずれにしろ、コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 12:37 (UTC)[返信]

返信 (Keisotyoさん宛) - それは誤解です『詫びを入れろ』なんてことは一言もいっていません。詫びる必要性は特にありませんが、「強制された」というのは完全に事実無根なのですから、事実ではない暴言は取り消す必要があると言っているのです。これは基本的なルールです。「阻害」もされないし、当然のごとく道の横たわったりもしておりません。誇張された表現や虚構などは議論の場には相応しくありませんし、対立を激化させた原因です。だいたいにおいて、他の利用者に対して何かを強制するような権限も能力も一利用者にはないのですからそんなことは起こりえないし不可能なのです。有りもしないことを発言することは個人攻撃にあたり、発言の取り消しを求めることは利用者間で一般的に行われています。(Wikipedia:ノートページのガイドラインHelp:ページの編集#取り消し線・下線を参照) 度々コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年3月1日 (水) 23:08 (UTC)[返信]

返信 (Pooh456さん宛) - 確かにその点についてはジレンマを感じます。強制されたという事実とは異なる理由で、コメント依頼を立ち上げられたら、そうではないと弁明する必要があります。その弁明は長大なものになると、当初より予告したものです。過去の件まで蒸し返され、広範囲な論点を提示された以上、短い文章で反論することが可能でしょうか? 少なくとも私にはできません。端的に反論できればもちろんそれに越したことはありませんが、降り懸かる火の粉は拂はねばなりませんから、できないということに尽きます。さらにその後の柒月例祭氏の軽率な行動についても、不満を高めたという経緯があるわけで、それについても苦言を呈する必要がありました。それに対して、阻害されたとか、「ありとあらゆることで私を攻撃しようとしている」といった、また事実と異なる主張をされた限りは、それにも反論しなければなりません。それらは短い文章で語ることはできませんんでした。

すべてはリアクションであり、柒月例祭氏の実際の言動に対する反応です。ウィキペディアでは、何かを言って意思表明しないと承服したことになってしまいます。事実とは違うということは、違うと述べるしかないのです。短くまとめる方法があれば教えてもらいたいですが、なかなか短く語ることはできないものではないでしょうか。長く書くから問題だといわれるのは違うと思います。憤激しているので、不満が止めなく出てくるということはあるとは思いますが、これは喜んでいるわけではないです。怒っています。いずれにしろ、コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年2月28日 (火) 15:03 (UTC)[返信]

返信 (はるみエリーさん宛) - 私の立場からいうとコメント依頼をふっかけられた側なので、申し立ての中に事実ではないことがあれば、否応なく、それを証明する義務的な必要があったというだけです。特に何か主張があるわけではないです。強制された事実がない以上、嘘は取り消してから終わるように言っているだけです。度々コメントありがとうございました。--Quark Logo会話2017年3月2日 (木) 22:51 (UTC)[返信]

合意条件について

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返信 (はるみエリーさん宛)
①ハーバード方式等の出典テンプレートの使用についてははるみエリーさんのおっしゃる通りだと思います。ただ、共著者の列挙の順番とか、著者の選択、シリーズ名の表示有無、ハーバード式とは異なる書名表示、などなど、出典テンプレートは応用がかなり利きますから、どう表示させたいのかなどはむしろ積極的に発言しろというのが(これまで一貫して主張してきた)私の立場で、文句を言わないという合意は必要ないと思います。ウィキペディアの方針上、沈黙を要求することはできないとも思いますし、「出典テンプレートへの修正をリバートしない(元に戻さない)」だけで十分ではないでしょうか? そもそもそういうリバートの利用は禁止事項ですから当たり前のことなので、合意が無くても守らなければいけないことです。
②画像については、依然として柒月例祭氏の自分ナイズされた画像スタイルには問題があります。しかしこのコメント依頼ではっきりしたことは、柒月例祭氏と議論しても話にならない、ということです。よってすでに述べたように、井戸端などで提起して、小画像の利用や、枠無し画像の利用について、方針・ガイドラインやヘルプの説明の変更等を議論してウィキペディアのルールとして何らかの方向性を示すしか、方法はないのかなと思っています。ここまで散々論じてきた柒月例祭氏の考え違いという問題もあるわけですが、それを可能にするのは日本語版マニュアルの不備です。小画像については、最近のPC、タブレット等の解像度が上がったことによって、小画像の弊害も大きくなっており、はっきりした規定が必要だと思われます。枠無しに画像については、英語版では特別な理由がない限りサムネイルを使うように明確に指示があり、キャプションを付けるように指示もあるため、(キャプションの出せないベーシックは使われず)サムネイル(かフレーム)が標準的に使われています。柒月例祭氏は、Template:File clipという切り抜き画像テンプレートを改造して、Template:File clip2という枠の無い切り抜き画像テンプレートを作って、枠の無い(切り取り)画像にキャプションを表示させて、所謂、抜け道として利用しています。
あと、今、気付いたのですが、File clip2は、0nedreamさんの作成したFile clipからのコピペで作られている(数値、色指定等以外、一字一句同じ)のに、見てみると履歴継承がなされておらず帰属表示がありません。これは不正なウィキペディア内部文書のコピー(盗用)に当たります。どう考えてもこれは、明白に帰属表示義務違反であるため、規定に従って削除依頼をすべきだと思いますが、この話の流れだと報復行為と解釈されて現在のコメント依頼が紛糾する可能性もあるため、 提案 皆さんの了解と了承を受けて後で私が行ってもよいですが、もしくは私以外の第三者によって削除依頼を出して頂きたいと思いますが、いかがでしょうか? もちろん投票が行われますから、その後は投票の結果次第となります。(Wikipedia:著作権侵害への対処#帰属表示義務違反の場合
それから95ヶ条の論題は、改訂に伴って、内容や順番やらの変更があるために、画像配置や選択画像も変える予定です。画像について、このコメント依頼での柒月例祭氏の議論は主張のトーンを落としてますが、特にノート:95ヶ条の論題を読むと、「執筆者のスタイルを尊重」しろといってるだけで、私が内容に手を加えないのに画像や出典テンプレートを弄ったのが不満だという表明をされていますから、執筆によって内容を充実させて改訂を行った者(つまり柒月例祭氏のいう主筆者)がそれに際して画像等の配置を変更することに、異議はないではずです。制限されるとしたら、柒月例祭氏の携わった記事の内容の執筆を行わずに画像だけを変えること、でしょう。私は前述のようにウィキペディアが画像使用についての方向性を示すまで、ウィキ化を留保することには同意できます。留保期間は必然的に相当長期になると考えられます。また95ヶ条の論題以外で柒月例祭氏が携わった記事の改訂は予定していませんが、付随して、レオ10世 (ローマ教皇)ユリウス2世 (ローマ教皇)ドイツの宗教改革贖宥状アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク (1490-1545)マルティン・ルターフィリップ・メランヒトンライプツィヒ討論など関連する事物のページい関しては、将来、改訂または一部加筆する可能性があることを通告しておきます。これはつまり柒月例祭氏が関わるとかどうかではなくて、常にそうであるように、記事の内容を改善する必要があるかどうかに依存しているとういことです。一貫して、私の関心は柒月例祭氏そのものにはありません。ウィキ化されていない記事と、内容に問題がある記事が、主な関心事だからです。
あと、レオ10世による贖宥状については、扱いが難しいと考えています。通常、それぞれの記事で加筆されるべき内容を集成して一つの独立コラムとして書かれており、既存の記事との重複作成にあたります。しかもそれが少しずつであるため、分割すれば良いとも安易に言えないし、なんとも中途半端。まとめ記事にみたいになっており、将来、それぞれの記事の発展の障害になる可能性があるような気もしますが、ただの独立コラムとして放置するしかないような感じです。当面、扱いは保留します。(面倒なので)多分何も手を加えようとはしないと思いますが、もし気が変わった場合は、この記事に関してはノートページで少なくとも1週間前から事前に告知します。
③記事の内容について、私は誰かが何かの記事から手を引くことを要求していません。記事の記述は出典主義に基づく限り、例え、柒月例祭氏のような人の参加でも容認されます。上記のように多様な参加姿勢が容認されるのがウィキペディアの編集方針です。(WP:EP)ノートと選考投票において、内容についての加筆を柒月例祭氏は否定していますが、思うに、勝手に主筆者たる自分がやるべきことだと言われていると誤解していたものと想像されます。いや、誰も柒月例祭氏がやれなんて言ってないし、期待もしてません。記事に内容が不足していると指摘しただけ。そしてその改訂を自分でやります。
④コメント依頼の件を封印するのは困難だと思います。というのも、何度も申し上げているように、事実ではない強制についての発言の取り消し(打ち消し線を入れること)すら柒月例祭氏は拒否しています。これは紛争の火種を消す意思がないの表れと理解でき、柒月例祭氏は不当にも敵対的姿勢を堅持されており、「水に流す」という状況ではありません。発言が取り消されていないので、結局、依然として、柒月例祭氏は嘘ついてコメント依頼を始めた人でしかないです。大袈裟に誇張して表現することと、偽証することでは大きな違いがあり、その件については議論すら対話拒否されている状態です。「脇道」とかいってますが、裁判の最中に偽証したら、当然、偽証罪で裁かれるわけで、対立や紛争中であっても、やって良いことと、やってはいけないことの分別は必要です。ですから、このコメント依頼での柒月例祭氏の行動の件は、将来にわたって柒月例祭氏の言動の参考にされるべき事案です。
はるみエリーさんには、折角の提案を頂きましたが、私がこれを書いている間に、柒月例祭氏より先にはるみエリーさんの提案を拒絶する旨の通告があったようです。--Quark Logo会話2017年3月4日 (土) 03:35 (UTC)[返信]

合意条件2について

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賛成 - はるみエリーさんの提案は公平なものだと思います。賛成します。--Quark Logo会話2017年3月4日 (土) 23:53 (UTC)[返信]

柒月例祭の主張

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  • ウィキペディアでは、スタイルについても多様性が認められていることを受け入れてほしい。
  • 多様性が認められている範囲では、事前の提案や合意形成もないまま、スタイルの書き換えを強行するのは控えてほしい。
  • Quark Logoさんが深く関わった記事ではともかく、そうでない記事においては、他利用者に敬意を払い、そのやり方を尊重してほしい。

私はQuark Logoさんが執筆者として実績のある方と認めています。Quark Logoさんの記事の書き方にまで口を挟むつもりはありません。問題利用者だとも思っていません。

他利用者にまで自分のやりやすいと思うスタイルを排他的に強制するのをやめてほしい、相手方から異議があるような場合には編集強行をやめてほしい、他利用者が一生懸命書いた記事を触るにあたっては、それ相応の礼儀を守ってほしいというだけです。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 18:50 (UTC)[返信]

過去事例について

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  • 関の五本マツは立項当初から月間新記事賞の候補になるような水準の記事でした。参考文献にはたくさんの文献が並んでいます。これはつまり作成者はそれ相応の調べ物をし、記事名も含めて、その調べ物に基いて判断したものである、ということです。
  • 失礼ですが、Quark Logoさんは、自身がネット上で得た情報だけを根拠に「明らか」と断定する傍ら、しっかり文献を調査した執筆者を軽視し、自分とは異なる意見を全て「間違い」と決めつけてかかっているように思います。
  • ミスや思い込みは誰でもやることですし、私もやります。しかしその後がどうでしょう。結局Quark Logoさんは非を認めるでもなく、謝るわけでもなく「意見の相違」で終わらせました。最後になって「日本人としての違和感」に言及し、「そう思っている人は私だけでは無い」と言い放って去っています。
参考文献節の位置の件
  • これは私(柒月例祭)とQuark Logoさんが直接対立したものであり、今回の対立と同根のものです。
  • 第三者により、スタイルマニュアルの「節構成」は「一例」であること、多様性は認められているという見解がよせられました。Quark Logoさんの主張には合意が得られなかった、と私は解釈しています。
Wikipedia:コメント依頼/宇井木辺出夫Wikipedia:コメント依頼/Quark Logo(2016年12月)
  • 宇井木辺出夫さんが他にも問題を抱えていて、それらも相まってブロックになったことはしかたがないのです。が、宇井木辺出夫さんは彼なりに、一生懸命出典にあたって記事を編集していました。その出典方法(スタイル)にひたすら異を唱え、宇井木辺出夫さんが異論を述べているにも関わらず、宇井木辺出夫さんが関わっている別の記事でもスタイル修正を強行しました。これは一種の挑発行動であったように思います。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 18:50 (UTC)[返信]

