Wikipedia‐ノート:表記ガイド/姓名の順序とコンマのこと
議論が長くなったので、Wikipedia‐ノート:表記ガイド#姓名の順序とコンマのことより移動しました。--Michey 2007年11月27日 (火) 06:12 (UTC)
姓名の順序とコンマのこと
[編集]- [はじめに] 姓名の順序が問題になるのはローマ字書きの場合であり、日本語ウィキペディアの表記の問題には屬さないこと。それをここに書くことは適當でないかもしれませんが、一應書いてみます。表記ガイドに立て續けに三囘書込んでゐます。「字體のこと」、これは節を立てた。それから「假名について」に一囘、そして「數字の區切り","について」の提案のところへの一囘です。いづれも、ウィキペディアの表記は戰後の國語行政に距離を置くべきではないかとの趣旨です。戰後の國語行政は、明治期のローマ字論を引きずってゐると思ふ。そのことはノート:ローマ字論#擴張ヘボン式に書いた。
- 擴張ヘボン式は翻字式。これで轉寫してみると歴史的假名遣の方が合理的であったことが判然とする。それで自分でも表記を切替へて三年になります。その少し前、國語問題審議會が幾つか答申を出した。新聞で報じられるつど批判を書いた。『教育新聞』に掲載されたのは段々とずれていった。「ローマ字表記での姓名の順序は」の掲載は平成15年11月20日。新聞報道から一年經ってゐたと思ふ。これは[「私の國語論」] で讀むことができますが、表記は新字體にいはゆる現代假名遣です。
- 「數字の區切り」のところで [井の中の蛙] へのコメント[32]を紹介した。實は[33]を用意して書込まうとしたのですが、滿杯のためか書込めなかった。それがコンマの問題です。以下、用意したものの拔粋です。
- [本文] 人名辭典を見ると、西歐でも姓で竝べる。Charles Dickens なら Dickens, Charlesのやうになる。このコンマが二つの部分を逆に竝べた印であること、山名の場合の Mt. や、聖人の場合の St の扱ひと同じことだ。だから、Yamada, Haruo とすれば、本來は Haruo Yamada の順だといふ意味になる。外國流儀に意味もなく合はせるといふ意味ではコンマをつかった表記は二重にさうなのだ。議員會館の部屋の扉に議員の名前が姓名を case で區別した上にコンマを用ゐて書いてあるのをみたことがある。西歐人には逆の意味に受取られるだらう。日本の方式に通じた人からは侮りを受けることになる。Kmns 2007年11月23日 (金) 00:39 (UTC)
- まじに古文版に行くことをおすすめします。ちなみに、回は康煕字典でも回のはずだが。囘は説文の古字。HOTUMA 2007年11月23日 (金) 13:04 (UTC)
- 失礼ながら、上西俊雄さんご本人なのでしょうか。そうだとしたら『世界の言語ガイドブック』(三省堂) の版下 (これを代表的なお仕事として挙げるのが適切かどうかはわかりません。本当は辞書がご専門ですね) など、和欧混植組版では知る人ぞ知る知見をお持ちの方です。その知見を生かして、是非、百科事典の記事の編集にもご助力いただきたいとおもいます。
- ただ、ウィキペディアの目指す文体は、どちらかといえば現代という時代の要請に即した実用的なものですので、歴史的な起源をたどればかならずしも正統とはいえないものかもしれません。その点は大目に見ていただきたいとおもいます。 --Hatukanezumi 2007年11月23日 (金) 18:06 (UTC)
- コメントを下さったお二人に感謝しつつ一筆。少し長くなります。
- 擴張ヘボン式提唱者と名告ってゐますので名前のごまかしやうはありません。確かに『世界の言語ガイドブック』に名前の出てゐるものですが、組版についての知識などは買いかぶり。印刷關係の同僚の知識に負ぶさってゐただけです。
- 漢字のこと、實はよく知らないのです。ただ簡體字を組込んだデーターの處理に關係したことがあって、簡體字と繁體字との關係が我國に置ける新字體舊字體のやうに混在するものでないのではないかといふ感じをもった。つまり同じデーターが、そのまま大陸中國と臺灣で利用できるのではないかと思はれたのです。簡體字を廢止しようと思へば、いつでも一擧にできるのではないかといふことです。我國の場合はさうでない。擴張ヘボン式と拡張ヘボン式と檢索する場合は二回やらなければなりません。これが將來に禍根を殘すことになりはしないかといふことが氣になってをります。
- 康煕字典體であることと、いはゆる舊字といはれるものであることと全く同じことなのかどうかも自信がありませんが、手許の漢和辭典でみても囘は舊字ではなく異體字となってゐましたので變換テーブルから削除しました。御教示有難う御座います。
- 姓名の順序とコンマの關係を問題にしたのは、國語審議會の答申が間違ってゐる例として判りやすいと思ったからです。審議會でコンマのことが議論に上らなかったわけでなく、少數意見として葬り去られたのではないか。民主主義は萬民に知性があることを前提とするものだと思ふ。多數決は智に辿りつくための方法であって、前提となる事實關係を變へることはできないはずだ。それでは智に遠ざかることになる。さう言ひたかった。百科辭典も民主主義と出自を同じくするものではないか、役所が決めたことについて一度は距離を置いた議論があって然るべきと思ふ次第です。特に國語審議會の場合、役所が選定した委員が議論も盡さず多數決で決めてきたわけですから。
- その結果がうまくいってゐない例にローマ字があります。ヘボン式であれば大黒は ōguro で、小黒は oguro でせう。oguro がヘボン式であれば大黒であるはずがありません。しかし外務省は旅劵に ōguro と書くことを禁じてゐる。しかもそれをヘボン式と稱するわけです。場合によっては非ヘボン式も認めるとのこと。ヘボン式でないものをヘボン式と稱し、さらに其れを前提とした非ヘボン式があるのですから、何が何だか判らなくなってゐるのが實態だと思ふ。サッカーやバレーの國際試合をみると、選手の名前は實にさまざまに綴られてゐるわけです。旅劵でないから自由だといふのでせうか。旅劵とは別の綴りなのか。本人の同定といふ點からは同じであるべきだと思ふ。國會圖書館の方式と海外の圖書館の日本語文獻の方式も異なる。日米合同作戰でたとへば硫黄島とメールで傳へるとき、とっさに同じ綴りで連絡しあふことができるのか、さういふことが氣になってゐます。英語wikipediaではマクロン付の字母が利用できるやうになったからといふので、ヘボン式(撥音の m n の使ひわけをしないので、實は研究社式)で書くことになってゐますが、檢索用にマクロン無しの字母に置換した形の綴りを埋めこむのださうです。マクロン付の字母の入力の面倒なことを思へば、ASCII だけで書かうとする外務省のやり方は判らなくはありませんが、「明星をmyojoと音節數を減ずるのはガラスの沓に足が合はぬと踵を切落とすやうなものではないか」と思ふ次第。
