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高野六郎

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高野 六郎(たかの ろくろう、1884年明治17年)9月3日 - 1960年昭和35年)12月15日)は、日本医学者慶應義塾大学医学部教授・厚生省予防衛生局長などを歴任。予防衛生の先駆者。勲一等瑞宝章受章。

人物

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茨城県八千代町生まれ。1909年(明治42年)12月、東京帝国大学医科大学を卒業[1]。内務省伝染病研究所技師、北里研究所所長、慶應義塾大学医学部教授、厚生省予防衛生局長などを歴任し[1]結核予防会の設立[1]、医療機関の整備に尽力した。コレラ菌腸チフス菌、各種ワクチンの研究や公衆衛生の指導に取り組み医学界に貢献した。また、ラサ島住民に感チフスワクチンの予防接種を行った。勲一等瑞宝章を受章。

また、高野は文筆家としての側面も有しており、随筆集を出すほどでもあった。高校・大学時代には斎藤茂吉と同級であり、自身も青坡と号するアララギ派の歌人であったことが知られている[1][2]

内務省式改良便所の設計者

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内務省衛生局に入って以来、寄生虫や感染症の予防のため、都会のように下水道や水洗便所を整備することができない農村の事情に鑑み、汲取便所の改良に執念を燃やした。

当時は改良便所として、大正便所や昭和便所などの先駆的な試みが存在したが、高野はチフス菌、赤痢菌、コレラ菌などを培養した便汁を3年浴び続け、ついに全ての菌や寄生虫を死滅させる、衛生的な内務省式改良便所を1927年に完成させる。その苦労は『便所の進化』(1941年)に詳しい。

ただし、隔壁が2枚の昭和便所に対して、内務省式改良便所は隔壁が4枚と多いために便池が詰まりやすい問題があり、汲取口とは別に掃除口を設ける必要があるなど面倒で、実用に難があったので、内務省が直々に普及を図ったにもかかわらずあまり普及しなかった。そのため、戦後に隔壁を少なくするなどさらに改良した「厚生省式改良便所」が開発された。この「厚生省式改良便所」をベースとして昭和25年施行の建築基準法第31条に定められたのが現行の汲取便所である「改良便槽」である。

つまり、高野は文筆家として「内務省式改良便所」に至るまでの日本の便所の進化をまとめたという点と、「内務省式改良便所」の設計によって現在の日本の便所(と言っても平成時代以降の日本のトイレはほとんど水洗だが)の基礎を築いたという点で、日本の便所の歴史において重要な人物である。

ハンセン病隔離政策の推進者

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戦時中の厚生省の衛生部門のトップとして、ハンセン病患者の隔離政策を推し進めた。

一方で、文学者として、自らハンセン病療養所の作詞を行っている。戦時中は国策である優生思想に基づく日本民族の浄化を推し進めていたことから、「民族浄化目指しつつ 進む吾等の保養院」(北部保養院の院歌)など、露骨なものが多い。

著書

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単著

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共著

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編集

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共編

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脚注

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  1. ^ a b c d 『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』365頁。
  2. ^ 株本千鶴. 衛生局技術官僚の特性 副田義彦編『内務省の歴史社会学』. 東京大学出版会 

参考文献

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  • 泉孝英『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』医学書院、2012年。

外部リンク

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