出典形式・節構成のスタイル

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出典のスタイル
  • Quark Logoさんは、独断で出典を「ハーバード方式」に変えました。私が出典を元の形式に戻したら「妨害編集だ」と断定しています。
  • Wikipedia:出典テンプレートには「出典テンプレートの利用については、その記事の他の編集者らとの個々の合意に任せられています。」とあります。
  • 理屈の上では、「出典形式の変更」「画像サイズの変更」「中身がゼロの節を作成」「参考文献節のレベル変更」をしたQuark Logoさんも「その記事の他の編集者」ということになるのでしょうか。私は「95ヶ条の論題の編集者」に値するでしょうか。少なくとも私はQuark Logoさんから、この記事での出典テンプレートの利用について、話し合いも合意形成の打診もなされていないのですが。
  • 過去に両者が関わって行われた議論などを通じ、「出典の明記方法や節構成などには、多様性が認められている」ことはQuark Logoさんもご認識されているはずです。
  • 私(柒月例祭)は「全員、すべての記事でハーバード方式を使うな」と言うわけではありません。しかし、私が主筆車となってハーバード方式を使わずに編集した記事で、全く執筆していない利用者が形式だけを変えるのに対し、「ハーバード方式は使わないでほしい」「そうすると私は編集しにくくなる」と申し上げているものまでもハーバード方式を強制していくことはやめてほしいのです。
「内容」節
  • Quark Logoさんは、95ヶ条の論題で、「概要」の次に「内容」節を創設し、それでいて中身は何も書かずに「スタブテンプレート」を貼りました。
  • これは感情論以外の何ものでもないのですが、正直に言います。私は私なりに数ヶ月をかけて調べ物をかなりやって、記事を作りこんだつもりでした。実際に手に取ることができる文献には限界があるので、「英語版」には見劣るかもしれないけれど「ドイツ語版」よりはマシだろうと思っていたのですが、「概要」節の次に「中身がゼロの節」を作られてスタブテンプレートまで貼られてしまいますと、ガクッときます。
  • ノートでも書きましたが、私は数ヶ月をかけてそれなりの数の文献を読みました。私が読んだ範囲ではこの文書の「内容」に直接詳しく言及している文献はなく、この文書の「歴史的意義」や「通説と実際の相違」について、多くの文献で、多くのボリュームを割いて解説されておりました。私が作成した記事はそれらのバランスや重要性にしたがって構成したものです。
  • 私は、これらの文献に基いて、この文書の「内容そのもの」はさほど重要とはみなされていないのではないかと主張し、仮に「内容」節を作るとしても後ろのほうでいいのではないかと提案しましたが、はねつけられてしまいました。
「参考文献」節
  • 「参考文献」節も同様に、私の意図とは離れて独立節になりました。
  • これについては明らかに過去の議論の蒸し返しです。
  • また、おそらく「出典」に直接使用されていないものを「関連図書」節として、「脚注」の上に出したのだろうと思います。「関連図書」は、「出典には使っていないけど、本記事を理解するのに役に立つ文献を紹介しますよ」というものだろうと思います。
  • Quark Logoさんはおそらく「機械的判断」をなさったのだろうと思います。この主題を深く理解するための「図書」は、『はじめての宗教改革』、『宗教改革小史』、『マルティン・ルターの生涯』である、と実際に読んだ私は思います。逆に『カール5世とハプスブルク帝国』や『図説 神聖ローマ帝国』は、周辺知識を学ぶには役立ちますけれど、優先順位は低いでしょう。この2冊は他の文献と重複する内容が多いので、「・・・・・・[1][2][3]」とするのを避けて「出典として示す」のは割愛しただけであって、実際にこの2冊も執筆の参考にしているのですけれど。

Quark Logoさんは、Wikipedia:記事の所有権を根拠に、記事は誰でも編集できるのだから、スタイルをQuark Logoさんの好みに合わせることは自由にやってよい。それをリバートするのは柒月例祭による記事の私物化宣言、マナー違反と主張なさっています。

確かに記事には所有権はないのだから、誰でも自由に変更することはできます。

とは言え、多様性が認められている範囲で、「その記事に携わった執筆者ではない利用者が」「黙って、一方的に、他の様式に変更するだけ」の変更を行うことは、好ましいことではないと私は考えています。その記事の編集を行った利用者は、その調査や加筆の程度の応じてそれ相応の判断を行って節構成や出典形式を整えているのであり、それはある程度尊重していただくことはできないのでしょうか。いくら「誰でも編集できる」とはいえ、その記事の加筆や信頼性向上などには寄与していない利用者が、「合意もなしに」スタイルだけを変える」ことは「好ましい」ことではないと思います。「出典方式」だけを変えられ、私にとっては「編集しにくい」状態になり、それを修正することすら禁じられ、私はもうこの記事を加筆したり編集したりする意欲が失せました。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 18:50 (UTC)[返信]

画像やレイアウト

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  • 画像のサイズやレイアウトについては、技術的な面でも、創造性の意味でも自由度が高いもので、選択肢は無限にあります。
  • Quark Logoさんは、私が{{File clip2}}というテンプレートを{{File clip}}に変えたことを問題視している」とおっしゃっていますが、それは違います。
  • clip2については、確かに私が作ったテンプレートです。私以外使っていないでしょう。機能として両者はほとんど差のないものですし、これを入れ替えることに対して、それほど異議を述べるものではありません。(逆に言えば、わざわざ入れ替えるほどのことか、ということにもなります。)(何かで画像を並べるのに「枠あり」と「枠なし」が並んでしまい、それを整えるのに作ったはずです。)
  • 私は「配置」や「サイズ」を変えたことを申し上げています。そういった「配置やサイズの修正」は与島尾太鉱山のようにQuark Logoさんが前からなさっていることです。

Quark Logoさんはこのようにおっしゃっています[18]

  • Wikipedia:画像利用の方針#配置には、確かに「幅が100ピクセル未満の画像は、大きな画面を使用している読者には、見にくくなるかもしれません。」というのがあります。これは私は見落としておりました。
  • 私が100px未満(80px)を実際に使用したのは、次のような使い方です。
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異端者は三週間のうちに火に投げ込まれて、入浴用の帽子を被ってあの世行きだ。 — ヨハン・テッツェル、ルターの提題について[† 1]
  1. ^ 『マルティン・ルターの生涯』,フリーデンタール/著,笠利尚・徳善義和・三浦義和/訳,新潮社,1973、p181
  • ぶっちゃけ、この「顔画像」は、記事全体の中でそれほど重要ではないでしょう。この使い方は「雰囲気」を出す程度の効果しかないはずで、この画像をマジマジとみることで記事の理解を深める、という意図は、執筆者である私にはありませんでした。なので、「小さいこと」をそれほど問題だとは思っていませんでした。この「顔」が80pxであるか100pxであるかで、記事の主題の理解に大きな影響はありますか?
  • また、私は95ヶ条の論題の中でテッツェル、フッテンについて「発言」に顔画像を添えました。彼らは同時代人であり、リアルタイムで記事主題の事件に実際に直接的に関係した人だからです。
  • 一方、Quark Logoさんは、数百年後の人物である「エンゲルスの引用」にもエンゲルスの顔画像を追加し、後段にはルターの顔画像を繰り返し入れました。
  • 私は「エンゲルスは同時代人じゃないので、ここにエンゲルスの顔を入れるのは、記事の主題にとって不必要な注目を集めることになる」のでエンゲルスは不要ではないかと申し入れました。また、一度出てきているルターの顔画像を何度も繰り返すのも不要ではないか、と申し入れました。しかしQuark Logoさんは、「ルターとエンゲルスの小画像については、他の発言で発言者の画像を掲示するなら全部するべきでしょう。しないなら全部の小画像をカットするべき」と主張なさっています。私の意見は全く考慮してもらえません。
  • このほかレイアウトの変更は多岐に渡ります。私のレイアウトはめちゃくちゃだと言わんばかりです。でも私一人でさえ、執筆時、閲覧時、さまざまにウィンドウの幅を変えます。それによっても「見え方」は変わります。個人設定やブラウザ設定で文字サイズや行間隔を変えることもできますから、実際の「見え方」は人それぞれでしょう。「ニュルンベルク版「95ヶ条の論題」の冒頭部」の表組では、私の版では画像、ラテン語の文章、日本語の文章がほどよく表示されていましたが、Quark Logoさんによる改変後、私の環境ではラテン語の文章も日本語も文中で改行されすぎて読みにくいです。
  • 私は「絶対に自分のレイアウトじゃなきゃダメだ」とは言いませんし、ウィキペディアに投稿する以上、他者による改変は覚悟の上ではあります。「100px未満はダメよ」というのに80pxを使ってたのが100pxに是正されるとかいうのはわかります。が、180pxのサイズ指定を200pxに変えるとか、右を左にするとかまでいちいちいじくり回されるのは、それはもうQuark Logoさんが自分の好みにあわせて好きなようにしているだけ、と感じます。
  • 私が「論題の全文」「門扉」「文書の拡大画像」を並べていたのはなぜでしょう。「本当にこの文書が門に貼りだされたのか疑義がある」という条件下で、「論題の全文」と「門扉」を見比べて、物理的に貼れるだろうかと読者が想像したり、物理的に貼れるサイズであった場合に、文字のサイズはどのくらいになるだろうかというのを想像したり、そういう効果も期待したんですけどね。(はっきりそう書くと独自研究になっちゃいますけどね。)
  • 尾太鉱山では逆に、「大きい画像を小さく」「小さい画像を大きく」されてしまいました。
  • 私が「尾太鉱山で実際に採れた鉱石は、結晶の説明をしつつ細部が見えるように大きな画像」「尾太鉱山で採れたものではないのは、参考として小さく」していたのですが、私には「むしろ小さくなたことで結晶が見えなくなっていて、説明が通じなくなっている」と思えます。
私が投稿したもの
団塊状の菱マンガン鉱の先に黄鉄鉱の結晶を伴っている。
岩石に内包され、水晶と共に通常の菱型結晶構造となっている。
Quark Logoさんによる「改善」後
団塊状の菱マンガン鉱の先に黄鉄鉱の結晶を伴っている。
岩石に内包され、水晶と共に通常の菱型結晶構造となっている。
この2つを比べて、それほど私の版はみづらく、Quark Logoさんの版が優れていますでしょうか。それとも好みの問題の次元でしょうか。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 18:50 (UTC)[返信]

柒月例祭のコメント

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Quark Logoさんは、独断でご自身の好みを強制し、相手の抗議は「記事の所有権」を根拠に執筆者の意向を排撃し、調べ物をしている執筆者に対する敬意を些かも払っていないように感じます。ご自身が信じる「統一性」を追求するあまり、他利用者への礼儀やマナーを欠き、それを指摘する他利用者をかえって「マナー違反だ」と否定します。

「柒月例祭氏が個別参照法を使いたくないなら(リバートや妨害をしないなれば)それはそれで結構ですし、混ぜて書けば良いだけでしょう。」「(Quark Logoさんのやりかたを修正するのは)妨害的編集」だとのことです。私が「個別参照法以外の方法」を使って執筆することはできるが、それをQuark Logoさんがハーバード方式に変えるのは正当で、一度ハーバード方式にされた記事では、私がハーバード方式以外に改めると「妨害」になるということです。これは「ハーバード方式の強制」ではないでしょうか。私はWP:CTに書かれているような「その記事の他の編集者らとの個々の合意」を求められてすらいません。

