鳥山玉一
鳥山 玉一(とりやま たまいち、(延享元年(1744年) - 没年不詳[1][2]) は江戸時代中期の検校。富豪として名を馳せ、吉原の花魁を大金おさめて身請けしたことで知られる[3][4]。
生涯
[編集]当道座妙観派に属して稲村政一検校に師事し、安永2年(1773年)検校職となる[5]。多くの検校と同じく金融業を営み富裕を極めたことで知られ、日本橋瀬戸物町に持家を構え、20万両の財産があったという[6]。
安永4年(1775年)吉原松葉屋の花魁・瀬川を800両[注釈 1]で身受けしたことで江戸市中の話題を攫った[3][4]。
安永7年(1778年)旗本の森忠右衛門が借金苦を理由に家族とともに逐電する事件が発生する。森は程なく縛に就いたものの、取り調べにより検校らによる過大な高利貸しの実態が発覚した[注釈 2]。これは検校ら職業盲人の原資は幕府公金から支出されているため、それを元とした不当な高利貸し行為が見咎められものであり、幕府も当道座惣録へ指導していたものの、改善されず今回の事件発覚を契機として摘発となった。これにより鳥山、名護屋、梅浦、松岡、松浦、相馬、神山、川西の八検校らは就縛。加えて鳥山については、大枚をはたいての吉原通いと瀬川落札についても糾弾された[8][9][10]。
翌安永8年(1779年)当道座の座法に基づき、獄死した名護屋を除く七検校に解官・不座(当道座除名)・追放の処分が下った。鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、七検校では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった[注釈 3]。その他にも処罰を受けた者がいるが、鳥山の関係者では手代の孫兵衛が獄死、同惣兵衛と弟子の春木都と林可は預の処分が下っている[8][9][10]。
瀬川落札より一連の栄華盛衰は文学の格好の題材とされ、田螺金魚による「契情買虎之巻」は本事件に取材したものとして知られる。また狂言でもこの一件を題材にしたものが上演され、大入りとなったという[4][12]。なお徳川家治の脈を取ったことで知られる町医者・若林敬順は、元々鳥山に仕える手代だったという[13]。
処分から12年後の寛政3年(1791年)梅浦・神山・川西の元検校らとともに赦免され復官した[14]。
関連作品
[編集]テレビドラマ
[編集]- べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(2025年、NHK大河ドラマ、演:市原隼人)[15]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 高橋 1976, p. 45.
- ^ 伊原 1973, p. 330.
- ^ a b c 伊原 1973, p. 329.
- ^ a b c 神保 1988.
- ^ 『国語文学研究史大成』, p. 206.
- ^ 高橋 1976, p. 44.
- ^ 伊原 1973, pp. 330–331.
- ^ a b 高橋 1976, pp. 43–45.
- ^ a b 頼 1987, pp. 235.
- ^ a b 伊原 1973, pp. 329–331.
- ^ 中山 1985, p. 208.
- ^ 伊原 1973, pp. 328–329.
- ^ 頼 1987, p. 248.
- ^ 伊原 1973, p. 332.
- ^ 小沼 2024, p. 66.
参考文献
[編集]- 高橋精一「江戸時代の社会救済―盲人の社会と共済制度―」『大東文化大学紀要』 14巻、大東文化大学、1976年。
- 頼祺一「草双紙に現れた庶民の世界像―黄表紙に見る江戸の町人意識―」『日本の社会史』 7巻、岩波書店、1987年。ISBN 978-4-00-004027-3。
- 神保五弥「田螺金魚」『国史大辞典』 9巻、吉川弘文館、1988年。ISBN 978-4-642-00509-8。
- 伊原敏郎 著、河竹繁俊; 吉田暎二 編『歌舞伎年表』 4巻、岩波書店、1973年。ISBN 978-4-00-008574-8。
- 中山太郎『日本盲人史』パルトス社〈中山太郎歴史民俗シリーズ〉、1985年。
- 高木一之助; 永積安明; 市古貞次 ほか 編『平家物語』三省堂〈増補 国語文学研究史大成〉、1997年。ISBN 978-4-385-34432-4。
- 小沼智子 編『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』 前編、NHK出版、2024年。ISBN 978-4-14-923398-7。