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1962年の野球(1962ねんのやきゅう)では、1962年の野球界における動向をまとめる。
1962年 日本シリーズ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
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10月13日(土) |
第1戦 |
東映フライヤーズ |
5 - 6x |
阪神タイガース |
阪神甲子園球場
|
10月14日(日) |
第2戦 |
東映フライヤーズ |
0 - 5 |
阪神タイガース
|
10月15日(月) |
移動日
|
10月16日(火) |
第3戦 |
阪神タイガース |
2 - 2 |
東映フライヤーズ |
明治神宮野球場
|
10月17日(水) |
第4戦 |
阪神タイガース |
1 - 3 |
東映フライヤーズ
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10月18日(木) |
第5戦 |
阪神タイガース |
4 - 6x |
東映フライヤーズ |
後楽園球場
|
10月19日(金) |
移動日
|
10月20日(土) |
第6戦 |
東映フライヤーズ |
7 - 4 |
阪神タイガース |
阪神甲子園球場
|
10月21日(日) |
第7戦 |
東映フライヤーズ |
2 - 1 |
阪神タイガース
|
優勝:東映フライヤーズ(初優勝)
|
- 作新学院が史上初の春夏連覇
- 7月1日
- 巨人の王貞治が対大洋戦(川崎)において一本足打法を初披露。第2打席で本塁打を記録するなど、この日3安打。
- 大毎の葛城隆雄が日生球場での対近鉄ダブルヘッダー第1試合の14回戦の九回表に4号本塁打を打ち、プロ通算100本塁打を達成[15]。
- 7月12日
- 国鉄の村田元一が後楽園球場での対阪神ダブルヘッダー第2試合に先発し、9回2死までパーフェクトに抑えるも、27人目の打者西山和良に安打を打たれ完全試合達成はならず[16]。試合は1-0で村田が勝利投手。
- 大洋の秋山登が川崎球場での対広島15回戦の八回表に古葉毅から三振を奪い、プロ通算1500奪三振を達成[17]。
- 7月14日 - 近鉄の関根潤三が平和台球場での対西鉄9回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[18]。
- 7月19日
- 阪神の小山正明が広島球場での対広島17回戦で勝利投手となり、プロ通算250勝を達成[19]。
- 大洋の鈴木武が川崎球場での対国鉄3回戦に三回表から出場し、プロ通算1000試合出場を達成[20]。
- 7月21日 - 大洋の森徹が広島市民球場での対広島16回戦で12号本塁打を打ち、プロ通算100本塁打を達成[21]。
- 7月22日 - 近鉄が東京スタジアムでの対大毎ダブルヘッダーの第1試合18回戦の1回表に、1番の矢ノ浦国満から8番の吉沢岳男まで8者連続得点を記録、パ・リーグ4度目の記録[22]。この試合で近鉄は1回表に8点を挙げ、第2試合の1回表にも8点を挙げる[23]。
- 7月29日 - 南海の島原輝夫が大阪球場での対西鉄20回戦の5回表に代打で出場し、プロ通算1000試合出場を達成[24]。
- 9月2日 - 国鉄の金田正一が後楽園球場での対巨人25回戦の九回裏に藤尾茂から三振を奪い、ウォルター・ジョンソンの持つメジャー・リーグの記録と並ぶ通算3508奪三振を記録[34]。
- 9月5日
- 9月6日 - 阪神の三宅秀史が川崎球場にて試合前、外野にてキャッチボール中に小山正明の投げた球が左眼に直接ぶつかり、球場近くの川崎市民病院にて診察を受け「最低1週間の入院が必要。失明の恐れはない」との診断をうけ、同球場での対大洋24回戦を欠場。全イニング連続試合出場のプロ野球記録が700で止まる[37]。