Quark Logoさんは、私(柒月例祭)とのあいだで「出典形式」や「節構成」について意見の相違があることを1年以上前からご認識されているはずで、しかも第三者を交えた議論の中で、「Quark Logoさんが正しく柒月例祭が間違っている」という結論には至っていないこともご存知のはずです。

大前提として、私は「全ての記事、すべてのウィキペディアンが私の言うとおりにしろ」と主張するわけではありません。「所有権」ではないけれども、主筆者がいて、あなたが一切関わっていない記事において、どちらでもいいようなスタイルに関しては、主筆者の意向をいくらか優先するなり、少なくとも事前に声をかけるなりして傾聴してもらえないかと申し入れています。ご自身が納得しないまでも、異論がある場合には強行はやめてほしいのです。

で、あれば、最低限のマナーとして、過去にトラブルになったような編集をいきなり強行するのはやめてほしいと思っています。「所有権」を主張するのとは違いますが、記事の中には、「90%以上柒月例祭が書いたもの」もあれば、「柒月例祭が関わったのはほんのちょっと」なものもありますから、それら全部で「やめろ」とまでは言いません。しかし、Quark Logoさんがほとんど関わっていないような記事では、「自分は出典についてこういうスタイルに変えたいと思うがどうか」と事前に尋ねるとか、最低でも相手が「その形式はやめてほしい」という場合には引き下がるというふうにしていただきたいのです。

私はかつて2015年12月23日に「節のレベル」については一度譲歩すると発言しました。実際そうやってもみたのですが、やはり使いにくい。なので今は戻しています。しかしQuark Logoさんはそのことを「過去の発言を反故にしている」と非難なさいます。

Quark Logoさん自身が起こした井戸端の議論では「2015年12月23日以降」に、「レイアウトは多様性が認められる」という第三者見解が集まっています。少なくともQuark Logoさんの主張が認められたわけではないです。それに対してQuark Logoさんは何もコメントしていません。私だけが「譲歩」の言質をとられ、そのことで1年以上経った今になって「反故にしている」と非難され、反対意見にはだんまりを決め込んだQuark Logoさんが正当性を主張するのというのには、私は納得がいきません。

今回も、Quark Logoさんは、私がいくらかでも譲歩を示唆すれば「枠ありでよい、というのは合意と理解してよいでしょうか?」と切り込んできますし、私の主張は全て「私有化そのものだ」「不当」「明らかだ」と断言なさいます。それで編集を強行し、いくらでもリバートし、私がリバートすると「妨害的編集だ」とおっしゃいます。これでは要するに何もかもQuark Logoさんの思う通りに従う事でしか、納得なさらないように思います。弱りました。

ひとまず、本件は第三者に委ねます。本件について、基本的には(余程のことがなければ)少なくとも2週間はコメントせず静観します。多くの方が私のほうが不当だと結論付けるならばしかたがありません。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 18:50 (UTC)[返信]

(追記)全体的な御意見でも、個別的・部分的な御意見でも構いません。よろしくお願いします。--柒月例祭会話2017年1月23日 (月) 18:54 (UTC)[返信]

復帰後のコメント

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多くの方にコメントいただきありがとうございます。第三者の意見が集まるまでクールダウンも兼ねてインターバルを置こうというつもりでブレイクをしたのですが、そのうちインフルエンザにかかってしまったりと、思っていた以上に間が空いてしまいました。すみません。

間が空いたことで、(本件とは関係なく)私のモチベーション自体もクールダウンしてしまいまして、そのうえこれからリアルで忙しい年度末シーズンを迎えるということもあって、活動は当分低調になりそうです。

さて、多くの方からコメントをいただきまして、確かに私がリバートをかけたのは適切ではなかったと思います。また、ノートでもご指摘いただきましたが、記事の冒頭に近い場所に「内容」という名前でスタブ節を作られたことで私が頭にきた、というのはその通りと認めざるを得ません。頭に血が上った状態でコトに当たってしまったというのはその通りです。すみません。

また、私が「記事の所有権」を主張したように受け取られてしまったことも、私の説明不足であったと反省しております。私は確かに「敬意を」というような言い回しをしましたが、これは「私を尊敬しろ」とかそういう意味ではないのです。確かに編集は自由にできることととは言え、基本的な考え方として、しっかりした調べ物に基づいて書かれた記事は、それ相応の根拠や判断に基づいてなされているものだ、と推定するべきだということです。したがってそれを改変しようとする場合には、事前にノートページで提案を行い合意を形成してからにする、というのが手続きとして丁寧であり、また衝突を予防する効果もあるでしょう。

第三者の方が示してくださったように、改変について、1件づつ事前にご提案や質問をいただければ、それについては私も合意するとか、それについてはこういう事情があるといって対話がスムーズにできたように思います。

結果として現状は、トラブルが起きる前の状態に戻してくださったようで(この点については特にTriglavさん、受け入れてくださったQuark Logoさんに感謝します)、もう一度ここから1件1件の変更について話し合いができればと思います。私もQuark Logoさんの編集の全てが受け容れられないというものでもありません。

よろしくお願いします。--柒月例祭会話2017年2月15日 (水) 06:50 (UTC)[返信]

コメント記事は強化記事、月間強化記事賞をいただき、現在GAの選考を頂いております。その選考にはQuark Logoさんも加わってらっしゃいます。そこで複数の第三者の方から記事の内容についての具体的な指摘がありましたので、それに対応する編集を行いました。これは良質な記事の選考などではごく日常的に行われていることです。少なくとも選考に参加してくださった2名の方からは、この編集を評価いただいております。

また、今回のトラブルの発端になっているQuark Logoさんの編集は記事の「内容」には及んでおりません。画像の配置やテキストにテンプレートを適用するなどのスタイル面の編集であれば、今回の私の編集のあとにそれを適用するとしても、障害はないでしょう。そのような状況で私が編集すること自体をここまで口汚く罵られるとはあんまりです。

「選考」のなかでは、具体的な根拠を示して反対意見を述べることは誰でもできることですし、そうやって反対されるぶんには私もかまわないと思います。しかしQuark Logoさんは具体的な問題点を指摘もせず、根拠も示さず、ただ「実は問題がある」とだけ言って反対しており、それでいて他の方が指摘した問題に対応するのもダメだというのでは、これは意味もなく道路に横たわって交通を阻害するのに等しい行為です。これでは、Quark Logoさんは、自分は誰にも何の相談もなく自由にいくらでも記事を編集するが、自分以外の人間が手を触れるのは一切認めない、と言っているのに等しいです。「対話の途中だった」「自分は対話の用意がある」などと嘯いていますが、実際には私から根拠を示した提案を全てはねつけており、それでいて私が少しでも譲歩を示唆するとそれを全部主張する。対話や合意をしようという姿勢とは思えません。--柒月例祭会話2017年2月24日 (金) 05:11 (UTC)[返信]

コメントQuark Logo‎さんの主張には、私から見て、事実ではないもの・事実とは思えないものがあります。ひとまず直近のものと、最初のもの、2点を指摘しておきます。

  • 「良質な記事の選考などには何の興味もありません[19]」とおっしゃいました。
実際にはQuark Logo‎さんはWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/95ヶ条の論題 20170211に1番乗りで参加し、票を投じています。これで「何の興味もない」はないでしょう。
  • 「Quark Logoさんの主張」の冒頭部分で、Quark Logo‎さんは「㭍月例祭氏が過去の件についても蒸し返した」と言っています。
私には「最初」に「過去の件」を持ち出したのはQuark Logo‎さんであるように思えます。
そこで私は、Quark Logoさんがいう「過去の件」を確認しに行ったところ、「関の五本松」と「参考文献のレイアウト」に行き当たったのです。

こうした意見の対立をいちいち指摘すると、それだけで長文になってしまいます。しかしそうしたところで、「なるほどあなたの言うとおりだ」とはならないでしょうし、この話を続けても非生産的でしょう。もしも「㭍月例祭が否定しなかったのだから認めたということだ」みたいな論法を使わないのであれば、互いの「批判」についてはこの際おいといて、できることなら記事のことで1点づつ個別具体的に話をしたいのですが、それは受けていただけますでしょうか?

できれば、最初は当たり障りが無さそうな{{file clip2}}のことを話題にしたいのですがいかがでしょう?--柒月例祭会話2017年2月27日 (月) 07:20 (UTC)[返信]

コメント論点が多岐にわたっています。それをいっぺんに扱えば煩雑になりますし、お互いに「こちらの質問・指摘に答えていない」などという話になります。ですからひとまず論点をただ1点に絞ってお話したいのです。それで{{file clip2}}はどうか、とご提案しました。ただし私はまだ{{file clip2}}について具体的にどんな話をするか、述べていません。述べてもいないことを推測して否定されても困ります。(私がお話しようとしていることとかけ離れています。)まずは1点に集中して話し合いをする、ということについては同意をいただけませんか?--柒月例祭会話2017年2月28日 (火) 03:07 (UTC)[返信]

コメント{{file clip2}}は今この場で論点とはしたくはない、ということですね。わかりました。

  • では、話を戻します。「良質な記事の選考には興味がない」とおっしゃる方が、実際には選考に参加し、「賛成」「反対」以外に「コメント」という選択肢もある中で、積極的に「反対」を投じる王道をしている、というのは発言と行動が矛盾していると私は考えています。
  • Quark Logoさんは前回の回答の中でこうおっしゃっています。
  • 「本人が興味がないといってるのだから、それ以上のことはありません。」
  • Quark Logoさんの内心・内面は誰にもわかりません。ですから、Quark Logoさんが内心について「興味がない」とおっしゃるならば、そのこと自体の真偽を確認する術は第三者にはありません。しかしながら、内心は興味がないとしても、選考に積極的に参加したという事実は事実です。(選考に参加しない、という選択肢もありました。)第三者からは、選考に参加しない自由もあるなかで、自らの意志で選考に参加し、投票なさったわけです。それを「興味がない」とおっしゃるのは、第三者の目からは言行不一致であるとみられる、とは思いませんか?
  • この件については、もしもQuark Logoさんが「実際には興味があったから投票した。『興味がない』というのは、ちょっと口が滑った」とお認めになるのであれば、その事自体はこれ以上私は追求するつもりはありません。--柒月例祭会話2017年2月28日 (火) 08:11 (UTC)[返信]

コメントノートページにおける「もうやめたら?」という第三者のご提案について、私からコメントを行いました。この件についてのお返事をお待ちします。それ以外の件については、ひとまず、回答を求めません。--柒月例祭会話2017年2月28日 (火) 08:56 (UTC)[返信]

論争の解決にむけて

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コメントQuark Logoさんが重視していて、それについて私がコメントしなければ「解決」に近づかないような事柄に限定し、3点見解を表明します。

論争の解決と第三者のコメントについて

私は、論争についてのコメント依頼の場では、第三者からのコメントについて逐一返信するのはやめておいたほうがいい、と考えています。解決から遠ざかってしまう結果を生むことが多いからです。

基本的に、論争の解決というのは、一方が他方を「論破」して言い負かして勝利宣言をするというようなものではないと考えています。相反する意見をもつ両者がお互いに譲歩して妥協できるポイントをみつけることだと思っています。

論争の初期には、お互いの言い分を確認するために、100%の主張をすることはしかたがありません。しかしそのあとは、お互いにどこまで譲歩するかを検討するべきだと思っています。お互いが自分の主張の90%を取り下げたならば、相手の残りの10%にまだ不満があるとしてもそれは飲み込み、妥協する。それで論争を解決させるのです。

第三者コメントに対して逐一返信しようとすると、どうしても、自分を支持する意見をとりあげる・相手を批判する意見にとびつく・自分を批判する意見に反論する、という抗いがたい誘惑があります。しかしそれは、「相手を言い負かす」ことにつながり、当初の核心から論点をどんどん変えたり拡げたり増やしたりして、論争をかえって長く大きくしてしまいがちです。(私はこの「誘惑」に抗うのが難しいので、最初に2週間のブレイクを実行しました。)

