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Wikipedia‐ノート:良質な記事/良質な記事の選考/松岡朝 20201011

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表でも述べましたが、細かい部分で出典とされているページの記述と記事内容との齟齬が見られました。以下、ページ数はすべて『松岡朝物語』のものです。

「アメリカ留学」節
  • 「…多くの習い事を朝に習わせた。」
    p.7が出典となっていますが、p.9の誤りと思われます。
  • 「…のちに海外で人脈を広げる際のきっかけになるなど、朝の人生を助ける形となった。」
    同じくp.7が出典となっていますが、p.9の誤りと思われます。また、p.10まで範囲を広げても人脈の話がここでは出てきません。
  • 「アメリカでの最初の留学先は、イリノイ州エバンストン市ノースウェスタン大学であった。」
    p.17が出典となっていますが、ノースウェスタン大学が出てくるのはp.18ですので、pp.17-18とすべきと思われます。
  • 「…広くアメリカの人士との交流の機会に恵まれた。」
    出典がありませんが、p.21またはpp.20-21だと思われます。
  • 「…コロンビア大学大学院と勉学を続けた。」
    p.21が出典となっていますが、「コロンビア大学大学院」の語が出てくるのはp.23で、そこでも「コロンビア大学大学院で学び続ける計画を持っていた。」という表現に止まっています。
  • 「関東大震災で健一の事業が回らなくなり…学費を得始めた。」
    p.24-25が出典となっていますが、父の事業の話が出てくるのはp.23ですので、pp.23-25にすべきではないでしょうか。
「正倉院での曝涼参加」節
  • 「…朝は1年間、日本に帰国した。」
    p.35が出典となっていますが、帰国が修士号取得後であったことと1年間であったことがこのページにはありません。
  • 「さらに列席した東伏見宮妃周子の招きを受け…」
    出典とされているp.36では、帝室博物館での上映会に参加したのは「東伏見妃殿下の侍従の方たち」となっています。
  • 「この上映会をきっかけとして…」
    p.37が出典となっていますが、上映会がきっかけと書くにはpp.36-37またはpp.35-37にすべきかと思います。
「日本女性初の米国法学博士号取得」節
  • 「日本で1年をすごしたのち…」
    p.45が出典となっていますが、帰国が1年間であったことがこのページにはありません。
  • 「…日本部主任として勤務し日本の美術品の分類と評価を担当した。」
    p.51-52が出典となっていますが、日本部主任という語はここには出てきません。
  • 「朝は39歳になっていた。」
    p.55が出典となっていますが、p.56の誤りと思われます。
「満州へ」節
  • 「…粛第13王女との渡米に対する支持と許可を取り付けた。」
    p.63-66が出典となっていますが、出典から読み取れるのは溥儀の許可のみで、国務院総理の指示ないし許可を取り付けたとは私には読めませんでした。
  • 「…朝は日本に帰国した。」
    p.70が出典となっていますが、当該ページには関東軍が握りつぶしたという記述はありません。P.66の誤りでしょうか。また、いずれのページにも日本に帰国したという記述が見当たりません。
「アメリカ行脚」節
  • 「…当時のシカゴ・トリビューン紙経営者だったルイス・ラペルを紹介された。」
    p.73-76が出典とされていますが、当該ページにはシカゴ・トリビューンという固有名詞は出てこないようです。
「中国へ」節
  • 注釈6「…終戦時には83歳となっていた。」
    p.144-146が出典とされていますが、父が終戦時83歳であったという記述が見当たりません。
「ユニセフでの活動」節
  • 「帰国後の朝は進駐軍の通訳などは行っていたものの…」
    p.157-159が出典とされていますが、進駐軍の通訳をしていたという話は出てきません。むしろp.155にはGHQや進駐軍に「仕えるのだけは嫌だった。」と記されています。
  • 「日本ユニセフ協会は1954年(昭和29年)から7年間、奄美への緊急給食支援を開始したが…」
    出典とされているp.166-167を見る限り、日本ユニセフ協会による緊急給食支援が7年間続いたというようには読めません。出典の当該ページには、日本ユニセフ協会による1954年からの支援が何年続いたかは記述されておらず、ユニセフ(本部?)によるミルク支給プログラムは7年続いたことが記述されていますが始期は1956年とされています。「年譜」節も同様です。
「人物」節
  • 「…大切にしたという。」
    父の記した言葉を引用するのであればあえて字句や表現を変えないほうが良いのではないでしょうか。
  • 「シカゴ・トリビューン紙経営者だったルイス・ラペルは…」
    「アメリカ行脚」節でも述べましたが、pp.76-77にシカゴ・トリビューン紙という固有名詞は出典にはないようです。

以上です。--Semiprecious stone会話2020年10月11日 (日) 09:04 (UTC)[返信]

