麻畠美代子
あさはた みよこ 麻畠 美代子 | |
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生誕 |
麻畠 美代子 1942年8月18日 京都市 |
死没 |
1964年2月18日(21歳没) 兵庫県尼崎市田能二ノ坪 |
記念碑 |
みよし観音 ホタルの塔 |
国籍 | 日本 |
教育 | 高卒 |
出身校 | 精華女子高等学校 |
職業 | 客室乗務員 |
活動期間 | 1963年3月1日 - 1964年2月18日 |
雇用者 | 日東航空 |
著名な実績 | ミス・ワールド・ジャパン1962準優勝 |
麻畠美代子(あさはた みよこ、1942年8月18日 - 1964年2月18日)は、日本のミスコン女王、客室乗務員。ミス京都、ミス・ワールド・ジャパン準優勝の肩書を持つ[1]。
1964年2月18日、日東航空おやしお号墜落事故で殉職するが、これがきっかけとなり建立されたみよし観音は今も残る。
経歴・人物
[編集]1942年8月18日、京都市に生まれる。5人兄弟姉妹の一人。少なくとも一人の姉と少なくとも一人の弟がいる。父は西陣織関連の仕事に従事[2]。
幼少時より色白のかわいい子で、幼稚園の学芸会などでは人気者だった。1958年4月1日、精華女子高等学校商業科入学。在学中はバスケットボールの選手だった[3]。1961年3月31日、同卒業[4]。
高校卒業後は髙島屋京都店の
1964年2月10日、客室乗務員という危険な仕事について心配する母・千代に対し「あと2年は空をとびたいわ」と笑って答えた。母によると、あと2年くらいで結婚するつもりだったのではないか、お見合いの話もあったが自分で相手を見つけるつもりだったのではないか、とのこと。そのために行李に2箱分着物を貯めていた[5]。
殉職
[編集]1964年2月18日午前8時22分頃、伊丹空港を離陸した直後の徳島行き日東航空機がエンジントラブルに見舞われ、兵庫県尼崎市田能二ノ坪に墜落。取り残された乗客1人を救うため機内に戻るが、機体は爆発、乗客ともども還らぬ人となる[6]。最後の言葉は「おかあさん」だったと伝えられている[1]。殉職を伝える新聞記事によると、当時の住所は京都市上京区[7]。
2月21日、葬儀は社葬として盛大に行われた(週刊平凡の記事による)[8]。戒名・麗空院釈尼晃美[9]。
宝田寮
[編集]徳島県阿南市宝田町(現・阿南市羽ノ浦町中庄)にある宝田寮という孤児院とも交流があった。宝田寮の子供たちからは「飛行機のおねえさん」と呼ばれ慕われた。
1962年、東京の福祉新聞の久保専務が徳島をたずねた際、ホタルの美しさに驚き、東京の子供に見せたら喜ぶだろうと語った。宝田寮の子供たちはホタルを捕まえ、7月3日、東京のいくつかの養護施設に届けられた(このほか、大阪市住吉区苅田の四恩学園にもホタルを届けた[10])。このときホタルの輸送に関わった麻畠は宝田寮の子供たちと仲良くなる。このホタル贈呈は2年間続いた[11]。
1964年8月、本村忠弘(17才)、大溝陽子(10才)ほか10人の孤児が東京見物に招待される。陽子の手には麻畠の遺影があった[9]。
麻畠の死後、子供たちは「麻畠との絆を形に残したい」と寮長に相談。約33万円を募金で集め、1966年12月、「ホタルの塔」が完成する。高さ6mのポールの先端に水銀灯が設置されたもので、宝田寮の敷地内に設置されている[11]。2012年、宝田寮の建物は改築されたが、ホタルの塔はそのまま残された[12]。
その後、大阪府豊中市の大学職員・小林幸也はホタルの塔の存在を知る。2016年9月、詳しい経緯を知りたいと宝田寮を訪問。「もう一度絆を取り戻してあげたい」と一念発起、日東航空の後身・ジェイエア[注釈 2]に交流事業を提案したところ快諾を得る。2017年3月、ジェイエアは子供たちを大阪空港に招待し、空港見学などを行った。同年12月には阿南市津乃峰町長浜の阿南市B&G海洋センター体育館で一緒に紙飛行機を作った[11]。
みよし観音
[編集]三重県に住む交通遺児の坂井誠と進兄弟が「みよし観音」を六甲山上に建てようと願ったのをきっかけに、「みよし観音建立奉賛会」が発足する。誠は生後間もない1956年10月に参宮線の列車事故で父を失っている。航空事故が無くなることを祈って『六甲山のあの上』を作詞すると兄の進が曲を付けた。この曲を聴いた神戸市の仏教研修所大和精舎の小林慈海を中心に、全国から計500万円の募金が集まった[10]。命名の由来は「美代子」を「みよし」と読み替えたもの[13]。