なので、第三者コメントは、譲歩や妥協を模索するための参考にはしますが、逐一返信をするというのは自重したほうが、迅速かつ穏当に論争を解決するのにつながる、と考えています。

今回の第三者コメントのなかには、私に対する批判も少なくありません。リバートをしたことや、要約欄の使い方に関する批判は、反省すべき点と思っています。

「主筆者」について

Quark Logoさんは「「主筆者」「主執筆者」に関する点が柒月例祭氏の主張の根幹であると考えます」とおっしゃいました[20]

ところが私から見た場合、「柒月例祭の主張の根幹」は違います。

ここに認識の相違がある、ということがわかりました。なぜ認識の相違が生じてしまったのか、その原因は私の表現力が拙かったからかもしれません。

こちらのように、「主筆者」という「概念」自体はウィキペディア内に実際に存在し、使用されています。たとえばWikipedia:コメント依頼/機械的な用語置き換えの是非Wikipedia‐ノート:良質な記事Wikipedia‐ノート:表記ガイドなどのページ内で「主筆者」で検索していただければ行き当たります。これは「地位」というよりは「記事との関わり」というような概念です。

  • 「主筆者」に「(排他的な)特権がある」とまで主張する人は、私を含めて、いないでしょう。せいぜい、「選択肢があるような場面」では「いくらか優先してもいいだろう」というような緩やかな風潮、という程度のものだろうと思います。ただしその風潮を受け容れる人と、受け容れない人はいるでしょう。

私からみた「柒月例祭の主張の根幹」は、「きちんとした調べ物が行われた記事に対しては、丁寧に接してほしい」ということにありました。

しかしながら、私の表現力が拙かったために、「きちんと調べ物をした記事」ではなく「きちんと調べ物をした」に重みが置かれてしまったようです。ここに「スタイルの選択」の話も加わったために、「柒月例祭が、主筆者としての特権を主張し、記事の所有権を主張し、Quark Logoさんを排除しようとした」というように受け止められてしまったのだろうと思っています。

  • ここでいう「丁寧に」というのは、記事についての疑義や提案がある場合にはまずノートページで問い合わせたり、具体的な根拠を示すということです。良質記事の選考の中では、「Aについて書かれていないのはどうしてなのか」という質問があり、私は私なりに文献を当たった結果としてAについて書かれたものが見当たらないから、という根拠を回答しました。もしも「○○という文献にはAについて書かれているよ」という情報がもたらされたならば、私は感謝を表明し、喜んでその文献を買い求めて読むでしょう。そういうやりとりが行われることを、私は「丁寧」とか「敬意をもったふるまい」と考えていて、そういうやりとりなしにいきなり書き換えることを「丁寧さ・敬意に欠く」と考える、ということです。
  • これはあくまでも「論点」の話です。Quark Logoさんの側では、論点が変わっても柒月例祭の主張には賛同しない、と言う自由はあります。(ただ、論争の解決にむかう中では、この論点について「どちらが正しい」という話は忘れるべきだと思っています。)

このように、私は「「主筆者」「主執筆者」に関する点」を主張しようという意図はありませんから、それについて論説することはありません。そこはご理解頂きたく思います。

「ウィキペディアでは、何かを言って意思表明しないと承服したことになってしまいます。」[21]について。

これは1つ目の論争の解決の話と共通性がありますが、私は「意見表明しないと承服したことになる」とは思っていません。確かにWikipedia:合意形成などには、「168時間返事がなければ合意とみなしてもいい」などの説明はありますが、これらはあくまでも意見を表明する人が現れないような場合です。

対立意見がある・反対者がいることが明確になっている/容易に予想できる、というような場面では、「反論がない」ことをもって「承服した」とするのはあまり適切ではないでしょう。明示的に合意をしたこと以外は、「合意が行われなかった」というところまでしか言えないと思います。

今回の議論のなかで、私は「Quark Logoさんが反論しなかったので認めたということだ」という論法を使うつもりはありません。そういう論法を使うと、「最後に言った者が勝ち」みたいになっていつまでも終わらない、みたいな現象に陥りがちで、不毛です。--柒月例祭会話2017年3月1日 (水) 06:42 (UTC)[返信]

コメントいま私たちは、見解の相違が甚だしくて合意形成が困難である議論を、もうやめましょう、という話をしています。その条件のなかに「見解の相違が甚だしい事柄」を盛り込もうとしても、難しいのではないでしょうか。

第三者の方々からは、下記2点での案をお示し頂いております。

仮にこれをお互いに受け容れるという場合には、この2点以外は、何の合意もないし、何も確認しない、何もコメントしないということになります。(「上記2点以外には何の合意もないことを確認する。」という「合意/確認事項」があるともいえます。)

まずはこの2点について受け容れ可能かをお示しください。私は「受け入れ可能」です。


ノートでお示ししたように、私の方からはこれに1点の条件を提案しました。

  • 「95ヶ条の論題からは手を引くけれど、引き続き別の記事では柒月例祭の記事スタイルを問題視したり、書き換えてまわるよ」というのでは、場所を移して同じ衝突を繰り返すだけです。そういうことをしない、という条件
  • こういう解説をすること自体が「これ以外には合意したことはない」にやや反することになってしまうのですが、念のために説明しますと、この「条件」は、「Quark Logoさんが自らの非を認めた」ことにはなりません。単に、同じ事柄で別の場所で衝突を繰り返すことを予防しましょうということです。

これに加えてもう2項目コメントを残しましたが、それは「条件」というよりは、私からの一方的譲歩です。詳細はノートのとおりですが、「95ヶ条の論題から手を引く」について、Quark Logoさんの側だけに「編集すること」を認めましょうというものです。

Quark Logoさんにおかれましては、この私の「1条件(+2項目)」を受け容れるための条件を、あらためてご検討頂きたく思います。--柒月例祭会話2017年3月3日 (金) 02:42 (UTC)[返信]

返信 (はるみエリーさんへ)ご提案ありがとうございます。「95ヶ条の論題から手を引く」については、第三者提案に基づき「双方」としながらも、私はQuark Logoさんだけが編集することを認める提案をしております。そのほかご提案の内容には、今回具体的に話し合いに至っていない内容が多く盛り込まれており、合意や確認事項とするべきではないと考えます。

具体的な話し合いに至らなかったのは、具体的な話し合いをする前段階でこじれてしまったからでしょう。たとえば「強制した・していない」「事実だ・事実でない」「興味がある・ない」「先だ・先でない」などなど。しかしこれらの事柄はいずれも、「具体的な話し合い」以前の問題だったと私は考えています。例えば画像のサイズの話をする上では、「強制した・しない」「興味がある・ない」がどっちであろうと関係のないこと、脇道ですから、私はその手の論争はもうやめたほうがいいと考えました。
私から見た場合の、中心的なテーマは、「選択肢は複数用意されていること」「選択肢がある事柄について修正する際には、事前に提案するのが望ましい」ことの確認/要請でした。「でした」というのは、私もこれらの論点について最初から整然と、簡潔に、冷静に、説明できていたわけではなかったという反省があります。それができていれば、論争をこじらす可能性はいくらか低くなっていたかもしれません。(Quark Logoさんから見た場合の「中心」は違うところにあるのかもしれません。)
しかしこじらせたとはいえ、「事実だ・事実でない」のような論争を全て取り除いていったとしても、この「私から見た中心的なテーマ」について、どうも合意は不可能だと考えるに至りました。中心的なところが合意不可能であるのに周辺的なところ(興味がある・ない)で論争してもしょうがないので、議論の終結をさせようということでして、終結にあたって確認できることは、「議論を終結させるということ以外には何も合意・確認できたことはない」としか言えないと考えております。
はるみエリーさんがご指摘なさった「要約欄」については(いろいろ端折りますが)要約欄でああいうこと書くことは問題の解決に寄与することはないだろう、という点については、ご指摘どおりだと思っています。これについては今回のコメント依頼の合意や帰結がどうであれ、私個人にとっての反省事項です。--柒月例祭会話2017年3月4日 (土) 02:38 (UTC)[返信]

コメント すみません。主に現実世界での多忙とPC故障により間があいてしまいました。お待たせしたことを皆様にお詫びします。

  • 既に述べたように「何も確認事項や合意事項がない」ことを確認したうえで本件をクローズするということには同意します。
  • はるみエリーさんの2度めの提案は「合意事項がない」に反しますし、私の立場では賛同できません。(私から提示した条件と正反対の内容ですし。)
  • {{file clip2}}が履歴の継承を欠いているという指摘については、なるほどと思いました。この程度のテンプレートが「著作性」を有し、削除するしか方策がないといえるほどのものなのか、正直、私にはわかりません。一応「履歴の補完」をしておきました。
  • たまたまPC不調により普段使わない環境でログインしましたが、私が常用していた環境と違いまして、「画像のサイズ」や配置について、見え方は結局環境依存だなあとあらためて感じました。これまで私は主に「解像度1680」でログインしていたのですが、「1920」に変わってみると、100pxは小さいと感じるのは納得です。
  • 「現実世界での多忙」は当面続きます。本件自体はもはやそれほど頻繁にログインする必要がない局面となっているように思っていますが、いずれにせよしばらくほとんどログインしない感じになると思います。--柒月例祭会話2017年3月20日 (月) 15:53 (UTC)[返信]

関係者の意見

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第三者の意見

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コメント お二方とも面識のある方で、宇井木辺出夫氏の投稿ブロック依頼で議論に参加していたので、今回は95ヶ条の論題での論争のみコメントします。

  • まずは2人とも落ち着いてください。一歩退いて考えれば、出典形式や画像サイズなどは細かいことでしょう。それをいきなり差し戻したり、「妨害的編集」、「記事の私物化」などと応酬していったら誰でもヒートアップしてしまいます。
  • 「有意な加筆をした編集者の意見はスタイル変更や誤字修正など細かい変更しかしなかった編集者の意見より重要なのか」についてはWP:OWNに基づいて、「いいえ」です。しかし、同時にそれを持ち出して記事の大部分をお書きになった編集者の意見を無視することも許されません。変更または差し戻しの理由は記事自体に基づくべきです。現に柒月例祭さんが主筆者であることを理由としたものは出典形式のみであり、WP:OWNではそれ以外の反論になっていません。
  • 出典形式の混ぜ書きはスタイル上あまり良くないのではと思います。柒月例祭さんは「主筆者である私の方式と違うものにされると困ります」「編集しにくくなる」とおっしゃっていますが、ハーバート式を採用すると編集しにくくなる理由を教えて頂けないでしょうか。きちんと説明すればQuark Logoさんも納得いただけるかと。
  • 節スタブの件は、ウィキソースというれっきとした原文があるにもかかわらず、節スタブだけ設けて何も書き込まないのはサブスタブの立て逃げに似ていると感じます。何らかの理由で翻訳が無理のであれば、Wikipedia:翻訳依頼で内容の要約を依頼するのも手です。なお、内容の見出しの位置については柒月例祭さんが下のほうに置くべき原因を述べており、わたしはそれを支持します。
  • 画像サイズについて。100px以下で見にくくなると、それこそ雰囲気も何もなく、「小さくて見えない」という結果だけに終わります。100pxがあれば確実に見えるというわけではないが、それが最低限なだけでしょう。ただし、180pxか200pxかは特にこだわる必要がなく、それを変更されたことを悪く思わなくてもいいではないかと存じます。
  • 小さな顔画像の使用についてはQuark Logoさんにお聞きしますが、全部掲示か全部消すかにこだわる理由は何でしょうか。特に「アントワープの人文学者」という画像のない者の引用もある中、全部掲示することには無理があると思います。
  • 枠の有無、File clipかFile clip2かなどは些細な問題で選好の領域です。揉めるようならもうコイントスでもして決めましょう。

今回は以上ですが、95ヶ条の論題だけでも論じるべきことが多すぎて書ききれなかったものもあるかもしれません。気づいたら補足します。--ネイ会話2017年1月24日 (火) 03:48 (UTC)[返信]