- 9月7日 - 阪急はラリー・レインズとの契約を9月1日付で解除したと発表。レインズからの「家庭の事情により退団したい」との申し出を認める[38]。
- 9月11日 - 東映が神宮球場での対大毎23回戦の二回から六回まで5イニング連続併殺のパ・リーグ新記録[39]。
- 9月12日 - 阪神のマイク・ソロムコが1甲子園球場での対大洋24回戦にて2三振を喫し、1957年に巨人・宮本敏雄が記録したシーズン最多三振108のセ・リーグ記録を更新するシーズン109三振となる[40]。
- 9月15日
- 国鉄の金田正一が後楽園球場での対阪神22回戦で20勝目を挙げ、12年連続20勝を達成[41]。
- 巨人の藤田元司が広島球場での対広島20回戦で12勝目を挙げ、プロ通算100勝を達成[42]。
- 9月18日 - 大毎の葛城隆雄が東京球場での対南海23回戦の四回裏に二塁打を打ち、プロ通算1000安打を達成[43]。
- 9月22日 - 大洋は川崎球場での対中日24回戦において、大洋の三原修監督による「ルールのスキをついた」とされる スタメンに偵察メンバーを7人使用。試合は3対2で大洋が勝利[44]。
- 9月30日
- 2位の南海が藤井寺球場での対近鉄ダブルヘッダー第1試合で25回戦に4-5で敗れたため、東映フライヤーズが球団創設以来初のパ・リーグ優勝を達成[45]。
- 大毎の榎本喜八が東京スタジアムでの対東映26回戦の3回表に17号本塁打を放ち、プロ通算100本塁打を達成[46]。
- 12月1日 - 大洋は午後、東京・銀座の球団事務所にて来年の首脳陣を発表。秋山登が一軍投手コーチ兼任、二軍監督に前一軍打撃コーチの宮崎要、スカウト部長に前二軍監督の保井浩一が就任[63]。
- 12月10日 - 中部日本新聞社は午後3時から球団担当の役員会議を開き、中部日本放送の野球解説者で球団OBの杉浦清を新監督に招聘し、監督の濃人渉を二軍監督とする人事を決定[64]。
- 12月17日 - 中日の一軍前監督の濃人渉が中日本社にてオーナーの大島一郎と会見し、球団から要請された二軍監督の就任を固辞し、技術顧問として球団に残ることを決定[65]。
- 12月23日 - 広島の斎藤達雄と大毎の佐々木勝利の交換トレードが成立したと広島が発表[66]。
- 12月25日 - 巨人は午後、読売新聞社特別会議室にて株主総会を開き、取締役の宇野庄司の退任、読売新聞社取締役の正力亨の副社長就任を承認[67]。
- ^ 読売新聞1962年1月13日6面「広島、新首脳陣を発表」
- ^ 毎日新聞1962年4月7日夕刊1面「作新学院が初優勝 センバツ 日大三を完封」毎日新聞縮刷版1962年4月p141
- ^ 毎日新聞1962年4月7日夕刊7面「プロ野球も一斉に 東映・大映は神宮を舞台」毎日新聞縮刷版1962年4月p147
- ^ 読売新聞1962年4月9日6面「杉山が千本安打」読売新聞縮刷版1962年4月p186
- ^ 毎日新聞1962年4月20日9面「毒島、千試合出場」毎日新聞縮刷版1962年4月p413
- ^ 毎日新聞1962年4月23日6面「阪神三宅選手が千試合出場」毎日新聞縮刷版1962年4月p476
- ^ 毎日新聞1962年4月29日7面「土橋がプロ入り百勝」毎日新聞縮刷版1962年4月p603
- ^ 読売新聞1962年5月2日7面「新コミッショナーが誕生 きのう内村就任式」読売新聞縮刷版1962年5月p29
- ^ 毎日新聞1962年5月25日9面「足立(阪急)奪三振17の新記録 カーブでなで切り 南海打線、全く無気力」毎日新聞縮刷版1962年5月p505
- ^ 読売新聞1962年5月27日7面「鶴岡監督、第一線退く 気分一新に 蔭山コーチが代行」
