高島炭鉱事件
高島炭鉱事件(たかしまたんこうじけん)は、長崎県西彼杵郡高島町(現・長崎市高島町)の高島炭鉱において、明治期におこった坑夫虐待事件である[1]。炭鉱の経営者であった三菱会社が、現地の鉱夫に課していた劣悪な労働環境が事件化したものであり、明治前期最大の労働問題事件として知られている[2][3]。1888年(明治21年)、松岡好一が『日本人』誌面上に掲載したルポルタージュを契機として、社会問題となった[4]。高島炭坑事件とも表記する[2]。
経緯
[編集]事件の発生
[編集]高島炭鉱は、長崎県西彼杵郡高島町に立地する炭鉱であり[1]、もともと佐賀藩・鍋島氏により経営されていたものが1874年(明治7年)に官営となった[2]。同炭鉱では「納屋制度」とよばれる、鉱夫の募集と監督を納屋頭に請け負わせ、納屋頭または会社の長屋に囲い込んで統括する制度が採用されていた[5][6]。鉱主と納屋頭は人夫請負契約を結んでおり、納屋頭には鉱夫の賃金からは一定数の手数料が与えられる[5]。この制度は官営期に後藤象二郎により導入されたものである。それまで納屋頭の業務は鉱夫の監督のみであったが、この時期に経費削減のため鉱夫の募集と納屋頭の統括をおこなっていた棟梁が廃止された。後藤時代の高島炭鉱の労働環境もまた劣悪であり、1878年(明治11年)にはジャーディン・マセソン商会から借り受けた資金を後藤が私的使途に流用し、鉱夫への賃金支払いを滞らせたとを契機とする暴動がおこっている[6]。
同炭鉱は1881年(明治14年)、岩崎弥太郎により買収された。三菱会社による炭坑経営は苛烈なものであり、納屋制度の強化を通じて鉱夫の支配が強化された[5]。三菱は炭坑採掘のコストを切り詰めた。1881年時点でトンあたり4円64銭であった費用は、1887年(明治20年)には1円32銭にまで低下している。まず、労働者の賃金が減らされ、粉炭にボタ(捨石)を混ぜた場合の罰金なども定められた。鉱夫の募集にあたっては、しばしば場所・労働条件が偽られたが、同炭鉱においては、鉱夫が現場から抜け出すことを困難にする仕組みが作られていた[5]。鉱主は納屋頭に拝借金や諸物品代を借金し[6]、納屋頭もまた鉱夫を借金で拘束した。鉱夫の居住する長屋は基本的に納屋頭の管理下にあり、食料・必需品も納屋頭から購入する必要があった[5]。高島は離島であり、三菱は買収から3ヶ月後に、鉱夫が本土との連絡船に乗るためには納屋頭の保証書が必要であるとの取り決めを作成した。こうした事情から、労働者の逃走はきわめて困難なものとなった[6]。
問題化
[編集]こうした高島炭鉱の劣悪な労働環境は、三菱内部にいた吉本襄により問題視されることになった[2]。吉本は佐賀・久留米などで鉱夫の窮状を訴える演説会を開いており、おそらくは彼が所属していた崎陽青年懇親会を経由して、1887年には[3]、同年に頭山満により創刊された新聞である[7]、『福陵新報』がこの問題を取り上げた[3]。その後、中江兆民の創刊した『東雲新聞』もこの問題を報道し、1888年(明治21年)5月17日には植木枝盛が高島炭鉱弾劾の演説会を開いている[3]。
高島炭鉱事件の報道は当初、関西以西の新聞が報じるのみにとどまっていたが[2]、1888年6月18日に松岡好一が『日本人』誌面上に掲載したルポルタージュ「高島炭鉱の惨状」を契機として、この事件は全国的な社会問題に発展する[6][3]。松岡は1885年(明治18年)11月、労働者として鉱内に入り、同地の現状を「千古未曾有の圧制法」として激しく論難した[5]。また、これに応じて吉本による寄稿も国内に広く紹介されることとなり[3]、有力紙誌のほとんどがこの問題を取り上げるに至った[5]。東京の新聞では『朝野新聞』『郵便報知新聞』『東京電報』がこの問題を大きく取り上げ、それぞれ犬養毅・加藤政之助・紫四朗を記者として現地に派遣した[3]。
結末
