J.B.ルノア
J.B.ルノアもしくはJ.B.ラノー(J. B. Lenoir /ləˈnɔːr/ 1929年3月5日 - 1967年4月29日)はアメリカ合衆国のブルース・ギタリスト兼シンガーソングライター。1950年代から60年代にシカゴ・ブルースシーンで活躍した。シマウマ模様の衣装と高い声でショウマンとして知られ、エレキ・ギターのスタイルと社会的な歌詞が影響を与えた。[1] 「アイゼンハワー・ブルース」[2]、「コリア・ブルース」、「アイム・イン・コリア」、「アラバマ・ブルース」、「ベトナム・ブルース」などのプロテストソングや反戦歌で知られている。
"Len WAH"(レノワ)と発音される場合もあるが、自身は"La NOR"(ラノー)と呼んだ。イニシャル"J.B."に意味はなく、出生名(ファーストネーム)が"JB"だった。
来歴
[編集]ギター弾きの父にブラインド・レモン・ジェファーソンの音楽を紹介され、とりこになる。[1] そして昼は畑仕事、夜はギターの練習という生活で、演奏技術を磨いていった。
10代前半の1940年代初期にサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIやエルモア・ジェームスとニューオリンズで共演。[3]後にアーサー・ビッグ・ボーイ・クルーダップやライトニン・ホプキンスに影響を与えた。[1]
1949年にシカゴに引っ越す。ビッグ・ビル・ブルーンジーに地元ブルースコミュニティーを紹介してもらい、ナイトクラブでメンフィス・ミニー、ビッグ・メイシオ・メリーウェザー、マディー・ウォーターズと共演し、黒人の間でその名を知られるようになっていった。[3][4]
1951年、21歳の時にJ.O.B.レコードで初録音し、その後チェスレコードで録音を始める。
1950年代、J.O.B., チェス、パロット、チェッカーなどのレーベルで録音。"Let's Roll", サックスにJ. T. ブラウンを迎えた"The Mojo feat. J. T. Brown", "Eisenhower Blues" などが黒人の間で人気になった。[5] ところが、「アイゼンハワー・ブルース」は大統領を批判した曲だったため、政府から圧力がかかり、発禁に追い込まれてしまった(のちに歌詞を変え"Tax Paying Blues"として再発売)。朝鮮戦争を批判した"Korea Blues"はチェスレコードからの発売で、[5]名義は'J. B. and his Bayou Boys'だった。[6]バンドにはピアノのサニーランド・スリム、ギターのベイビーフェイス・リロイ・フォスターらがいた。他にも「コリア・ブルース」と同じく朝鮮戦争を批判した「アイム・イン・コリア」、人種差別を批判した「アラバマ・ブルース」などを発表した。
1954年に"Mamma Talk To Your Daughter"をParrotから発売し、R&Bで11位になり、後に多くカバーされた。[5]1956年に"Don't Touch My Head!!!", 1950年代後半にチェッカーで『ドント・ドッグ・ユア・ウーマン』を録音、スタンダードになった。
1963年、USAレコードで'J. B. Lenoir and his African Hunch Rhythm'名義でアフリカ系パーカッションを目立たせて録音。[1] 「アイゼンハワー・ブルース」が圧力で発禁になったルノアだが、彼は弾圧で屈服するようなヤワな男ではなかった。60年代にはベトナム戦争、大統領を批判する「ベトナム・ブルース」を発表し、反骨の精神を示した。
生活が苦しく、イリノイ大学の食堂などで働いた。ウィリー・ディクスンが彼をフックアップし、ドラムのFred BelowとアルバムAlabama BluesやDown In Mississippi を録音。当時のインスピレーションは黒人の公民権運動(1955-1968)やFree Speech Movementだった。[1]ヨーロッパをツアーし、1965年にイギリスでAmerican Folk Blues Festivalに参加した。[7]
「 | I never will go back to Alabama, that is not the place for me,
I never will go back to Alabama, that is not the place for me, |
」 |
—"Alabama Blues", by J. B. Lenoir |
「 | おれはアラバマには帰らない。おれの場所じゃないよ。
おれはアラバマには帰らない。おれの場所じゃないよ。 |
」 |
—"Alabama Blues", by J. B. Lenoir |
死
[編集]彼は1967年4月、38歳の時イリノイ州アーバナで交通事故にあった。3週間後、ルノアは内出血と心臓発作が原因で死亡したが事故の際、病院で充分な治療を受けられなかったことが、死亡の原因だったと言われている[8]。
後世への影響
[編集]イギリスのジョン・メイオールはオマージュ歌"I'm Gonna Fight for You, J.B."や"Death of J. B. Lenoir"を書いた。[9]
2003年のドキュメンタリー映画『ソウル・オブ・マン』(ヴィム・ベンダース監督)はマーティン・スコセッシ監督のThe Bluesシリーズの第二弾で、ルノアのほかにも、スキップ・ジェイムス、ブラインド・ウィリー・ジョンソンの生涯と作品を扱っている。
ディスコグラフィ
[編集]- Natural Man (1968)
- Crusade (1970)
- J. B. Lenoir (1970)
- Chess Blues Masters (1976)
- Down in Mississippi (1980)
- Mojo Boogie (1980)
- Chess Masters (1984)
- Parrot Sessions, 1954-55: Vintage Chicago Blues (1989)
- His JOB Recordings 1951-1954 (1991)
- Lenoir (1991)
- J.B. Lenoir 1951-1958 (1992)
- Vietnam Blues: The Complete L&R Recording (1995)
- One Of These Mornings (2003)
- Live in '63 (2003)
- Martin Scorsese Presents The Blues: J.B. Lenoir (2003)
- Alabama Blues: Rare And Intimate Recordings From The Tragically Short Career Of The Great Chicago Blues Man (2004)("the whale has swallowed me"(クジラがおれを呑み込んだ)収録)
- If You Love Me (2004)
- J.B. Lenoir (2004)
- Mojo: The Job/USA/Vee Jay Recordings (2004)
- J. B. Lenoir 1955-1956 (2007)
- I Don't Know (2010)[11]
- 日本盤『ナチュラル・マン+2 J.B.ルノアー』 (2013)
関連項目
[編集]参照/脚注
[編集]- ^ a b c d e Bill Dahl. “J.B. Lenoir”. Allmusic. November 11, 2011閲覧。
- ^ https://www.discogs.com/JB-Lenoir-Eisenhower-Blues/release/2042354
- ^ a b “Blues Online© J.B. Lenoir”. Physics.lunet.edu. 2013年3月10日閲覧。
- ^ “J.B. Lenoir @ All About Jazz”. All About Jazz. 2013年3月10日閲覧。
- ^ a b c Nigel Williamson, Rough Guide to the Blues, 2007, ISBN 1-84353-519-X
- ^ “J. B. Lenoir Discography”. Wirz.de. 2013年3月10日閲覧。
- ^ Russell, Tony (1997). The Blues: From Robert Johnson to Robert Cray. Dubai: Carlton Books Limited. pp. 133–134. ISBN 1-85868-255-X
- ^ Doc Rock. “The 1960s”. The Dead Rock Stars Club. 2013年3月10日閲覧。
- ^ “John Mayall - The Death Of J.B. Lenoir Lyrics”. Metrolyrics. 2013年3月10日閲覧。
- ^ “2011 Blues Hall of Fame Inductees”. Blues.org. 2013年3月10日閲覧。
- ^ CD Universe, AMG, Amazon
外部リンク
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