鳴海八幡宮
鳴海八幡宮 | |
---|---|
![]() 拝殿 | |
所在地 | 愛知県名古屋市緑区鳴海町字前之輪23 |
位置 | 北緯35度4分28秒 東経136度56分36秒 / 北緯35.07444度 東経136.94333度 |
主祭神 |
應神天皇 神功皇后尊 玉依毘賣命 邇々藝命 月讀命 |
社格等 | 旧村社 |
本殿の様式 | 流造 |
例祭 | 10月前半の土曜日 |
地図 |
鳴海八幡宮(なるみはちまんぐう)(なるみやはたのみや)は、愛知県名古屋市緑区鳴海町にある神社[1]。尾張国愛知郡の式内社「川原神社」の論社ともされる説や尾張国愛知郡の式内社「伊副神社」の論社ともされる説がある[2][3]。
概要
[編集]延喜式神名帳の尾張国愛智郡伊副神社にあたる(式内社)。旧村社[4]。
祭神
[編集]由緒
[編集]延喜式神名帳の尾張国愛智郡伊副神社(いぶきのかみのやしろ)にあたる[6][7]。本来天津神系の神社とされる成海神社に対し、国津神の神社として鳴海の地に創建されたと考えられる[8]。貞永元年(1232年)には久野家初代が社職となったとされている。伊副神社が平安時代後期に廃絶すると、熱田大宮司が八幡宮を勘請し、応永年中(1394年~1428年)には廃絶していた伊副神社の鎮座地を旧字地蔵山(鳴海町字小松山)から、旧字丹下(鳴海町字清水寺)に八幡宮として再興した[6][9]。室町時代初期にその地から、黒末川のクスノキの大木がある河口の州であった現在の字前之輪の地に移転したとされる[4][10][7][11]。伊副神社はその後八幡宮の末社北之社として祀られていたが、江戸時代に廃絶した[10]。
元禄3年(1690年)に鳴海神社の神官を牧野家とともに務めていた鳴海宿本町の久野家が前之輪に移住し、神官を兼任した[12][13]。元禄13年(1700年)に牧野家神官と久野家神官が口論し、祭礼が分裂。作町から中島までの氏子が成海神社の氏子から八幡宮の氏子に変わり、祭りも表方と裏方に分かれて行うようになる[13]。近年は、表と裏がひとつになり鳴海宿本町に山車が参集する取り組みが見られる[14]。
沿革
[編集]- 弘治17年(1557年)12月3日 - 今川義元が八幡宮と鳴海東宮へ神田11貫50文寄進した[12]。
- 天正17年(1589年) - 山口長次郎重政が八幡宮と鳴海東宮両神社神主へ社領20貫文寄進した[12]。
- 元和8年(1622年)8月 - 本殿を再建する[6]。
- 元禄13年(1700年) - 牧野家神官と久野家神官が口論をした結果、作町から中島までの氏子が成海神社の氏子から八幡宮の氏子に変わり、祭りも表方と裏方に分かれて行うようになる[13]。
- 文化元年(1804年) - 境内の樹木を使い手水舎を建造[15]。
- 文政2年(1819年) - 手水舎を再建[15]。
- 文政12年(1819年) - 拝殿や渡殿等を再建する[15]。
- 享保18年(1733年)11月1日 - 尾張藩主徳川宗春が鳴海八幡宮に参拝する[4]。
- 安永4年(1775年)8月19日 - 尾張藩主徳川宗春が鳴海八幡宮に参拝する[16]。
- 元文2年(1737年) - 御旅所を扇川畔に建立[17]。
- 安政6年(1859年) - 鳥居を再建[17]。
- 明治5年(1872年)7月28日 - 村社に昇格。神社名を八幡社から八幡宮へ改める[18]。
- 明治13年(1880年) - 社殿を造営する[15]。
- 明治40年(1907年)10月26日 - 幣帛料供進社指定村社となる[6]。
- 昭和6年(1931年) - 社殿を造営する[15]。
- 昭和9年(1934年)4月 - 扇川畔の御旅所を新築する[17]。
- 昭和31年(1956年)7月 - 旧鳴海町役場庁舎を社務所として移築[15]。
- 昭和43年(1959年) - 伊勢湾台風により被害を受け、拝殿や手水舎など倒壊[15][17]。
- 昭和43年(1968年) - 拝殿や本殿、末社、手水舎を新築するとともに、鳴海八幡宮と改称[18][17]。
- 昭和48年(1973年) - 末社稲荷社を相殿から別殿へ遷す[19]
- 平成12年(2000年) - 末社北野天満社を相殿から別殿へ遷す[19]
主な年中行事
[編集]- 歳旦祭:正月元旦[20]
- 北野天満社例祭:正月上旬[20]
- 節分祭:2月節分の日[20]
- 紀元祭:2月11日[20]
- 祈年祭:3月後半の日曜日[20]
- 稲荷祭:5月の日曜日[20]
- 輪くぐり神事:7月30日[20]
- 香良洲社例祭:8月12日[20]
- 例大祭(表方祭):10月前半の土曜日[20]
- 七五三:11月前半の日曜日[20]