[編集]高島炭鉱事件が社会問題化すると、内務省は警保局長である清浦奎吾を現地に派遣し、調査にあたった。清浦らは「炭坑舎に於ても漸次改良を加へて旧態を一変するの運ひに至れるものなれは兼て聞き居たる所ろと多少の相違」があると、三菱を一定程度擁護しつつも[6]、「納屋頭が鉱夫を雇用する際に条件を偽ってはならないこと」「鉱夫の負債を償却するため積立補助金制度を考えること」「納屋頭が鉱夫に物品を販売する際に不当な値付けをしないよう企業が監督すること」「納屋頭と鉱夫の間の帳簿を明確にすること」「企業から納屋頭に対する生産を3ヶ月ごとから1ヶ月ごとにすること」などを勧告した[5]。
この勧告内容が各新聞に報知されると、高島炭鉱事件に対する報道はしだいに少なくなっていった[2]。犬養は、『朝野新聞』に掲載した「高島炭坑の実況」において、炭鉱の労働環境はそこまで悪いものではなく、「要するに坑夫は最下等の人民にして之を支配する所の納屋頭は世の所謂親分なれば其間に生ずる事件は本より士君子の間に生ずる事件を以て之を律するを得ず」と、鉱夫の問題を普通の人間の問題として理解するべきではないと論じた[8][9]。『朝野新聞』は大隈重信率いる立憲改進党系の新聞であり、岩崎弥太郎とは近しい関係にあった。こうした背景から『日本人』にて高島炭鉱の取材記事を掲載した松岡は犬養に激昂し、志賀重昂・三宅雪嶺の署名も書き入れた決闘状を送りつけた。犬養はこれをにべもなく断ったとはいえ、西洋式の決闘は日本においてはじめての事件であり、この事件は世間で大きく騒がれた[9]。このことに関する報道が問題の本質をすりかえてしまったこと、報道の話題が大阪堀川監獄囚徒虐待事件に移っていったことも関係し、社会問題としての高島炭鉱事件は立ち消えていった[3]。
とはいえ、この事件を契機として鉱夫の保護が政治的課題として認識されるようになった。1890年(明治23年)には、名目的なものとはいえ、鉱夫の労役保護についての規定がふくまれた鉱業条例が制定された[3]。高島炭鉱の納屋制度自体はその後も続いたが、1897年(明治30年)には廃止された[6]。三島康雄はこのことについて、「(明治)二十一年の改革以後納屋制度による労働者の管理は不徹底になり、そのため労働の生産性は非常に低くなり、もはや納屋制度は三菱会社にとって必要ではなくなったのである」と論じている[5]。
出典
[編集]- ^ a b 「高島炭鉱暴動」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 。コトバンクより2022年1月19日閲覧。
- ^ a b c d e f 佐藤能丸「高島炭坑事件」『国史大辞典 9巻』吉川弘文館、1988年、28頁。
- ^ a b c d e f g h i 田中直樹「高島炭鉱事件と納屋制度」『近代日本炭鉱労働史研究』草風館、1984年、191-239頁。
- ^ 「高島炭鉱事件」『百科事典マイペディア』 。コトバンクより2025年1月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 三島康雄「納屋制度と高島炭鉱事件」『三菱財閥史 明治編』教育社、1979年、138-148頁。
- ^ a b c d e f g 金光男「高島炭鉱における労務制度に関する一考察 -幕末から日清戦争前後までの納屋制度を中心に-」『茨城大学全学教育機構論集(大学教育研究)』第4号、2021年4月、37–54頁、ISSN 2436-2913。
- ^ 「福陵新報」『デジタル大辞泉プラス』 。コトバンクより2025年1月19日閲覧。
- ^ 犬養毅 著「高島炭坑の実況(『朝野新聞』明治二十一年八月二十九日~九月十四日)」、秀村選三ほか 編『明治前期肥前石炭礦業史料集』文献出版、1977年、442-474頁。
- ^ a b 栂井義雄「犬養毅への決闘状」『財閥と資本家たち : 日本資本主義断面史』学風書院、1956年、92-94頁。
関連文献
[編集]- 佐藤能丸「高島炭坑問題と国粋主義」『史観 = The historical review』第92号、早稲田大学史学会、1975年9月、54–69頁。