1970年夏[14]、六甲山(灘区六甲山町北六甲)に神戸市北区の仏像彫刻家・芝良空制作の「みよし観音」建立[15]。客室乗務員の帽子をかぶった高さ2.3メートルの「みよし観音」は、飛行機の形をイメージした台座に乗っている。像の下には写経石が埋設された[10]。
その後、毎年8月1日に「大空のまもり祈年祭」が行われている[16]。観音像の右手は空を指し、今も空の安全を祈る(天上寺副貫主・伊藤浄真による)[13]。
1999年5月16日、六甲山頂にて「建立三十年記念式典」が行われた[17]。薬師寺(奈良市西ノ京町)の松久保秀胤管主らが読経を行い、美代子の遺族や地元住民約200人が献花、冥福を祈った。新たに設置された森繁久弥の歌碑はこの日除幕された[15]。
2019年5月24日、「みよし観音50回法要」が行われた[18]。
その他
[編集]みよし観音の周囲には森繁久弥、吉永小百合[13]、葉上照澄(比叡山千日回峰行者)、石原慎太郎らの歌碑が配されている。森繁久弥の歌碑にこうある:「ホタルの天使」[14]。
みよし観音の土地は一般財団法人住吉学園(神戸市東灘区)の所有であるが、竹田統理事長は「知らなかった事を残念に思い、2018年度から地代を無料にし、これからはみよし観音の行事に参加する」と決定した[19]。
注釈
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b 秦彗玉「北海道禅話」『大乗禅』第46巻第3号、中央仏教社、秋田県河辺郡河辺町、1969年、10-11頁、doi:10.11501/7885428。
- ^ 麻畠 1964, p. 47-48.
- ^ a b 麻畠 1964, p. 47.
- ^ 精華七十年史 1974, p. 306.
- ^ a b 麻畠 1964, p. 48.
- ^ 「旅客機(日東航空)が墜落、炎上 二人即死、八人負傷」『朝日新聞』1964年2月18日、夕刊、1面。
- ^ 「雪の朝、墜落の悲報 日東航空機の事故」『朝日新聞』1964年2月18日、夕刊、7面。
- ^ 麻畠 1964, p. 46.
- ^ a b 「ホタルが結んだ友情のかげに……」『主婦の友』第48巻第9号、主婦の友社、1964年、doi:10.11501/11436040。
- ^ a b c 精華七十年史 1974, p. 307.
- ^ a b c 「交流のともしび再び 1964年殉職の乗務員慰霊塔が縁」『徳島新聞』2018年1月19日。
- ^ “徳島の子供たちと…殉職スチュワーデスとの思い出を秘めた、ほたるの塔”. 社会福祉法人宝田寮. 2019年8月13日閲覧。
- ^ a b c 「客室乗務員の勇気たたえる」『神戸新聞』神戸新聞社、神戸市中央区東川崎町、2015年7月14日、6面。2024年6月8日閲覧。
- ^ a b 「凡語」『京都新聞』2015年7月26日。
- ^ a b 水谷恭史「殉職した客室乗務員モデル「みよし観音像」 完成30周年大祭 六甲山で」『毎日新聞』1999年5月17日、21面。
- ^ “六甲山みよし観音”. city.kobe.lg.jp. 神戸市灘区役所 (2016年11月29日). 2019年8月13日閲覧。
- ^ 「「蛍よ舞え」みよし観音で記念式、森繁さんの詩碑」『朝日新聞』1999年5月17日、朝刊・兵庫。
- ^ 鈴木哲法「みよし観音 安全願い 半世紀」『京都新聞』2019年5月15日、夕刊。
- ^ 安井俊彦 (2018年7月27日). “胸を打つ計らい”. 彦録”HIKOLOG. 2019年8月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 逵原ミレイ, 坂井誠(共著)『六甲山のあの上に ある“交通遺児”の願い』(みよし観音奉賛会、1979年8月)
- 精華七十年史編纂委員会 編『精華七十年史』京都精華女子高等学校、1974年。doi:10.11501/12109988。
- 麻畠千代「‶日東航空〟の墜落事故で散った麻畠美代子さん お嫁入り衣装をふた行李もためておりましたのに」『週刊平凡』第6巻第12号、平凡出版、1964年3月5日、46-48頁、doi:10.11501/1850575。