高野昭平
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たかの しょうへい 高野 昭平 | |
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プロフィール | |
出身地 | 日本 東京都台東区 |
生年月日 | 1930年6月25日 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
職歴 | ラジオ東京→TBSアナウンサー ほか |
活動期間 |
1953年 - 1967年9月、 1968年9月 - 1981年6月 |
ジャンル | スポーツ、音楽、報道・情報 |
出演番組・活動 | |
出演経歴 |
東西こぼれ話 おはよう・にっぽん テレフォン身の上相談 など |
その他 | 定年後は、メディア・スタッフ取締役相談役、TBSアナウンススクール特別講師を務める。 |
高野 昭平(たかの しょうへい、1930年6月25日[1] - )は、日本のアナウンサー、実業家。
略歴
[編集]浅草生まれ[3]。早稲田大学卒業[2]後、1953年2月にラジオ東京(のちのTBS)[注釈 1]へ第2期生として入社[4]。アナウンス部長などを歴任(1967年10月から1968年9月までの間、報道局特別制作部へ異動)後、1981年7月にラジオ局へ異動しアナウンス職から離れる。1982年10月には広島エフエム放送へ出向。1983年10月にTBSへ復帰し人事労政局に在籍。1985年5月にテレコム・ジャパンへ出向し、6月に定年[4]。その後、メディア・スタッフの取締役相談役を務める一方、TBSアナウンススクールの特別講師を担当している。
主な担当番組
[編集]ラジオ
[編集]- 引揚船(引揚者)の出迎え中継(最初の担当)[5]
- ラジオ・ボードビル東西アルファベット読本(1953年11月。最初のスタジオ番組担当)[5]
- 東西こぼれ話(1955年)[4][6]
- 5秒のスリル(1956年)[4]
- 紅白歌えらび(1958年)[4]
- 人気投票六つの唄(1958年)[4]
- 私の作ったメロディー(1959年)[4]
- 名流小唄集(1960年)[4]
- 三菱ダイヤモンドハイウェイ(1961年)[4]
- 歌謡曲ベストテン(1962年)[4]
- 電話でクイズ(1962年)[4]
- 戦国忍法帖(1963年)[4][6]
- 歌謡曲でぶっとばせ(1968年)[4]
- 奥様Q&A(1969年)[4][6]
- TBS950街を行く(1969年)[4]
- テレフォン身の上相談(1976年。キャスターとして美輪明宏と共演[2])[4]
テレビ
[編集]スポーツ中継
[編集]- 柔道中継[2]
- レスリング中継[2]
- 札幌オリンピック中継(1972年)[2]
- プロ野球ナイター中継[2]
- '72 太平洋クラブマスターズ・ゴルフ中継(1972年10月8日。16番ホール担当)[4]
注釈
[編集]- ^ 1955年4月から2001年9月までラジオテレビ兼営局。2001年10月にラジオ局がTBSラジオ&コミュニケーションズへ、2009年4月にテレビ局がTBSテレビへそれぞれ分離し、持株会社「東京放送ホールディングス(TBSHD)」となった。
出典
[編集]- ^ 「TBS東京放送アナウンサーの横顔」『国内放送局ハンドブック東日本篇'81年版』三才ブックス、1981年、90頁。「生年月日 1930年6月25日」
- ^ a b c d e f g 外部リンク(TBSアナウンススクさール講師一覧)
- ^ 「TBS東京放送アナウンサーの横顔」『国内放送局ハンドブック東日本篇'81年版』三才ブックス、1981年、90頁。「出身地 東京、浅草」と明記。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『TBSアナウンサーの動き』を参照。
- ^ a b 『創立二十周年記念座談会2 ラジオ二十年』1ページ目(原典2ページ)より、高野の発言を参照。
- ^ a b c d e 『TBS50年史』資料編
参考文献
[編集]- 「TBS東京放送アナウンサーの横顔」『国内放送局ハンドブック東日本篇'81年版』三才ブックス、1981年。
- TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- アナウンサー通信・248分の2(2007年9月19日) - インターネットアーカイブ2009年4月16日付保存キャッシュより。
- メディアスタッフ
- TBSアナウンススクール講師一覧(プロフィールあり)