OX5 (航空機)
大西 OX5 スバルプレン
OX5 スバルプレンは、日本の大西勇一が製作したホームビルト機・モーターグライダー。本項では、前身であるOG-2 エアロパブリカについても併せて述べる。なお、スバルプレンの型式番号も「OG-2」とされることがある[1]。
経緯
[編集]1967年(昭和42年)[1][2]あるいは1968年(昭和43年)、大西は[3]山形の学校から譲渡された[4]萩原式H-22型グライダーを基に[3][4][5][6][7]、トヨタ・パブリカのエンジンを搭載したOG-2を自作し[2][3][5]、1968年8月24日に完成させた[8]。同年の国際航空宇宙ショーの際には、会場となった入間基地にて展示飛行を披露している[3][5]。1969年(昭和44年)には[3]、大西はスバル・1000のエンジンを搭載したOX5へと[3][6]OG-2を改造した[3][5]。
1970年(昭和45年)[3][9]7月28日[3][5][10]、大西は自らOX5を操縦し[1][5][10][11]、日本初の自作航空機による洋上2地点間飛行となる[1][9]茅ヶ崎 - 伊豆大島間の[1][3][4][9][12][13][14]往復飛行を成功させた[4][5][6]。離陸時には相模川河口近くのゴルフ場の堤防を臨時の滑走路として使用し[10][15]、飛行距離は120 kmに及んだ[6][14]。飛行計画の策定には富士重工業、日本自作航空機協会、神奈川航空協会が協力し[6]、3ヶ月にわたる関係各省庁との調整を経て[4]航空局からの飛行許可にこぎ着けている[6][16]。飛行の際には、大西が社長を務めていたタテバヤシエアロ社有のセスナ機をはじめ[13]海上保安庁のツインビーチや新聞社のヘリコプターなど計11機が随伴するとともに[6][15]、巡視艇2隻や航空自衛隊のKV-107も非常時に備えて待機していた[4]。
翌1971年(昭和46年)[3]4月28日には[17]、フロートを備える水上型に改造された上で、利根大堰にて飛行試験を実施した[3][17]。また、同年に大西飛行場で行われた自作航空機大会「フライイン'71」をはじめ[3]、東京および大阪の三越デパートなど日本各地で[4]飛行展示を含む[3]展示を行ったが、この際に輸送中の降雨などによって機体がダメージを受け、1977年(昭和52年)には一時飛行が不可能な状態に陥っていた[4]。しかし、その後も1992年(平成4年)まで飛行を続け[14]、引退後は航空科学博物館への寄贈・保管を経て[14][18]、長期貸与[1]または永久貸与という形で2006年(平成18年)4月より[18]向井千秋記念子ども科学館にて常設展示されている[1][7][14][18]。また、1990年(平成2年)には[19]機体記号「JX0001」が付与されている[1][19]。
なお、1971年頃には、OX5を発展させた機体をキットプレーンとして市販することも計画されていた[20]。1977年頃には、スバル製の1,600 ccエンジンをプッシャー式に装備する、アメリカの自作機の水準を目標とした後継機の製作も、胴体フレームの組立まで進行していた[21]。
機体
[編集]機体は高翼単葉の[19]モーターグライダーに区分されるもので[13][19]、H-22型からは胴体後部と主翼・尾翼を流用しており[3]、うち主翼は翼端を切り詰めた上で用いられた[7]。胴体前部は、廃機となったセスナ機から流用されたジュラルミンを用いて[2]、大西が過去に自作したジャイログライダーの構造を応用する形で新造されている[3]。プロペラはサクラ製の[2]自作品を装備し[2][16]、着陸脚も増設された[6]。エンジンは、OG-2の時点ではパブリカの空冷水平対向2気筒エンジンを[3]自動車修理工場を経営する友人から譲り受け[2]、プッシャー式に配置していた[3][6]。OG-2の製作にかかった費用は約100万円[2]。
OX5への改造に際しては、胴体前部をコックピット・エンクロージャで覆うとともに[3]、機体のバランスを調節して燃料タンクを大型化させるべく[8]、エンジン配置をトラクター式に改めている[3]。搭載エンジンはスバル・1000のもののうち[3][6]排気量1,000 cc、1,100 cc、1,300 ccと換装を重ねており[3]、うち1,300 ccのエンジンを装備した際にもっとも良好な性能を示している[7]。水上型への再改造時には、全長3.34 mのフロートが取り付けられている[17]。
諸元
[編集]- OG-2
出典:「変わりだね・カスタム飛行機」 82頁[2]。
- OX5(1,100 ccエンジン装備時)
出典:「ホームビルト機で洋上飛行!」 104頁[6]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h HITNET.