- ヘボン式を批判すると、訓令式を主張してゐるのだと受取られることがあります。兩方とも問題だ、つまり王樣は裸だと言ってゐるわけです。長い論爭があったわけですから、他に解決策がある筈がないと思はれてゐるのだと思ふ。コロンブスの卵のやうなもので、或る意味、自分でも意外なことでありました。戰後の國語行政の前提が間違ってゐたと氣づいてみると、いろんなことが見えてくる。そのことを東京法令出版『月刊國語教育』などに書いてをります。御一報いただければファイルをお送りして御高覽に供します。Kmns 2007年11月24日 (土) 01:50 (UTC)
先ず、日本の常用漢字の簡易字体と中国の簡化字から。簡化字の位置づけは存じませんが、常用漢字の簡易字体は新しい文字を作ったというものではなく、既存の文字の字形を選び整えたというものです。人名や文字自体の研究を別にすると、旧字体(いわゆる康煕字典体)と新字体を区別して混在させる必要はありません。新字体と旧字体の区別は、楷書と草書の区別に同じと考えても良いと思います。楷書と草書の字形は全く似ていませんが、それを別の文字として区別しなければならないという人はいないはずです。従って、仮りに日本の新字体を廃止するとなれば、「弁」を除き、技術的には即座に可能です。逆に中国の簡化字は、「発」と「髪」、「暦」と「歴」、「複」と「復」と「覆」などを包接してしまっているので日本よりも面倒なことになります。ローマ字の綴りが英語圏と合っている必要は無いと思います。Iwo(硫黄/いわう)もYedo(江戸/えど)も日本語の旧仮名から派生したものではないし、同じラテンアルファベットを使う言葉でさえ、西España、英Spain、独Spanien、仏Espagne、伊Spagna、葡Espanhaなどというのが普通ですから。HOTUMA 2007年11月24日 (土) 07:39 (UTC)
- 早速の御教示有難うございます。しかし、理解力が伴はない。簡體字は一擧に廢止可能なのではないかと書きましたのは、蓄積されたデーターはその場合でも、そのまま利用できるのではないかといふことです。つまりはグリフの問題であって、Vistaの場合に例に擧げた葛の場合のやうにデーターの問題ではない。高島俊男さんの用語ですが合併字といふこと、例へば日本の弁のやうな場合はさうはいかないかもしれんせんが、向うの辭書の索引で、合併字の場合に合併する前の字の數だけ繰返してあって、それぞれに異なる親字、つまり項目を參照するやうになってゐたので驚いたことがあります。まあ合併字の場合は簡體字のデーターも手作業で書分けなければなりますまいが、しかしその他の文字の場合、混在してゐなければ簡體字が廢止されてもデーターを修正する必要がないわけです。我國の場合はさうではないのではないか、變換が必要なのではないかといふことです。
- ローマ字のことですが、JapanMarc など、そもそも何のためにローマ字が必要なのでせう。特にヘボン式と訓令式、それに擴張ヘボン式をみると、我國と英米と異なる方式にする理由がわからない。念のため、三方式の假名との對應關係の部分を拔き出してみると次のやうになります。0は對應する假名がないといふ意味。括弧にくくってあるのは、一つのローマ字に複數の假名が對應する場合です。鉤括弧にくくったのは助詞の場合。
- [ヘボン式] i:(イヰ), e:(エヱ「ヘ」), o(オヲ), chi:チ. di:0, du:0, dzu:0, fu:フ, hu:0, ji;(ヂジ), shi:シ, si:0, ti;0, tsu:ツ, tu:0, wi:ヰ, wa(ワ「ハ」), we:0, wo:0, zhi:0, zi:0, zu:(ズヅ),
- [訓令式] i:(イヰ), e:(エヱ「ヘ」), o(オヲ), chi:0, di:ヂ, du:ヅ, dzu:0, fu;0, hu:フ, ji:0, shi:0, si:シ, ti;チ, tsu:0, tu:ツ, wa:(ワ「ハ」), wi:0, we:0, wo:0, zhi:0, zi:(ジヂ), zu:(ズヅ);
- [擴張ヘボン式] i:イ, e:エ, oオ, chi:チ, di:ディ, du:ドゥ, dzu:ヅ, fu:フ, hu:0, ji:ヂ, shi:シ, si:スィ, ti:ティ, tsu:ツ, tu:トゥ, wa:ワ, wi:ヰ, we:ヱ, wo:ヲ, zhi:ジ, zi:ズィ, zu:ズ Kmns 2007年11月24日 (土) 10:07 (UTC)
- そういったことはむしろローマ字の記事への加筆に生かしていただきたいとおもいます。この場で述べられることではないとおもいます。
- なお、「合併字」というのか、漢字統合 (Han unification) へのウィキペディア日本語版での対応については、別途議論の場を準備中ですので、調いましたらお知らせします。 --Hatukanezumi 2007年11月24日 (土) 10:17 (UTC)
Han unification は無関係ですよね。日本の常用漢字の場合、合併字に類するものは「弁」のみです。日本で新字体と旧字体の区別があるのは人名のみです。それとて、戸籍の電算化でハシゴ高とクチ高を区別していないように、区別しないと決めてしまえば済むことです。新字体も旧字体も草書や篆刻にすると同じになります。ひょっとすると新字体の篆刻風が考案されているかもしれないけど。HOTUMA 2007年11月24日 (土) 10:54 (UTC)
- 議論を續ける場としてここが適當かどうかはひとまづおいて、議論の整理のために重複するところがあるかもしれませんが一言。表記ガイドといふこと、狹く考へればウィキペディアの執筆要領といふことだと思ふ。個人の假名遣とは別問題。しかし根本的にはどこかで關係する問題でせう。現代假名遣なるものはS社での新人研修で知った。しかしどうしても理解できず、戰後の國語表記の改革は無用のものであったと思ふに到ったけれど舊假名に復すなどといふことはもはや叶はぬことと諦めてゐたわけです。自分で舊かなで書く能力はない。またそんなことをすると白い目で見られる。能力をつけるべく勉強するのは面倒だと思ってゐたわけです。面倒でも舊かなで書くべきだと思ひ定めたのは、假名遣が變だと思ってから四十年近く經ってゐました。
- 『表音小英和』といふ辭典は營業部が相手にしなかったのでかなり自由がきいた。それで四假名については舊假名にした。氣づいた範圍でもとにもどしたものなので、歴史的假名遣だといふことも、現代假名遣だといふことも出來ない代物ですが、しかし、それでもまかり通る。高島俊男の表記もさういふものだと思ふ。舊假名に切替へた場合はさうでない。きちんとせざるをえないし、またそれが可能なのですが、現代假名遣は、さう發音するからさう書くのだと言へば、もうどうしやうもありません。たとへば、NHKドラマ「チリトテチン」の主役の女優の名前はシホリ。戰前であればシヲリとすべきものだと思ふ。シヲリなら今の旅劵は shiori になる。シホリを shihori とすれば恐らく旅劵の窓口で通らないことはない。この場合、ハ行轉呼音の筈だから shiori だとなるのかどうか。
