1961年ニヤサランド立法議会選挙
1961年ニヤサランド立法議会選挙(1961ねんニヤサランドりっぽうぎかいせんきょ)は、1961年8月に英国領ローデシア・ニヤサランド連邦内のニヤサランドで行われた議員選挙である。
概要
[編集]マラウイは、19世紀末の1890年にイギリスによりシーレ高地保護領として保護領化が宣言されて以降、長らくイギリスの保護領とされていた。保護領下では白人入植者の権限が極めて強く、先住民族の参政権などを含む諸権利は強く制限されていた。第二次世界大戦後、アフリカ諸国では独立の気運が高まり、1957年にサハラ以南のブラックアフリカの独立国家第一号としてガーナが誕生したのを初めとして、1960年にアフリカの年と呼ばれる17カ国もの国家が独立を迎えた[1]。ローデシア・ニヤサランド連邦内でも1950年代後半には黒人による反乱が発生しており、イギリスによる連邦政府の維持が既に困難な状態となっていた。そのため、ローデシア・ニヤサランド連邦を解体し、特に在住する白人の多かった南ローデシアを北ローデシア(後のザンビア)とニヤサランド(後のマラウイ)から分離して、白人の利益確保を中心に行う方向へと転換することとなった。
そのような状況に加え、マラウイがイギリス保護領から独立するきっかけの1つとなったものに、1961年の選挙におけるマラウイ会議党の大勝がある。1944年に結成された黒人による政治組織、ニヤサランドアフリカ人会議の流れをくむこの党は、1959年にヘイスティングズ・カムズ・バンダなどの主要メンバーが逮捕されて一度崩壊しかけたが、同年内に逮捕を免れたメンバーによりマラウイ会議党として再建された。翌年の1960年には刑務所から出所したバンダが代表となり、活発な政治活動を行った。ニヤサランドは人口の99.7%を黒人が占め[2]、また一定の資産、学歴を元に黒人に選挙権を与える条件も南ローデシアほど厳しくなかったこともあり、結果として翌1961年の選挙において白人の指定議席である3議席を除く、50議席を獲得するに至った[3]。
政党名 | 得票数 | 得票率 | 議席数 | |
---|---|---|---|---|
マラウイ会議党 | 50 | |||
白人指定議席 | 3 | |||
合計 | 53 | |||
出典: AFRICAN ELECTIONS DATABASE |
その後
[編集]この翌年の1962年、ニヤサランド議会は自治権を獲得し、翌1963年にはマラウイ会議党の指導者であったバンダが首相へ就任、1964年には英連邦王国の一員として独立に至り、1966年にはマラウイ共和国が成立することとなる[4]。
脚注
[編集]- ^ 中谷 臣、『センター世界史B各駅停車』、173-174ページ、パレード、2006年3月15日
- ^ 「多人種協調主義」という名の白人支配 中央アフリカ連邦(ローデシア・ニヤサランド連邦)
- ^ AFRICAN ELECTIONS DATABASE 1961 Legislative Council Election
- ^ アジア経済研究所 マラウイとガーナの民主化過程