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高向宇摩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
高向 宇摩
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
主君 推古天皇
氏族 高向
国押
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高向 宇摩(たかむく の うま)は、飛鳥時代豪族

出自

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新撰姓氏録』「右京皇別」によると、高向臣(高向朝臣)氏は蘇我氏の一族で、「石川同氏、武内宿禰六世孫猪子臣之後也」とあり、この猪子が宇摩の父親であると考えられている。『古事記』中巻にも、建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰の子孫とある[1]。氏の名称は、河内国錦部郡高向(現在の大阪府河内長野市高向)による。なお、高向玄理の系譜は、高向史氏で、旧姓は漢人であり、別の一族である。

経歴

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高向宇摩の名前が歴史上に現れるのは、『書紀』巻第二十三の、628年推古天皇崩御後、誰を皇嗣とすべきかで蘇我蝦夷阿倍内麻呂主導のもとで群臣が集まった際に、大伴鯨が亡き天皇は田村皇子を遺詔で指定したと発言し、采女摩礼志中臣御食子らと共にそれに賛同した、ということと、この会合に不服を唱え、叔父の蝦夷の意向を尋ねようとした山背大兄王のところへ、その場に参加していた群臣らと共に蝦夷の代わりに使いに行った、ということのみである[2]

以後、歴史書には一切登場していない。蘇我本宗家滅亡の際には、子・国押が蘇我氏を見限って、中大兄皇子に帰服している。

天武天皇13年(684年八色の姓の制定により、高向臣氏は同年11月に他の52氏と共に朝臣姓を授与されている[3]

脚注

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  1. ^ 『古事記』孝元天皇条
  2. ^ 『日本書紀』舒明天皇即位前紀(推古天皇36年9月条)
  3. ^ 『日本書紀』天武天皇13年11月1日条

参考文献

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