- 簡單に説明できるとは思ってゐません。數詞の桁のことが問題になってゐるのを知って、諦めてゐる人ばかりではないのだと思ったわけです。それなら、假名遣のことも偏見のない議論ができるのではないかと、いささか大上段に問題提起をした次第。
- ローマ字のこと、各論として別にすべきだといふことはその通りだと思ふのですが、今少し假名遣との關係で考へてほしい。
- 合併字のこと、高島さんの話は、弁だけではなかったと思ふ。代用漢字がある。芸藝がよく擧げられる例です。なほ、講談社『大字典』によれば弁に三義あって、(1)にカンムリ、(2)に樂し, (3)に辨ノ略字、辮ノ略字、辯ノ略字とあるので、代用漢字としての側面もあることになる。『數學學術用語集』(委員長は彌永昌吉)でcuspが先點となってゐた。尖が表外字だったからです。それで、ある時期の英和辭典では語義の記述に尖といふ字を使ひながらも數學用語にだけは先點と書く妙なことになってゐた。管絃樂を管弦樂と書くのもそのせいなのだと思ふ。固有名詞となってしまふと非常に面倒です。漢字制限が緩んだからといって簡單に戻すことができるわけのものではない。メガバンクの銀行に「みずほ」といふのがある。ローマ字でヅズを書分けないで zu とのみ表記することからヅを自主規制したのだと思ふ。「ず」は否定の助動詞、縁起でもないと思ったかもしれないが、それでもヅにはしなかった。ローマ字問題は假名の表記に影響してゐるわけです。欠と缺を同じとするやうな代用漢字は簡體字の場合には少ないのではないか。韓國數學史學會といふのに參加した友人は函數を關數、抛物線を放物線と覺えてゐたために發音を間違へさうになったといふ。同音による代用といふ説明を讀んだことがあるけれど、朝鮮語でみれば同じ字音ではなかったわけです。
- Arthur Waley をみてもヘボン式ですし、硫黄を iwō としたのも、ヘボン式の考へ方でつじつまがあうやうに思はれます。硫黄はイワウ。擴張ヘボン式なら iwau です。この場合、au がア段音でないので w は發音されないわけです。しかし、ヘボン式は現代假名遣の流儀で音を一對一に書かうとする。iō とするのと iwō とするのと第二音節の母音の響きには違ひがない。そして、ヲは助詞に限るといふ馬鹿げた制限などなかった時代であれば、ここはワ行のヲを採るのが當然ではなかったかといふことです。歐米の圖書館の目録の方式がヘボン式から研究社式になったのも、日本の方式に合はせようとしたためだと思ふ。第一、外國人に接する日本人の多くは、自分たちの方式はヘボン式だといふのではないでせうか。そして實際はヘボン式で書いた後で、マクロン付の字母をマクロン無しの字母に置き換へるといふ手の込んだことをしてゐるわけです。米英と日本の方式が異なるのは、單に日本が梯子を外したせいだと思はれて仕方がありません。どうも推測ばかりで説得力に缺けますが...Kmns 2007年11月25日 (日) 14:31 (UTC)
- 「硫黄は擴張ヘボン式ならiwau」と書いたのは精確でなかった。「擴張ヘボン式で傳統的假名遣を轉寫した場合はiwau」とすべきでした。江戸がyedoであったといふこと、これについてはよくわかりません。國語音韻史の方ではヤ行のエといふものもあったとするやうですが、實際明治時代の東京人はイェといふ風に感じてゐたのかもしれません。日本語は母音連續が多い。西歐人は母音連續を一つの音節とみる傾向があると思ふ。ロドリゲスなどがアクセントで母音連續をまとめやうとしたのは、さうでもしなければとても讀めたものではなかったからかだと考へることもできる。舊假名のワ行子音やハ行轉呼音は區切り符號だとみれば、轉寫した場合に舊假名の方が讀みやすくなるのは當然です。擴張ヘボン式ではワ行子音を w で、ハ行轉呼音を逆アポストロフィ(ASCII の 0x60)で示す。さうすると伊呂波は次のやうになります。iro`a ni`o`edo chirinuruwo wagayo tarezo tsunenaramu uwino okuyama ke`u koete asakiyumemizhi we`imosezu もちろん音節單位で讀むときはハ行轉呼音のところも語頭のハ行音として發音されるわけです。これで見ると伊呂波歌で母音連續は「越えて」のところ一ヶ所だけ。宣長は字餘りがエのときだけ許されないのを訝しんでゐます。宣長が五十音圖のオとヲを入れ換えて今日の形にしたと傳へられてゐますが、ひょっとしたらエは元來ヤ行的なものであったのかもしれないと勝手に想像してゐる次第。江戸を yedo と表記するのも西歐人がさうしたといふのでなく日本人の提唱してものであっただらうと。なほ、擴張ヘボン式ではウィウェウォのやうな場合は ww で示す。これは東北大學名譽教授桂重俊博士の強い示唆によるものです。
- 表記のこと、實に恣意的に役所で決めつけてきてゐるので、どうやって書いて善いか誰にも判らない。國語審議會で表記についての答申が出るつど、國語辭典の改訂をしなければならなかった。逆に言へば、國語辭典の市場がそのつど誕生したわけです。天に唾する言ひ草かもしれませんが、審議會の有力委員は大抵、國語辭典の編者であって、ここに一種の官民癒着があったと言へるかもしれません。
- 東京法令出版『月刊國語教育』17年11月號の「ミッズルカラッス」は四假名のことと辭書の關係について觸れたもの。[北郷山人のサイト] でほぼその全文を讀むことができます。
- ある掲示板に「英語教育の效果が惡ければまづ方法が問はれるべき。小學校英語教育を答申した委員には、非效率な英語教育の責任を問はれるべき、英語教師養成機關の人が多かったやうに思ふ。英語教育といふ藥をのませてもなかなか效果がない、どうしたものかと相談したら、もっと大量に服用させなさいといふのが小學校からの英語教育。相談した相手が業者であった。麻藥賣人とどこが違ふかと言へば、惡事を働いてゐる意識がないことだと、さう見えてくる。」と書いた。英語教育批判の本を出して「我が國には假名がある。これが我が國の英語教育がうまく行かない疫學的理由なのです。」とも書いたけれど、ローマ字をいいかげんにしてゐるせいだと書くべきでした。擴張ヘボン式が翻字式であるのは元來假名漢字變換のために工夫したものであり、自分のパソコンの IME も三年前から擴張ヘボン式。しかし、ハ行轉呼音の場合は shift key を押すのが面倒なので、h や f で入力してゐました。三年經った今では、ハ行轉呼音はきちんと 0x60 を叩く。物理的に手間であるにも拘らずさうしなければ何か自分の中に抵抗がある。漢字の場合に、交ぜ書きをしないのも、自分の中に抵抗があるからです。役所が決めたことが道理が通ってゐれば、そんな抵抗感はない筈だと思ふ。どうもナイーヴなことを書きました。でも、この抵抗感といふもの、決して慣れの問題ではないと思ふのです。英語だとblind touch ができるけれど、ローマ字はさうはいかないといふ人もある。どうも表音文字といふものは、視覺聽覺を通底する何かが腦内にあるのかもしれません。Kmns 2007年11月26日 (月) 00:31 (UTC)
