高畑辰雄
高畑 辰雄 | |
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生誕 |
生年不明 日本 福島県喜多方町 |
死没 |
1943年4月7日 オーストラリア領 ソロモン諸島ブラク島東方沖 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1938 - 1943 |
最終階級 | 海軍少佐 |
高畑 辰雄(たかはた たつお、生年不明 - 1943年(昭和18年)4月7日)は、日本の海軍軍人。海兵64期。太平洋戦争において582空艦爆隊長として「い号作戦」に参加。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。
人物・来歴
[編集]福島県喜多方町出身。喜多方中学を経て、1937年(昭和12年)3月海軍兵学校を卒業。高畑は海兵64期で、同期生に美濃部正、石田捨雄、折笠重康がいる。席次は160名中100番。高畑は艦上爆撃機搭乗員となり、宇佐空では教官として実用機教程を指導した[1]。
- 五八二空
1942年(昭和17年)11月、ガダルカナル島の戦いで戦力を消耗していた2空に対し、南西方面を担当していた31空、33空、35空、40空などから艦爆搭乗員が増強された。この部隊は当時の日本海軍が保有する唯一の基地艦爆隊で、名称を「582空」と改め、ラバウルを基地とした。「582」とは、艦爆隊、舞鶴鎮守府所属、特設部隊を意味する[4]。主要幹部は司令山本栄大佐、戦闘機隊長進藤三郎大尉、艦爆隊長井上文刀少佐で、戦闘機1コ分隊36機、艦爆2コ分隊24機からなっていた。高畑はその艦爆分隊長として956空(35空)から転属となった[5]。
米軍のガダルカナル攻撃が開始された際、片道攻撃を行った一人でもあった井上少佐は、12月のブナ(ニューギニア島東部)攻撃での負傷により内地後送となり、高畑は艦爆隊長となる。高畑は1943年(昭和18年)1月のレンドバ敵陣地索敵攻撃[6]、3月の第一次ルッセル島攻撃[7]、第二次ルッセル島攻撃[8]で艦爆部隊を指揮した。
同年4月7日、高畑はX攻撃(ガダルカナル方面敵艦船攻撃)部隊の第二攻撃隊指揮官として、582空の「九九艦爆」18機を率いてブーゲンビル島ブイン基地を出撃した。第一攻撃隊の空母「瑞鶴」艦爆隊17機を率いるのは、高畑の親友であった高橋定大尉[1]、第三攻撃隊の空母「飛鷹」艦爆隊小隊長は、宇佐空時代の教え子豊田穣中尉である。しかしその進撃途上のブラク島東方で高畑機は海上に不時着(2番機が確認)し、高畑は偵察員の駒沢一真上飛曹とともに行方不明、未帰還となった。この日、582空艦爆隊は高畑機のほか、第5小隊の3機が自爆、未帰還となり[9]、攻撃目標であったツラギ(フロリダ島)の右上空に密雲があったため、攻撃できたのは全15機中8機であった。
582空は開隊以来、高畑を含め12名の士官を失ったが、高畑の後任に閻魔の異名をもつ江間保大尉を迎え、1944年(昭和19年)のラバウル航空隊解散まで戦いを続けていくこととなる。
- 先任下士官の推測
582空艦爆隊は、この攻撃で高畑機以外にも、エンジン不調のため引き返したもの1機、海上に不時着したもの1機(未帰還)があった。582空先任下士官は、生還した搭乗員たちの話から、高畑の行動につき次のように推測している。なおこの先任下士官は、高畑機の偵察員としてラッセル島攻撃に参加し、「九九艦爆」の後席から高畑の闘志と技量を見届けた人物である。
隊長高畑大尉は、おそらく進撃途中でエンジンの不調に気づいたが、今日の大攻撃に唯一の基地艦爆隊指揮官として、責任を痛感して引き返しを断念したのだろう。隊長は、母艦機に遅れをとってはならないと、最後まで頑張りとおしたに違いあるまい。同じ日、エンジン不調で引き返したわが機にくらべ、指揮官機としての責任感にもえた隊長高畑大尉の心情を思うと、身のひきしまる思いがしてならなかった。 — 『命令一下、 出で発つは』180頁より引用
- 人物
高畑と折笠は稚松会会員で、海兵在校中から柴五郎などの幹部から指導を受けていた[10]。高畑の人柄については、「気さくな人で、われわれにも笑顔をもって接した」(582空主計科士官)[11]、「豪放磊落な親分肌」、「飾らない人」(582空先任下士官)[12]などがある。「おれが先頭」が口癖[13]で、さしかけの将棋を「帰ってからつづけよう」と語り最後の出撃に向かった[14]。
出典
[編集]- ^ a b 『空母瑞鶴の生涯』304頁
- ^ 『回想のラバウル航空隊』105頁
- ^ 『命令一下、出で発つは』174頁
- ^ 『回想のラバウル航空隊』79頁
- ^ 『命令一下、出で発つは』53頁
- ^ 『昭和18年1月 582空 飛行機隊戦闘行動調書 (1)』画像25枚目
- ^ 『昭和18年2月-昭和18年3月 582空 飛行機隊戦闘行動調書(3)』画像43枚目
- ^ 『昭和18年2月-昭和18年3月 582空 飛行機隊戦闘行動調書(3)』画像61枚目
- ^ 『命令一下、出で発つは』175頁
- ^ 『稚松会会報第19号』
- ^ 『回想のラバウル航空隊』82頁
- ^ 『命令一下 出で発つは』181-182頁
- ^ 『命令一下、出て発つは』181頁
- ^ 『回想のラバウル航空隊』107頁
参考文献
[編集]- 『昭和18年1月 582空 飛行機隊戦闘行動調書 (1)』(防衛省防衛研究所 航空関係-行動調書-240 Ref C08051684300)
- 『昭和18年2月-昭和18年3月 582空 飛行機隊戦闘行動調書(3)』(防衛省防衛研究所蔵 ⑤航空関係-行動調書-241 Ref C08051685000)
- 財団法人稚松会名簿、1937年。
- 稚松会会報第19号、1935年。
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
- 宇垣纏『戦藻録』原書房、1977年。
- 豊田穣『空母瑞鶴の生涯』集英社文庫、1985年。ISBN 4-08-749009-2。
- 松浪清『命令一下、出で発つは 在ラバウル、五八二空の死闘』光人社、1981年。ISBN 4-7698-0163-7。
- 守屋清『回想のラバウル航空隊 海軍短現主計科士官の太平洋戦争』光人社、2002年。ISBN 4-7698-1073-3。