コンテンツにスキップ

鵜沼城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
鵜沼城
岐阜県
鵜沼城址
鵜沼城址
別名 宇留摩城[1]、宇留間城、宇留馬城、志水山霧ヶ城[1]
城郭構造 連郭式山城
天守構造 建造されず
築城主 大沢利治
築城年 永享年間(1429年 - 1440年
主な城主 大沢氏、池田氏、中川氏
廃城年 1584年天正12年)
位置 北緯35度23分40.57秒 東経136度56分45.55秒 / 北緯35.3946028度 東経136.9459861度 / 35.3946028; 136.9459861 (鵜沼城)座標: 北緯35度23分40.57秒 東経136度56分45.55秒 / 北緯35.3946028度 東経136.9459861度 / 35.3946028; 136.9459861 (鵜沼城)
テンプレートを表示

鵜沼城(うぬまじょう)は、岐阜県各務原市鵜沼南町7-23にあった室町時代から安土桃山時代にかけての日本の城木曽川の北岸にある天然の岩山・城山(じょうやま[2])に存在していた。尾張犬山城は木曽川の対岸にある。別名には宇溜間「ウルマ」という読みの漢字の他、志水山霧ヶ城[3]がある。

歴史

[編集]

築城されたのは永享年間(1429年 - 1440年)で、築城者は大沢利治という。大沢氏土岐氏斎藤氏に仕え、この地方に勢力をもっていたという。

戦国時代中期の永禄7年(1564年)、尾張国の織田信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)に鵜沼城と伊木山城の攻略を命じるが、鵜沼城主の大沢治郎左衛門は強く抵抗。藤吉郎の調略によって治郎左衛門は降伏する。信長は降伏した治郎左衛門の変心を恐れ殺害を企てるが、藤吉郎の計らいで治郎左衛門は逃がされたといわれる。

その後、鵜沼城は犬山城主の池田恒興に与えられ、恒興が国替えになった後は中川定成が犬山城に入り、同時に鵜沼城も支配した。

小牧・長久手の戦いの中、1584年天正12年)3月13日、秀吉勢の池田恒興は、東美濃へ向かうと見せかけて旧領である鵜沼城に入城、中川定成が留守なことを利用して犬山城を攻略する。かつての居城ということもあり短時間で攻め落とした(犬山城の戦い)。その後鵜沼城は廃城となった。

現在

[編集]

名鉄線犬山橋のすぐそばにある小高い岩山(城山)が城址である。

廃城後、地区の共有林となっていた。昭和5年頃に個人の別荘が建てられたが、すぐに犬山の料理旅館が借り、別館として使用された。太平洋戦争後はアメリカ軍に接収され、軍隊専用のクラブとして使用された。

アメリカ軍から建物が返還されると、城山荘という旅館兼レストランとなったが、昭和47年12月火災のため閉館し廃墟化。2002年に地元民の長年の要望により廃墟は撤去された。山自体は各務原市の所有地になり、整備して公園化する計画が進んでいるが、麓は私有地であり立ち入りはできない。

各務原市は木曽川を望む城山(同市鵜沼南町7)に歴史公園「城山公園」(仮称)を整備するため、約9100万円の事業予算案を9月定例市議会に提案する。市は「遅くとも2023年度中に公園を完成させたい」と話している。”(2018年8月28日の毎日新聞:中日新聞から)

昭和50年代までは、国道の西側に堀と土塁が残存していたが、開発によってほとんど失われた。山頂には大沢一族の碑があるといわれている。

沿革

[編集]
  • 1429年-1440年 - 鵜沼のあたりを治めていた大沢利治によって築城。
  • 1564年 - 尾張国を統一した織田信長が美濃侵攻。家臣の木下藤吉郎が調略し、城主大沢次郎左衛門は降伏。尾張方の城となる。
  • 1570年 - 池田恒興が犬山城主となるのに伴い付城となる。
  • 1574年 - 池田恒興が小里城御番手となる。犬山城主が中川定成となるのに伴い付城となる。
  • 1584年3月13日 - 小牧・長久手の戦いにおいて、秀吉方・前城主池田恒興は徳川方・中川定成が留守の犬山城を攻略する。この際足掛かりとして鵜沼城が使用されたが、このとき廃城となる。
  • 1927年 - 愛知県の政治家で、犬山橋建設に尽力した三輪市太郎[注 1]が別荘を城山内部や頂上に建てる。
  • 1930年 - 三輪の死去により、旅館・彩雲閣[注 2]の別館となる。
  • 1945年 - 終戦に伴う米軍の進駐により接収され、クラブとなる。
  • 1950年3月 - 別館が頂上に増築される。
  • 1953年頃 - 進駐軍より日本人の手に渡り料理旅館・城山荘となる。
  • 1972年12月15日 - 別館より出火し、別館2棟が全焼[4]
  • 1982年 - 麓に存在したスナック「城」の経営者とその夫で麻雀荘経営者が城山荘経営者に刺され、妻が死亡する。スナックは経営者の所有で、賃貸料でトラブルが発生していたと見られている。経営者が逮捕されたことで、城山荘は愛知県の都築紡績の手に渡る。これ以降都築紡績の経営不振により管理されなくなる[4]
  • 2002年 - 各務原市土地開発公社が都築紡績より城山荘廃墟含む城山約1万3000m²を1億円で買い取り、麓の土地約6000m²を2社より寄付される。このとき城山荘廃墟が取り壊される。
  • 2018年10月 - 岐阜簡易裁判所の調停により、寄付された土地が明確となる。
  • 2019年8月26日 - 各務原市が建物を撤去しない2社に対し、提訴する方針を固める。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 三輪市太郎(1867年(慶応3年)4月〜1930年(昭和5年)2月8日)は、明治時代から昭和時代前期にかけての政治家。愛知県に生まれ、県会議員や県会議長を務める。明治45年には政友会所属の衆議院議員となり6回当選する。その後、愛知開墾社長や東海道電鉄の取締役などを務めた。享年64。
  2. ^ 犬山城近くの彩雲橋右岸南側にあった旅館。

出典

[編集]
  1. ^ a b 各務原市教育委員会, 1986, P834
  2. ^ 岐阜新聞 2019年8月27日朝刊 26面記事「各務原市、2社提訴へ 城山公園整備事業 建物撤去求める」
  3. ^ 『各務原市史 通史編 自然・原始・古代・中世』によると、『美濃雑事記』には城山の北西側の谷が志水谷という所があったことが由来とされている、と記されている。また、現在でも志水谷のあったあたりとされているところの小字は清水である。
  4. ^ a b 新聞記事の掲載されたページより。