- ^ 『ベースボールマガジン』、ベースボール・マガジン社、2012年11月、72頁。
- ^ 読売新聞1962年6月3日7面「東京スタジアム 花やかに開場式」読売新聞縮刷版1962年6月p51
- ^ 読売新聞1962年6月18日7面「広島の長谷川 奪三振千五百」読売新聞縮刷版1962年6月p393
- ^ 読売新聞1962年7月1日7面「高倉(西鉄)が千試合出場」読売新聞縮刷版1962年7月p7
- ^ 読売新聞1962年7月2日7面「大毎、近鉄も1勝1敗 葛城通算百ホーマー」読売新聞縮刷版1962年7月p35
- ^ 読売新聞1962年7月13日7面「村田(国鉄)無念の一投 九回二死、完全試合逃す」読売新聞縮刷版1962年7月p289
- ^ 読売新聞1962年7月13日7面「秋山、千五百三振奪う」読売新聞縮刷版1962年7月p289
- ^ 読売新聞1962年7月14日7面「関根(近鉄)千試合出場」読売新聞縮刷版1962年7月p335
- ^ 読売新聞1962年7月20日7面「小山が通算百五十勝 4試合連続完封で飾る」読売新聞縮刷版1962年7月p443
- ^ 読売新聞1962年7月20日7面「鈴木武、千試合出場」読売新聞縮刷版1962年7月p443
- ^ 読売新聞1962年7月22日7面「森、通算百号ホーマー」読売新聞縮刷版1962年7月p485
- ^ 読売新聞1962年7月23日7面「パ、4回目の珍記録」読売新聞縮刷版1962年7月p509
- ^ 読売新聞1962年7月23日7面「二試合とも初回に8点 近鉄、大毎投手陣を粉砕」読売新聞縮刷版1962年7月p509
- ^ 読売新聞1962年7月23日7面「島原、千試合出場記録」読売新聞縮刷版1962年7月p655
- ^ 読売新聞1962年8月3日7面「ノーヒット・ノーラン レッドソックスのモ投手」読売新聞縮刷版1962年8月p49
- ^ 読売新聞1962年8月3日7面「川崎で観客数公表」読売新聞縮刷版1962年8月p49
- ^ 読売新聞1962年8月4日6面「資金面で経営強化 経営の実態は変わらず フジテレビの国鉄参加」読売新聞縮刷版1962年8月p70
- ^ 読売新聞1962年8月8日6面「岡本千本安打を記録」読売新聞縮刷版1962年8月p154
- ^ 読売新聞1962年8月9日7面「南海監督が復帰 まず阪急と星分ける」
- ^ 読売新聞1962年8月13日7面「仰木が千試合出場」読売新聞縮刷版1962年8月p263
- ^ 読売新聞1962年8月20日7面「米田、通算千五百奪三振」読売新聞縮刷版1962年8月p411
- ^ 読売新聞1962年8月26日7面「稲尾(西鉄)通算二百勝を達成 自ら2ランで飾る 大毎は榎本の14号だけ」読売新聞縮刷版1962年8月p537
- ^ 読売新聞1962年8月31日7面「金田、奪三振三千五百」読売新聞縮刷版1962年8月p649
- ^ 読売新聞1962年9月3日7面「金田投手(国鉄)奪三振世界タイ 十三年で三千五百八」読売新聞縮刷版1962年9月p53
- ^ 読売新聞1962年9月6日7面「金田奪三振の世界新 3509個目は坂崎から 対巨人最終戦飾り18勝」読売新聞縮刷版1962年9月p119
- ^ 読売新聞1962年9月6日7面「バルボン千試合出場」読売新聞縮刷版1962年9月p119
- ^ 読売新聞1962年9月7日6面「三宅選手(阪神)がケガ」読売新聞縮刷版1962年9月p140
- ^ 読売新聞1962年9月8日6面「阪急、レインズの契約を解除」読売新聞縮刷版1962年9月p162
- ^ 読売新聞1962年9月12日7面「パ新の5回連続併殺」読売新聞縮刷版1962年9月p253
- ^ 読売新聞1962年9月13日7面「ソロムコ三振新記録」読売新聞縮刷版1962年9月p275