同様事案で悩んでいる立場から

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同じような事案(プロジェクト‐ノート:サッカークラブ#「出身選手一覧」の記述方法についてWikipedia:コメント依頼/Bsx20160901)で悩んでいる立場からコメントします。

今回の議論の背景になるのは、私の表現(あるいは私論)になりますが、「Wikipediaの重要な方針に反しない他者の記述は尊重されるべき」という常識だと考えています。 今回の議論の対象となっている編集は、Wikipediaの3大方針などの重要な方針には反しないというのは、当事者双方とも合意していると考えます(もし反しているのならば、修正あるいは除去が必要)。 ならば、他者の記述を尊重することで、Wikipediaの記事が維持されて争いが少なくなると私は常識的に考えます。

しかし、この常識はWikipediaの方針に明記されていないようです。この内容に近いのはWikipedia:編集方針の中にある「除去によって改善を行うのであれば、その記述を行った人を含めた他の編集者への呼びかけを行うなどの配慮をしてください。」という部分だと考えます(Wikipedia:井戸端/subj/他者の記述は尊重する態度とWikipediaの方針についての質問で教えてもらいました)。 柒月例祭さんの「相手方から異議があるような場合には編集強行をやめてほしい」という主張は、この方針に従っていると考えられます。 編集強行(ノートなどでの合意形成せずにいきなり既存の記述を上書きする編集をすること、とわたしは解釈しています)はWikipediaの方針で要求されている「配慮」を欠いているといってもいいかもしれません。 なお、Wikipediaの方針に沿っていえば、〈「この記事の執筆者」としていくらか自負はあります〉というのはあまり重視されないかもしれません。これも私の解釈ですが、「よい改善案を思いついたら既存の記述にとらわれずに実行してほしい」というような考えが背後にあるのだと思います。

また、これはWikipediaの現在の方針やガイドラインには明記されていないことだとは思いますが、「編集前と編集後の違いがないような記述を巡る対立があった場合には、 最初の記述を優先する」といった運用ルールがあってもいいと思います。必要もないのに他者の記述を上書きするのは、Wikipediaの方針に沿って言えば やはり「配慮」を欠いた行動だと考えます。この場合、違いの立証責任はあとから編集した人(今回はQuark Logoさん)にあります。違いを立証できなければ、㭍月例祭さんの記述を残すべきです。

ただし、今回直接の議論の対象となっている編集[22]について、閲覧時には違いがわからなかったものの、 Quark Logoさんが問題提起しているテンプレートのtemplate:multiple imagetemplate:File clip2のどちらを使うかという話であれば、違いはあると思います。 この場合はむしろ、2つのテンプレートで違いがなければ、より広く使われている「template:multiple image」を使うほうがよいと考えます。同じようなテンプレートが複数あるのは、余計な管理コストが増えることになります。とくにテンプレートの場合、バグ混入の可能性もある、といった事情もあります。一方、「template:multiple image」ではなく「template:File clip2」を使う合理的な理由が明示されれば、「template:File clip2」を使うべきです。つまり、テンプレートについての指摘があった時点で先ほどの話と逆転して、違いの立証責任が㭍月例祭さんに移ったと言えます。違いを立証できなければ、Quark Logoさんの記述を残すべきです。ややこしくなってしまいましたが、これが私の結論です。なお、テンプレート使用の方針やガイドラインは、私は探したけど見つけられませんでした。もしこうしたテンプレート使用の方針があるならば、その方針に従うべきだと考えます。わかる方がいればご教示ください。

今回の議論がもつれた原因は、㭍月例祭さんとQuark Logoさんの双方にある(一般的に、議論がもつれる場合には当事者双方に原因がある)ほかに、Wikipediaの方針がわかりにくいこと、すなわち「Wikipediaの重要な方針に反しない他者の記述は尊重されるべき」という常識についての記述がないことにもあるかと思います。編集内容や議論の内容から、おふたりともWikipediaの方針を理解した優れた編集者だと私は思っています。今回の争いの妥協点をおふたりがみつけてくれることを願っています。--j8takagi会話2017年1月24日 (火) 04:00 (UTC)[返信]

その他のコメント

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  • コメント記事は主筆者のものではない以上に自分好みのスタイルを押し付けたい人のものではありません。自分好みのスタイルに直したら、別の人が違うスタイルに変更することも拒むべきではありません。Quark Logoさんは記事の所有権は主筆者に無いとの考えで自分のものにしようとしています。その後のメンテナンスを行う人がやりやすいスタイルをとるのが望ましいでしょう。少なくともその記事に精通もしていない、メンテナンスを行う気もなさそうな人が、スタイルだけ自分好みを押し付けるのは単にメンテナンスの障害となるだけです。スタイル強要して主筆者がやりにくくてしょうがなくして、しかしスタイル押し付けた人はスタイル押し付けしかせず記事の発展になんら貢献しないのではそれはマイナスの行為でしかありません。個々の例の中にはQuark Logoさんが正しいものもあるかもしれませんし、そういったように直すことも話し合いの上で行われることは否定しませんが、Quark Logoさんが自分好みのスタイルを押し付け、それしか認めないのは何の利も無くコミュニティをいたずらに疲弊させる行為であると考えざるを得なくなると思います。--ぱたごん会話2017年1月24日 (火) 12:14 (UTC)[返信]
  • コメント記事は誰のものでもなく、あえて言うならば読者のものでしょう。多数の論点が挙げられていますが、揉めてしまったのならば、その原点に立ち帰って議論をするべきです。(そういう意味では、利用者についてのコメント依頼ではなく、各個別に合意形成とか議論活性化とかのほうが良かった気がします。)読者のためにどのようなスタイルが良いか?ということを検討するにあたっては、記事の主たる執筆者という自負というものを自身の内に秘めて持つことはかまいませんが、そのことを理由にスタイルの改変を拒む、というのは筋違いでしょう。行われようとしているスタイル変更が、現行のものよりも読者に利するかどうか、が観点であるべきです。ひるがえって、スタイルの変更のみを行おうとする場合、それが読者に利するものだ、という説明を丁寧に行うべきでしょう。そういう部分でこじらせてしまっただけで、個別の記事をどうするのがよいか、といったところは、それほど大きくない問題に見えます。お二方が冷静さを取り戻されてから改めて議論されるのが良いのでは?--Caserio会話2017年1月25日 (水) 06:26 (UTC)[返信]
  • (Quark Logoさん宛て)ちょっと、相手に対する表現がきつく、煽り過ぎのように感じました。「常軌を逸している」「あ・な・た」。ご自制ください。
どちらの記事のスタイルがウィキペディア日本語版の方針・ガイドラインの規定や推奨に沿っていることが明らかとはいえないので、柒月例祭さんが主筆者という自負を理由の一つとしようがしまいが、第三者的に見ると、Aのスタイルが良い・Bのスタイルが良いという2つの意見が存在しているだけだと思いました。--Yapparina会話2017年1月25日 (水) 13:01 (UTC)[返信]
  • 柒月例祭さんは、「主執筆者」みたいな妙な意識をもって振る舞ったことをごめんなさいすればいいし、Quark Logoさんは記事の大部分を執筆された柒月例祭さんへの尊敬の念を欠いた言動をごめんなさいすればいいです。柒月例祭さんが未来永劫この記事を編集できるわけではないし、その時編集を引き継ぐのはQuark Logoさんだったり、他の人だったりします。であれば、自分自身が編集しやすいか、ではなく、どんな人でも編集、閲覧しやすいか、で判断した方が良いです。「敬意を払う」「執筆者の意思を尊重する」と「執筆者の意図に従う」は別のものです。柒月例祭さんは「敬意を払う」ことをかさにきて「主執筆者」のやり方を押し付けるような言動は避けなければいけないし、Quark Logoさんも、従わなくとも良いのですから、せめて丁寧に礼儀正しく話し合うようにすれば、こじれなかったと思いますよ。あとは、「Wikipedia:論争の解決」を参考に手順を踏めば良いでしょう。--Bellcricket会話2017年1月26日 (木) 00:13 (UTC)[返信]
コメント 主執筆者の権利を否定する「記事の所有権」の規定がある第一の理由は、有意な編集が主執筆者なる存在によって否定されること(記事の質に対する実質的な損害)を防ぐためにあり、第二には「相手の編集を尊重する」という規範が破られる破る際の「もっともらしい」理由になりやすいからでしょう。前者に異論は無かろうと思いますし、今回の議論でも争点では無いと思います。後者については既に指摘もされていますが、「相手の編集を尊重する」というのは主執筆者のみに課せられた義務ではなく、誰にでも課せられた義務なわけです。
また、ウィキペディアにおいて昔からある揉め事の一種が、どちらでも本質的な記事の質には関係しない、あるいは当事者以外にはどうでもいいというものがあります。半角スペースを削除して回るだとか、関数を函数に改めて回るだとか、フォーマットを統一して回るだとか、まさに今回はそうした伝統的な争いの1つです。
これが非常に面倒なトラブルになる最たる理由は単純で、明確な指針・規定が無く、かと言って、それ自体には記事の本質に関わる大きな実害が無いからです。本来、トラブルになった場合は当然、「相手の編集を尊重して」話し合いでの解決が望ましいですが、ここでやっかいなのは、編集合戦や合意形成のコストに対して、統一して回る方の編集コストは低いという非対称性があり、よって「主執筆者」にだけフラストレーションが高まりやすい。そこが爆発した瞬間だけ見て、過程を見ないか、見ても単なるウィキストレスで片付けるなら、本質的な問題は何も解決はしないでしょう。
こうした問題を解決する一番いい方法は、明確な指針・規定を作ることです。そもそも、それが統一するほど素晴らしいフォーマットなり記法なら、容易にコミュニティの合意を得られるはずだし、その方が特定個人の作業に依存するよりもはるかに素晴らしいことです。逆に、統一するほどのものでないなら、あるいは統一することに多大なコストがかかるなら、そのような十人十色な事柄を統一して回るというのは、単に自分好みに編集しているに過ぎず、そこに相手の編集の尊重など欠片も無いということです。まして、今回のハーバード方式のように、単純に規定されていないだけではなく、ウィキペディアとして、そもそもそれ以外も良いと許容されているものを統一して回るということに、「相手の編集を尊重する」という観点で肯定するような理由など無いです。
明確な指針・規定を作れないのであれば、「関数/函数」の先例に倣うべきでしょう。すなわち、その記事の貢献者にまかせて、統一するような真似はするなということです。それは主執筆者に裁量権を与えることですが、関数/函数の規定は「記事の所有権」のルールの精神に反しているかといえばそんなことは無いのです。--EULE会話2017年1月29日 (日) 10:41 (UTC)[返信]
(返信)不在の間にかなりのやり取りがあったようですが、それをすべて読み込み把握すると、それだけで休暇が終わって、また不在の間…と堂々巡りになってしまいますので、私のコメントに対するコメントにのみ返答いたします。
意図的に軽視されたのかどうかはわかりませんが、私のコメントの主旨は「フォーマットを統一して回るなら、まず明確な指針・規定を作ってから行動すべき」です。記事の著作権やら所有権があろうと無かろうと、記事の質に関係しないで、フォーマットや語彙を自分好みに編集して回る行為に肯定するべき点などないと言っているのです。よろしいですかね、私はそこに著作権や所有権があるから相手の編集を尊重しろなどとは言ってないのです。著作権や所有権があろうとなかろうと自分本位な編集である事に変わりはないのです。
他ならぬQuark Logo氏自身がスタイルマニュアルを引用されて述べられているように、フォーマットとは統一することに価値があるのです。Quark Logo氏が個人で1万か3万か、あるいは10万か明記されてないフォーマットに統一したとしましょう。それを見た別人も、それが正しいと思って1万くらいに影響を与えたとしましょう。目算、11万記事のフォーマットが統一されました。これは素晴らしいことでしょうか。
実のところ50万の記事で統一されていたフォーマットを崩したかもしれない。あるいは、規定されいない以上、別人がまた別にフォーマットにしているので、11万の内2万は既に異なったスタイルになっているかもしれない。以上は数値適当な例えではありますが、はっきり言って、明記・規定されていないフォーマットに統一して回る活動に価値などない。だからスタイルマニュアルにもはっきりと明言されているでしょう。