- 伊呂波歌のところの ke`u はケフの轉寫。eu は Europe のそれのやうに發音し、またハ行轉呼音に妨げられないと規定してゐます。擴張ヘボン式は翻字式ローマ字として工夫された唯一つのもので、まあこれまで問題とされたことは殆ど解消してゐると思ふ。では、歐米の人々が之を採用するかとなるとさうは行かない。假名遣の問題があるからです。現代假名遣を轉寫すればやはり間の拔けたものにしかならないし、第一典據とすべき表記が安定してゐません。「表記のゆれ」などといふ變な言葉がありますが、とにかくこれがある。戰後の國語表記改革を領導した人々は、いづれローマ字化した曉に解決されると考へてゐたのだと思ふ。ローマ字の方式の比較で括弧にくくったものがそれです。問題が逆立ちしてしまった。ローマ字化はあり得ないと考へるべきでせう。いいかげんにしておいた假名遣だけが殘ってゐるわけです。Kmns 2007年11月26日 (月) 01:07 (UTC)
- [内閣告示第1號 現代假名遣] には助詞のハはハと書くといふ特例があって、「山では雪が降りました、あるいは、または、もしくは、いずれは、さては、ついては、ではさようなら、とはいえ、惜しむらくは、恐らくは、願わくは、これはこれは、こんにちは、こんばんは、惡天候もものかは」の例がある。さらにこの特例には注意といふのがあって、「次のやうなものは、この例にあたらないものとする」として、「いまわの際、すわ一大事、雨も降るわ風も吹くわ、來るわ來るわ、きれいだわ」が擧げてある。書き取りのテストなどはどうするのだと國語教科書の編集をしてゐた友人に訊くと、そんな問題は出さないのだとのこと。ひょっとしたら、國語教育でdictationといふことはできないのかもしれない。世田谷區日本語教科書といふのがある。加賀の千代女の「朝顏に釣瓶とられてもらひ水」の水には「みづ」とルビを振った上に、そのヅにズとルビを振ってゐるわけです。どう考へても變でせう。Kmns 2007年11月26日 (月) 02:37 (UTC)
ここで話を続けるのも何ですが、定家仮名が現代語の表記に適するとは思えませんね。定家の時代とは音韻も語彙も文法も変化しているのですから。定家仮名に倣うには語源や文法の知識が必要になりますが、Kmnsさんでさえ混乱している御様子。「いまは」や「すは」の「は」が助詞の「は」だと思いますか。「いまは」は「今端」ではないでしょうか。源氏桐壷「大納言、いまはとなるまで」。これが「今は」では文法に適いません。「今端」に根拠はありませんが、助詞の「は」とする根拠もないはずです。「雨も降るわ風邪も吹くわ」の「わ」は係助詞の「は」の転という人もいますが、中世から「わ」と書かれています。従って、内閣告示の特例の注意に不合理な点は有りません。HOTUMA 2007年11月26日 (月) 17:41 (UTC)
「それをここに書くことは適當でないかもしれませんが」「議論を續ける場としてここが適當かどうかはひとまづおいて」「ここで話を続けるのも何ですが」と御二方はお書きです。もし問題があるとお考えなら、それはすべき事ではありませんし、するなら、問題ありと考えている旨表明するべきではないと思います。言言不一致です。具体的提案から派生した議論ならまだしも、「それをここに書くことは適當でないかも」で始まっている議論ないし会話 (会ってなさそうですが) です。今更指摘するまでもないと思いますが、ノートページの用途には
- ウィキペディアは百科事典であり、演説をする場所ではありません。一般に、記事のテーマについての自説や個人的感想を述べるため「だけ」にノートページを利用することは歓迎されていません
と、はっきり書かれています。どうしても、ここでまだ続ける必要があるなら、分量と特殊性と目的の曖昧さ (具体的提案でなさそう) から考えてサブページ化すべきでしょう。--Jms 2007年11月26日 (月) 18:04 (UTC)
- 一般論ですが、議論のある問題について百科辭典が如何なる態度を採るべきかについてはノート:ローマ字#日本ローマ字協會99式に書いたことがあります。それから議論といふのはまづ自説の展開から始まるものだと思ふ。議論の結果、それを撤回する場合も、修正する場合もあるかもしれません。人類の智惠といふのはさうして高まっていくものだと思ふ。表記についての議論は特殊的に重要だと思ふのですが、どこでも豫め枠嵌めがあって新字體現代假名遣でなければ問題提起すら容易ではありません。「ここが適當かどうかはひとまづおいて」と書いたのは外樣の意識。それに自分で別の場所をつくる、そのやり方を知らない。乞ご容赦。Kmns 2007年11月27日 (火) 01:23 (UTC)
- すでに書かれていることの言い換えになりますが、Wikipedia‐ノート:表記ガイドは、Wikipedia:表記ガイドの改善・修正・質問・廃止などの議論をする場です。節名の「姓名の順序とコンマのこと」については、英語版などに関しての言及と思われます。他言語版は、日本語版とは別プロジェクトになります。Kmnsさんが最初にお書きの通りで改めて指摘するまでもありませんが、表記ガイドは日本語版以外には効力は及びません。ですので、ここに提案してもあまり意味がありません。
- もしも、「ウィキペディアの表記は戰後の國語行政に距離を置くべきではないか」という提案が本旨であれば、表記ガイドの枠からはみ出した問題となりますので、一般的な議論を行う場であるWikipedia:井戸端(おもに日本語版を対象にするとき)、または、ウィキプロジェクト全体について話し合うメタ(他言語版を巻き込んで話をするとき)を使うべきです。
- ただ、その提案は賛同を得られにくいと思います。古文版や文語版に参加するか、あるいは正字正仮名版などの発足に向け活動するかの方が現実的と思います。--Michey 2007年11月27日 (火) 08:04 (UTC)
- Micheyさん、いろいろお世話樣です。ここで今少し續けさせていただきたい。お氣づきかと思ひますが、拗促音は小書きの假名をつかってゐます。小書き假名のデーターの方が情報量が大きい、なるべく大きい方で行くべきではないか思ってゐるわけです。四假名を書分けるのと書分けないのと、書分ける方が大きいと思ふし、合併字は書分けた方が大きい。實は、「お言葉ですが」の著者、高島俊男さんの話を聞いたのはつい最近。そのとき合併字といふ語を聞いたのですが、自分でも書分けるやうになってゐました。期せずして同じことをやってゐたわけです。
