高木貞友
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄7年(1564年) |
死没 | 万治2年4月17日(1659年6月6日) |
別名 | 彦之助、藤兵衛 |
戒名 | 円斎 |
墓所 | 岐阜県大垣市の浄徳寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 織田信長、信孝、信雄、加藤光泰、徳川家康、秀忠、家光、家綱 |
氏族 | 美濃衆東高木家 |
父母 | 高木貞久、高木貞次娘 |
兄弟 |
貞家、貞利、貞秀、貞西、貞友、 田中喜兵衛室、今尾氏室 |
子 |
又左衛門、山本邑政、今村貞長室、 法泉寺流済室 今村貞長、貞次 |
高木 貞友(たかぎ さだとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。美濃衆東高木家初代。
生涯
[編集]高木貞久の子として誕生した。父の代から織田信長に仕え、天正3年(1575年)長篠の戦いでは氏家氏に属して武功があった。天正6年(1578年)播磨国神吉城攻めに従軍。天正10年(1582年)本能寺の変後は織田信孝に仕え、天正11年(1583年)信孝が自殺したために自領の駒野に閉居するが、同年に父・貞久も死去したため駒野城主の座を継ぐ。天正12年(1584年)羽柴秀吉の誘いを断り、母を証人として織田信雄に従った。小牧・長久手の戦いでは加賀野井城・竹ヶ鼻城攻めに従い、また駒野城に籠城して羽柴方と戦った。天正18年(1590年)小田原征伐では土方雄久隊に属して戦った。戦後、信雄が改易されると一族と共に加藤光泰を頼る。文禄元年(1593年)文禄の役では光泰に従って朝鮮半島に渡海し、明軍との戦いで戦功があった。
慶長2年(1597年)徳川家康に召し抱えられ、上総国望陀郡に60石余を、翌年には500石を領した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍先鋒の美濃国・尾張国の案内役として井伊直政・本多忠勝に附属。道中の駒野城は徳永寿昌に差し出している。慶長6年(1601年)これらの軍功により美濃石津郡に加増転封されて1000石を領した。慶長19年(1614年)大坂冬の陣では枚方に布陣、翌年の夏の陣では平野での戦いで首級をあげた。幕政では駿府城・二条城普請の奉行、徳川秀忠上洛の際の舟割奉行を務めた。
当初は今村貞長を婿養子に迎えていたが、後に離縁し、孫の貞次(法泉寺流済の子)が養子となって家督を相続した。