もし、もっと良いスタイルがあるのであれば、一貫性を維持するためにも、一記事や特定分野内だけでなくウィキペディアの記事全体で採用されるべきルールとして、関連するガイドラインの修正を提案してください。

フォーマット統一の重要性や、またそれが良いスタイルだと主張するなら、普通に考えて当然するべき事前行動なのです。そうした行動を経ずに行われるフォーマットを統一して回る行為というのは、ウィキペディアの全体の質向上を図るメンテナンス活動ではなく、自分好みに変えているだけの自分本位な活動です。--EULE会話2017年3月4日 (土) 05:57 (UTC)[返信]
(返信)
>それを無視されては会話が成立しません。
私が言っているのは、私の論旨にそれは何の影響もないということです。氏が、第一の理由が著作権だと思うなら、それでもまったく構いません。「フォーマットを統一して回るなら、まず明確な指針・規定を作ってから行動すべき」という指摘が、肯定にするにせよ否定にするにせよ、著作権の有無では何も変わりません。
>EULEさんは「主執筆者に裁量権を与えること」を”可”とされていますが、それを認めるルールがどこにもないという話を長々としていたのです。
私は、まず明確な指針・規定を作る行動をするべきだと述べております。その上で、人によって価値観が異なるなどして、明確な指針や規定を作るのが難しい場合には、主執筆者に裁量権を与えることになった事例があると関数/函数の例を挙げています。そこまで意図して述べたわけではありませんが「それを認めるルール」という観点で言えば、現実に起こっている問題への対応策として判例があるといったところでしょうか。ウィキペディアのルールとは、慣習と事例の積み重ねという側面を持ちます(実定法的なものがないとは言いません)。実定法主義的な日本人の感覚と合わないから難しいのですが、ガイドラインとは、そうした積み重ねを「文章」にしたものであって、「文章」にしたもののみが実行力を持つのでなければ、その厳格な逐語解釈のみが正しいわけでもありません。私は法律家ごっこも官僚主義もやるつもりは毛頭なく、ただ現実に起こった問題に対する対応策として、現実に行われた事例を引用したに過ぎません。この英米的な慣習法の観点は蛇足ですが、いずれにせよ、無条件で常に主執筆者に裁量権を与えられているかのごとき論説は私はした覚えがないし、反対です。
>私の立場としてはスタイルマニュアルに準じる編集を目指すということです
それができていないからトラブルになっているという認識がないのですか。利点が述べられているといいますが、利点が述べられているのであってハーバード方式にするべきとは書かれてません。更に言えば、氏の活動はハーバード方式だけではないでしょ。あなたが機械的に統一を行った行為には、利点すら明示されてないのも多いでしょう。私は何も難しいことを言っているわけではないのですよ。例えばハーバード方式がそんなに良くて、機械的に編集して回るほどなら、ウィキペディア全体のルールとして、皆にハーバード方式を選択させるような文言を提案すれば良いってだけの話なのですから。今、何かハーバード方式への反論が無いなどというコメントも出ておりますが、誰が見てるかわからない局所的な場所でそんな議論やっても意味がないでしょ。それこそスタイルマニュアルなりで提案して、合意形成をはかり、今回のように誰かが反論してきたら、その印籠をかざして自分の思う通りに行動すれば良いじゃないですか。氏の言い方を借りれば統一すべきとするルールがどこにもないから、ルールを作ってから行動したらと言ってるだけです。
また、さらに言えば、その利点がQuark Logo氏の行動がコミュニティから全面肯定されるほどのものではないというのも重要なことなのです。例えばA氏が書いた記事のレイアウトが今一悪く、その後でB氏がレイアウトを改善して明らかに見やすくなった。そうした場合に、今回と同様なトラブルが起こったら第三者は、中立に徹して、「Bさんの編集も悪くないから二人で話し合って」なんていう一歩引いて無難なものに終始するかというと、そんなことはないです。まず間違いなく、Bさんの方が良いという賛同者が集まって、場合によっては、それをスタイルマニュアルなり、プロジェクトなりに提案しようという人も出てくるでしょう。でも、今回そうなってないのは、Quark Logo氏がどんなに利を説いても、第三者にとっては、どっちに転んでも良い程度の話なのです。
あと最後に。
最初のコメントで非対称性について言及しましたが、本来的、理想論的には議論とは、その争点となった編集内容の評価でするべきなわけです。ところが第三者的にどっちでも良いんじゃない程度の違い―本人たちにとっては大真面目だが―、の場合、それができないから紛糾するわけです。その時に、先手はつい自身の貢献を主張したい誘惑にかられる。これは確かに「記事の所有権」を主張することだし、あくまで内容で議論の決着を付けるべきところを、編集の時系列を根拠にするという不当な要求であり、不公正だろう。その結果が起こるのが、「記事の所有権」の否定と、編集内容評価の決着が付かないという条件から、先手には後手の編集を否定することができず、つまり、後手が非常に有利という話になります。でも、それは、結局、記事の内容に関係なく、編集の時系列において決着しているという話であって、これは公正な話なのだろうか。「記事の所有権」の規定とはこうした問題を想定して後手を有利にするために作られたルールなのだろうか(ルールの精神に叶うのか)、というのがこの伝統的な問題の難しさです。--EULE会話2017年3月5日 (日) 17:12 (UTC)[返信]
  • コメント ノート:ロベルト・シューマンで同じような経験をしたので報告しておきます。私は疲れたのであきらめました。詳細を語るのも辛いです。差し戻して利用者の会話ページに乗り込んだという点で、間違ったのかもしれませんが。こういう事案では執筆者は孤立しがちだと思います。柒月例祭さんはブレイクに入られたようですが、モチベーションを取り戻されることを祈ります。私はもう無理ですが。最後に、EULEさんのコメントに深く共感したことは伝えておきたいと思いました。--みっち会話2017年1月30日 (月) 14:46 (UTC)[返信]
  • コメント 詳細はノート:ジョージア国関係記事の一覧に譲りますが、現在進行でこの依頼の議題となっているケースに近い紛争と直面しているので読んでいて非常に身につまされました。こちらのコメント依頼を拝読し、自分が直面しているケースについても「記事の所有権」と「中間の考え方として、議論は議論として尊重するが、同時に、微修正は早めに行うというものもあります」あたりの解釈に大きな隔たりがあることが紛争の根本的な原因ではないかと言う「気付き」の機会をいただけたことに感謝を申し上げます。 --サンシャイン劇場会話2017年1月31日 (火) 13:06 (UTC)[返信]
  • コメント まず、はじめに感じたことは、第三者の仲裁を求めて依頼文を書く場合に、事実と自分の主張をできる限り分けて書くこと、脱線は極力避けて簡潔に書くことを心がけられるべきであるということです。Wikipedia:コメント依頼/Maddestmagician 20161024において、長文のコメント内に適切ではない内容が混在すると、とくに、議論が冗長になりやすかったり、脱線したり、拡散しやすくなったりするということを経験いたしました。スタート時点となる依頼文においては、極力、第三者が仲裁しやすいような内容となるよう努力される必要があると考えます。柒月例祭氏は「従いまして、私が提示する過去事例が、私に有利なように公正さを欠いているのではないか、という疑念もあろうかと思います。そのあたりは割引いて下さって結構です。」と発言されていますが、事実は事実、自身の意見は意見、と分ける努力をされるべきではなかったでしょうか。一部だけ第三者のコメントを抜き出されている件についても、恣意的に受け取られるおそれも考えられます。一部しか抜き出せないのであれば、なにも抜き出さずに、参考リンクを貼る程度にすべきではなかったでしょうか。また、Wikipedia:コメント依頼/宇井木辺出夫Wikipedia:コメント依頼/Quark Logoのような柒月例祭氏と関連性の薄いことまで含める必要があったかという点についても疑問を抱きました。宇井木辺出夫氏の件でQuark Logo氏に顕著な過失はなかったと考えておりますし、いたずらに依頼文の分量が膨れあがっただけではないかと感じます。
柒月例祭氏による、「*主筆者がハーバード方式を選択しないという場合で、第三者が「ハーバード方式」を強制し、主筆者がそれを拒むのは「主筆者による記事の私物化」であり、「妨害的編集[23]」とまで非難を受ける行為なのでしょうか。」という主張について、Quark Logo氏のコメントを拝見しましたが、Quark Logo氏が、「ハーバード方式」を強制されている、という事実は確認できませんでした。まず、柒月例祭氏がQuark Logo氏の主張を正確に理解されるようつとめられ、自分の意見とQuark Logo氏の主張の違いを、ご自分の中で整理されることから始めるべきではないかと考えます。現状においては、相互理解が不足していることが大きな要因であるとしか判断できず、冷静さを取り戻して下さい、以上のことは言えないという感じです。どちらかというと、柒月例祭氏がQuark Logo氏の主張を極端な方向に拡大解釈されていることに端を発しているようにも思われ、Quark Logo氏がそこまで極端な主張をされていないという理解を深められれば、円滑に議論が進むようになるのではと感じました。Quark Logo氏については、柒月例祭氏が理解しやすいように、何度か言い方を変えてご自身の主張をされている過程で、徐々に気持ちが高ぶられて言葉が荒くなっているので、これについても、冷静さを取り戻していただくほかないと考えます。--Husa会話2017年2月8日 (水) 15:48 (UTC)[返信]
  • コメント  双方ともに感情的になるあまりWikipedia:善意にとるということを忘れてしまってはいないでしょうか。柒月例祭氏は過去の事例やスタブ貼り付けの件で先入観をもってしまっているのかQuark Logo氏の発言を悪い方へ解釈しがちにみえますし、Quark Logo氏も柒月例祭氏の発言の意図はこうだと決めつけてしまっているようにみえます。論争の解決の「議論の対象は議論相手ではなく議題そのものに集中する」や、私論ではありますが苦い論争を起こさない秘訣(特に「他人の姿勢を決め付けるのはやめましょう 」)などを守っていればここまで拗れることはなかったのではないでしょうか。Wikipediaに限らず失言や誤解を完全になくすのは不可能ですから、議論相手が失言や誤解をしたからといって強く批判するよりは軽く訂正や指摘をするにとどめて議論の本筋に戻るなりした方が建設的だと思います。ところで、2/22のQuark Logo氏のコメントの件ですが、編集自重の依頼はQuark Logo氏の会話ページのみに書かれたものではないですか? だとすれば柒月例祭氏が把握していないとしても無理はないので、その点を批判しても仕方ないと思います。「この記事から手を引く」というのも恒久的か一時的か書かれていないので単なる意図の擦れ違いとも解釈できます。とはいえ、コメント依頼中に該当記事を編集したのは少々軽率にみえますので、その点については柒月例祭氏に意図など説明していただければと思いますが。--SilverSpeech会話2017年2月23日 (木) 06:48 (UTC)[返信]
  • コメント 柒月例祭氏の編集理由は納得のいくものでしたが、コメント依頼中ですから95ヶ条の論題のノートか要約欄、もしくはこちらのページで選考で指摘された点を修正する旨をあらかじめ記載しておいた方がよかったのではないでしょうか。Quark Logo氏は柒月例祭氏に対して「意図を確認する」という行動が不足しているように見えます。コメント依頼中の編集を問題視するのは当然ではありますが、「制裁があってしかるべき」など強い批判をする前に「なぜこのタイミングで編集をしたのか」と尋ねるべきだったと思います。このような行為は前述した「他人の姿勢を決め付けるのはやめましょう」とは真逆の行為で、議論をこじれされるだけかと思います。お2人ともまだ冷静ではないように見えますし、記事編集や議論のスタンスが違い過ぎて相性が悪そうです。無理に解決を図ろうとしても逆にこじれてしまいそうなのが心配ですし、対立関係の解消だけを考慮するなら長期の冷却期間をとるのも選択肢に入れるべきかと思います。--SilverSpeech会話2017年2月27日 (月) 01:06 (UTC)[返信]
  • コメント  㭍月例祭さんのこの編集についてですが、要約欄を利用し、他の利用者に対する個人的評価を記入されることは、要約欄の目的外使用であると思います(Wikipedia:常に要約欄に記入する#注意点「記事の現状に対する利用者の個人的評価の記入、不適切な表現での記入や利用者への個人攻撃など、問題となる投稿や、要約欄の目的外での使用は行わないでください。」)。Wikipedia:コメント依頼/Maddestmagician 20161024で被依頼者に要約欄の不適切な使用を含む指摘をしたことについて、㭍月例祭さんは、ほとんど問題がないなどという意見を終始一貫表明されていましたが、このときのコメントも理解しがたいものがありました。要約欄は、共同作業を潤滑にするために設けられているはずなのに、不適切な記入を行うことで、編集者が目にしやすい場所に表示され続けることになり、目に入る度に、書いた本人を除く全ての人に不快感を与えることになります。関与していない人にとっても、そもそも、他人の文句など見たくはないのに、強制的に目に入ってしまうことになり、迷惑でしかありません。㭍月例祭さんが要約欄で文句を書かれたことについては、Wikipedia:常に要約欄に記入する#注意点で禁止されている要約欄の目的外での使用にあたることを認識されたほうが良いと思います。--はるみエリー会話2017年2月26日 (日) 11:35 (UTC)[返信]
Quark Logo氏やはるみエリー氏が指摘しているこの発言についても、軽率な行動の一貫であるように見えます。--106.154.74.174 2017年2月26日 (日) 14:24 (UTC)[返信]
この派生議論の続きはノートにあります。 --210.149.254.208 2017年2月27日 (月) 00:19 (UTC)[返信]
単なる感情の吐露を要約欄で行う必要があるのでしょうか? 言った人がスッキリする以外になんの効力もありません。他の利用者に対する個人的評価を書き込むことは、共同作業を潤滑にするために使用が推奨される要約欄の主旨に反します。現に、Quark Logoさんの感情を逆なでしただけの結果に終わっております。また、あのようなコメントを要約欄で目に入れさせられるということで、強制的に不快感を与えられました。依頼文では、㭍月例祭さんが一方的な話を聞いてもらえないというような被害者であるかのようでしたが、コメント依頼中に立て続けに軽率な行動を取られているのは㭍月例祭さんであり、それについてはなぜそのような行動をあえて取られたのか説明されるべきだと思います。--はるみエリー会話2017年2月27日 (月) 05:48 (UTC)[返信]
強制的に不快感を与えられました」というはるみエリーさんの感情は尊重しますが、要約か否か、と、このページで評価を書くべきか否か、という2点については、もう一度冷静に考えていただきたく思います。要約であるか否かについては、ノートで議論が続いていますので、そちらへどうぞ。「評価」については、ここは「Wikipedia:コメント依頼/柒月例祭とQuark Logo」ですので、当該2名の利用者の言動について良いとか悪いとかの評価に類する発言が存在することはやむをえないことです(むしろそれを目的とする場です)。評価を含む発言を投稿する際に付与する要約にもまた評価が含まれることがあるでしょう。問題視するとすれば、その評価表現が不快感を与えるような単なる「感情の吐露」の域に悪化してしまっているかどうかです。はるみエリーさんのおっしゃりたかったことを推察するに、たとえば、「ありとあらゆる」のあたりは感情の吐露であり、「最近複数の場面で」という穏当な表現に言い換えた方がよかったと思う、ということですかね。。。 (ちなみにIPが知らぬ間に変わっていたようですが本日同じプレフィクスのIPで発言した者です)--210.149.250.176 2017年2月27日 (月) 07:18 (UTC)[返信]
明らかに要約ではありません。また、柒月例祭さんが、常に要約欄に記入されているわけでもないのに、突然、他者に対する評価を書き込まれたことについても、なぜ、あえて、このタイミングで名指しで書かれたのかということです。他者と協力する意志をお持ちであるのかということにも疑問を感じました。Wikipedia:常に要約欄に記入するは、記事の編集を円滑にするために、編集内容について記入するための欄であり、議論において自分を有利にするために、対立相手に対する低評価ぶりをアピールする場所ではありません。要約欄による名指し批判をしていいなどと、どこにも書いてありません。むしろ明確に、「また、記事の現状に対する利用者の個人的評価の記入、不適切な表現での記入や利用者への個人攻撃など、問題となる投稿や、要約欄の目的外での使用は行わないでください。」と書かれています。やはり、名指しで、「対話する気はなく、ありとあらゆることで私を攻撃しようとしているように思います。」と要約欄に記入するべきではなかった、以外の結論は考えられませんし、その行為について、柒月例祭さんは説明されるべきだと思います。--はるみエリー会話2017年2月27日 (月) 12:13 (UTC)[返信]
  • コメント Quark Logoさんの「解決のためのロードマップ」を拝見しました。感想を一言で言うと、「対華21ヶ条要求」です。多すぎますし、柒月例祭さんに全面降伏を強いているように見えます。議論を終わらせるのに議論を長々と続けても仕方ないから、お互い譲歩して「2人ともこれ以降95ヶ条の論題の編集に関わらない」「これ以降2人の間で何かの議論が必要なときは、相手に悪意がないと必ず仮定する」ぐらいが関の山じゃないかと。--ネイ会話2017年2月28日 (火) 10:33 (UTC)[返信]
  • コメント 私もネイさんの感想と同じです。無理強いした要求が多すぎます。議論を終わらせるためには、相手側にだけ譲歩を求め要求を突きつけるのでは泥沼化を望んでいるようにしか見えません。㭍月例祭さんのご意見を示しているノートでの質問に対し、Quark Logoさんはご意見を表したことを以て終わらせてはいかがですか。--湖紫陽会話2017年2月28日 (火) 11:25 (UTC)[返信]
  • コメント そうですね。これでQuark Logo氏が『いつまでも納得しないユーザー』であることがかなり明確になったわけですね。無理矢理コメント依頼に引き出されたと言いながらの、あれだけの長文投入の生き生きしていること。それこそが問題の在処だという印象は広く残るわけですね。--Keisotyo会話2017年2月28日 (火) 12:22 (UTC)[返信]
  • コメント Quark Logoさん、「柒月例祭さんが全面降伏して、主張を撤回しなければ納得できません」と言う主張を明らかにしていただいて、どうもありがとうございます。詳しいコメントはひとまず控えます。--ネイ会話2017年2月28日 (火) 12:59 (UTC)[返信]
  • コメント (追加)当事者であるQuark Logoさんが対論者である㭍月例祭さんの事を評価しようとそれは客観的ではなく主観的なものです(たとえ客観的であろうとも(自他からの見解からその評価は偏向的みられる可能性が高いと思います。)。Quark Logoさんが自己の正統性をしめしても、それを評価するのは、ご自分あるいは当事者ではなく第3者になります。今後のコメント如何によって、その評価に対し轍を踏むことになりかねないと思っていることを申し上げます。--湖紫陽会話2017年2月28日 (火) 13:15 (UTC)[返信]
  • コメント Quark Logo氏は「この長大なコメント依頼で多大なる迷惑を被った身として」と仰せです[24]。1月24日には「この迷惑な依頼のせいで大幅に時間をロスした」とも仰せでした[25]。2017年2月28日 (火) 12:22‎に Keisotyoさんが編集なさった時点(198,210バイト)の編集内訳を調べてみたところ、㭍月例祭氏が44,557バイト(22.5%)、Quark Logo氏が115,322バイト(58.2%)、その他の方が38,331バイト(19.3%)となりました。「無理矢理コメント依頼に引き出されたと言いながらの、あれだけの長文投入の生き生きしていること。それこそが問題の在処だという印象は広く残るわけですね」というKeisotyoさんのご指摘に首肯なさる方が多いのではないでしょうか。--Pooh456会話2017年2月28日 (火) 14:31 (UTC)[返信]
  • コメント 以前のコメントで「失言や誤解を完全になくすのは不可能」などと書いたときにはQuark Logo氏からは概ね同意をいただいたと思っていたのですが、今回の書き込みからは全く伝わっていなかったようにしかみえませんでした。Quark Logo氏はWikipedia:論争の解決Wikipedia:議論が白熱しても冷静にを参考にすべきかと思います。また、議論が肥大化しすぎ水掛け論になってしまっているからと議論の終結が提案されたというのに、あまり多数の要求を出しては議論終結につながらないでしょう。せめて特に重要な数個にしぼるなどできなかったのでしょうか。この状況では合意形成はもはや不可能ですから、「2人とも記事から手を引く」「一定期間の冷却期間をもうけ、その間双方接触しないようにする」などの休戦条約で済ませるべきかと個人的には思いますが。--SilverSpeech会話2017年2月28日 (火) 15:16 (UTC)[返信]
  • 再度コメント Quark Logo氏においては多少の譲歩も見せはしたものの、『詫びを入れろ』に関してはどうしても、ですか?それこそあなたの気の持ちようだけの問題ではないですか。それこそが引っ込めるべきものです。それをしないのは、あくまでも問題をこじらせる意図があるとしか見られませんよ。--Keisotyo会話2017年3月1日 (水) 09:41 (UTC)[返信]
  • コメント ご自分が「意思表明しないと承服したことになる」ためリアクションしていたというのであれば、相手側が「全く言及されて」来なかったとみられることは(私はそう思いませんが…)、相手側はそれを認めているとご自分が判断すればよいことです(ご自分がそのようように考えているのですから・・・)。ところで、改めて要求を突き付けていると言わざるを得ない先ほどのコメントについては、幻滅されている方がいるのではとおもうところです。--湖紫陽会話2017年3月1日 (水) 13:55 (UTC)[返信]
  • コメント ノートを読んで驚きました。㭍月例祭さんは、自分のことを多様性を認める立場であると思われています。しかし、むしろ、㭍月例祭さんには、多様性を認めるどころか、自身の主張を全く曲げずに長文で押し通して相手の反論を認めない傾向を感じています。Qurak Logoさんにまったく問題が無いとは言いませんが、㭍月例祭さんの編集態度も決して褒められたものではないと思います。多様性を認める立場であれば、Qurak Logoさんの編集を少しも認められないということになるはずがない、ということに大きな矛盾を感じます。コメント依頼の場で、㭍月例祭さんは多様性を認める立場だが、Qurak Logoさんはそうではないということを証明されたかったのだと理解しました。しかし、それは無理ですので、これ以上、コメント依頼を続ける意味はないと思います。--はるみエリー会話2017年3月2日 (木) 14:40 (UTC)[返信]