- ローマ字のことで梯子を外したと言ひましたが、術語についても同じやうなことがあるかもしれません。cuspを例に擧げただけですが、漢字制限のために、いろいろの分野で從來の術語がつかへなくなり、新規に術語を定めなければならなかった。cuspの場合は、今手許にある辭書で見る限り、元に戻ってゐます。これはどこかで決めたことなのか、或は單に箍が緩んだだけなのかはわかりませんが、使用できる漢字が増えれば問題になるのではないでせうか。もし、どこかで決めたことであるのなら、そのあたりについて方針を立てねばならないのではないでせうか。つまり、あのローマ字引きの學術用語集にある語は、漢字制限下での便宜のものなのか、あるいは理由があって改變されたものなのかを逐一點檢して、漢字使用が可能であれば改變不要であったものを洗ひ出しておかねばならないのではないかといふことです。
- 抛物線と放物線、これも梯子を外した關係なのかもしれません。
- 表記といふこと、言語學者は音韻といふことを言ひ、國語學者は語源のことを言ひます。しかし、實際は、慣用といふことになるのではないでせうか。小學校に上がる前に書くことができたのはカタカナでの自分の名前だけでした。トシヲと書いた。やがてヲが禁止になり、テニヲハはテニオワと書くことになった。これは音韻といふ理屈を立てたためだと思ふ。それから、助詞のハヘヲが特別につかってもよいこととなった。何故さうなったか。これは恐らく慣用だけでは説明できないことだと思ふ。そのことが現代假名遣の特例となったのだと思ふけれど、慣用を全面的に認めたくないために生まれたのが注記なのではないでせうか。子供に特例を教へて、それから注意書きの例を書き取りでやらせてみると面白いと思ふ。Kmns 2007年11月27日 (火) 11:20 (UTC)
問題の整理
[編集]問題の整理
[編集]ウィキペディアの表記は戰後の國語行政に距離を置くべきではないかと書込んだのは數詞の桁の區切りの議論を讀んだのが切っ掛けでした。他に漢字の問題、假名遣の問題、それにローマ字の問題がある。
[數字] 數字の三桁區切りといふのは普く行はれてゐることなので、ここで四桁區切りの議論が成り立つこと自體が驚きだったのですが、音韻論に出番がないからかもしれない。
[漢字] 井戸端/subj/「關數」か「函數」か で同じことが議論になってゐる。函數と關數とネットで檢索するとヒットするのは函數の方が多い。最近、工業高校出身や、大學から企業に入った、これも技術畑の同窓生と呑む機會があり、この問題について尋ねてみたところ、全員、函數であった。放物線、抛物線についても抛物線であったが、中に一人だけ放物線も見たことがあるといふ男がゐた。これは、大學院まで出たあと教職についた友人の場合とは異なることで、彼は、韓國數學史學會に參加するときに朝鮮語をやったのだと思ふ。關數、放物線と覺えてゐたためにハムスといふところをクァンスといひさうになりポムルソンをパンムルソンといひさうになったとのこと。同音による書換へが國際化時代のことを考慮してゐなかったことが判るわけです。
インターネット時代になって氣がついてみると漢字制限の技術的根據は失はれてゐたわけです。字體のことで言へば新字體舊字體と二通りあるのは圍い込まれた表内字だけ。字種で言へば例外に屬する。字體を通すとすれば表外字に從ふしかない。さうなると、漢字制限のために工夫された新語の表記はどうあるべきかが當然問題になる。一律に元に戻してよいものかどうか。定着度も問題かも知れない。
使用頻度を見るとき、教科書や文部省の統制下にある大學の論文などは外して考へないと公平を缺くやうな氣がする。定年後であれば函數や抛物線と書く人が多いと思ふ。私が表記を切替へたのは、翻字式ローマ字で轉寫してみて、舊假名の合理性に目覺めたためですが、定年後であったから氣兼ねなくできたことだと思ってゐるところなのです。字體を切替へてゐますので、ウィキペディアの檢索の場合に通用しない場合がありますが、便宜をご容赦願ひます。 新しく工夫された術語は同音のものだけではなかった。今、記憶に從って擧げると、次のやうなものがあり、今でも英和辭書の譯語や國語辭書の表記欄で確かめることができるものです。
イ: 卷雲<->絹雲
ロ: 篠懸<->鈴掛
ハ: 楕圓<->長圓
ニ: 矩形<->長方形
ホ: 函數<->關數
ヘ: 抛物線<->放物線
(イ)の場合は、音訓制限のためであった。確か雲の生まれる動的状態に由來する名稱で英語では cirrus なのですが cirrostratus (卷層雲)はじめ、cirr で始る語がいくつも竝んで、卷が共通要素と見へる中で、雲だけが絹とあるのが異常に感じられたものでした。ウィキペディアでは兩形で檢索可能。表記は舊表記優先で兩方を掲げる。(ロ)は表記に兩形とも掲げるが檢索は新表記でのみ可能。國語辭典では山伏の法衣は篠懸、スズカケノキのときを鈴掛と分けるものもある。(ハ)についてはウィキペディアは新表記形をまったく無視してゐる。(ニ)は檢索、表記とも兩形。新表記が基本。(ホ)は兩形で檢索可能。表記は新。但し末尾に本來は「函數」と注記。(ヘ)は兩形で檢索可能。表記は新表記優先で兩形。
[漢字の項の補足] 管弦樂は管絃樂ではないかとあるとき氣づいたことがありました。辭書の執筆者にさう言ったところ、弓を使ふから管弦樂が正しいのだと諭された。三絃の響きなどといふべきところを、今の國語辭典によればやはり弓偏で書かねばならない。ものが段々解ってきて、漢字の意味を知るやうになると變だと感じる。そのやうな表記は、何等かの方法で保護しなければ保てないでせう。國語辭典もそのための道具であった。教師もまたそのやうに育成されてゐるのだと思ふ。字の意味をまともに教へると免許更新に引っかかるかもしれない。百科辭典がそれでよいのかといふこと、ノート:ローマ字#日本ローマ字協會99式 に書いたのはそのことでした。
[代用熟語補足] 漢字制限のために工夫された新表記の術語は「長圓」のごとく必ずしも同音のものばかりではなかった。だから、代用術語といふべきかもしれない。しかし、「刺戟」を「刺激」とする類も同種の問題だとすれば、もっとひろく代用熟語と呼ぶのが善いやうな氣もする。代用術語は各分野のものが一擧にできたわけではなかった。學術用語集の刊行は長期にわたった。出版社に入社したての頃は、もう殆ど出揃ってゐたやうに感じたものであるが、キリスト教關係のものなどはそれから三十年位經ってから出たやうに思ふ。だから、cirr のやうに戰前なら分野に拘らず「卷」であったものが時間差で別々な譯語になるやうなことが生じたわけである。
先に(イ)から(へ)まで代用術語の扱ひをみたわけであるが、次の二つもみておくべきであらう。
