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麻豆渓事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

麻豆渓事件(まとうけいじけん)はオランダ統治時代台湾で発生した原住民の反オランダ抗争事件。

海賊被害に悩まされていたオランダ東インド会社は、1629年に第3代台湾長官のピーテル・ノイツが派遣した62名の兵士で麻豆社に入り、海賊の捜索に当たった。しかし麻豆社は表面上はオランダの統治下に入っていたが、族人がオランダ入植者に殺害される事件があり、また成人男性に対する強制的な使役に対し不満を有しており、案内人を務めた麻豆渓社の人々はオランダ人の捜索を妨害した。

夕刻を迎えたオランダ兵は捜索を中止、帰営することになった。帰途朝豆渓を通過した際、捜索に同行した麻豆渓人に武器を持たせ、また川を渡る際に彼らに背負われていたが、川中に至ると麻豆渓の人々は突然オランダ兵を川に投げ込み、全員を溺死させた。

ピーテル・ノイツはこの報告を聞いて怒りを表したが、浜田屋弥兵衛事件の処理に追われており報復攻撃を断念、ハンス・プットマンスが後任の長官に就任すると料羅湾の海戦に破れ、また劉香による熱蘭遮城襲撃もあり、麻豆渓への報復攻撃がなされたのは事件発生から6年経過した1635年であった。11月23日、プットマンスは自ら4,500名のオランダ兵士と2,000名の新港社原住民により麻豆社を攻撃、僅か1日で260名の麻豆渓の人々が殺害され、また社内の三千を越える家屋も焼き払われた。12月19日になり麻豆社はオランダに降伏、オランダへの帰順の態度を表明した。

この出兵をきっかけにオランダは未帰順の各地に出兵、蕭壠社(現在の佳里区)、大目降(現在の新化区)、目加溜湾(現在の善化区)、哆囉国(現在の東山区)、小琉球(現在の琉球郷)、などの社を投降させた。しかしオランダの苛政に対し、原住民は面従腹背の態度をとり、オランダ統治時代を通じて完全に帰順することはなかった。

関連項目

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