コメント長すぎて全部読む気がしないというのが率直な感想だ。第三者に仲裁を求める気があるなら簡潔にまとめて以後は大人しくしている必要がある。この点では両者同罪だ。 コメントQuark Logo氏は相手を悪く言いすぎだ。どんな主張をするのだろうとこんな態度では門前払いか摘みだされるだろう。 コメント㭍月例祭氏は自覚があるようだが感情的になったせいで初期対応に落ち度がある。コメント依頼を出してから休むくらいなら休んでからコメント依頼を出せばよい。 コメントQuark Logo氏は盛んに相手をうそつき呼ばわりしているが、事実かどうかはともかく㭍月例祭氏側の判断としては強制されたという見解は妥当だ。㭍月例祭氏の方式をQuark Logo氏が事前通告なく一方的に書換えて、Quark Logo氏が㭍月例祭氏の意見を全て否定し、㭍月例祭氏は納得していないのにQuark Logo氏の方式を選択の余地なく飲まされる。これを「強制」と表現することはおかしくない。 コメントQuark Logo氏が㭍月例祭氏に手を出して喧嘩になったのだから、今後はお互いに手を出さないというのが落とし所だろう。㭍月例祭氏は自己の感情が高ぶっていると自覚するときは編集を避けるよう自制する必要がある。またこれに懲りて、㭍月例祭氏の編集を快く思わない利用者もいるということを念頭に、今後の行動を修正するべきだろう。Quark Logo氏は他利用者への関わりに大きな問題があるので、それはすぐにでも改める必要がある。㭍月例祭氏に対する攻撃がひどすぎるだけでなく、チェリーピッキング・自分への批判を全て反論等、自分と意見を異にする他利用者への接し方が悪すぎる。ここで議論を終えようという段階で次は別の記事を問題にするとか井戸端で再戦を宣言するなど、いつまでも納得しない姿勢の典型だろう。--とある元利用者会話2017年3月6日 (月) 09:43 (UTC)[返信]