ト: 尖點<->先點
チ: 共軛<->共役
(ト)は項目としてはないが、保型關數なる項目の記述に舊表記で出現する。項目名の表記と此の語の表記は逆。思ふに、「先」も「尖」もよく知られた字であって、意味が判ることが新表記の採用を思ひ留まらせた。さういふ氣がする。(チ)は檢索、表記とも兩形。舊表記優先。斯かる場合に漢字の意味が解ってくると、新表記を用ゐることの抵抗が増大することが危惧される。「刺激」の例を擧げたが、「激痛」のやうに、副詞が動詞を修飾するのが本來ではないかと、ふと高校のときに教はったことが思ひだされて、これが「刺戟」の代用表記であると知った。知ってみると不思議なもので、「刺激」と書くことが我慢できなくなる。自分でも呆れるくらいにいいかげんなのですが、そのとき、他にもいろいろ調べて、すべての語の表記を元に戻したわけでなく、唯、氣づいた此の一語の表記だけにこだはったのでした。(ハ)の長圓は判り易くて良い代用術語だと思はれるが成功してゐない。圓の意味を誤解させる恐れがあるので、これが定着しなかったのは慶賀すべきことかもしれない。
[假名遣とローマ字] この議論には音韻論が持ち出されることが多い。表記のことを音韻論で切るときに見落してゐることはないのかといふのが私の疑問です。交ぜ書きやテニヲハを分かち書きすることに抵抗がある。かういふことを持ち出すと、それこそナイーブだといはれさうですが、音韻論は共時的。表記は汎時的な性質のものではないかといふ氣がするわけです。
[假名遣(四假名について)] 北郷山人のサイト のミッズルカラッスをご參照願ひます。
[ローマ字] これについては下記を参照されたし。
ハ: Extended Hepburn System--2007年12月10日 (月) 16:02 (UTC)
拾遺
[編集][新舊表記の名稱] 三年前に表記を切替へた。舊字舊假名遣に近い。拗促音を小書きにしてゐる。擴張ヘボン式と相互變換が出來るかどうかが念頭にあるためで、やはり音韻論を氣にはしてゐるわけです。小書きをやめることは變換で一擧にできる。逆は出來ない。正字正假名遣と言ふ人もある。それほど字體にはこだはってゐない。JISに兩方あれば、正字を使ふだけのことで、わざわざ特別のフォントを使用したり、外字を作成したりはしないわけです。假名遣と字體のことと合せて傳統的表記と呼ぶことにしたい。逆に新字體現代假名遣の表記を何と呼ぶか。新字體といふのは意味がはっきりしてゐる。現代假名遣といふのは規定がない。そもそも現代とは何時のことを言ふか。英語でどう言ふかが井の中の蛙 で問題になったとき、present-day Kana Usage imposed by the Government と書いたのですが、この present-day は明治期ではなかったかと思ふ。さうでなければ、例へば訓令式のやうにシをsi, チを ti とするやうなことはあり得なかったと思ふ。現代假名遣の理念で言へば、音を寫すべきもの。しかし文化廳の國語施策情報システム によっても、付表(歴史的假名遣ひ對照表)に明らかな如く、傳統的假名遣ひによって定義するしかないのです。ただ、ヰヱがなく、ハ行轉呼音がないといふことを以って否定的に規定するしかないものだと思ふ。四假名を舊假名にしても現代假名遣として通用するわけです。それだけのことを抑へておいて、新字體現代假名遣による表記をどう呼ぶへきか。文部省表記と呼びたいところですが、文部省はなくなり、文部科學省か文科省かになった。或る友人のメールに義務教育表記といふのがあったので、これを借用したい。義務教育表記は、市販の初學者用國語辭典による限り、恐らく楕圓ではなく長圓なのだと思ふけれど、これは義務教育が終った段階で楕圓にするのだと考へるべきなのでせう。cuspはもちろん尖點でなく先點。これらも漢字の意味にはこだはらずに、初學者に優しくしたものだった筈です。字の意味を知るとつかへなくなる表記を知の普及を目指す百科辭典で用ゐなければならないのは辛いところではあります。
[送りがな及び音と訓] 「起る」「起す」と書いた場合、後者は問題ないけれ前者をどう讀むか。オコスかオキルか。文脈で讀み分けられるかと思ふけれど、念のため「起きる」「起こる」と書分ける、これが送りがなだと思ふ。後者の場合にわざわざ「起こす」とすることはない。しかし表音文字に置換できるやうにと考へたためか、「起」といふ字の擔ふ音を一つに規定しようとしたのだと思ふ。まるで漢字に拘束衣を着せるやうなものだと思ふ。ところで、 最近、腦についての研究者が表記について言及することがあるらしい。昔から漢字の後に假名があれば、訓といふファイルから候補を選ぶし、漢字が竝んでゐれば音といふファイルから候補を選ぶといふやうな、つまり、音と訓は腦内の格納場所が異なるといふ感じを持ってゐた。研究が進めば交ぜ書きを前提とする義務教育表記の不合理なことが一層はっきりすると思ふ。
[ローマ字の場合] 義務教育表記が音聲を基本とし、表記に重きを置いてゐないことを例證するのにローマ字にまさるものはないでせう。國語の教科書は訓令式で英語の教科書はヘボン式というふうに別れているし、同じ地名がバスと鐵道と異なることも珍しくない。たとえば吉祥寺は鐵道ではkichijōjiで、バスではkitijojiである。バスは長音のマクロンを割愛した上に、吉祥寺のチは訓令式の方が短いので、ヘボン式に混ぜているわけである。長音についても杏林大學病院をKyorin Daigaku Byouinとするなど實にさまざまである。檢索の便を考慮すれば、音聲第一主義ではうまくいかない。この點も考慮すべきではないでせうか。
[人名] 義務教育表記が漢字を輕んじる傾向を助長したために、變った表記の人名が増えた。以下の例は或る小學校の先生からきいた難讀例。瑛里樹(エリナ)、秋波(アキハ)、彩味(アミ)、若佳菜(ワカナ)、萬櫻(マオ)。 DQName といふところがある。「子供の名前@あー勘違い・子供がカワイソ」スレッドを中心に、子供の名前を收集・整理したものとのこと。
[片假名] 義務教育表記は假名を削ったわけですが、片假名と平假名と二つ教へるのも生徒に負擔だと考へたのでせうか、片假名をなかなか教へない。自動車や怪獸、或は假面ライダーなど片假名が頻出する繪本には片假名に平假名のルビがついてゐる。初學者に優しくしたつもりかもしれないけれど視力を損なふ氣がする。