ご指摘ありがとうございます。
  • 「…多くの習い事を朝に習わせた。」
    直しました。
  • 「…のちに海外で人脈を広げる際のきっかけになるなど、朝の人生を助ける形となった。」
    ページは直しました。海外で人脈を広げる云々については、元の文章で「のちの彼女の人生に...想像もできないのであった」がとても文学的過ぎ、かといって「のちの人生に役立った」だと具体的には?と言われそうな文章になったので、その後の全編を通しての内容を丸めて表現したものです。
    それに出典は?と言われると双方を解決する表現方法を私は持ち合わせませんが、「人脈を広げる助けとなった一例」を注釈に加え、それに対して出典を加えました。
    これではどうでしょうか?
  • 「アメリカでの最初の留学先は、イリノイ州エバンストン市ノースウェスタン大学であった。」
    直しました。
  • 「…広くアメリカの人士との交流の機会に恵まれた。」
    直しました。
  • 「…コロンビア大学大学院と勉学を続けた。」
    p.202でコロンビア大学大学院が示されているので、それを加えました。
  • 「関東大震災で健一の事業が回らなくなり…学費を得始めた。」
    直しました。
  • 「…朝は1年間、日本に帰国した。」
    どちらも本文中に記載はありませんが、p.202の年表の年月との前後関係、およびp.43で再度渡米した事より、「修士号取得後」「1年間」は読み取れます。
    両ページを出典に加えましたが、問題ないでしょうか。
  • 「さらに列席した東伏見宮妃周子の招きを受け…」
    完全に読み違えておりました。直しました。
  • 「この上映会をきっかけとして…」
    直しました。
  • 「日本で1年をすごしたのち…」
    先にも書きました通り、p.35の帰国時の年月との計算で「1年間」は読み取れます。
    同ページを出典に加えましたが、問題ないでしょうか。
  • 「…日本部主任として勤務し日本の美術品の分類と評価を担当した。」
    日本部主任という語はp.202の年表に出てきますので、ページを追加しました。
  • 「朝は39歳になっていた。」
    これは手元の本では間違いなく55ページになっています。版による違いがあるのでしょうか?
  • 「…粛第13王女との渡米に対する支持と許可を取り付けた。」
    文脈的に9割9分国務院総理の許可も得ているとは思いますが、確かに明言はされていないため溥儀に限定しました。
  • 「…朝は日本に帰国した。」
    関東軍が握りつぶした=>P.66は直しました。また、渡米前にいったん帰国したことは確かにここに限らず書かれていませんが、p.69に「日本への帰国が迫った」とは書かれています。また、渡米には大洋丸を使ったことがp.73に書かれていますが、大洋丸は1938年には横浜~サンフランシスコ航路であり、いったん帰国しないことには満州から直行できません。以上から帰国したことは自明ですが、どのように書くのがよいでしょうか。とりあえずp.69は典拠に加えました。
  • 「…当時のシカゴ・トリビューン紙経営者だったルイス・ラペルを紹介された。」
    p.77の写真のキャプションにシカゴ・トリビューンが出てくるので、p.77を加えました。
  • 注釈6「…終戦時には83歳となっていた。」
    p.143には父が83歳だという記述が出てきますが、1945年の終戦前のある時期の年齢が83才であり、終戦時の年齢はわからないという指摘でしょうか。とりあえず「終戦時の」=>「1945年には」に修正しました。
  • 「帰国後の朝は進駐軍の通訳などは行っていたものの…」
    何かで読み違えたものと思います。p.155を加え、アメリカ人に日本語を教える仕事をしていた、に修正しました。
  • 「日本ユニセフ協会は1954年(昭和29年)から7年間、奄美への緊急給食支援を開始したが…」
    おっしゃる通り、日本ユニセフの支援とユニセフ本部の支援を混同しておりました。修正しました。
  • 「…大切にしたという。」
    修正しました。
  • 「シカゴ・トリビューン紙経営者だったルイス・ラペルは…」
    先の指摘のp.76まででしたら、確かに言及はないですが、p.77も含むならばシカゴ・トリビューンは写真のキャプションに書かれています。何の脈絡もなく関係のないシカゴ・トリビューンが口絵に使われるとは思えないので、本文で「ラペル氏は新聞社の取締役」と書かれていることからもその新聞社がシカゴ・トリビューンであることは自明です。p.77が含まれていれば問題ないものと思います。
以上について修正しました。--こちずふぁん会話2020年10月11日 (日) 14:10 (UTC)[返信]
修正内容を確認いたしました。「読み取れる」「自明である」という点に若干独自研究っぽさも感じますが、秀逸な記事ではなく良質な記事の選考ですし、こちずふぁんさんのご見解は承りましたので、強くは言わないことにします。また、「日本女性初の米国法学博士号取得」節の「39歳」は、私の手元の本では確かに56ページ上段2行目なのですが、おっしゃる通り版による違いかもしれません。
上記修正により、このページでの私からの指摘については概ね解決したと考えます。ご対応ありがとうございました。--Semiprecious stone会話2020年10月13日 (火) 13:45 (UTC)[返信]