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黎昭宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昭宗 黎椅
後黎朝
第11代皇帝
王朝 後黎朝
在位期間 1516年 - 1522年7月22日
姓・諱 黎椅(黎譓)
諡号 神皇帝
廟号 昭宗
生年 端慶2年10月4日
1506年11月18日
没年 統元5年12月8日
1527年1月9日
黎漴
端穆皇后鄭氏鸞
后妃 阮皇后
陵墓 華陽陵
元号 光紹 : 1516年 - 1522年

黎昭宗(れいしょうそう、ベトナム語: Lê Chiêu Tông)は、後黎朝大越の第11代皇帝(在位:1516年 - 1522年)。名は黎 椅(れい い、ベトナム語: Lê Y)または黎 譓(れい けい、ベトナム語: Lê Huy)。諡号神皇帝16世紀の王朝混乱期に皇帝として擁立されるが、権臣の莫登庸の権力の増大に圧迫され、首都を放棄して亡命し莫登庸と対峙するも、敗北して身柄を捕えられ殺害された。

概要

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第4代皇帝黎聖宗の孫の荘定王黎漴(建王黎鑌の子)と鄭氏鸞の子として生まれる。当時の皇帝であった叔父の襄翼帝が暴政により臣下の鄭惟㦃により弑殺され、鄭惟㦃は新たに襄翼帝の甥の黎光治を皇帝に擁立した。しかし間もなく黎光治は西都(タインホア)へと身柄を連行され、後に殺害された。代わって新たに擁立されたのが14歳の黎椅であった。

この朝廷内の混乱に乗じて、国内ではかつての皇統であった陳太宗の末裔を名乗る陳暠が、農民反乱を指揮して首都の昇龍(タンロン)を陥落させ、陳朝の復興を称して天應と改元した[1][2]。この反乱は鄭惟㦃・阮弘裕・鄭綏・陳真らによって平定されたが、戦闘に際して鄭惟㦃は戦死[3]し、鄭綏と阮弘裕で対立による軍事衝突が発生[4]、この事案に介入した陳真が鄭綏に与して阮弘裕を駆逐[5]し、そのまま朝廷の実権を掌握する。

陳真の権勢は日に日に増大し、これに恐怖を抱いた昭宗は、陳真を宮中に招き寄せて暗殺してしまう[6]。しかしこれに対し陳真の与党であった者たちは大いに不満を持ち、阮敬・阮盎・阮囂・高春時らは安朗寺より起兵し、昇龍を陥落させた[7]。また鄭綏ら山西(ソンタイ)の諸将らも団結し、最初は第2代皇帝黎太宗の次男の恭王黎克昌の曾孫の黎榜、次いでその同母弟の黎槱を相次いで対立皇帝として擁立した[8]。これらの反乱を鎮めるために昭宗が力を借りたのが莫登庸であり、黎槱を捕え[9]、陳真の与党らを味方に引き入れるなどの活躍を見せ、昭宗も昇龍へと戻る事ができたものの、今度は莫登庸の権力が増大し、朝廷内で専横を敷くようになる。

莫登庸は皇帝のための護衛兵を引き連れて都を出入りするようになり、また宮中に自身の息の掛かった侍女を配置して、昭宗の行動を逐一監視させるなど、公私ともに圧迫を加えた。これに不満を抱いた昭宗は、西都にいた鄭綏と連絡を取り、昇龍から脱出して山西明義県の夢山に立て籠もる[10]と、天下の諸侯に向けて莫登庸討伐の命を下した。これに対し莫登庸は「昭宗は奸臣に唆された」と宣言し、昭宗の弟の黎椿を新たに皇帝として擁立した(黎恭皇[11]

当初は多数の諸侯の支持を得ていた昭宗だったが、宦官の范田の讒言を信じ、また鄭綏の部下の阮伯紀を殺害するなどした[12]ため、諸侯の人望を失い、また鄭綏からも怒りを買ってに西都に連れ去られ、その傀儡として据え置かれた。莫登庸は1525年に西都を陥落させ、鄭綏と昭宗の身柄を昇龍に連行した[13]。昭宗は莫登庸により傀儡の恭皇を通して陀陽王への降格を言い渡され、その後帝位の簒奪を企図した莫登庸により、命令を受けた使者の范金榜によって殺害された[14]。清潭県(現在の青池県)の永興陵に埋葬され、昭宗の廟号と神皇帝の諡号を追贈された[15]。昭宗の死後間もなく、莫登庸による恭皇からの強制的な禅譲により、黎朝は一度滅亡を迎えた。

脚注

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  1. ^ 『大越史記全書』巻15:水棠養眞庄純美殿監陳暠作亂,~假稱陳太宗玄孫,~。
  2. ^ 『大越史記全書』巻15:陳暠陷京城,僭號天應,臨朝稱制,用黎廣度理國事。
  3. ^ 『大越史記全書』巻15:惟㦃及阮尚皆爲陳暠所獲,至萬劫行館殺之。
  4. ^ 『大越史記全書』巻15:安和侯阮弘裕與永興伯鄭綏有隙,屯兵相拒。
  5. ^ 『大越史記全書』巻15:陳眞以弘裕逐鄭綏,乃擧兵攻弘裕,~。
  6. ^ 『大越史記全書』巻15:至是朝退,帝使召眞與弟子陳智倶入禁中,令人閉諸城門,使力士捉眞,眞走至城上,守門人捉而斬之。
  7. ^ 『大越史記全書』巻15:十四日,阮敬・阮盎・阮囂・高春時等 〈一作阮贄・馬擧等〉共聚于安朗寺,擧兵逼犯京城,帝夜幸嘉林菩提以避之。
  8. ^ 永興伯鄭綏・文臣阮瑡與山西諸將共謀立靜脩公祿之子榜爲帝,改元大德,榜乃恭王克昌之曾孫也。得半年又廢之,而立黎槱(音猶),改元天憲。一云𣜃,乃榜之同母弟,父乃庶人也,未詳。
  9. ^ 『大越史記全書』巻15:命莫登庸提統水歩諸軍圍黎槱於慈廉,因決水入黎槱軍,槱與阮瑡等走至寧山,官軍獲之。
  10. ^ 『大越史記全書』巻15:帝陰與范獻・范恕等謀,令人實密詔於西京,使鄭綏迎援。~帝幸山西明義縣夢山。
  11. ^ 『大越史記全書』巻15:共謀立帝弟椿,其勅諭曰:「予德宗建皇帝之孫,明宗哲皇帝之第二子,光紹皇帝之親弟。茲以光紹七年,七月二十七日夜,時光紹皇上被奸人脅遷于外,~。」
  12. ^ 『大越史記全書』巻15:綏屬將阮伯紀入侍,范田恐其爭權,因奏斬之,以首詣營門,綏以是忿,始有異志。
  13. ^ 『大越史記全書』巻15:莫登庸使其黨山東侯莫厥・瓊溪侯武護・陽川侯武如桂等撃鄭綏于淸華,大破之,綏因遷光紹帝于源頭。
  14. ^ 『大越史記全書』巻15:太傅仁國公莫登庸令沛溪伯范金榜密弑光紹帝于降所,因以梓宮回葬于淸潭之永興陵。
  15. ^ 『大越史記全書』巻15:後追上尊諡爲神皇帝,廟號昭宗。

参考文献

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  • 『大越史記全書』巻十五 昭宗神皇帝本紀
先代
中廃帝
後黎朝の第11代皇帝
1516年 - 1522年
次代
恭皇