[一バイト假名] 義務教育表記を象徴するものは一バイト假名だらう。ヰヱがなく、ひょっとしたらヲもなかったのではないか。在ることは在るが一番若い位置。原則は使はないことになってゐたのではないだらうか。濁點半濁點つきの字母はなく、濁點半濁點と組合す方式。だからどんな表記もありうるのだが、恐らくヂヅは表記しないのが普通。銀行口座の名義の振假名にヰヱヲヂヅはつかふことはできない。郵便貯金はヲヂヅについてつかっても善いことになったやうだ。今話題の社會保險廳のデーターの場合でも、千鶴子さんや田津子や惠美子さんは受付けでチズコ、タズコ、エミコと勝手に修正されて處理されてしまひ、それがために消えてしまった場合はないのであらうか。實は轉居して保險のことで住所變更を連絡したところ、ヲをオとしてゐたことが判明し、どちらでも構はないと言ったのだが、契約書を結んだときの屆けに合はせるのだと、いささか手間取ったのでした。これらの假名はローマ字で書き表すことができないとして、あらかじめ削除したものと思はれる。國會圖書館のJapan/Marc は訓令式であるが、長音表記といふのはなく翻字式で ō とせず ou としてゐる。データー上の表記を義務教育表記に入れるのは亂暴かもしれないが、今、小學生が最初に習ふローマ字は假名漢字變換のためだから、やはり翻字式になる。さうすると、未だ義務教育表記はdebug中と言ってもよいのではあるまいか。因みに 英語ウィキペディアのヘボン式 はヰやヱにも對應するやうだ。
[ジかヂか] 地震はジシン。これは初學者ならヂシンと書く。地をチと讀むことからの類推が働くからであらう。しかし、この場合は本來のチが濁ったものでなく、漢音チ、呉音ヂの、その呉音だからジとするのだと、これについては役所のお觸れがあった。本來ヂであらうと、字母の種類を減らすために口實を設けてむりやりジにしてゐるとの印象を受けたことを覺えてゐる。天智天皇 の讀みは(テンチ/テンジ)とある。智は漢和辭典によると漢音呉音ともチであるから、これはチの連濁だ。義務教育表記ならテンヂとあるべきところ。字母の節約に寄與するなら間違も大目にみるといふことなのか、教科書でテンジとあるのをみたことがある。義務教育表記は嚴密でなく音が同じだからどちらでも善いとしてゐるのかもしれない。傳統的表記であればテンヂが正しい。どの表記が正しいと決めつけることを戰後の表音主義者は嫌った。今、表音主義者と書いたが、さう言ってよいのか迷ふのは、たとへば kid の複數形 kids を假名に寫してキッズとすること。義務教育表記で育った英語の先生は初級者用英和辭典で發音を示す場合はキッヅとするのに、書名にするときはキッズとするからだ。だから義務教育表記は傳統的表記の批判者としては表音主義者だったかもしれないが、それ以上に字母節約主義者だったのかもしれない。
[PISA] PISA はピサと読むのが普通だと思ふが、或る新聞の解説記事でピザだとあったので典據を問合はせたところ、文部科學省やPISA關係者への取材では「フランス語式に讀むとピザになる」とのこと。アルファベットは表音文字だと考へてゐることが判る。新聞記者もさう考へたのだ。フランス人がピザといふのは判るけれど、我國ではどうかといふ觀點が拔けてゐる。 語は意味を表す。表すところの意味を傳へるには何等かの感官を刺戟しなければならない。聽覺を刺戟する音聲と視覺に頼る文字とのうち、音聲が一次的で文字は音聲を表す二次的なものとするのが西歐言語學の主張。しかし、PISAのやうな場合は、この大文字で綴られた視覺上の語形こそ一次的であって、音聲はこの視覺的語形を想起せしめるために働く二次的なもの。この綴りを想起せしめるアルファベットの讀み方は各言語ごとに癖がある。英語でも佛語でも s は有聲音に圍まれれば同化して z と同じ發音になること、それは彼らの言語の、その限りでは缺陷といふべきもの。我國で、これをピサと讀む人が多いのは、一つにはそれが、ラテンアルファベットの元來の讀み方であり、そのことをローマ字を通して學んでゐるからですが、もう一つには、おなじみの米國風イタリア料理の名前と區別するにも都合が善いからで、かかることを、さかしらをたてて間違であるかのやうに識者がいふことこそ問題。戰後の國語行政はかかるさかしらの暴走した結果だとみることができる。 今の學校教育で、論理的思考の訓練は文法だと思ふ。小學校の先生は國語を教へるが、教諭の免許に國文法も國語音韻史も必修ではない。彼らが文法らしいことを學ぶのは恐らく英語についてだけなのです。そして英語學でもっとも成功を納めたのが音聲學なのですから、教師はみな音聲が一次的であると信じてゐるはず。役人も記者も辞書編集者もみなさういふ教師に教はってゐるわけです。
[ヲ] 義務教育表記ではヲは助詞にしか現れない。字母を節約する立場からヲの存在は説明が難しいだらう。それで、ヲはかつては wo と發音されたのだと説明する先生があるらしい。コマーシャルの時にカチャカチャやってゐたら或る公共放送でアナウンサーが、オとヲは異なる發音であったが、昭和二十一年の内閣告示で同じやうに發音してもよくなったのだと説明した。2007.2.5の事である。兩者の發音の區別を示すためにローマ字が援用されてゐたのが、そもそも畫面に暫時にもせよ目を止めることになった切っ掛けでした。しかし、いくら税金の補助があるか知らないが、發音の仕方を國が決めることがあり得るといふ考へには驚いた。「役人も記者も辭書編集者も」と書いたけれどアナウンサーを落としてゐた。ヲとオの發音上の區別は戰前からなかった。多分、明治期にはなかったのだと思ふ。現代の音韻なら、ウィウェウォもあるし、ティもトゥもディもドゥもある。もしヂとジ、ヅとズの區別がなくなったのだとして、一方を削除するのであれば、なぜそれはダ行の方であったのか。ヘボンがジヂを ji とし、ヅズを dzu としたことから推測すれば削るべき字母はジズの方であったはずだ。また區別が復活したらどうするのだらうか。そのときは、またその時代の現代假名遣を考へるのだらう。傳統的表記は音韻については萬葉から昭和まで五十音でまかなってきた。ヂジ、ヅズの違ひについては、その區別が現代はないと斷るだけで濟む話ではないか。區別が無くなれば字母を減らし、區別が復活すれば字母を増やすといふのでは安心してデーターを構築することができないのではあるまいか。
掲示板的に
[編集]利用者ページでお誘いを受けましたので、ここに参りました。
百科事典は、初学者のためという目的もありますので、学校教育で使われる(常用漢字レベル)の表記を表にたてて、記事の中で、用字法の変遷を述べるほうがいいのではないかと、私自身は考えています。関数でいえば、最初「函数」と訳されたのはなぜか、それがなぜ「関数」と表記されるようになったのかを、事情をおって説明すればいいのではないかと思います。記事名は「関数」ということにして。
別件ですが、「三絃」を「三弦」という使い方があるのですか? 不勉強のために知りませんでした。三絃の常用漢字レベルでの言い換えは三味線であって、「三弦」ではないと思いましたが。「管絃」といえば、「絃」は琴の類ですから、西洋音楽のオーケストラに使うのは誤りでしょう。 --ねこぱんだ 2007年12月11日 (火) 18:33 (UTC)
- 早速の御來駕有難うございます。丁度、問題の整理を一通り書いたところで、さらに拾遺のやうなことを書くつもりでをりましたので、順序が逆になりましたが、區切りをつける意味で見出しを立てた次第です。なほ、「ローマ字論」のノートが目下讀めなくなってゐるので、ローマ字についても加筆を考慮してをります。
