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魚住逸治

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魚住 逸治(うおずみ いつじ、1857年6月6日(安政4年5月15日[1])- 1899年明治32年)12月25日[2])は、明治時代の政治家、水利功労者[1][3]衆議院議員(3期)。

経歴

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播磨姫路藩加古郡、のちの兵庫県加古郡母里村(現稲美町)の農家・魚住逸平の子[1]として生まれる[4]。漢学を修める[2]1876年(明治9年)戸長、1879年(明治12年)郡書記を経て、1883年(明治16年)兵庫県会議員に当選する[4]1888年(明治21年)互選により常置委員となり、1890年(明治23年)3月、郡部会副議長に就任した[4]。ほか、加古郡会議員を歴任した[2]

1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では兵庫県第5区から出馬し当選[2]第2回第3回総選挙でも当選し衆議院議員を通算3期務めた[2]立憲改進党に属した[2]

故郷の旱魃被害を改善するため国・県に陳情を続け、淡河疎水が1891年(明治24年)に、山田川疎水が1919年(大正8年)にそれぞれ完成を見た[1][3]

脚注

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  1. ^ a b c d 『兵庫県人物事典 下巻』73-74頁。
  2. ^ a b c d e f 衆議院、参議院 編 1962, 72頁.
  3. ^ a b 『兵庫県大百科事典 上』288頁。
  4. ^ a b c 木戸 1890, 496頁.

参考文献

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