1963年の日本グランプリ (ロードレース)
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レース詳細 | |||||||||||||
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1963年のロードレース世界選手権 全12戦中第12戦 | |||||||||||||
決勝日 | 1963年11月10日 | ||||||||||||
開催地 | 鈴鹿 | ||||||||||||
開催コース | 常設サーキット 5.821km
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250 cc | |||||||||||||
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125 cc | |||||||||||||
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50 cc | |||||||||||||
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1963年の日本グランプリは、ロードレース世界選手権の1963年シーズン第12戦として、11月10日に三重県の鈴鹿サーキットで開催された。日本グランプリとしては前年に続いて2度目の開催であったが、世界選手権としては初めての開催となった。
レースは50cc、125cc、250cc、350ccの4クラスが開催予定であったが、350cc(25周)は出走したのはホンダのライダー3名のみで、選手権の対象外とされた[1]。
最終戦まで2クラスのタイトルが未定であった。125ccはヒュー・アンダーソンが5位に入って、50ccに次いでタイトルを獲得した。250ccはジム・レッドマンが勝利してタイトルを獲得、既に獲得していた350ccのタイトルに次いで2つ目のタイトルとなった。 50ccはアンダーソンが既にタイトルを獲得していたが、ホンダのルイジ・タベリがアンダーソンを抑えて優勝した。
250ccクラス決勝結果
[編集]スズキはホームレースとなる本GPで2ストローク4気筒エンジンを搭載した新型を投入、エルンスト・デグナー、フランク・ペリスとヒュー・アンダーソンに託した。デグナーは第1ラップで転倒しマシンが炎上してリタイア、ペリスはデグナーを救助するためにレースを放棄し、アンダーソンのみが10位で完走した。
順位 | ライダー | 車両 | タイム | ポイント |
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1 | ジム・レッドマン | ホンダ | 1h 01' 34" 3 | 8 |
2 | 伊藤史朗 | ヤマハ | +0" 1 | 6 |
3 | フィル・リード | ヤマハ | +17" 9 | 4 |
4 | タルクィニオ・プロヴィーニ | モリーニ | +1' 05" 5 | 3 |
5 | ルイジ・タベリ | ホンダ | +1' 37" 4 | 2 |
6 | 粕谷勇 | ホンダ | 1 |
125ccクラス決勝結果
[編集]順位 | ライダー | 車両 | タイム | ポイント |
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1 | フランク・ペリス | スズキ | 53' 11" 9 | 8 |
2 | ジム・レッドマン | ホンダ | +4" | 6 |
3 | エルンスト・デグナー | スズキ | +12" 9 | 4 |
4 | トミー・ロブ | ホンダ | +13" 6 | 3 |
5 | ヒュー・アンダーソン | スズキ | +55" 5 | 2 |
6 | 伊藤光夫 | スズキ | +1' 32" 8 | 1 |
50ccクラス決勝結果
[編集]タイトル争いはクライドラーのハンス=ゲオルグ・アンシャイトがメカニカルトラブルのため撤退し、スズキのヒュー・アンダーソンが獲得することで事実上終了した。 順位では10位に入ったのみであったが、デイブ・シモンズが率いるトーハツは翌年のレースに継続的に参加する意向を発表した。
順位 | ライダー | 車両 | タイム | ポイント |
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1 | ルイジ・タベリ | ホンダ | 41' 34" 7 | 8 |
2 | ヒュー・アンダーソン | スズキ | +34" 1 | 6 |
3 | 増田俊吉 | スズキ | +1' 00" 9 | 4 |
4 | 市野三千雄 | スズキ | 3 | |
5 | 島崎貞夫 | ホンダ | 2 | |
6 | 伊藤光夫 | スズキ | 1 | |
7 | エルンスト・デグナー | スズキ |
参照
[編集]参考文献
[編集]外部リンク
[編集]
前戦 1963年のアルゼンチングランプリ |
ロードレース世界選手権 1963年シーズン |
次戦 1964年のアメリカグランプリ |
前回開催 1962年の日本グランプリ |
日本グランプリ | 次回開催 1964年の日本グランプリ |