- ^ 読売新聞1962年9月16日7面「金田、12年連続の20勝 阪神を抑え、自ら決勝打」読売新聞縮刷版1962年9月p341
- ^ 読売新聞1962年9月16日7面「藤田プロ入り100勝 広島を完封、巨人3位へ」読売新聞縮刷版1962年9月p341
- ^ 読売新聞1962年9月19日7面「葛城が千本安打」読売新聞縮刷版1962年9月p411
- ^ “【9月22日】1962年(昭37) 三原監督、ルール守ってアテ馬7人 エースも三塁守らせる”. スポーツニッポン (2012年9月22日). 2015年11月22日閲覧。
- ^
読売新聞1962年9月30日夕刊1面「東映初優勝決まる パ・リーグ」読売新聞縮刷版1962年9月p647
- ^ 読売新聞1962年10月1日6面「榎本通算百号放つ」読売新聞縮刷版1962年10月p7
- ^ 読売新聞1962年10月3日夕刊1面「阪神、15年ぶり優勝 セ・リーグ」読売新聞縮刷版1962年10月p57
- ^ 読売新聞1962年10月4日6面「阪神、自力で栄冠獲得 小山、最終戦を飾る セの一シーズン完封最多勝更新」読売新聞縮刷版1962年10月p72
- ^ 読売新聞1962年10月6日6面「セ・村山 パ・張本 最高殊勲選手 新人王に城之内 パは尾崎が安藤(元)に大差」読売新聞縮刷版1962年10月p116
- ^ 読売新聞1962年10月7日6面「柳田、3人目の記録」読売新聞縮刷版1962年10月p138
- ^ 読売新聞1962年10月7日6面「国鉄監督に浜崎氏 砂押氏はヘッド・コーチに」読売新聞縮刷版1962年10月p138
- ^ 読売新聞1962年10月8日6面「ペスキー氏にきまる レッドソックス監督」読売新聞縮刷版1962年10月p162
- ^ 読売新聞1962年10月8日6面「権藤(中日)2年連続30勝 セ新」読売新聞縮刷版1962年10月p162
- ^ 読売新聞1962年10月9日6面「『沢村賞』は小山投手」読売新聞縮刷版1962年10月p184
- ^ 読売新聞1962年10月16日6面「マーシャル中日入り 前パイレーツ選手」読売新聞縮刷版1962年10月p342
- ^ 読売新聞1962年10月21日夕刊1面「東映、初の王座に 日本シリーズ」読売新聞縮刷版1962年10月p463
- ^ 読売新聞1962年10月28日7面「宇野監督を更迭 永田大毎会長が言明」読売新聞縮刷版1962年10月p615
- ^ 読売新聞1962年11月6日6面「大毎監督に本堂」読売新聞縮刷版1962年11月p118
- ^ 読売新聞1962年11月7日7面「阪急監督に西本 戸倉は退陣」読売新聞縮刷版1962年11月p141
- ^ 読売新聞1962年11月16日6面「大毎コーチ陣きまる 大洋の藤井招く」読売新聞縮刷版1962年11月p342
- ^ 読売新聞1962年11月27日7面「豊田(西鉄)国鉄へ移籍」読売新聞縮刷版1962年11月p597
- ^ 読売新聞1962年11月28日6面「広島監督に白石氏復帰」読売新聞縮刷版1962年11月p620
- ^ 読売新聞1962年12月2日7面「秋山がコーチ兼任 大洋、来年の陣容きまる」読売新聞縮刷版1962年12月p31
- ^ 読売新聞1962年12月11日7面「中日監督に杉浦復帰」読売新聞縮刷版1962年12月p245
- ^ 読売新聞1962年12月18日7面「農人(中日)技術顧問に」読売新聞縮刷版1962年12月p413
- ^ 読売新聞1962年12月23日7面「斎藤(広島)佐々木(大毎)交換」読売新聞縮刷版1962年12月p523
- ^ 読売新聞1962年12月26日6面「読売巨人軍 正力亨氏が副社長」読売新聞縮刷版1962年12月p592
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