- 新嘗祭:11月23日頃[20]
- 秋葉社例祭:12月16日[20]
- 天長祭:12月23日[20]
- 除夜祭(大祓):12月31日[20]
- 月次祭:毎月前半[20]
境内
[編集]神木
[編集]クスノキの大木で、幹の太さは直径8メートルある[12]。室町時代には既に大木であったと伝えられており、樹齢1000年~1200年と推定されている。平成12年(2000年)に愛知県樹木医会が治療を行った[21]。
社務所
[編集]明治36年(1903年)に鳴海町役場の庁舎として建てられ、昭和31年(1956年)7月に現在の地へ社務所として移築した[15]。名古屋市より認定地域建造物資産に指定されている[18]。
摂末社
[編集]現在は末社として次の10社がある[22][23]。かつては、他になど5数社があったという[23][24]。
現在の摂末社
[編集]- 稲荷社:宇迦之御魂大神[22]
- 高良社:建内宿禰命[23]
- 北野天満社:菅原道真公[23]
- 秋葉社:軻遇突智命[23]
- 国造社:大国主神[23]
- 須佐之男社:須佐之男命[23]
- 金刀比羅社:大物主神[23]
- 御鍬社:天照大神、豊受大神[23]
- 香良洲社:稚日女命[23]
- 祓戸社:瀬織津比咩神、気吹戸主神[23]
昔の摂末社
[編集]ギャラリー
[編集]-
鳥居
-
北野天満社
-
香良洲社
祭礼
[編集]かつて祭礼は同じ鳴海に鎮座する成海神社と同日に町をあげて行われていたが、元禄13年(1700年)に両神社のあいだで祭礼論争が起き、それ以来表方(鳴海八幡宮)と裏方(成海神社)に分かれて行われるようになった[25]。近年は、表と裏がひとつになり鳴海宿本町に山車が参集する取り組みが見られ、祭礼が分裂する以前のように祭りが行われるようになる[14]。
鳴海八幡宮例大祭(表方祭)は旧8月15日に行っていたものを、大正元年(1912年)より9月15日とし、昭和から10月15日にした。近年では例祭の日を10月前半の土曜日としている[19]。
猩々祭りでは猩々と呼ばれる赤い顔の面と上半身分の竹枠組みで出来たおりその上から衣装で覆った巨大人形が登場し、大人が猩々の人形をかぶり、子供達を追いかけ回す「鳴海八幡宮例大祭(表方祭)」がある。猩々とは鳴海八幡宮の神様である。猩々は作り物の手や棒で子供たちをたたき、猩々に叩かれた子供たちは病気にならないと伝わる[14]。
交通
[編集]脚注
[編集]- ^ 榊原 2004, pp. 8.
- ^ 愛知県郷土資料刊行会 1976, p. 428.
- ^ 榊原 2004, pp. 7.
- ^ a b c 榊原 2000, pp. 88.
- ^ a b c d e 榊原 2004, pp. 3.
- ^ a b c d 榊原 2004, pp. 4.
- ^ a b 榊原 2020, pp. 64.
- ^ 榊原 2020, pp. 61.
- ^ 榊原 2012, pp. 213.
- ^ a b 榊原 2004, pp. 5.
- ^ 榊原 1984, pp. 103.
- ^ a b c d 淡河 2013, pp. 47.
- ^ a b c 淡河 2013, pp. 48.
- ^ a b c 淡河 2013, pp. 35.
- ^ a b c d e f g h 榊原 2004, pp. 14.
- ^ 榊原 2004, pp. 34.
- ^ a b c d e 榊原 2004, pp. 15.
- ^ a b c 榊原 2000, pp. 89.
- ^ a b c 榊原 2005, pp. 26.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 榊原 2004, pp. 25.
- ^ 榊原 2004, pp. 23.
- ^ a b 榊原 2004, pp. 11.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 榊原 2004, pp. 12.
- ^ 榊原 2004, pp. 13.
- ^ 淡河 2013, pp. 34.
参考文献
[編集]- 榊原邦彦『緑区の歴史』1984年11月。
- 榊原邦彦『鳴海八幡宮誌』2004年3月。
- 榊原邦彦『緑区神社誌』2005年12月。
- 榊原邦彦『緑区郷土史』2012年5月。
- 淡河俊之『みどりの歴史を訪ねて』みどり小さな歴史資料館、2013年11月。
- 榊原邦彦『緑区地方史』鳴海土風会、2020年8月。
- 榊原邦彦『緑区史跡巡り』2021年10月。
外部リンク
[編集]- 鳴海八幡宮 - ウェイバックマシン(2009年1月31日アーカイブ分)
- 鳴海表方祭(鳴海八幡宮例大祭)