- ^ a b c d e f g h ボーイズライフ 1969, p. 82.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x EXAL 2004a.
- ^ a b c d e f g h 青木考 1977, p. 91.
- ^ a b c d e f g 航空情報 1970, p. 66.
- ^ a b c d e f g h i j k 航空ファン 1970, p. 104.
- ^ a b c d 西原良一 2008, p. 37.
- ^ a b ボーイズライフ 1969, p. 84.
- ^ a b c 西原良一 2008, p. 35 - 37.
- ^ a b c 航空ファン 1970, p. 103.
- ^ 西原良一 2008, p. 36,37.
- ^ 航空情報 1970, p. 66,67.
- ^ a b c 航空ファン 1970, p. 103,104.
- ^ a b c d e 大北栄人 2013.
- ^ a b 航空情報 1970, p. 67.
- ^ a b 西原良一 2008, p. 36.
- ^ a b c 航空情報 1971, p. 131.
- ^ a b c ミュージアム・データ 2008, p. 10.
- ^ a b c d e EXAL 2004b.
- ^ 石川昭「ここまで来た日本のホームビルト機」『航空技術』第192号、日本航空技術協会、1971年、48頁、doi:10.11501/3231036、ISSN 0023-284X。
- ^ 青木考 1977, p. 90,92.
参考文献
[編集]- “国産自作航空機 大西氏 スバルプレン 自作航空機 JX0001”. 産業技術史資料共通データベース. 国立科学博物館産業技術史資料情報センター. 2024年8月9日閲覧。
- 「変わりだね・カスタム飛行機」『ボーイズライフ』第6巻第11号、小学館、1969年、82,84頁、doi:10.11501/1789062、全国書誌番号:00022023。
- “大西 勇一”. エクスペリメンタル航空機連盟 (2004年9月19日). 2024年8月9日閲覧。
- 青木考「夢の6発機、ついに浮上す 大西氏の「華麗なるヒコーキ人生」」『航空情報』第375号、酣燈社、1977年、90 - 92頁、doi:10.11501/3290345、ISSN 0450-6669。
- 「ホームビルト機海をこえる」『航空情報』第276号、酣燈社、1970年、66,67頁、doi:10.11501/3290244、ISSN 0450-6669。
- 「ホームビルト機で洋上飛行!」『航空ファン』第19巻第13号、文林堂、1970年、103,104頁、doi:10.11501/3289618、ISSN 0450-6650。
- 西原良一「機体も飛行場もすべて手作り その情熱はラジコンを超えた」『RC AIR WORLD』第7巻第12号、枻出版社、2008年、35 - 37頁、全国書誌番号:00112485。
- 「水上型スバルプレーン飛ぶ!!」『航空情報』第287号、酣燈社、1971年、131頁、doi:10.11501/3290255、ISSN 0450-6669。
- 大北栄人 (2013年5月28日). “90歳のおじいちゃんが発明した電動三輪車”. デイリーポータルZ. デイリーポータルZ. 2024年8月9日閲覧。
- 「特集:2006年度リニューアル博物館情報」『ミュージアム・データ』第74号、丹青研究所、2008年、10頁、ISSN 1346-5155、2024年8月30日閲覧。
- “自作航空機一覧(1)a”. エクスペリメンタル航空機連盟 (2004年11月26日). 2024年8月9日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 動画の頁 - エクスペリメンタル航空機連盟公式サイト。茅ヶ崎 - 伊豆大島間の飛行時の記録映像が閲覧できる。