- さて函數はfunctionの音譯。朝鮮語をやった數學者は先輩。高校まで函數だったはず。教科書の執筆もやって關數といふ表記が身についたわけです。しかし、朝鮮語や中國語をやる場合には函數でないと通じないし、向うからの留學生も困るわけです。文部省の支配下にない一般人はどうかと言へば『博士の愛した數式』では函數。orchestraを英漢辭典で引けば管絃樂です。かういった事態が何故生じたかと言へば、戰後、日本語のローマ字化を目指した人達の考へが根底にあったと思ふのです。篠懸も鈴掛もスズカケとすれば表記のゆれなどなくなるではないかと。函數も關數もカンスウもしくはkansū にすれば解決することは確かです。關數といふ表記など誰もやらない時代に突如としてさういふ命令を出したわけで、芥川龍之介の筆法をかりれば白色テロル。漢字を減らせば便利になると考へ、假名もローマ字で書分けないものは不要として、ヰヱヲヂヅを不要とした。そのとき根據となった考へ方が音韻論で、表記は二次的だから音に從って新規に決めればよいとした。だからここで問題になってゐる表記のゆれは、意圖的と言へば言ひすぎかもしれませんが、人爲的に造りだされたものであることは確かです。インターネット時代に突入して、二次的であった筈の表記が基本になってきた。ところが、その表記が現代音を根據とすることになってゐるので一種惡循環に陷ってゐるわけです。現代假名遣によるべきだと主張すれば、現代日本語の定義から始めなければならないし、そもそも、なにが正しい表記といふものが根本的にない。たしか方言によっては合拗音の表記も認められてゐた。(この認めるといふ表現が變なのですが)
- 北郷山人の讀書メモ小字報「近況」07/11/25月譚「遠景」07/12/10 を讀むと、腦中における漢字の處理は表音文字とは大いに異なるものであるらしい。戰後のいはゆる表音主義者は漢字に拘束衣を着せて表音機能に特化(送りがなについて一考されたし)し、意味の働きを無視したのだと思ふ。戰後、一貫してそのやうな立場で教育がなされてきたので、大多數の人にとって漢字表記の違ひは問題ではなくなってゐるはずだ。従来なら、漢字の意味の違ひを知ってゐる人の發言に重きを置くか、辭書で調べて判斷するのが常道であったはずだが今は廢れた。
- まあ、ねこばんださんの言はれるところが穩當な解決でせうか。ただ、尖點や楕圓のやうなものまで文部省式にこだはることはない。三弦など國語辭書はまだこだはってゐるわけです。自分一箇の好みを言へば、關數より函數がよいし、共役といふ語も意味がはっきりしすぎてゐて、數學的理解を汚す恐れを感じる。しかし、これらは執筆者の選擇にまかすより仕方がないのではないかと思ふ。變更するなら、何か委員會をつくらなければならないでせうから。そしてねこばんださんの言はれるやうに兩形で引けるといふことはもちろん、兩形の關係について記述すべきでせう。この記述は項目の冒頭に置いて、戰後の國語行政との關係を記すのが良いと思ふ。別にファイルを用意し、分野ごとに異なる術語も元は同一であったなど一覽できるやうになると有難い。
- 百科辭典は初學者のためといふこと、これには異論があります。(事典といふ表記は平凡社のものだといふ氣持があるので辭典としてゐること諒解されたし)。まづは萬民のものだと言ひたい。初學者のためといふのは、もちろん、萬民のためであることを否定するものではなく、初學者も讀むのだから、初學者用に優しく記述すべきだとの意味であることは判ります。現役時代、よくuser-friendlyといふことを聞いたものです。主として營業的觀點から言はれたことでした。活用といふ言葉で曲用のことまで意味するやうに使ふ人があったので、活用と曲用と言ふべきだと言ったのですが、曲用は難しいといふわけです。では何時になったら曲用といふ語を用ゐた記述ができるのか。優しさと正確さのどちらが大切かと言へば、正確さなわけですから。Kmns 2007年12月12日 (水) 02:35 (UTC)
- 以前、漢字と假名遣のことで一筆いただいたことがあったことを失念してをりました。宜しくお願ひします。少し「拾遺」といふラベルに記入日時を付して、上の方に加筆いたしましたのでご参照願ひます。ところで、三絃は三味線と言換へることになってゐたといふのはどのやうな場でのことだったのでせうか。いや、そのやうな言葉は初耳ではありませんが、もしご存じなら教へて下さい。しかし、三絃の響きと三味線の響きとは、それこそ響きが違ふと思ひます。義務教育表記では微妙な違ひは問題にすべきではないとする考へがあったことは確かですが、やはり、それにこだはるといふか、そのために漢字の意味をずらして行く、この腦内處理の方法が日本人であることの證左かもしれません。Kmns 2007年12月15日 (土) 02:52 (UTC)
- ノート:ローマ字論#擴張ヘボン式 を更新し、參考資料にも二つ追加いたしました。Japan/Marc をみると訓令式と言ひながら轉寫式であるやうです。これはもう義務教育で教へるローマ字とは全く異質で、假名漢字變換方式に近い。長音といふものはない。義務教育表記の怖いところは、このやうに一擧に變ることがあり得ることです。まあ、Japan/Marc の場合は機械内部の話なので、そこだけの最適を求めれば善いわけですが、字體とか假名遣についてはなかなかさうはいかないでせう。現状ではねこぱんださんの言はれるあたりしかないと思ふ所以です。しかし、その場合は傳統的表記ほど質は高くならない、その覺悟が必要でせう。Kmns 2007年12月17日 (月) 00:33 (UTC)
- Japan/Marcのことを知って ノート:ローマ字論#擴張ヘボン式 に「翻字式と表音式」といふのを書きました。現代假名遣がローマ字化へ向けての前處理であったといふ感じがお判りいただけるかと思ひます。Kmns 2007年12月18日 (火) 01:33 (UTC)
- ノート:ローマ字論#擴張ヘボン式にいろいろ加筆しました。英語教育についても節を設けて書きました。Kmns 2007年12月22日 (土) 01:15 (UTC)
- 本日(十二月二十二日)、テレビをみてゐたら、人名で麻亞、不思議、香菜、眞咲や在波、紅多、紅甘、出誕といふのがあるとのこと。兄弟姉妹の名前。續けて讀めば、「まあ不思議かなまさか」と「アルファベータガンマデルタ」となるのだといふ。ネットで確かめて、あるサイトを知ったので、拾遺の人名のところに加筆した。なほ、拾遺のところは全體に見出しを立てたので、個別のラベルからは「拾遺:」を削除した。また日付が太字でうるさいのでこれも外した。これからも加筆が拾遺の部の最後でない場合は「掲示板的に」の最後に斷ることにする。Kmns 2007年12月22日 (土) 03:22 (UTC)