合意条件

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どちらも手を引くということではどうか、という第三者によるコメントがありました。しかし、これについては、㭍月例祭さんがリバートした状態でかつコメント依頼中にも編集をされたため、現在、㭍月例祭さんが記述された内容のみが反映されており、実質的には、Qurak Logoさんのみが手を引いた状態といえる、という異議がありました。㭍月例祭さんがコメント依頼中に、手を止めるような発言をされていたにもかかわらず、突然、編集されたのは少々軽率であったことを否定される方はいませんので、やはり、どちらも手を引くということが公平ではないことを否定することもできません(最初のリバートもありますし)。㭍月例祭さんは、合意条件を決めない限り、コメント依頼を終わらせられない、という意見表明をされましたので、依頼者被依頼者とも、下記の内容で良いかご検討いただけますか。--はるみエリー会話2017年3月3日 (金) 16:21 (UTC)[返信]

チェック  以下の案は否決となりました。--はるみエリー会話2017年3月4日 (土) 13:03 (UTC)[返信]

ハーバード方式

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㭍月例祭さんは、ネイさんが質問されている「ハーバート式を採用すると編集しにくくなる理由」もおっしゃっていません。多様性が認められているということは、スタイルの書き換えを自由にして良い、ということになります。Wikipedia:出典を明記する#個別参照法では、「やや難しいですが、ハーバード方式など、一覧文献の個別参照法を利用すれば、正確性と一覧性が両立できます。これは、同一著者による異なる著書や、同一書籍中の異なる箇所を参照するときに便利です。」と利点が述べられていますが、その利点を上回るデメリットについては、㭍月例祭さんから説明がありませんでした。今後、自分が執筆に関わられた記事を含むいかなる記事においても、Qurak Logoさんがハーバート式に修正されたとしても、㭍月例祭さんはリバートしたり、文句を言われたりはなさらない。と、こういうことで良いですか。なお、㭍月例祭さん以外の方で、Qurak Logoさんに、書式変更のことで異議をおっしゃる方がいるかもしれません。Qurak Logoさんは、万一、㭍月例祭さん以外の方から苦情があったときに、このコメント依頼で良かったからなどと押し通すようなことはされず、新たに議論をされるということで良いですか。--はるみエリー会話2017年3月3日 (金) 16:21 (UTC)[返信]

画像

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画像については、今回これだけ確執が出来てしまったので、お二人の関連記事には双方手を出さない。どちらも手を引く。とこれでどうですか。小さい画像もクリックすれば拡大画像が容易に見られますし、大きい画像があっても本文を読むことに問題は生じません。お二人が執筆された記事の画像については、極端に見にくいなど極度な支障があれば、第三者が修正されると思いますので、第三者に任せる。とこれでどうですか。--はるみエリー会話2017年3月3日 (金) 16:21 (UTC)[返信]

記事の内容

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今回、㭍月例祭さんが主に執筆された記事の内容について、Qurak Logoさんは改変はされていないしするつもりはない(誤字程度は良いとして)ということです。双方、それで良いですか。--はるみエリー会話2017年3月3日 (金) 16:21 (UTC)[返信]

合意後

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合意後は、コメント依頼中の話は、蒸し返さない。このコメント依頼でああいった、という話はせず、なにか新たに問題となっても、このコメント依頼以降の行動のみを話題とする、とこれでどうですか。㭍月例祭さんがコメント依頼中になさった行動についても、このコメント依頼が終了したら、Qurak Logoさんが「あのときにコメント依頼中に編集されましたね」と話題に出すことはせず(もちろん、そのつもりではないと思いますが、例えばの話としてお聞きください)、私も、要約欄の不適切な名指しコメントは話題にしません。㭍月例祭さんは、なぜ、軽率といえる行動をされたのか説明されなくても良いです。ただ、㭍月例祭さんは、いかなる記事においても、Qurak Logoさんのハーバード方式への修正行為は、絶対にリバートせず、関わらない(上記の提案をまとめるとこうなります)。と、これでどうですか。(なお、第三者の方が、このコメント依頼の双方の行為を、後日、話題にすることまでを禁止するのは不可能ですし、お二人とはるみエリーが話題にしないことを想定しています。また、第三者の方が、Qurak Logoさんに、ハーバード方式への修正行為等のことを話題するのはもちろん自由です。)--はるみエリー会話2017年3月3日 (金) 16:21 (UTC)[返信]

合意条件2

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㭍月例祭さんとQurak Logoさんには、早速のご検討とご返信について感謝申し上げます。議論を終結させることを目的とした合意案として、以下の通り、(主に㭍月例祭さんに)お願いできませんでしょうか。ほかに、コメント終了前にこれだけは合意をしなければ、ということがありましたら、㭍月例祭さんとQurak Logoさんからご意見いただければと思います。

  1. Qurak Logoさんから㭍月例祭さんへのお願い:「出典テンプレートへの修正をリバートしない(元に戻さない)」ことを今後お願いしたい。
上記の合意が成立し、かつ、以下の宣言が守られれば、今後、記事における編集合戦等、コミュニティを疲弊させる事態は防止できると思います。
  • 㭍月例祭さんからの提案:㭍月例祭さんは95ヶ条の論題から手を引き、Quark Logoさんには95ヶ条の論題の編集を認める。
  • Qurak Logoさんからの提案:㭍月例祭さんに記事から手を引くことを要求する、ということはしない。レオ10世による贖宥状の大幅な改善を行う場合は「ノートページで少なくとも1週間前から事前に告知」。

コメント 以下については、合意案とは関連のない個人的なコメントです。

画像について、故意ではないと思いますが不正なウィキペディア内部文書のコピー(盗用)であったならば、㭍月例祭さんがご自身で削除依頼を提出されれば良いと思いますがいかがですか。
㭍月例祭さんから、コメント依頼におけるご自身の発言について、「これらの論点について最初から整然と、簡潔に、冷静に、説明できていたわけではなかったという反省」と、「要約欄でああいうこと書くことは問題の解決に寄与することはないだろう」というご認識をされ反省の表明があったことについて確認しました。
第三者からの最新コメント内の、フォーマット統一行為がWikipediaの質向上を図っているか自分本位な活動なのか、については、このコメント依頼内では結論を出せる状態ではないと思いますので、そういうコメントがあったということにとどめるほかないと思います。--はるみエリー会話2017年3月4日 (土) 13:03 (UTC)[返信]

コメントまたはるみエリー氏か。この人はコメント依頼を攪乱している自覚があるのだろうか。氏が上で出している合意条件2とやらは、誰が見ても片方に不利なものだ。そのような条件を仲裁者気取りで出すことは論争を拗らせることにしかならない。Quark Logo氏が㭍月例祭氏にちょっかいを出して始まった喧嘩を収めるならば、お互いに相手にちょっかいを出さないことにするのが公平だ。片方がいくらでもちょっかいを出し、片方はそれに文句も言えない等という条件は仲裁でも第三者でも何でもない。第三者のふりをして一方に肩入れしているだけだ。--とある元利用者会話2017年3月6日 (月) 09:20 (UTC)[返信]

合意に向けて3

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㭍月例祭さんに質問ですが、今後、「出典テンプレートへの修正をリバートしない(元に戻さない)」ということを行われるつもりがあるかどうかについてはいかがでしょうか。--はるみエリー会話2017年3月20日 (月) 21:59 (UTC)[返信]

まとめ

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報告 終了 - はるみエリーさんの提案から1週間以上経過しているため、㭍月例祭氏も終了に異存がないものとみなせると思います。基本的には私が当初提案した即時終了と変わらない単に終了するということだけです。すでに投稿内容から当事者双方が議論を続ける意思はないものと見なせますので、今回のコメント依頼は終了とします。削除依頼についてさらに一定期間の猶予をおいて対策をとりたいと思います。--Quark Logo会話2017年3月13日 (月) 08:33 (UTC)[返信]
コメント  㭍月例祭氏が異存あるかないかは反論者であるQuark Logoさんが判断しようともそれはご自由です。しかし、それをもってまとめの根拠とするものではありません(単なる個人的な判断にすぎないためです)。また、まとめについての対策等については、反論者に対する批判意見のみをあげ、ご自分に対する批判的なご意見について全く対応しないようでは呆れるものです。まとめが必要となるときには、第3者によりまとめが宣言され、その対応されるでしょう。--湖紫陽会話2017年3月13日 (月) 09:55 (UTC)[返信]
報告 コメント依頼にて、終了案件として、本コメント依頼を除去していましたが、まとめの宣言をされてから一定猶予をもっての対策とは言えない行為と判断し、除去を取り消したことを報告します。--湖紫陽会話2017年3月13日 (月) 10:03 (UTC)[返信]
返信 (湖紫陽さん宛)  「まとめ」という節にしたのは、サンプルに従ったものであり、上記のように、まとめのコメントは書いておりません。終了の報告をしただけです。コメント依頼に関して、「第3者によりまとめが宣言され、その対応される」というルールはないように思われます。「依頼提出者または第三者」であり、このコメント依頼は、㭍月例祭氏自身によって「当事者は利用者:Quark Logoさんと私(利用者:柒月例祭)です。」と設定されており、私も依頼者と同等です。湖紫陽さんは「反論者に対する批判意見のみをあげ、ご自分に対する批判的なご意見について全く対応しないよう」と述べていますがそれは違います。終了するだけなので双方に何も課さないという結論です。㭍月例祭氏からは終了提案に対して反対はなく「議論の終結をさせようということでして、終結にあたって確認できることは、「議論を終結させるということ以外には何も合意・確認できたことはない」としか言えないと考えております。 」と述べており、それに従ったものです。「単に終了するということ」が、その意思に反するとは言えないでしょう。双方の当事者の意見を取り入れたものであり、仲裁者のはるみエリーさん趣旨にも沿ったものでしょう。㭍月例祭氏のその後活動は終息していますが、合理的に判断して一定期間を過ぎており、はるみエリーさんの二度目の提案を承服されたものと判断できます。まとめなく終了が、妥当ではないでしょうか。当事者同士が終了について語っているのに、続ける意義があるとは思いません。1ヶ月放置で、終了になるだけでしょう。それでも別に良いという考えもあるでしょうが、双方がただ終結するだけにすると明言しているのに、終了しないのは理屈にあわないと思います。また記事の執筆が強制遅延状態になっているのも非常に困りますし、不当でしょう。--Quark Logo会話2017年3月14日 (火) 04:02 (UTC)[返信]
実質、このコメント依頼終了前に、「出典テンプレートへの修正をリバートしない(元に戻さない)」という、まあ、当たり前といえば当たり前のことを㭍月例祭さんが今後行わない確認を求めたくらいであり、湖紫陽さんがそこまで目くじらを立てる理由がよくわかりません。--はるみエリー会話2017年3月14日 (火) 04:14 (UTC)[返信]

月例祭氏は活動をしていないようです。氏の投稿記録をチェックして確認してください。この状態で“はるみエリーさんの二度目の提案を承服されたもの判断する”のは全く合理性を欠いています。氏は“はるみエリーさんの二度目の提案については何も知らない”とするのが合理的でしょう。--Upstreamsectoradvisor会話2017年3月16日 (木) 07:47 (UTC)[返信]