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飯田藤村子

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飯田 藤村子(いいだ とうそんし、1914年1月4日[1] - 1995年7月4日)は昭和初・中期の俳人

来歴

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本名は新次。千葉県東葛飾郡出身[1]。幼少のころより俳句に関心を持ち、後に島崎藤村と出会い藤村子の俳号を与えられた。活動の場を千葉県東葛飾郡流山町(現:流山市)に移して流山俳句会を結成し、俳誌「黄楊」を主催した。1995年7月4日に死去。戒名は俳徳新峰信士。

代表俳句

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  • 「盆の月母と父との二つ出よ」

つげ句会

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「黄楊」を主宰していた飯田藤村子の遺産の流山各地句会を引継ぎ、1995年発足。主選者は鳥居美智子が中心となり現在に至っている。

句集

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  • 「弘法麦」一日書房 発行年月:1985年4月
  • 「知足」崙書房出版  発行年月:1991年7月
  • 「和円」出版社不明

脚注

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  1. ^ a b 『現代物故者事典 1997~1999』(日外アソシエーツ、2000年)p.799

関連項目

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